309.運命の分かれ道
トラクア城を戴くシヴォロ台地の麓に、天高く吼える黄金竜の旗が翻っていた。
赤地に金の縁取りがされたその旗が、布陣を終えた二万の軍勢の狭間にいくつもそそり立つさまは、高台から見下ろすと大地が赤く燃えているように見える。
トラモント黄皇国中央第三軍。
今、この国で伝説と呼ばれる常勝の軍が雲霞のごとくカミラたちの視界を埋め尽くし、先の戦いで満身創痍となっているトラクア城を見上げていた。
「……ティノくん、」
と眼下に棚引く無数の旗幟に目を奪われたのち、カミラは共に城壁に立つジェロディを顧みる。そこでは彼もまた麓の軍勢をじっと見据えて、沈黙を貫いていた。
──シャムシール砂王国との国境争いに忙殺されていたはずの第三軍が、救世軍本隊のいるトラクア城を目指して進軍中。
そんな報告がカミラたちのもとへ届けられたのは、今から五日前のことだ。
報せを届けてくれたのは、トリエステが有事の際の伝令役としてソルン城に残してきた『誇り高き鈴の騎士団』所属の猫人だった。
翼獣を駆り、文字どおり飛ぶような速さで情報を伝達できる彼らは、各地に散らばる救世軍をつなぐ役割を与えられ、要所要所で待機してくれているのだ。
おかげでソルン城が陥落した翌日には、カミラたちもその事実を知ることとなった。鈴の騎士が迅速に情報を届けてくれなければ、救世軍は態勢を整える暇もないまま第三軍の強襲を受けていたかもしれない。そうなれば一体どれほどの犠牲者が出ていたことか、考えるだけで背筋が凍る思いがした。何しろ相手は世に『常勝の獅子』と謳われる、かのガルテリオ・ヴィンツェンツィオなのだから。
(おまけに救世軍は数日前の戦闘で、兵力をかなり消耗してる。仲間はみんなへとへとだし……頼みの綱のトラクア城も神術砲の砲撃を浴びてボロボロよ。こんな状態で黄皇国最強の軍隊と戦わなきゃいけないなんて……いくら向こうも砂王国との戦で疲弊してるとは言え、やっぱり分が悪すぎる……!)
ポンテ・ピアット城の戦いに端を発し、五ヶ月ものあいだ続いた一連の戦いにより、現在トラクア城に拠る救世軍の兵力はたったの四千五百。そこに先日降伏した黄皇国第六軍の兵力を合わせても一万程度にしかならず、彼我の戦力差は歴然だった。
加えて目下、カミラの足もとにあるトラクア城唯一の城門は、第三軍襲来の報を受けて用意した急拵えの鉄板で塞がれているだけだ。もともと城壁に嵌め込まれていた門扉は救世軍が神術砲で吹き飛ばしてしまい、もとに戻そうにも、厚さ四葉(二十センチ)にもなる鉄扉は見事にひしゃげて、もはや使い物にならなかった。
同じように、ところどころ砲撃で崩れた城壁も土嚢を積んで誤魔化しただけだ。
すべての瓦礫を取り除き、再び強固な石積みを組んで壁を修繕するだけの時間は当然ながら与えられなかった。
けれどもまさか、自分たちがトラクア城を陥とすために仕掛けた攻撃がここまで裏目に出るなんて誰が想像したことだろう。少なくとも冬の間はもう戦に明け暮れる必要はなく、城も軍容もまたゆっくり立て直せばいいと思っていたのに……。
(だけど、ガルテリオ将軍は……本当にティノくんと戦うつもりなの? 親子同士で殺し合うなんて、将軍もきっと望んでないはず。ティノくんも今日までずっと、将軍なら自分の選択をきっと分かってくれるはずだって言ってたし……)
それでなくともガルテリオは、英雄と呼ばれるにふさわしい人格者だと聞いている。その噂がただの誇張でないことは、彼の血を分けたジェロディの姿を見れば一目瞭然だった。ただの貴族なら子の世話や教育など他人に任せきりで、実の親と子が別人のように似ていないなんてこともありえるが、ガルテリオは違う。
彼は一年の大半を領地で過ごしながらも常にジェロディを気にかけ、たまに黄都へ帰れば懸命によき父親であろうとしていた。
幼くして母を失った息子のために、父としてでき得ることは何でもしてやろうとしていたとは生前のマリステアの言だ。だからジェロディも父親を心から尊敬しているし、血のつながらない娘であるケリーやマリステアさえも彼に心酔していた。
そんな人がいくら祖国のためとは言え、自らの手で我が子を屠りに来るとは思えないし、何よりカミラがそう思いたくない。
たとえ儚く馬鹿げた願望だとしても──あの日、兄と救世軍の間で自らが経験した身も心も引き裂かれるような思いを、ジェロディにまで強いるだなんて。
「ジェロディ殿、誰かこちらへ向かってきます」
けれどもカミラが緊張と不安と悲愴に押し潰されそうになっていると、同じく城門の真上に立ったトリエステが抑揚のない声色で告げた。言われて我に返ってみれば、確かにトラクア城へと伸びる坂道を登ってくる複数の人影がある。
彼らが麓の軍から派遣されてきた軍使であることは、騎馬の間に掲げられた旗印を見ればひと目で分かった。赤い軍旗ばかりが翻る軍の中から登ってくる青い旗。
そこに銀糸で描かれたるは、黄金の竜を守る獅子──すなわち、第三軍統帥たるガルテリオ・ヴィンツェンツィオの大将旗だ。
「あれは……」
と、徐々に近づいてくる獅子の旗を見て、刹那、ケリーが城壁から身を乗り出した。彼女が視線を注ぐ先には、集団の先頭を鹿毛に乗って馳せる青年がいる。
身なりからしてそこそこ階級の高い将校だろうか
白い鎧の左半身を覆う赤い外套にはいくつもの勲章が輝き、彼が若くして数々の武功を挙げた軍人であることを物語っていた。歳はイークと同じくらいと見え、短い黒髪の下から覗く瞳はまっすぐにトラクア城を捉えている。
悪意も逡巡もまるで感じさせない、あまりに澄んだ眼差しだった。それでいてどこか力強く、面差しだけで軍人としての自信と実力を兼ね備えた人物だと分かる。
そして恐らく、否、間違いなく──彼は城壁の上に佇むカミラたちの存在と正体に、既に気がついていた。
「……ジェロディ様、ウィルです」
と、そのときオーウェンが低く囁く。
するとジェロディも向かってくる青年を見据えたまま、無言でこくりと頷いた。
どうやら使者団を率いてやってくるあの青年はジェロディたちと顔見知りであるらしい。特にケリーやオーウェンは、もともと第三軍の将校としてガルテリオの下にいたわけだから、目下麓に居並ぶ将兵は見知った相手ばかりなのだろう。
「お久しぶりです、ティノ様」
ほどなくウィルと呼ばれた青年は城壁の下までやってきて、まぶしそうにこちらを振り仰いだ。
いかにも好青年といった感じの、さっぱりした口調とよく通る声で話す人物だ。
「あ、いや、今はジェロディ様とお呼びすべきですね。ケリーさんとオーウェンさんも、ご無沙汰してます」
「……お前も変わりないみたいだな、ウィル。こうして会うのも六聖日ぶりか。相棒はどうした?」
「リナルドのことなら、あいつも元気でやってますよ。女癖は未だに最悪……というか何なら悪化してますけど」
「ははっ、そりゃまたあいつらしい。そいつを聞いて安心したぜ」
「だけど、ウィル。あんたが来たのは、私らと仲睦まじく近況を話し合うためじゃないだろ。用件は?」
「はは、相変わらず手厳しいですね、ケリーさんは。ですが俺の用件なんて、わざわざ説明するまでもなくお見通しでしょう?」
「……降伏勧告、か?」
胸壁に右腕を預けたケリーがすっと目を細めて尋ねれば、ウィルも土色の瞳を細め、声もなく笑った。そんな彼の表情を見てカミラは戦慄する。
何故なら答えを聞く前に確信した。
やはりガルテリオは、救世軍と戦うつもりでここに来ているのだと。
「ウィル」
ところが立ち竦むカミラの傍らで、ついにジェロディが声を上げた。
彼は城壁からわずかに身を乗り出し、眼下のウィルをまっすぐに見つめて言う。
「父さんがわざわざ君を寄越したってことは、何か伝言があるんだろ。あの人はなんて?」
「……さすがはジェロディ様、話が早くて助かります。ガル様からの言伝は以下のとおりです。〝偉大なる黄皇国の父、オルランド・レ・バルダッサーレ陛下に弓引く逆賊へ告げる。我が軍は諸君らを完膚なきまでに攻め滅ぼす用意ができている。が、潔く武器を捨て、白旗を上げるのならば、諸君らに与した者たちのうち戦いの術を持たぬ者、及びトラモント黄皇国を祖国としない者については、ヴィンツェンツィオの名に懸けて陛下に助命を嘆願しよう〟」
「なっ……」
ウィルが高らかに唱え上げたガルテリオからの伝言を聞いて、カミラはますます全身から体温が滴り落ちていくのを感じた。
今のは本当にガルテリオが──ジェロディの父が告げた言葉なのだろうか?
思わずそう疑ってしまうほどには冷酷にカミラたちを突き放す宣告だった。
直前までなごやかにウィルと久闊を叙していたケリーやオーウェンも、これにはさすがに顔色を変えている。ただ、ウィルにガルテリオの言葉を伝えるよう求めたジェロディだけが終始硬い表情のまま、眉ひとつ動かさずにそこにいた。
「ウィル……それは……ではガル様は、本当に……!」
「あ、待って下さい。伝言には続きがあるんです」
「続き?」
「ええ。ガル様はこうもおっしゃってました。〝こちらには充分な城攻めの用意があるが、諸君らがどうあっても降伏を拒むのであれば、私は野戦での決着を望む。無論、無理にとは言わない。ただ、救世軍総帥殿の賢明にして勇敢なる判断に期待する〟と」
──馬鹿な。まともに戦えば負けると分かっている相手に、正面から正々堂々野戦を挑め、だって?
救世軍から言わせればそんなのは自殺行為だ。呑めるはずがない。
しかしガルテリオが城攻めの用意を万全にしてきているという話もまた、単なる脅しやはったりではないだろう。
何しろカミラたちのいる高台からは、麓に展開した第三軍の陣列のあちらこちらに、投石器や破城槌といった大型の攻城兵器が鎮座しているのが見える。
野戦に応じなかったら応じなかったで、あれらの兵器による一斉攻撃が始まるのであろうことは火を見るより明らかだ。そしてカミラたちには逃げ場がない。
台地の上に建つトラクア城は東と南北の城壁が絶壁の真上にそそり立っており、出入りができるのは第三軍が待ち受けるこの西門だけなのだから。
「ちなみに返答の期日なんですが、今日はもう昼時を過ぎましたし、俺たちもイーラ地方からの遠征で疲れてるので、ひと晩跨いで明日の正午までってことでどうですか? そちらも内部で協議する時間が必要でしょうし」
「……ずいぶんと余裕綽々だな、ウィル。賊軍ごとき拈り潰すのは楽勝だから、焦らずゆっくり、休み休みやればいいってか?」
「はは、まさか。リナルドじゃあるまいし、そんな生意気言うつもりはありませんよ。ただ──俺ももう去年までの俺じゃないことは確かです、オーウェンさん。あなた方が第三軍を離れてからずっと、ガル様を支えてきたのは俺ですからね」
そう告げてこちらを見上げながら、ウィルはふっと不敵に笑ってみせた。
それは恐らく事実上の宣戦布告だ、とカミラは思う。
黄皇国中央第三軍には、もはやケリーもオーウェンも必要ない。
自分たちだけでも充分に戦えるし、どんな敵も見事に食い破ってみせる。
少なくともカミラには、ウィルという青年がそう言っているように聞こえた。
若いくせに大した自信だと言ってやりたいが、そこにはきっと、西の大地で幾度となく死線を潜り抜けてきた経験による裏打ちがある。
何しろ第三軍は魔物や山賊退治といった取るに足らない実戦ではなく、一国の軍隊と長年国境を巡って争い続けてきた精兵の集まりなのだから。
「ま、というわけで、答えは明日の正午までに聞かせて下さい。午を過ぎても何の応答もないようであれば、こちらから攻撃を開始します。ですが正直、そうならないことを願ってますよ。さっきはああ言いましたけど……俺だって、あなた方と殺し合うのは本意じゃありませんから」
「ウィル、」
「ああ、ちなみにひとつだけ確認してもいいですか?」
「……何だい?」
「第三軍にはあんまり関係ないことで恐縮なんですけど……マティルダ将軍は、どうなりましたか?」
と、不意に投げかけられた質問に、カミラは少々面食らった。
けれど、そうか。言われてようやく気づいたが、彼らは恐らくマティルダ率いる第六軍が救世軍に敗れたことしかまだ知らないのだ。そのせいか答えを待つウィルの表情は真剣で、やや緊張しているようにも見える。
「将軍は無事だよ、ウィル」
ほどなく質問に答えたのは、他ならぬジェロディだった。
「本人は敗軍の将として裁かれることを望んでいたようだけど……救世軍の理想を叶えるためには、将軍の力が必要だ。だからきちんと話をして、今後は救世軍のために智勇を揮ってもらうことになった」
「……! そう、ですか……そうですか」
ジェロディの答えを聞いたウィルは一瞬、驚いたように目を見開いたあと、すぐに安堵した様子で笑った。
そんな彼の反応をカミラは意外に思う。てっきり味方の将軍が敵に回ったと知って暗い顔をするか、何とも言えない複雑な表情を見せるかと思ったのに。
「ありがとうございます、ジェロディ様。それを聞いて安心しました。お礼に何か言伝があれば、俺からガル様にお伝えしておきますが」
「……いや、ないよ。というか、話したいことがあれば自分で伝えにいく。曲がりなりにも僕たちは、血のつながった親子なんだから」
胸が詰まって、思わず呼吸の仕方を忘れるような答えだった。
眼下のウィルもジェロディを見上げ、再び意表を衝かれたような顔をしている。
けれど今度も、彼はすぐに微笑んだ。
「そうですか。では、俺はこれで」
「ああ。また会おう、ウィル」
果たしてその言葉には、ジェロディのどんな想いが込められていたのだろうか。
そしてウィルは、彼の言葉をどのように受け取ったのだろうか。
答えはふたりにしか分からない。されどウィルはやはりまぶしそうにジェロディを見つめたまま、最後まで微笑を絶やさなかった。
が、ほどなく馬首を翻し、麓を目指して駆け出すかに見えた刹那──カミラはふと、彼と目が合った、ような気がする。
(……え?)
初めはただの偶然か、気のせいだろうとそう思った。
しかしウィルの双眸は、確かに数瞬自分を向いていた……ように思う。
あの眼差しは一体何だろう。カミラがそんな戸惑いを覚えていると、やがてウィルは号令を挙げ、馬腹を蹴って駆け出した。それぞれの思いを乗せた視線を背に浴びながら、いくばくかの土煙を上げて、獅子の旗が遠ざかっていく。
「……トリエ」
「はい、ジェロディ殿」
「もう一度みんなを軍議室に集めてくれ。そこで決めよう。救世軍の命運を」




