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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
307/350

305.裏切ったのは


「高位の魔族は、本心から認めた相手にしか名を明かさない」


 とはオヴェスト城の戦いのあと、しばらく滞在していた蛙人族の里(ジャラ=サンガ)でヴィルヘルムから聞いた言葉だった。


「もちろん中には例外もいるが、位が上がれば上がるほど魔族は自らの名を重んじる。これは己の真名を知られると、相手に魂を掴まれる──つまり()()()()()()()()()という思想から来るものだ。実際、アビエス連合国の魔女……もとい口寄せの民たちは、真名を呼ぶことで相手を意のままに操ったり、魂を抜き取ったりすることができる。連合国の出身者が異様に長い名を持つのもそれが理由だ。要するに、己の真名を簡単に覚えられないようにするための自衛の策というわけだな」


 その話を聞いたとき、ジェロディがいたく感心したのは、真名を隠すという連合国の風習がトラモント黄皇国(おうこうこく)の慣習と似通っていると感じたためだった。

 黄皇国では今も成人前の子どもには幼名という仮の名をつけたり、本当に信頼する相手にしか真名を明かさないという風習があったりするが、ひょっとするとあれらのルーツも、もとを辿(たど)れば同じ思想の下にあるのかもしれない。


「まあ、そもそも魔界では、名前を持つことは高位の魔族のみに許された特権だとも聞く。だからなおさら容易には名を明かしたがらんのだろう。やつらにとって名前とは、よほどのことがなければ他者に在処(ありか)を明かしはしない財産と同じ。持つことを名誉としながらも、奪われるのを恐れる家宝のようなものだ。とにかくそういうわけだから、名を持つ魔族と遭遇したときは気をつけろ」


 そんな話を不意に思い出したのは、恐らく先刻マティルダが口にしたムラーヴェイという名を聞いたためだろう。彼女はあの蟻頭(ぎとう)の魔族の名を知っていた。

 つまり魔族は彼女を認め、名を明かしたということだ。されど人類を神の手先と蔑む彼らが、自らの名を告げるほど人間に心を許すだなんて。

 ひょっとするとムラーヴェイがマティルダを守ろうとしたのは、彼女を〝仲間〟と認識したためだったのだろうか──?


「う……」


 が、そのときすぐ耳もとで微かな呻き声が聞こえて、ジェロディはようやく我に返った。そうだ、今は余計な思考に気を取られている場合じゃない。

 降り注いだ瓦礫(がれき)に命を吹き込み、即興で作り上げた石の盾を頭上に支えたまま、ジェロディは傍らにうつぶせたケリーとオーウェンを(かえり)みた。ふたりは魔族が呼び起こした黒い嵐からジェロディを守ろうとして床に倒れ込んだのだ。

 おかげであちこちぶつけた様子ではあるものの、どちらもひとまず無事だった。


「ふたりとも、平気かい?」

「じ……ジェロディ様? これは……」


 うつぶせに倒れていたふたりは、体を起こして初めて自らを守る瓦礫の盾に気がついたようだ。そこでジェロディもようやく《命神刻(ハイム・エンブレム)》の力を解き、密集させていた黄砂岩(こうさがん)の破片を解放した。

 そうして視界が開けると、まず真っ先に見えたのは崩壊した聖堂の残骸だ。

 あたりには薄い砂煙が立ち込めて、何とか難を逃れた味方が咳き込んでいる。


「ジェロディさま、ご無事デスカ……!?」


 ほどなくそう遠くないところから響いた呼び声に気づき、ジェロディは視線を巡らせた。見えたのはソウスケに寄り添われて座り込んだシズネの姿だ。

 どうやら彼女もソウスケの忍術に守られたらしい。

 されど聖堂の崩落に巻き込まれた味方も少なくなく、山をなした瓦礫の下にいくつもの血溜まりが見えた。救世軍を襲っていた影の軍勢は、ムラーヴェイが忍術の直撃を受けた際に消え去ったようだが、結局被害は甚大だ。


(くそ……)


 胸裏でそう悪態をつきながら、ジェロディは数瞬前まで聖堂の床だったものに剣をつき、立ち上がった。間断なく《命神刻》の力を使い続けたせいだろうか、体が重く、暑くもないのに汗が滴ってくる。


(マティルダ将軍は……)


 直前まで戦場と化していた聖堂は、もはや半分以上崩れた壁しか残っていなかった。これではマティルダも無事では済むまい、とあたりを見渡したところで息を飲む。瞬間、ジェロディの視線が捉えたのは黒い球体。まるで空間の一部を円状に塗り潰したかのようなその球は、直径四十(アレー)(二メートル)ほどもあった。


 かと思えば一拍ののち、球体の表面がどろりと溶ける。

 途端に中から現れた黒い肢体を目撃し、ジェロディは剣を構えた。

 ムラーヴェイ。生きている。どうやら先程の球体は降り注ぐ瓦礫からやつを守るための、魔力の殻だったようだ。そしてムラーヴェイの足もとには、やつにかばわれるようにして膝をついたマティルダの姿もある。


 やはりあの魔族はマティルダをかばった。自らの意思で、明確に。


「ムラーヴェイ」


 と、眼前に佇む魔族の背にマティルダが呼びかける。

 彼女の榛色(はしばみいろ)の瞳の奥に、微かな戸惑いの揺らぎがあるのをジェロディは見た。

 しかしムラーヴェイは答えない。いや、あるいは答えられないのかもしれない。

 何故ならソウスケの忍術に焼かれたやつの肉体(からだ)は、はっきりと(ほころ)(はじ)めていた。

 黒い皮膚のところどころが破れて、胸の赤い亀裂に似たいくつもの傷となり、そこから塵状の瘴気(しょうき)が漏れ出ているのだ。


(あいつは血を流さないのか)


 と思いながら、されどジェロディは確かにムラーヴェイの力が弱まっているのを感じた。やつの傷から血の代わりに流れ出るあの瘴気は恐らく、魔族の生命力と言うべき魔力そのものだ。


「……やってくれたな、人間」


 全身から立ち上る黒い塵にまみれながら、ムラーヴェイが低く呻いた。

 少しずつ崩壊を始めた体ではもはや飛ぶこともできないのか、再び人の手が届かぬ高みへ逃げる気配はない。


「終わりだ、ムラーヴェイ。この地上をお前たちの好きにはさせない」

傀儡(くぐつ)風情が、気安く我が名を呼ばわるな。そもそも地上(ここ)は我ら魔族(ムドリェーツ)が生まれた地──これ以上(うぬ)らの好きにはさせんとは、こちらの台詞だ!」


 刹那、ムラーヴェイの怒号を合図に、やつの肉体から零れ出た魔力が無数の矢へ姿を変えた。その矢すら形を成した先からボロボロと塵に変わっているが、ムラーヴェイは構わず戦い続けるつもりらしい。


「くそっ……!」


 ソウスケの言っていたとおりだった。

 忍術は確かに魔族に効くが、致命傷を負わせるほどの威力はない。

 だがここで仕留めなければオヴェスト城で戦った魔族のように、やつもまた人の血肉を食らうことで再び力を取り戻すだろう。

 ゆえにジェロディも最後の力を振り絞った。ムラーヴェイが生み出した大量の魔矢に対抗すべく、自らも神の力で刀剣たちを呼び覚ます。


 手套(しゅとう)の下に隠れた《命神刻》が熱かった。

 自分の神力が尽きるのが先か、ムラーヴェイの魔力が尽きるのが先か。

 賭けるしかない。

 今はとにかく一本でも多くの魔矢を相殺して、隙あらばムラーヴェイを──


「オルキデア将軍!」


 ところがジェロディの操る百刃と、ムラーヴェイの生み出す矢雨(やさめ)が今にも放たれ激突するかに思われた瞬間だった。崩壊した聖堂に突如マティルダを呼ぶ声が響き渡り、大勢の足音が砂煙の向こうから迫ってくる。


「なっ……」


 ほどなく救世軍は浮き足立った。何故なら砂塵を破って現れたのは(オルキデア)の花を(くわ)え、(つるぎ)を掲げた(たか)の紋章──黄皇国中央第六軍の大将旗だ。

 つまりマティルダの親衛隊。数は百かそれ以上か。

 このタイミングで敵の増援。戦況が覆った。

 というか、敵本陣にいたはずの敵親衛隊がここにいるということは、彼らと戦っていたはずのヴィルヘルム隊や連合国軍は……。


「お……おい、見ろ! あれは……あいつは一体何だ!?」


 が、刹那、動揺が走ったのは官軍も同じだった。駆けつけた彼らはマティルダの傍らに佇むムラーヴェイを見るなり、血相を変えて立ち止まる。

 無理もない。彼らは恐らくマティルダが魔族と共にいることを知らなかった。

 第五軍(ハーマン)敗北の経緯を知るマティルダは、魔族の存在を今日までひた隠しにしていたに違いない。だからこそ救世軍が流した噂や、先刻の胎樹(たいじゅ)召喚でもしやと思った者たちも、今の今までマティルダを信じて戦っていた。


 されどその信頼が揺らいだ今ならば、


「おまえたち、何故ここへ……イーサン! 役目を終えたらただちに降伏するようにと、私は確かに命じたはず……!」


 まだだ。まだ勝機はある。とっさにそう判断したジェロディが、官兵たちを焚きつけようと口を開きかけたときだった。こちらが動くよりも早くムラーヴェイの傍らで立ち上がったマティルダが、顔色を変えて部下たちを詰問(きつもん)する。

 イーサンというのは、あの親衛隊を率いる指揮官のことだろうか。

 マティルダよりほんの少しだけ若く、精悍な顔立ちをした若い将校は、血まみれの鎧を身にまとったまま無表情に上官(マティルダ)を見つめ、答えた。


「申し訳ございません、将軍。しかし我ら、祖国の勝利を掴むためには、将軍のご命令には従えぬと判断致しました。最後の最後であなたに背く不忠をどうかお許し下さい」

「何を……」

「オルキデア将軍。あなたはトラモント黄皇国に必要なお方です。ゆえに我々は、あなたをここで失うわけにはいかない──総員、構え! ()てぇっ!」


 次の瞬間、轟音(ごうおん)が鼓膜を貫き、ジェロディの視界は閃光に塗り潰された。

 突然の出来事に怯みながら、けれど辛うじて開いた(まぶた)の向こうに見えたのは、第六軍の兵士たちが肩に担ぐようにして構えた歩兵希銃(ミーレス)だ。


(まさか)


 ジェロディは目を疑った。

 彼らが放った炎弾は、一直線にムラーヴェイを狙って飛んでいく。と同時に烈風がうなり、ムラーヴェイの傍にいたマティルダだけが吹き飛ばされた。官兵の誰かが放った神術だ。それは希銃の斉射から彼女を守るための手段だった。

 不意を()かれたマティルダが地面に投げ出され、どうにか受け身を取ったとき、官軍の集中砲火はムラーヴェイに襲いかかっている。


「貴様ら……!」


 ムラーヴェイが放った憎悪の絶叫が、再び黒い風となった。

 しかしそこに聖堂を打ち壊した先刻ほどの力はなく、ムラーヴェイを守るように逆巻いた風を何発もの銃撃が貫く。途端に極小の爆発が起こり、ムラーヴェイの姿は薄い爆煙の向こうへ隠れた。されどイーサンは銃撃の手を休めることなく、横隊を組んだ銃兵に希銃を構えさせる。


「将軍を呪い籠絡(ろうらく)した魔の者め、これ以上我が主の名誉を汚させはしない! 次砲、放て……!」

「やめなさい! 全軍、今すぐ武器を捨てて撤退を……!」


 と、跳び起きながらマティルダが放った叫びは届かなかった。直後、彼女の命令を遮るように、ムラーヴェイを包む爆煙の向こうから漆黒の矢が飛来する。

 マティルダの親衛隊が現れなければ、救世軍に向かって降ったはずの矢の雨だった。それが次砲を放つ間すら与えずに、イーサンらの眼前へ、迫る。


「ムラーヴェイ……!」


 制止するマティルダの声が、ほとばしる血飛沫の()に掻き消された。

 油断していた官兵は次々と魔矢に貫かれ、無惨な肉塊へと成り果てる。

 親衛隊を率いて駆けつけたイーサンも例外ではなかった。

 彼は左目と腹部を同時に貫かれ、血を吐きながらゆっくりと背後へ倒れてゆく。


「オ……ルキ、デ……将軍……」


 最後に彼の口から零れ落ちた呼び声は、神の耳を持つジェロディが辛うじて聞き取れる程度の(ささや)きだった。ゆえに恐らく二(アナフ)(十メートル)ほども離れたマティルダには届かなかったに違いない。百名前後いたはずの敵親衛隊は一瞬でほとんど潰滅した。その瞬間、ジェロディはようやく理解する。


 ああ、そうか。マティルダは。


 彼女がたったひとりで戦おうとしたのは、魔族の存在を隠すためではなく。


 彼女は巻き込むまいとしたのだ。彼女を信じ、命を()して戦う部下たちをひとりでも多く魔族から遠ざけ、人間(ひと)としての名誉も命も守り抜こうと──


「ムラーヴェイ!」


 すべてを悟った刹那、ジェロディは胸奥から衝き上げてくる激情のままに命を吹き込んだ百刃を放った。希銃斉射の煙の向こうから不意に飛び上がったムラーヴェイが、親衛隊のわずかな生き残りに襲いかかるのを視界に捉えたからだ。

 けれど一歩遅かった。ジェロディの刃が届くよりも早く、ムラーヴェイは仲間の血飛沫を浴びて腰を抜かした官兵を刃化した腕で刺し貫き、天へと掲げる。

 そうしてぼたぼたと垂れる鮮血に向けて口を開いた。

 官兵の胸から滴る真っ赤な液体が、ムラーヴェイの牙の狭間に、


「くっ……!」


 あと半瞬でムラーヴェイに届くかに見えた刃は()(はら)われた。

 血肉を貪り、力を取り戻したムラーヴェイの魔力の一閃が神の奇跡を凌駕(りょうが)する。

 ──やられた。事態はまたしてもふりだしに戻ってしまった。

 洪水のごとく押し寄せる刃の群をたやすく打ち払ったムラーヴェイは、絶命した官兵の死体を左手に掲げたまま腹の底から哄笑する。


「クハハハハハッ! 残念だったな、人間どもよ! 非力な汝らが徒党を組み、死力を尽くしたところでこの程度だ! 傀儡ごときが我を討てると思ったか!」

「くそっ……やっとの思いで追い詰めたってのに……!」

「おい、ソウスケ! まだ忍術は使えるか? 俺たちがもう一度隙を作るから、その間に……!」

「無駄だ。人間(うぬら)の血と肉、恐怖と絶望、憎しみと死がある限り、我らはいくらでも(よみがえ)る。何よりそう何度も同じ手を食うものか。さあ、汝らも此奴(こやつ)らのごとき死に様を晒したくなくば、そろそろ観念して我が前に──」


 ──ひれ伏せ、と、ムラーヴェイは恐らくそう続けようとしたのだろう。

 確証こそないものの、ジェロディはそう思った。

 されどやつが愉悦と共に(つむ)ぎかけた台詞(せりふ)は、一発の銃声に掻き消される。

 ジェロディたちは言葉を失った。

 おかげで一瞬、世界が静止したような静けさがあたりを包み込んだ。


 愕然と視線をやった先には、銃口から薄く立ち上る硝煙。

 デュランたちが短希銃(ブレウィス)と呼んでいる、携帯用の小型希銃(グロブス)だった。

 引き金を引いたのは他でもない、マティルダだ。

 まさか彼女も隠し持っていたのか。魔族に唯一対抗し得る武器を。


「あ……?」


 と、演説を遮られたムラーヴェイも異変に気づき、ゆっくりと自らの胸を見下ろした。そこには短希銃から放たれた炎弾が貫通した穴があり、血の代わりの黒い塵が溢れ出している。


「……マティルダ、貴様──」

「契約はここまでです、ムラーヴェイ。恨むのなら私の誇りに手をかけた、おまえ自身を恨むといい」


 果たしてマティルダは、ムラーヴェイに事態を飲み込む暇を与えなかった。

 やつが再び死体(にんげん)に食らいつくよりも早く、渾身の力で引き金を引く。

 一発。二発。三発。四発。

 連続して放たれた炎弾はムラーヴェイの翼を、足を、脇腹を撃ち抜き、そして官兵の死体をぶら下げた左手をもついには腕ごと吹き飛ばした。


「ジェロディ!」


 直後、鋭く響き渡った呼び声に打たれて我に返る。

 ジェロディは唖然とマティルダを見た。彼女もまっすぐにジェロディを見据えている。それ以上の言葉は要らなかった。マティルダが自分に何を望んでいるのか、瞬時に悟ったジェロディは神の力を振り絞り、数十本の刃へ魂を込める。


「マティルダ……!!」


 再び黒の塵に包まれたムラーヴェイの、憎悪の叫びが(こだま)した。

 しかしマティルダの銃撃は止まず、最後の一発がやつの額を直撃する。

 その炎弾が爆ぜるのと、ジェロディの放った神の刃がムラーヴェイを貫くのが同時だった。隙間なく密集し、八方から黒い肢体を貫いた(つるぎ)や槍は、やつの最期を銀色の豪猪(ヤマアラシ)のごとく飾り立てる。


「お……のれ……テヒナの……傀儡(かいらい)どもがァ……ッ!」


 ただの刀剣ならば受けつけぬ魔族の肉体(からだ)も、大神刻(グランド・エンブレム)の神気を帯びた刃に貫かれたとあってはひとたまりもないようだった。希銃の銃撃を浴び、さらに数十本の刃によって空間に縫い留められたムラーヴェイの体は音もなく崩壊し始める。

 ふと見れば傷だけでなく指先や足もとからも黒い塵が立ち上ぼり、先端から徐々に四肢が消えているのが分かった。崩壊はじわじわと体の中心へ向かって進み、やつの存在が少しずつ、少しずつ虚無に呑み込まれていく。


「ク……クククッ……滑稽、だな……よもや我までもが、《魔王》と同じ末路を辿ることになろうとは……」


 ほどなくムラーヴェイの口から零れた低い自嘲が、何故だか不吉な予感を帯びてジェロディの鼓膜を震わせた。


「所詮は……裏切り者(テヒナ)につくられし者ども、よ……やはり……人間と契約など……結ぶものではない、な……」

「ムラーヴェイ──」

「汝の、言うとおりだ……マティルダ。我は……我の愚かさを、恨もう。だが、汝もまた……軽率に我との契約に背いた、己の不義を……恨むがいい」


 虚無の侵蝕はついにムラーヴェイの胸まで達し、実体を失った体からボロボロと鉄の刃が零れ落ちた。それらが地面を叩く音の狭間に、ヴヴヴヴ……と(わら)うような翅音(はおと)が響く。その音こそが合図だと、ジェロディは気づくべきだった。

 否、気づいたときにはもう遅かった。やがて翼さえも塵と化し、ついに蟻の頭部を残すのみとなったムラーヴェイの牙が、震える。



呪われよヴーチ・プロー・クリャット



 戦場の空を覆っていた薄雲が夕日に濡れて、まるで血の滴るようだった。

 そんな残照を背に浴びたマティルダの足もとに、長い影が伸びている。

 その影が牙を剥いた。地面から主を見上げた影の頭部に口が裂け、にたりと笑ったかに見えた刹那、突如として現れた黒い槍がマティルダの腹を貫く。


「将軍……!!」


 地面から斜めに生えた影の槍は、鎧ごとマティルダの体に穴を開けた。

 かと思えばムラーヴェイが完全に消え去るのと同時に、槍もまた塵と化して消失する。ぐらりと(かし)いだマティルダの手中から短希銃が零れ落ちた。


 沈む彼女を連れ去るように、黄昏を塗り潰す夜が来る。


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