312.あの旗の下で
「ごめん、みんな。交渉は決裂だ」
ガルテリオとの会談から戻ったジェロディの第一声が、城門前に集まった皆の声帯を凍らせた。
「降伏か死か。一刻(一時間)以内に選んでこいと将軍に言われた。第三軍との交戦は、どうやら避けられそうにない」
しん、と静まり返った城の中で、ジェロディの放った〝将軍〟という呼び名だけが異質な響きを帯びて耳に届く。
「……僕の望みは昨日軍議で伝えたとおりだ。ここにいるみんなを──救世軍を守りたい。だから最も犠牲が少ない方法で事態を収められればと思った。将軍を説得することさえできれば、みんなを無傷で逃がせると……だけど……」
そのときカミラはジェロディの背後に佇む小柄な救世軍兵が、ずっとうつむいたままなのに気がついた。いや、違う。あれはただの兵士じゃない。
敵陣へ赴くジェロディを守るため、兵士に扮して会談に同行したシズネだ。彼女がソウスケと共にジェロディの護衛役としてついていったことは、ここにいる誰もが知っている。けれど彼女は、ジェロディが話している間も一向に顔を上げない。
彼女の隣に立ち尽くすソウスケはいつもどおりの無表情だが、今も忍術で救世軍兵に化けたままで、幻の下ではどんな顔をしているのか不明だ。同じくガルテリオのもとへ赴いたケリーとオーウェンは、どちらも唇を引き結び、固く拳を握ったまま。しかし物言わぬ彼らの様子から、カミラも只事ではないとすぐに分かった。
何しろジェロディの背中を見つめるふたりの眼が、真っ赤に充血していたから。
「ティノくん。何があったの?」
ゆえにカミラは彼の次なる言葉を待たず、そう尋ねざるを得なかった。
されどその問いに返されたジェロディの眼差しは、無色だ。
怒りも、失望も、迷いも、諦めも、悲しみもない。何もない。
そんなこと、あるはずがないのに。一年ものあいだ祖国に引き裂かれていた家族とようやくの再会を果たしたあとで。
「何も」
「……え?」
「何もなかったよ、カミラ。ただひとつ、僕と将軍の選んだ道は決して交わらないと分かっただけだ。だから将軍は、今日をもって僕を廃嫡すると」
「うそ」
「だけど僕は、ヴィンツェンツィオの名がほしい。この先も救世軍を守り続けるための〝勝利を約束されし者〟の名が。そのためには現当主であるガルテリオ将軍を討ち、力で掴み取るしかない。僕があの家の名を継ぐにふさわしい、正統な後継者だという証を」
「おい、ジェロディ」
「勝算はない。だから武器を捨てて投降したい者はそうしてくれて構わない。ガルテリオ将軍は、無抵抗で白旗を挙げる者には相応の待遇を約束してくれるだろう。だけど、もし……もし僕と同じように、何と引き換えにしても救世軍を守りたいと願う同志がいるのなら、どうか僕に命を預けてほしい。たとえわずかでも希望があるのなら、僕は最後の一瞬まで、あの旗のために戦うつもりだ」
そう言ってジェロディが見つめた先には、塔の頂で高々と翻る自由と希望の軍旗があった。神の血で染めたように青い旗は、こうして見ると、人の血で染めたように赤い官軍旗とは決して相容れない信念の象徴のようだ。
そして今、生命神を宿したジェロディの血は青く、ガルテリオの血は赤い。
まるで彼らはとうの昔から、親子などではなかったかのように。
「ティノくん──」
「──分かりました。我が命、救世軍総帥殿に預けるとしましょう」
ところがぞっと怖気に似たものを感じたカミラが、さらに口を開こうとしたときだった。続く言葉を遮って、たやすく命を手渡したのはマティルダだ。
「この身は既に一度死んでいる。ならば今更惜しむものなどありはしない。使えるものなら、如何ようにもお使いなさい。これより黄皇国中央第六軍は、おまえの忠実な手足となって働くことを誓いましょう」
「ありがとうございます、マティルダ将軍」
「……そうですな。思えば我らはトラクア城を攻める折りにも、ほんのひと筋の希望に縋る思いで進攻を決断しました。そして今、こうして生きてここにいる。ならば此度も戦いましょう。ジェロディ殿に宿る神々の加護を信じて」
「リチャードさん」
鋼の意志を思わせる太い声でそう告げたのは、今いる仲間のうちでは最年長のリチャードだった。彼はジェロディにじっと見つめられるや『無名の獅子』のふたつ名にふさわしい立派な髭を綻ばせ、にっと破顔してみせる。
「左様なお顔をなさいますな、ジェロディ殿。あなた方にお味方すると決めた日から、妻子にはいつ何が起きても動ぜぬよう、覚悟を決めておけと言い含めて参りました。ゆえに私も我が身を惜しむつもりはありませぬ。アラッゾ家と、我々が生涯を捧げたピヌイスをお救い下さったあなた方のためならば」
「……ありがとうございます、リチャードさん」
「なんの。されど私のような年寄りはともかく、未来ある若人たちまでむやみに命を散らすことはない。先刻ジェロディ殿がおっしゃったとおり、少しでも生き残れる可能性のある者は武器を置いて降伏するか、機を見て城から脱出を……」
「あら、アタシはやーよ、この期に及んで逃げ出すなんて。そりゃ商人は命あってのモノダネだケド、ココで尻尾巻いて逃げ出したとあっちゃあダーリンに会わせる顔がないわ。ねェ、レナード?」
「……だな。ライリー一味は、売られたケンカは片っ端から買い占めるがモットーだ。そいつを破って島に逃げ帰ったとなりゃどのみちライリーに殺される。一味のツラ汚しになるくらいなら、オレァ戦場で華々しく散った方がマシだね」
「だがよ、レナード。お前が死んだらユカルとナアラはどうなる? パウラ地方での戦が片づいたら、あいつらのことはお前が面倒を見るつもりだと言ってたろ」
「はあ? 見くびらないでほしいんだけど。僕だって自分の身くらい守れるよ。いつまでもレナードさんにお守りをしてもらうつもりもない。姉さんを守るためなら相手が誰だろうと戦うさ。そのために神様が授けて下さった天授刻だからね」
とそう言って、ウォルドに反論したのは大嵐刻の宿る蟀谷を不機嫌そうに押さえたユカルだった。非戦闘員であるナアラは現在、安全のために本丸で待機しているが、城が落ちれば当然彼女の身にも危険が及ぶ。とすれば彼の今の言葉に嘘偽りはないのだろう。ユカルは何があっても戦い続けるはずだ。
首に縄をつけられ、首狩り貴族の玩具にされていたときですらそうしたように。
「……第一、城を出たところで僕らには行く宛なんてない。またあてどなく国中をさまよう暮らしに逆戻りなんてごめんだよ。ただでさえ今のこの国は、安心や豊かさなんて言葉とはまったくの無縁なんだから」
「うむ。ゆえに我々も黄皇国に住まう民たちの剣となるべくやってきた。博愛の神子たるユニウス様のご遺訓に照らせば、誰人とも争うことなく平和への道を探すのが最善ではあるが……それが叶わぬというのなら、アビエス連合国の名に懸けて小官も軍人の本懐をまっとうしよう。異存はないな、テレシア、アーサー殿」
「無論です。私も鈴の誓いに懸けて、ユニウスさまが望まれた平和のために我が剣を捧げましょう」
「御意」
続いて参戦の意思を示したデュランとアーサーに続き、場違いなほどの落ち着きようで短く答えたテレシアが、くい、と眼鏡のつるを上げた。
口数が少なく、いつもデュランの影のごとくひっそりと佇むテレシアは、未だにどんな人物なのか判然としていない。けれども彼女の内面を表しているかのように鋭角的な鏡玉の向こう、そこに見えるウォーターグリーンの双眸には、静かなる闘志が燃えている──ように思われた。
「ありがとう、デュラン、アーサー。……コラード、君は?」
「愚問ですよ、ジェロディ殿。我々がこうしている間も、ハーマン将軍は西の地で官軍と戦っておられます。ならばあの方の副官たる私が、己の命惜しさに逃げ出すことなどありえません。何より私自身、あなた方には一生をかけて返すべきご恩を賜りましたから」
「だけど、メイベルは」
「彼女ならきっと分かってくれます。というより、ここであなた方を見捨ててひとり逃げ出せば、私は未来永劫、彼女に笑いかけてはもらえなくなりますので」
そう言ってちょっと首を傾げ、笑ってみせたコラードの言動はこんなときまで爽やかだった。けれどその口振りから推察するに、やはりメイベルとコラードはとっくに両想いなんじゃないか、とカミラは思う。今の彼の言葉を、ポンテ・ピアット城に残してきたメイベルにもぜひ聞かせてやりたかった。
(だけど、何だか……誰が誰を好きとか嫌いとか、メイベルたちと他愛もない話で笑い合ってたのが、もうずっと遠い昔のことみたい)
オヴェスト城の戦いが果てたあと、確かにあったコルノ島での平和な日々。
そんな日々の記憶に思いを馳せながら、カミラは束の間瞑目した。
あれから自分は一体いくつ大切なものを失っただろう。たとえこの戦いに勝利し生き延びたとしても、あの日々だけはもう絶対に取り戻せないような気がする。
そう思えてならないくらい温かくきらめいた、かけがえのない日々だった。
(でも、だからこそ──私は、)
彼らと共に過ごした日々を、幻にしたくない。
ここまでたくさんのものを振り落としてきてしまったけれど、それでも救世軍はフィロメーナやマリステアが命を賭けてつないでくれた居場所だ。
そしてその居場所を守るために、ジェロディは戦うと言っている。父に拒まれ、これほど絶望的な状況に置かれてなお、ほんの一握の希望に賭けて剣を取る、と。
ならばカミラの答えは、最初からひとつだけだ。
「カイル」
「ん?」
「あなたはどうする? 島に帰れば、アンドリアさんが待ってるでしょう」
「あー、うん……確かに母ちゃんには、必ず生きて帰ってこい、死んだら殺すって言われて来たんだけどさ。ここでみんなを置いて逃げたりしたら、結局殺されると思うんだよね、母ちゃんに」
「まあ……そう言われればそうかもね」
「でしょ? でもってオレは、どうせ死ぬなら好きな子の腕に抱かれて死にたいなあと思うわけ。だから、気にしなくていいよ。オレはオレがそうしたいから君と行く。それはカミラの責任じゃなくて、オレ自身の願望だ」
「願望じゃなくて欲望だろ」
「ちょっと、イーク! 今せっかくいい感じなんだから邪魔しないで!」
「……ヴィルは?」
「同意したくはないが、今回ばかりはカイルの言うとおりだ。お前が責任を感じる必要は何もない。今の俺は傭兵でも何でもなく、自らの意思でここにいるわけだからな。とすればこれは、俺自身の選択だ」
「んじゃ、結局白旗を挙げて逃げたいですってやつは?」
「……いませんね。少なくとも、ここには誰も」
最後にウォルドが皆を見渡して尋ねれば、隣でアルドが苦笑した。
まったく本当に、命知らずの馬鹿ばかり集まったものだとカミラは思う。
そして自分もそんな馬鹿のひとりだ。ここにいる皆に背を向けて逃げ出すくらいなら、死んだ方がいい。心の底から掛け値なくそう思えてしまうのだから。
「ありがとう、みんな」
やがて響いたジェロディの声は、やはり少しも揺らいではいなかった。
「降伏の先に救世軍の未来がないのなら……僕たちは戦って掴み取るしかない。今日まで死んでいった仲間たちが望んだ明日を。そのためにも、君たちの想いを決して無駄にはしないと誓う──トリエ」
「はい」
彼に名を呼ばれたトリエステが、傍らから進み出る。
今日までいかなる死地からも救世軍をすくい上げてきた『深謀』の軍師は、どこまでも軍主に忠実に、言った。
「それではこれより、黄皇国中央第三軍との戦闘を開始します。──総員、出撃」




