317.我が王に捧ぐ
「無事か、ウィル」
と、騎馬隊を引き連れて斜面を駆け下りてきた部下の安否を、ガルテリオはまず気遣った。シヴォロ台地の頂上に建つ敵城の、すぐ足もとにまで攻め上がっていたウィルは、ガルテリオの問いを聞くなり「はい」と悔しそうに返事をする。
見上げた先には第三軍の追撃を阻み、悠然とトラクア城内へ引き揚げていく敵軍の姿。そこに翻る赤と黄色の旗を見つめながら、まったくしてやられたな、と、ガルテリオは内心嘆息を漏らした。
「申し訳ありません、ガル様。あと一歩というところで攻め切れず……」
「いや、敵の運がよかったのだ。まさか生きるか死ぬかのギリギリのところで援軍が駆けつけるとはな」
「しかもその援軍を率いてきたのがあのギディオン将軍ともなれば、仕方のないことだった。お前がもし退却の合図を無視して突っ込んでたら、間違いなく後ろから首を刎ねられてたぞ」
「分かってるよ。だから俺もこうして大人しく逃げ帰ってきたんだろ。しかしまさかギディオン将軍が、せっかく占拠したポンテ・ピアット城を放棄して敵本隊の救援に駆けつけるだなんて……おかげで向こうの城は無血で取り戻せそうなのが救いですけど、こいつはまたやりにくくなりましたね」
「うむ……」
とウィルの言に頷いてから、ガルテリオは頭の中で戦況を整理すべく瞑目した。
台地に転がる敵兵の死体の山を見る限り、今日の野戦は数の上では第三軍の圧勝だ。救世軍が払った犠牲はあまりに大きく、対する味方の損害は、多めに見積もったとて千にも届かぬだろうと思われた。ただ、竜騎兵団から出た損害に限って言えば、想定よりも遥かに大きな痛手を被ったと言っていい。
亜竜をよく知るジェロディ、ケリー、オーウェンの善戦に加え、あの赤髪の少女が率いてきた騎馬隊による未知の兵器を駆使した応戦。
あれによって一千ほどいた竜騎兵は二百以上も数を減らし、シャムシール砂王国との戦でも経験したことがないほどの損耗を出した。残り二千の竜騎兵──竜騎兵団の総員は、数年前から三千を維持している──は、砂王国がガルテリオの不在を狙って再び攻め寄せてくる可能性に備え、グランサッソ城に留め置いたままだ。
されど場合によっては、イーラ地方に残してきた彼らも増援として呼び寄せる必要が出てくるかもしれないなと案じながら、ガルテリオは再び眼を開いた。
何せ敵は寡兵とは言え、彼が戦場に現れたのだ。かつて黄都で〝生ける伝説〟とまで呼ばれ、恐れられていた元近衛軍団長ギディオン・ゼンツィアーノ。
ガルテリオにとってはかつての上官であり、自らを軍人として叩き上げてくれた無二の恩師。三年前、彼が主君から事実上の馘首を言い渡されたのち、黄都を去って反乱軍に寝返ったという噂は耳にしていたが、できれば戦場では会いたくないとかねてより願い続けてきた相手だった。
(ウィルの言うとおり、かつての上官が相手ではやりにくいというのももちろんあるが……何よりあの御仁は、その気になればおひとりで戦況をひっくり返してしまうほどの剣の鬼だ。そんな恐ろしい『剣鬼』殿を敵に回して戦わねばならんとは、我ながらほとほと業が深いな)
とうっすら苦笑を浮かべつつ、ガルテリオは半ば諦めの境地でもう一度、台地の上のトラクア城を見やる。
ギディオンが率いてきたのはおよそ二千程度の、本来なら取るに足らない兵力だったが、しかしガルテリオが正面からぶつかることをためらったのは、将校時代に嫌というほど思い知った彼の強さを警戒してのことだった。
おまけにギディオンはただ兵を率いて現れたわけではない。彼が連れていた手勢の中には、四頭もの馬に曳かれたひと際目立つ戦車があり、その上で光に守られた人物を見るなりガルテリオは〝戦ってはいけない〟と悟った。
何故なら戦車の上に佇み、喊声満ちる戦野の隅々まで届くほどの歌声を響かせていたのは、かのパーシャ・ロクサーナだったのだ。
かつて十年前の正黄戦争を共に戦った光の神子。彼女の歌には神の奇跡を起こす力がある。ガルテリオはそれを確かな過去の体験として知っている。
先刻ロクサーナが高らかに歌い上げていた、彼女の祖国の言語で紡がれた古の歌は、味方の戦意を昂揚させ、死への恐れをも忘れさせる戦歌だった。
太古の神話の中で、光と希望の神であり音楽の神でもあるオールが神界戦争に臨む兄弟神や人間たちを歌によって鼓舞し、輝かしい戦果の立役者となった話はあまりに有名だ。そしてかの神に選ばれし神子であるロクサーナにも、あれと同じことができる。祈りを込めて歌うだけで雑兵を死兵に変え、一切の不安や恐怖を消し去り、また傷や病をもたちどころに癒やすことが。
「……あの力を味方につけた将軍とまともに戦り合っていれば、我が軍も無傷では済まなかったであろうな」
と、ほとんど独白のように零した言葉に、傍らでリナルドが頷いた。
今や軍内で『獅子の二翼』とまで謳われるこのふたりの青年将校は、直接ギディオンから薫陶を受けたわけでもなければ正黄戦争も経験していない。
けれどもガルテリオが語り継いできたかつての黄皇国を支えた者たちのことは彼らなりによく理解し、確かな畏敬の念を持っているようだ。
若さゆえの無知と無謀の影は、既にふたりには射していない。
それだけの厳しい戦いを共にくぐり抜けてきた、自慢の部下だった。
「でも、あと少し……あと少しだったんですよ。もう一歩でエリクの妹を取り返せるところだったんです。なのに寸前でギディオン将軍が駆けつけるだなんて、間が悪すぎるというか何というか……」
「……やっぱりお前の狙いはそこだったのか、ウィル」
「当たり前だろ。ティノ様を説き伏せるのはもう無理でも、せめてあいつの妹くらいは……お前だってエリクがこの数年、どれだけ妹のことを気にかけてたか知らないわけじゃないだろ、リナルド?」
「だが俺たちが彼女を連れて帰ったところで、今のエリクを救えると思うか? こうなった以上、あいつがもう一度妹と暮らそうと思ったら、退官してどこか遠い国へ逃げるしかないんだぞ。あいつがそんな結末を望むとは思えないし、そもそもエリクが彼女の居所を知りながら今日まで連れ戻さなかったのも、自分の傍に置いておくよりむしろ救世軍と共にいた方が安全だと思ったからだろう?」
「自分のせいでルシーン派に狙われるくらいなら、親友に預けておいた方が、ってか? けど、もしも俺たちが救世軍を潰すことになったら……」
「それくらいにしておけ、ウィル。友を案じる気持ちは分かるが──今の話が軍監の耳に入れば、お前もただでは済まんぞ」
と、ふたりの議論を聞いたガルテリオがそう窘めると、ウィルははっと肩を揺らして「申し訳ありません」とうつむいた。台地の麓に展開したガルテリオたちの後方、二幹(一キロ)ほど離れたところに布設された野戦陣地には、戦地でのガルテリオの行動すべてを監視するよう言いつけられてきた軍監の部隊がいる。
言うまでもなく、彼らは黄帝の寵姫ルシーンの息がかかった政敵側の人間だ。
第五軍のハーマンが救世軍に降り、第六軍のマティルダも敗北した今、黄都の貴族たちは救世軍総帥と親子関係にあるガルテリオもまた反体制側へ寝返るのではと危惧している。
ゆえに今回の進軍にも厳重な監視をつけ、立場上は味方であるはずの第三軍に刃を突きつけながら、決して祖国を裏切ることなかれと脅迫しているのだった。
(まあ、陛下からは〝邪魔になればいつでも反乱軍に討たれたことにしてよい〟とのお許しを頂戴したが……寄せ集めの軍とは言え、救世軍も想像以上に戦えるようだ。とすれば官軍が内輪揉めを始めたところを、黙って見ているような真似はするまい。我が軍を守るためには、たとえ政敵であっても鄭重にもてなさなくては)
それでなくともルシーン派の貴族どもは、今もガルテリオの一挙手一投足に目を光らせている。ガルテリオがたとえわずかでも彼らの意に沿わない言動を見せればたちまち「謀反の予兆あり」と騒ぎ出し、彼らが俗に〝ガルテリオ党〟と呼んでいる派閥を一掃する口実にしたがるだろう。
そうなれば祖国の腐敗に立ち向かわんと今も血を流している清廉の志士たちが、何の罪もないのに一方的に裁かれ命を落としてしまう。長年盟友として共に国を守り続けてきたファーガスやシグムンドさえも例外なく。
ゆえにガルテリオは戦う。
この国に残された最後の良心までもが刈り取られてしまわぬように。
それこそが自身の望みであり、また主君の望みでもあると確信しているからだ。
オルランド・レ・バルダッサーレ。ガルテリオが己の生涯を捧げると誓った、唯一無二の『金色王』。出陣の許可を得て黄都を発った日、七色の陽光の下に佇んだ彼が困ったように笑った姿を、ガルテリオは決して忘れない。
『ガルテリオ。今日までただの一度も私を裏切らなかった懐刀よ。まさか最後の最後でそなたに噛みつかれるとは思わなんだ──だが、そこまで言われては仕方がない。脅迫を呑もう。そなたのような男に恨まれて、未来永劫、来世まで追い回されては敵わんからな』
そう言って嘆かわしげに首を振っていた主君の横顔を思い出し、ガルテリオは口の端にうっすらと笑みを浮かべた。彼と共に生きた十余年の歳月を思えば、政敵に尾を振る程度どうということもない。オルランドに与えてもらった数多の歓びの前では、謂れなき汚名や泥沼の政争など些細なことだ。そして同じように息子もまたあの場所で、何があっても揺るがぬ光を得たのだろうと、思う。
「……まあ、何はともあれ、だ。今日のところは我々も引き揚げるとしよう。いくら増援を得たとはいえ、あれほどの痛手を負ったからには、救世軍も当分は城から出てこられまい。明日からの攻城戦に備えて、今宵は充分に兵を休ませよ」
「はっ!」
「しかし……似ていたな」
「はい?」
「エリクの妹だ。彼女も兄とまるで同じ目をしていた」
「……そうですね。ですが我々には、ガル様とジェロディ様もそのように見えましたよ」
と、馬上のリナルドがいつになく神妙に答えたのを聞いて、ガルテリオはふっと笑った。そうしながら手綱を捌き、麾下の軍に撤収を合図する。
あれほどの激しい戦いのあとでも一糸乱れぬ動きで隊伍を整え、粛々と自陣へ戻り始める部下たちを、ガルテリオは改めて誇りに思った。
首から下がった銀の鎖の上で閃く、亡き妻との結婚石に触れながら。




