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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
308/350

306.少女は今も女として


 祖父も、父も、兄も軍人だった。

 ならば子女だというだけで、軍人になれぬ道理がどこにあろう。もとよりトラモント黄皇国(おうこうこく)には、古くから女にも国での地位を認める文化がある。

 だったら自分も軍人になろう、とマティルダは思った。

 地位や名声が欲しかったわけではない。ただ女であるというだけで、生まれたときから運命が決まっているかのように扱われるのが嫌だっただけだ。


 悠然と太陽を背に負って、果てなき大空を舞う(たか)の美しさが、幼き日のマティルダにそう思わせたのだと思う。


 唯一の娘であるマティルダに自我が芽生える以前から、既に嫁ぎ先を決めていた両親はひどく頭を抱えたが、やがてあまりに折れぬ娘の意地に根負けして、あるひとつの条件を出した。その条件とは帝立軍学校に入学し、首席で卒業してみせること。それが叶えば父も娘を一廉(ひとかど)の武人と認め、軍に入ることを許すと言った。


 ゆえにマティルダは軍人の家系に生まれながらわざわざ軍学校へ入学したのだ。

 しかし歳の近い兄たちは、卒業するだけならばただの女でもできるだろうが、首席でというのはいくら何でも無理があると口を揃えた。

 三百年近い歴史を持つ軍学校には、もちろん女の卒業生も大勢いたが、首席で卒業を迎えられた者はただのひとりもいなかったためだ。


 けれど前例がないという事実は、決して不可能の証明にはならない。

 マティルダはそう信じて、来る日も来る日も武芸を磨いた。勉学に勤しんだ。

 三年間、一度たりとも講義を欠席することなく、また六聖日(ろくせいじつ)すら寮から出ずに、ひたすら己を鍛えた。鍛えた。鍛え抜いた。


 ──私は自由だ。魂の底からそう叫びたかったから。


「女のくせに」


 されど軍学校に入ってからも、その言葉は呪いのようについてまわった。

 特に入学早々、女でありながら他の追随を許さない成績を叩き出したマティルダの存在は、同学年の士官候補生たちにとってひどく目障りなものであったらしい。

 オルキデア家と(よしみ)を通じたい家門の子弟が笑顔で近づいてくることはあっても、学内に真の味方と呼べ得る者はただのひとりもいなかった。

 むしろ実家と政治的思想を異にする家の子弟などは、ともすれば勉学へ向かう姿勢よりも積極的にマティルダを迫害し続けた。


 持ちかけられた私闘で彼らの矜持(きょうじ)(ことごと)く叩き折り、男としての面目を潰してしまったことも原因のひとつだったのだろう。マティルダは、女ごときが剣術の実技試験で首位の成績を残せたのは、オルキデア家が名誉のために親戚筋の教官を買収したからだという根も葉もない噂を否定したかった。だから自らの実力を一片も隠すことなく、私闘を挑んできた彼らを容赦なく叩き伏せたのだ。


 結果として、自らが持ちかけた勝負で赤っ恥をかくこととなった彼らはマティルダを逆恨みした。かくて一学年の秋の終わりに問題の事件は起きたのだ。


「やはり女には無理だったと認めて、今すぐ自主退学しろ。さもないと──」


 その日、人気のない学舎裏に呼び出されたマティルダは複数の士官候補生らに囲まれ、力づくで組み敷かれた。彼らは女としての尊厳を()(にじ)られたくなければ、軍人になるのを諦めて学校を去れと言い出したのだ。愚にもつかない脅迫だった。

 もとよりマティルダは、軍人を志した瞬間から女であることを辞めていた。

 ゆえに要求を飲むつもりはないと()()ね、無惨に衣服を切り裂かれた。


 されどそうして女の証を暴かれかけたとき、不意に底知れぬ恐怖に襲われたのもまたマティルダが女であるためだ。

 もし。もしもこのまま彼らの狼藉(ろうぜき)を許し、結果子を(はら)むようなことがあったら。

 そうなればどのみちマティルダは軍学校にはいられなくなる。

 たとえ望まぬ子であろうとも、女である以上は母となることを求められ、今後一生を運命の(かご)に閉じ込められて生きていくことになる──


「セレスタ」


 そんな恐怖と絶望に呑み込まれ、我を失いかけたとき。

 マティルダの耳に滑り込んできたのは、誰かの名を呼ぶ低い男の声だった。

 次の瞬間、我が身に何が起きたのか、マティルダは何度記憶を(さかのぼ)っても思い出せない。否、と言うよりも、記憶に痕跡すら残さぬ速さでマティルダを押さえ込んでいた候補生たちが視界から消え去り、気づいたときにはあちこちに転がって、無様に吐瀉物(としゃぶつ)を撒き散らしていたのだった。


「さて。せっかく忍んで視察に来たというのに、これで身分を明かさずにはいられなくなってしまった。この責任は誰に取ってもらうべきかな」


 ほどなく呆気に取られたマティルダが服を掻き合わせながら起き上がったとき、そこにいたのは黒茶色の髪を品よく撫でつけ、雄竜(おりゅう)のごとき覇気と穏やかさを面輪(おもわ)に同居させた不思議な風格の男だった。そして彼の傍らにはすらりとした痩身に剣を()き、身なりも顔立ちも中性的な容貌をした騎士風の人物がいて、のたうち回る候補生たちに何の感情もない視線を投げかけている。


「でしたらそちらに転がっている生徒たちの家門(おやもと)へ、公式に抗議されるのがよろしいかと。幸いにして彼らは皆、兄皇子様方を支持する派閥の子弟のようです。であれば彼らの醜聞が人口に膾炙(かいしゃ)したところで、殿下の有利に働くことこそあれど、()()に傷がつくおそれはないでしょう」


 やがて騎士風の人物が答えた声を聞き、マティルダは初めて()()()であることを知った。貴婦人の間では禁忌(タブー)と言われるほど短い髪と、男装に近い姿のせいですぐには気づけなかったが、硬質な声の響きが男にしては高かったのだ。


「ふむ、そうか。だがさすれば私が兄上方に恨まれる」

「何か問題が? 恨みなら既に充分すぎるほど買っておいでではございませんか」

「だから困っているのだろう。買いすぎて在庫が溢れている。だのに売りつける先がない。これでは私が損をするばかりだ」

「左様ですか。私はてっきり、蒐集(しゅうしゅう)のために好んで買い集めておられるものとばかり思っていました」

「ひどい言い草だな。私にそのような趣味があるように見えるのか?」

「はい。殿下は他にも数々の変わった趣味をお持ちですので」

「……」


 そればかりか彼女は終始淡々と、大真面目にそんな答えを返す変わり者だった。

 他方〝殿下〟と呼ばれた男はしばしの間、物言いたげに女を見据えていたが、やがて諦めたように嘆息するや、不意にマティルダへ向き直る。


「まあ、いい。その不名誉な認識は追々改めさせるとして──そなた、無事か? 怪我などしていなければよいが」


 そう言って目の前で膝をつき、自らの羽織っていた外套(がいとう)をマティルダの肩にかけてくれた男こそ、のちの第十九代黄帝(こうてい)オルランド・レ・バルダッサーレだった。

 当時まだ第四皇子と呼ばれていた彼は身分を隠して軍学校の視察に来ていたところ、たまたまマティルダが他の候補生らに襲われている現場に通りかかり、救いの手を差し伸べてくれたのだ。男の正体を知ったマティルダは肝を潰しながらも感謝を述べ、求められるがままにことの顛末(てんまつ)を打ち明けた。

 すると若き日のオルランドは驚くでも憤るでもなくただ呆れたように苦笑して、


「そんなことだろうと思った」


 と、納得する素振りを見せたのだった。


「まったく我が国の貴族というのは、いつまで経っても進歩しないな。むしろ退化し続けていると言ってもいい。よもや我が子に人間として最低限の良識すら教えることのできない親がこれほどまでに増えるとは」

「ええ。しかし子らの過ちのすべてを親の責任と決めつけてしまわれるのもいかがなものかと」

「彼ら自身の生まれ持った本質にも問題があると言いたいのか?」

「はい。でなければ殿下のようなお方がお生まれになる理由に説明がつきません」

「……セレスタ。それは褒められていると受け取っていいのだろうな?」

「どうぞ、ご随意に」


 のちに夫ギディオン・ゼンツィアーノの跡を継ぎ、黄皇国近衛軍団長となるセレスタ・アルトリスタは、あの頃からずっと変わらぬ調子だった。

 何ものも恐れず、誰人(たれびと)にも媚びることなく、ただ己の望むがままに振る舞う(ひと)

 当時十五歳だったマティルダには、そんな彼女の姿がただただまぶしかった。


「だが、そうだな。己の信ずるものひとつで人はいくらでも変わることができる。ときにそなた、名前をまだ聞いていなかったな」

「あ……ぶ、無調法(ぶちょうほう)を致しました。私は、マティルダ……マティルダ・オルキデアと申します」

「マティルダ……そうか。マティルダというのか。そなた、ここを出たら私のもとへ来るつもりはないか?」

「えっ……」


 直後、まったく予想だにしていなかったオルランドのひと言に、ひゅっと呼吸が止まったのを覚えている。

 聞けばオルランドは、公費で運営される軍学校の現状視察というもっともらしい名目を使って、実は将来有望そうな人材に唾をつけにきたのだという。


「何しろ私には敵が多いのでな」


 と、まったく悪びれもせずオルランドは言った。


「そなたも貴族の子なら知っていると思うが、初代黄妃(こうひ)たる黄金竜(オリアナ)の血を引くトラモント皇家では、黄金の髪を持って生まれることが何よりも重要視される。されど私はこの(なり)だ。母を恨むつもりはないが、たかが髪の色ひとつで皇位継承が傍系よりも遠のくというのは、何とも不条理な話ではないか。ゆえに今日まで、我が国のくだらぬ因習にケチをつけて回ってきたのだが……」

「そのせいでただでさえ少ないお味方が次々と離れてゆかれるので、仕方なく殿下自ら街へ下り、未だ世の清濁を知らぬ若者を籠絡(ろうらく)しにいらしたのです」

「セレスタ、そなたはもう少しものの言い方というものを考えろ」

「何か間違ったことを申し上げましたか。であるなら否定されればよろしいかと」

「……」


 結果として、オルランドはセレスタの言い分を否定しなかった。どうやら現状を覆すのは諦めて、祖国の未来を担う若者へ投資しに来たという話は事実らしい。

 思えばあのとき、セレスタが事実を明け透けに述べ、オルランドもそれを隠そうとしなかったのは、国家に対して勝算のない戦いを挑もうとしている皇子に(くみ)すべきかどうか、マティルダ自身に選ばせるためだったのだろう。


 そうでないのなら、彼はただ命じればよかった。

 たとえ金の髪を持たなかったとしても、オルランドは確かに皇族で、絶対的な権力がその血に約束されていたのだから。けれども彼はそうしなかった。

 ただ唖然と座り込むマティルダの前で「……とにかく」と言葉を継ぎ、


「そういうわけで、私はそなたを欲しいと思った。無論強制するつもりはないが、卒業後の進路のひとつとして考えておいてはもらえぬかな?」


 と破顔した。皇子という肩書きとはまるで無縁の、屈託のない少年のように。


「そ……それは、つまり……殿下の下で働く軍人になれ、ということですか?」

「うむ。より正確には、そこにいるセレスタと同じ第四皇子付近衛分隊の士官としてそなたを迎えたいと思っている」

「で……ですが、殿下。私は女です」

「……? ああ、もちろん見れば分かるが」


 だからどうしたのかとでも言いたげに、オルランドは至極不思議そうな眼差しでマティルダを見つめた。おかげでマティルダはますます呆気に取られ、何も言えなくなってしまったことを覚えている。だが思えば同じ女であるセレスタを平然と傍に置き、たったひとりで供をさせるほど信頼を寄せるオルランドが、男か女かなどという些末な問題にかかずらうわけがないのだった。


 けれどもそうと分かっても、やはりマティルダには衝撃だったのだ。


 よもや自分を〝オルキデア家の嫡女(ちゃくじょ)〟でも〝女〟でもなく、マティルダ・オルキデアという一個の人間として必要としてくれる人がエマニュエルにいようとは。


「マティルダ」


 と、何も言えないままでいるマティルダを見て、やがてすべてを察したようにオルランドは言った。


「先刻も話したように、私は人の自由や尊厳を踏みつけるこの国の悪しき伝統を正したいと思っている。もちろん臣も民も身分を問わず、だ。そしてそこではそなたのようにままならぬ現実に直面し、苦しんだ者ほど幸せになってもらいたいと願っている」

「苦しんだ者ほど……?」

「そうとも。運命神エシェルは言った。〝不幸は幸福を追いかけ、幸福は不幸を追いかける〟とな。これはすなわち、幸福と不幸は人生という名の天秤の上で、常に釣り合うようにできているということだ。ならば苦しんだ者は苦しんだ分だけ幸福にならねばおかしいだろう。他でもない天界の神々が約束された摂理なのだから」


 そう言ってにっこりと笑ったオルランドの言葉は、恐らく正しいとマティルダは思った。何故なら今日までひとりの理解者もなく、ひたすらに孤独であった自分の前にすら、彼という名の幸運は舞い降りたのだから。


「だから私はそなたが欲しい。マティルダ、いつか私が己の半生を振り返るとき、今日まで信じ歩んだ道は正しかったのだと、傍らに立つそなたの姿でもって(あか)()ててはくれまいか」

「殿下、」

「他人の風評や言い分になど耳を貸す必要はない。そなたが女であろうが男であろうが、そんなものは何の問題にもならない。何故なら私が真に求めているのは、そなたのようにいかなる逆境にも怯まず、聡明で、己の為すべきことを常に知っている者だからだ。ゆえに胸を張れ、マティルダ。そなたは強く、美しい」


 あまりにも力強く、明朗たる言葉だった。それでいて傷だらけの肌を包み込むような温かさに、気づけば頬が濡れている。これだから女は、と(わら)われることを嫌って、決して人前では泣くまいと物心ついた頃から誓っていたのに。

 そうしてできた心の亀裂にするりと入り込み、すべて優しく溶かしてしまった彼の願いを拒むことなど、マティルダにできようはずもなかった。


 ──私はこのお方の剣として生き、盾として死のう。


 あの日、確かにそう誓ったのだ。その誓いを、果たして自分は守れただろうか。


「……陛下──」


 どこかで鷹の鳴く声がする。


 すべてが黄昏に溶けゆくような景色の中で、振り向いたオルランドが目尻の(しわ)(ほころ)ばせた。どれほど老いようとも昔と変わらず、屈託のない少年のように。


「……陛下……私は……」


 あなたの証で在れたでしょうか。


 あの日あなたが見初(みそ)めて下さった、強く美しい私のままで。


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