304.太陽の雄牛は沈む
瞬間、ジェロディは背中に衝撃を感じて床の上を転がった。
まるで石の床に糊づけされたように動かなかったはずの両足が己の影を離れる。
おかげで足もとから突き上げてきた黒い槍をすんでのところで回避できた。
代わりに受け身を取り損ね、あちこち体をぶつける羽目にはなったが命はある。
助かった。
「いってててて……ジェロディ様、ご無事ですか!?」
「オーウェン……!」
果たして誰が助けてくれたのだろうか。
そう思いながら跳ね起きた先には予想もしていなかった人物がいた。
オーウェン。最前線で戦っていたはずの彼が、増援を率いて駆けつけてくれたのだ。持ち場をコラード隊に任せ次第、本隊を追って後詰めにつくようにとの指示を出してはいたものの、彼の到着まではもう少し時間がかかると思っていた。
それが考え得る限り最善のタイミングで飛び込んできてくれるだなんて、誰が想像したことだろう。魔術で影を射留められ、自分の意思では指一本動かすことができなかったジェロディは、彼の助けがなければ恐らく死んでいた。
と同時にやつの魔術は対象の身的自由を奪うことはできても、外部からの干渉まで防ぐことはできないと分かったのも収穫だ。ジェロディは先に立ち上がったオーウェンの手を借りながら「ありがとう」と、心からの感謝を告げた。
「助かったよ、オーウェン。やっぱり君を呼んでおいて正解だった」
「へへ、まあ若干遅刻しちまいましたがね。俺たちに死ぬなと命じたジェロディ様に、先に逝かれちゃ困りますから。しかしやっとの思いで来てみれば、どうもえらいことになってるみたいですね」
「ああ。やっぱり第六軍には魔族の支援があったらしい。そして、やつが……あの日、マリーを殺した魔女の手先の片割れだ」
と、未だ頭上高く浮いている蟻頭の魔族を睨み上げ、ジェロディは剣を握る手に力を込めた。オーウェンもマリステアの名前を聞くや目つきを変えて、射抜くように魔族を睨み据える。が、当の魔族は遥か頭上に留まったまま悠然と下界を睥睨していた。いつまでもあそこにいられたのではこちらは手の出しようがない。
何とかしてやつを引きずり下ろさなければ……。
「ふん……また新たな人間が湧いたか。殺しても殺しても懲りぬテヒナの人形どもめ──面倒だ」
そう吐き捨てた魔族の手中から邪気が放たれ、またも無数の矢の姿を取った。
その切っ先が地上に向けられているのを見て取ったジェロディは、聖堂のあちこちでひっくり返った長椅子へと視線を走らせ、とっさに魂を送り込む。大量の魔矢が降り注ぐのと、ジェロディが浮き上がらせた長椅子が盾のごとく展開するのが同時だった。想像を絶する勢いで飛来する黒い矢を、どうにか長椅子で受け止める。
しかしすべてを防ぎ切ることは不可能だった。
長椅子の間を擦り抜けた矢は次々と味方を襲い、容赦なく命を奪っていく。
そうして絶命した彼らの足もとからは意思を持った影が立ち上がり、次々と救世軍へ襲いかかった。兵も何とかそれに応戦しようとしているもののどうやら影には実体がなく、剣で斬りつけても形がぐにゃりと歪むばかりで手応えがないらしい。
実際、影は何度斬り刻まれてもすぐにもとの姿を取り戻し、執拗に味方へまとわりついた。唯一有効な攻撃は見たところ神術だけだ。だというのに影からの攻撃は何故か実体を持ち、為す術のない味方をどんどん追い詰めている。
わずかな神術兵がどうにかその猛攻を防ごうと奮戦しているものの、戦況は見るからに多勢に無勢。聖堂内で繰り広げられる乱戦はもはや魔力が生み出す命なき影と《命神刻》が見せる死影、ふたつの影が乱舞する饗宴と化しつつあった。
「くそっ、なんだ、あの力は……!? 野郎は影を操れるのか……!?」
「ああ、どうやらそうらしい。このままだと味方が増えれば増えるほど敵の戦力も増していく。あの影を消し去るには、術をかけてる魔族を倒さないと……!」
暴れ狂う影の群は、言わば魔力という名の糸で繰られる傀儡人形だ。
つまり魔力の根源である魔族さえ討ってしまえば、自然と影も消滅するはず。
だが問題の魔族は依然として聖堂の天井付近に居座り、自ら地上に降りて戦うつもりはないようだった。かと言って強引に引きずり下ろそうにも、味方の神術兵は影の群を押さえるだけで手一杯。おまけにジェロディの神術も、やつにはたやすく封じられてしまうことが既に判明している。
(くっ……せめて連合国軍の希銃があれば……!)
──魔族の弱点は退魔師たちが使う聖術か、神の力に依らないすべての妖術。
かつてウォルドから得た情報のとおりなら、神術が効かず退魔師もいない今、対魔族戦力として最も頼れるのはデュラン率いるアビエス連合国軍だった。
しかし彼らはマティルダの親衛隊が敵本丸にいるという情報に踊らされ、前線に釘づけになってしまっている。今からこちらへ呼び寄せようにも、向こうの戦況が分からない以上迂闊な伝令は飛ばせない。ならば今、彼らの他に頼れるのは、
「ソウスケ」
「はっ」
「ひとつ訊きたい。君の忍術でやつを落とすことはできる?」
「……恐れながら、我らキリサトの忍術は実のところ、破壊の力にはさほど秀でておりませぬ。ゆえに正面から挑んだのではたやすく防がれてしまうはず。なれどやつの隙を衝くこと能えば、あるいは……」
と、漆黒の口布の下から目礼と共にソウスケは答えた。
あの魔族の隙を衝く、か。確かに先刻ソウスケが放った雷撃は目眩まし程度にしかならず、魔族には傷ひとつつけることができなかった。
けれど防ぐ暇を与えぬ不意討ちなら可能性はある、と言うのなら……。
(どうにかしてやつの注意を逸らすことができれば、勝機はある。だけど問題は、どうすればやつが隙を見せるか……)
ジェロディが必死に思考を巡らせる間にも、どんどんどんどん影が増える。
このままでは遠からず、味方は影の軍勢に呑まれてしまうだろう。どうすればいい。どうすれば──と身を焼くような焦燥と共に素早くあたりを見回した、刹那。
ジェロディはふと、激しくぶつかり合う鉄の音で我に返った。
マティルダ。彼女の振るう駿速の剣を、ケリーがたったひとりで防いでいる。
そうだ。魔族にばかり意識を奪われていたが、地上には彼女もいるのだ。
ケリーはマティルダが矢継ぎ早に繰り出す剣技に翻弄されて、槍の射程を活かせていない。マティルダも一度距離を取られれば、槍と剣では分が悪いと分かっているから、息もつかせぬ連撃でケリーの懐に居座り続けているのだ。
「ケリーさま……!」
ところが苦戦する彼女の姿に気づいたシズネが、すかさず援護に入ろうとしたときだった。突然、救世軍兵に襲いかかっていたはずの影が首だけでぐりんと振り返り、シズネへ向かって腕を伸ばす。実体を持たぬ影の腕は触手のごとくどこまでも伸び、今にも床を蹴ろうとしていたシズネの足を絡め取った。
「……ッ!?」
「姫様!」
不意を衝かれたシズネが膝を折り、体が沈む。と同時に得物を頭上に掲げ、投擲する構えを見せた影をソウスケの忍術が弾き飛ばした。
彼の符から放たれた雷撃は影の側頭部に直撃し、途端に頭が霧散する。
かと思えば影の体はボロボロと崩れ落ち、あっという間に真っ黒な霧となって掻き消えた。実体を持たぬ影の魔物にも、やはり忍術は有効なのだ。
しかし今、ジェロディたちが最も着目すべきは、
(──かばった)
あの魔族は先刻、確実に、
(自分の意思で人間を守った……? だけどどうして? やつには将軍を生かしておく必要なんてないはずだ)
やつの目的はあくまで神子を殺し、《命神刻》を奪い、あわよくばカミラを手中に収めることのはず。つまり官軍の勝ち負けなど魔族にとっては与り知らぬことであり、マティルダが死のうが生きようが、自らの目的さえ果たせればいいはずだ。
そもそもマティルダは魔術にかけられているわけでもなく、自分の意思で魔族と共闘している。であれば自らの眷族ですらない彼女を魔族がかばう動機はないだろう。されどやつは確かに守った。その理由は分からない。けれど、
(少しでもやつの気を逸らせる可能性があるのなら……!)
瞬間、ジェロディは宙空を薙ぐように剣を払った。途端に救世軍の盾となっていた長椅子が、再び魔族に向かって砲丸のごとく飛んでゆく。
魔族はそれを左手のひと振りで薙ぎ払った。黒い肢体を呑み込むように逆巻く可視の風が、巨大な鈍器として飛来した長椅子を弾き飛ばす。
「くだらん。一体何度同じ手を使えば……」
と、魔族が頭上で何か言い止したのが聞こえたが構わなかった。ジェロディは魔族の意識が長椅子に向いた一瞬の隙を衝き、側面からマティルダへと斬りかかる。
直前までケリーにかかりきりだったマティルダが、すんでのところでジェロディの強襲に気づき跳びのいた。しかしそこへすかさずシズネの体術が炸裂する。
反応する暇を与えず、瞬時にマティルダの懐へ飛び込んだシズネが〝クナイ〟と呼ぶ黒い短剣に似た暗器を振り上げた。されどマティルダも尋常ならざる反射神経で背を反らし、ギリギリのところで切っ先を躱す。
だがあの間合いはシズネの独擅場だ。いかな歴戦のマティルダと言えども、幼少の頃から暗殺者として腕を磨いてきたシズネの速さには敵わない──
「貫け」
ところが寸前、体勢を崩したマティルダへ追撃をかけようとしたシズネを狙い、またしても魔族の妨害が入った。ふたりの傍らに伸びた説教台の影から漆黒の闇が斜めに突き出し、シズネの眼前を掠めていく。
その隙にマティルダがシズネから跳び離れた。
が、シズネは影槍を躱した直後の不安定な体勢から怯まずクナイを投げつける。
まるで飛刀の要領だった。
矢のごとく放たれた暗器は驚異的な精度でマティルダの鼻先へと迫る。
マティルダはそれを剣で払った。
甲高い鉄の音が響き、クナイがあらぬ方向へ飛んでいく。
されど彼女の構えが崩れた寸暇に、すかさず振り抜かれた大剣があった。
「将軍──お覚悟を!」
槍にも劣らぬ射程を誇るオーウェンの剣が長躯から繰り出される。
重量級の大剣はにぶい音を立てて空を裂き、隙だらけのマティルダへと迫った。
けれども、
「小賢しい」
という魔族の呟きと同時にオーウェンの動きがびたりと止まる。
一瞬、ジェロディは時間が静止したのかと思った。だが違う。
魔族が素早く放った魔矢が、オーウェンの影を床に縫い留めたのだ。そこを狙い澄ましたように、得物を掲げた影の軍勢がオーウェンへと襲いかかる──
「ソウスケ!」
今だ。ジェロディがそう確信した瞬間、ソウスケの手から三枚の符が放たれた。
淡い光を帯びた符は、薄い紙切れとは思えぬほどの鋭さで空を裂き、瞬きのうちに空中の魔族へと肉薄する。
「リン・ピョウ・トウ・シャ・カイ・ジン・レツ・ザイ・ゼン──破術ノ漆、雷縛!」
まるで自らの意思を宿しているかのように三枚の符はそれぞれの位置を目指し、三方から蟻頭の魔族を囲んだ。直後、ソウスケが唱えたサギリ語を合図に、三角を描いて向き合った符が閃光を放つ。雷鳴が轟いた。符と符をつなぐように生まれた白い雷が、一本の鎖となって魔族を縛りつける。
「ムラーヴェイ!」
七色の陽光が射す聖堂に魔族の絶叫が響き渡った。ほどなく浮遊する力を失い、真っ逆さまに落ちてくる魔族を見たマティルダが血相を変えて叫ぶ。
ムラーヴェイ。どうやらそれがあの魔族の名前らしかった。
されどマティルダが駆け寄る暇もなく、ムラーヴェイの体は折り重なった長椅子の山へ落ち、すさまじい音を立てる。
「やった……!」
やってくれた。ソウスケが。ウォルドの情報を疑っていたわけではないものの、魔族の弱点は希術や忍術といった未知の力だという話は本当だったのだ。
おかげで大神刻の力さえ凌駕する『魔王の忠僕』を制圧できた。
チャンスは今を置いて他にはない。
ジェロディはすぐさま《命神刻》が宿る右手を掲げた。
一度は無力化された刀剣たちが、再び魂を得て浮き上がる。
「終わらせる……!」
やつを。やつさえ討ってしまえば戦いは終わる。
マリステア。あの日、ムラーヴェイが率いてきた悪夢に殺された彼女の名を胸裏で叫んだ。これで終わりだ。ムラーヴェイが沈んだ瓦礫の山に、何十本という剣や槍や刀が切っ先を向ける。ジェロディは一拍の迷いもなくそれを放った。刹那、
「オォオオォオオオオォォォ!!!!!!」
大地が吼えているのかと錯覚するほどの咆吼が轟いた。
ビリビリと震える空気が質量を帯び、ジェロディたちへ叩きつけてくる。
次の瞬間、黒い嵐が吹き荒れた。
爆発に似た暴風が何もかもを巻き込んで、竜巻のごとく渦を巻く。
途端に弾き飛ばされた長椅子たちが、風に乗って暴れ狂った。
巨大な槌と化した彼らは救世軍を薙ぎ倒し、聖堂の壁を打ち砕き、マティルダが祈りを捧げていた太陽の彩色硝子を粉砕する。
「ジェロディ様……!」
降り注ぐ七色の破片からジェロディをかばうように、ケリーとオーウェンが手を伸ばした。されどそんなふたりの姿さえ、黒い嵐に呑まれて掻き消える。
粉々に砕かれた黄砂岩造りの壁が、いよいよ天井の重みに耐えかね、崩れた。
黄昏の光を一身に浴び、黄金に輝いていた《太陽を戴く雄牛》が、沈む──




