29.誰の味方
カミラは胃が痛かった。
こんな胃痛に悩まされたのは一体いつぶりだろうか。
こう見えて……いや、見かけどおり? カミラは体力や健康には結構自信がある。自分の体調をきちんと管理できるのも立派な戦士の条件だと、父や兄にそう教え込まれてきたから、早寝早起き、食事はきちんと三食食べて、毎日適度な運動もする。食べ物の好き嫌いもあんまりないし、お酒はやらない。まさに模範的健康優良児というやつだ。
だからこんな風にキリキリ胃が痛むのは本当に久しぶりで、たぶん一人で郷を出たばかりの頃、誤って毒のある野草をスープの材料にしてしまったのが最後だろうと思われた。
でも、あのときと今回とでは同じ胃痛でも種類が違う。昨日から続くこの胃痛は、いわゆるアレだ。心労や過度のストレスから来るという、あくまでも精神的な。
「カミラさん、大丈夫ですか? なんか顔色が……」
と、ときに横から様子を窺う声があって、カミラはしゃがみ込んだままちょっと左に目をやった。
そこには同じく姿勢を低くしたアルドの姿がある。二人が地面に膝をついているのは何も同時に体調を崩したからではなくて、目の前の茂みから頭が出ないようにするためだ。
――そう、カミラたちは現在、森の中にいる。
ゲヴラー一味の籠もる砦からおよそ八幹(四キロ)ほど南西の、常緑樹の森に。
「ありがと、アルド……でも私なら大丈夫よ。ただちょっとお腹が痛くて、今戦闘になったら困るなって思ってただけだから」
「それ、大丈夫って言わないんじゃないですかね? フィロメーナ様たちが来るまでもうすぐですよ」
「へーきへーき。いざ戦闘になれば心配事なんて吹っ飛んで、どうせそれどころじゃなくなるし」
「何か心配事があるんですか? おれで良ければ相談に乗りますけど……」
なんてアルドが気遣わしげに覗き込んでくるものだから、カミラは思わずキュンとした。
思えばこのところ、イークはずっと不機嫌だしウォルドにはまったく相手にされないしで、こういう人の優しさに飢えていたような気がする。その点、アルドはいつだってカミラに優しい。
同じ年頃だからか、彼はカミラが救世軍に入ったばかりの頃から何くれとなく世話を焼いてくれて、今では気の置けない仲になっていた。唯一気になることと言えば、カミラが副帥の幼馴染みであることを気にして、アルドが敬語でしか話してくれないことくらいだろうか。
それも最近いくらか砕けた感じになってきてはいるものの、アルドはそういう礼節とか体面とかをきちんと守るタイプの人間らしかった。
きっと育ちがいいのだろう。本人もそこそこ名の知れた家の息子だと言っていたし。
「実は、最近ちょっと気になってることがあるんだけどね……」
「気になってること、ですか?」
「うん……あのさ、アルドは私よりずっと長く救世軍にいるでしょ?」
「ええ、まあ、長いと言っても、おれが救世軍に入ったのはウォルドさんが来る少し前のことですけど」
「そう、そのウォルドよ。本人には絶対言わないから、率直な意見を教えてほしいの。――アルドから見て、ウォルドってどう思う?」
アルドは目を丸くした。その顔はカミラの問いに意表を衝かれたようでもあり、同時に意味を図りかねたようでもある。
一方のカミラはざっとあたりに目をやって、この会話が胃痛の原因であるもう一人に聞かれていないことを確かめた。カミラは現在、イークが率いる伏兵部隊の一員として森の中に身を潜めている。
当のイークは姿こそ見えないものの、近くでフィロメーナたちの到着を待っているはずで、森には張り詰めた空気が流れていた。
常緑樹の森とは言っても、さすがにこの季節となると草木の緑は瑞々しさを失って、何だか色褪せたように見える。その枝葉が時折風に揺れて音を立てる以外は、鳥の鳴き声もしない異様な雰囲気だった。
「どう思うって……要するにあれですよね、イークさんとウォルドさんが反目し合ってる件について」
「そう。救世軍に入ってから今日まで私もウォルドのことを見てきたけど、まあ、確かに胡散臭いのよねあいつ。何だか言動が読めないし、何考えてるんだか分かるようで分かんないし、こないだ二ヶ月も行方を晦ましてた件なんて、結局どこで何してたのか詳しいことは教えてくれなかったでしょ?」
「まあ、それはそうですけど……」
と、アルドはちょっと茂みの向こうへ目をやりながら言う。カミラたちがフィロメーナ率いる陽動部隊と分かれて早数刻。そろそろ彼らを追って地方軍が雪崩込んできてもいい頃なので、森には緊張が漂っている。
「でも、ウォルドさんがふらっといなくなることは、前から度々あったんですよ。さすがに二ヶ月も不在だったのはこれが初めてですけど、何でも一つの場所にじっとしてるのが性に合わないとかで」
「私も本人からそう聞いた。だけどイークからあれだけ非難されてるのに、どうしてわざわざ疑われるような行動を繰り返すのかしら。少しはイークに信用されるように努力してって、私からもちょっと言ってみたんだけど、まともに取り合ってくれないし」
「基本的に一匹狼なんですよね、ウォルドさんって。傭兵としての仕事はきちんとこなすけど、それ以外のことには頓着しないというか、自由人というか……逆にイークさんって、規律とか秩序とか、そういうのをガチガチに守ろうとするタイプじゃないですか」
「あー、まあ、確かにそれはあるかも。何せ私たちの育った郷がそういうところだったから」
「だから反りが合わないんですよね、あの二人。ウォルドさんは規律なんて破ってなんぼだと思ってるところがありますし」
「そうね。たぶん、何か一つのものに縛られるのがイヤなんだと思う」
「だからおれはウォルドさんがどうこうというより、二人の性格の不一致が問題なんじゃないかなぁ、って思ってます。ウォルドさんも手に負えないところは確かにあるけど、悪い人じゃないんですよ。特におれたちみたいな若いやつらにはいつも構ってくれますし、戦場ではやっぱり頼りになるし」
「つまりアルドは、ウォルドを信用してるってこと?」
「まあ、人並みには。少なくともあの人が黄皇国のスパイだとか、そんな風には思ってないです。ただもうちょっと協調性を持ってくれたらなぁ、とは思ってますけど……そういうカミラさんは?」
「私?」
「やっぱり、イークさんの言い分が正しいって思ってます?」
「ううん」
「えっ。ち、違うんですか?」
「私は中立。確かにウォルドは胡散臭いし、イークが疑ってかかるのも分かるけど、でも私もウォルドはそんなんじゃないって気がするの。だって話せない相手じゃないし、この間の任務のときも、あのあと行方を晦ませたことを除けばきちんと隊長の仕事をしてた。何よりフィロがこの人なら大丈夫って思って仲間にした相手でしょ? なら、疑う余地がないっていうか」
「カミラさん、ほんとフィロメーナ様のこと大好きですよね」
「とーぜん」
苦笑するアルドにニヤリと笑ってみせて、カミラは茂みからちょっと顔を覗かせた。地方軍はまだ来ない。
「だから、何とかあの二人を和解させたいの。でもイークは私がウォルドの肩を持つと怒るし、ウォルドも人の話を聞かないし」
「なるほど。それで悩んでたってわけですか」
「私はね、別にいいのよ。あの二人がいつまでも子供みたいな喧嘩してたいって言うならそれで。正直勝手にやってろって感じだし、どっちの味方をするつもりもないわ。だけど、それじゃフィロが……」
言いかけて、しかしその先を言えずに、カミラはぎゅっと唇を結んだ。
敢えて言うなら、カミラはフィロメーナの味方だ。イークとウォルドの対立が深まることで、彼女が心を痛めるのだけは見ていられない。
はっきり言って喧嘩両成敗という名目の下、フィロメーナを悩ませるあの二人を一度丸焼きにしてやりたいと思っているくらいだ。そんなことをすればフィロメーナが悲しむから実行に移さないだけで、許可が下りるのならすぐさま火炙りの刑に処す。それがダメなら飛び蹴りを食らわせるだけでもいい。
(だって、そのせいでフィロは……)
と、カミラは眉根を寄せる。ボルゴ・ディ・バルカを出立した朝。カミラはフィロメーナがやけに憔悴していることに気がついて、何かあったのかと声をかけた。
するとフィロメーナは「イークとちょっと……」と苦笑して、そのあとすぐに「でも、大丈夫だから」と泣きそうな顔で言ったのだ。
本人は上手く笑ったつもりだったのだろうけど、カミラにはそうは見えなかった。むしろ余計な心配をかけまいと、気を遣われたのだとそう感じた。
おかげで自分自身にも腹が立って仕方ない。
フィロメーナに一人で背負わせたくない、なんて偉そうなことを言いながら、結局何一つ彼女の役に立てていないじゃないか。
(こんなとき、お兄ちゃんがいてくれたら……)
と、最近強くそう思う。一度ああなったイークと話をつけられるのは兄のエリクくらいだ。エリクならきっとイークを殴り倒してでも話をつけてくれる。
でもカミラには無理だ。イークは戦士として対等か、それ以上だと認めた相手にしか従わない。カミラの知るところ、そんな相手は父か族長かエリクくらいのものだった。
救世軍の中ならギディオンあたりもそうだが、彼は立場で言えば副帥のイークより下にいる。だから時折場を取りなすようなことはするものの、イークに対して強く出ることはあまりない。
加えて同じ幹部の立場にある自分がイークとウォルド、そのどちらか一方の味方をすることで、一触即発の均衡が崩れるのではという懸念もあるのだろう。
ギディオンはそういう組織の機微が読める男だ。何せ腐りきった黄皇国の中枢で、二十年もの間黄帝の身辺を守り続けてきたのだから。
「はあ、もう、これだから男ってのは……なんで変なところで意地とか見栄とか張りたがるのかしら。動物の縄張り争いじゃないんだから、もっと人間らしい寛容性とか多様性を持ってもいいと思わない?」
「す、すみません……」
「え? あ、いや、今のはアルドのことを言ったわけじゃ」
「で、でも、あの……おれも見栄を張るってわけじゃないんですけど……」
「え?」
「そ、その、つまり……おれも、どっちの味方をするわけじゃないっていうか……し、強いて言うなら、カミラさんの味方かな、みたいな――」
「――イークさん! 敵軍、来ました!」
そのときだった。突然森の東から駆けてくる足音とイークを呼ぶ声がして、隣でアルドが跳び上がった。
イークが斥候に放っていた兵が戻ったのだ。途端に森がざわめき、あたりに緊張が満ちていく。
「偵察ご苦労。距離は?」
「およそ二幹(一キロ)。フィロメーナ様たちが順調に陽動しています。すぐにも突入してくる模様です」
「よし。お前ら、武器を抜け。俺が合図したらすぐ飛び出せるように待機しろ。――カミラ!」
「は、はい!」
「お前も神術の準備をしておけ。敵の姿が見えたらすぐにデカいのをぶち込むぞ」
少し離れたところからイークの鋭い指示が飛んできて、カミラはとっさに茂みから顔を出した。見ればイークはカミラたちが潜んだ茂みから二枝(十メートル)ほど先にいて、周りにいる兵たちに次々と命令を出している。
――良かった。あの距離ならばアルドとのヒソヒソ話も聞こえてはいなかっただろう。
当のアルドは何故か真っ赤になった顔を押さえてうなだれているけれど。
「アルド、何やってんの。敵が来るわよ!」
「は、はい……!」
ようやく顔を上げたアルドが、半ば自棄っぱちのように剣を抜いた。
地響きが聞こえる。近づいてくる。
カミラはサッと息を詰め、色褪せた木立の間に目を凝らした。
右手の火刻が熱を帯びる。
――見えた。




