303.赤い契約
破れた灰色の膜の中から、黄色く濁った液体と共に吐き出されたのは得体の知れない塊だった。ビシャビシャと音を立てる羊水と共に、胎樹の枝から零れたその塊が次々と床へ落下していく。まるで水底の汚泥を掻き混ぜ、黒く濁った沼の水をぶよぶよに固めたような。少なくともカミラには、謎の塊がそんな物体に見えた。
「ア゛ァ」
と、刹那、床の上でべしゃりと潰れた塊が産声を上げる。背筋をぞくりと舐め上げるような、悪寒を誘う声だった。あの塊はやはり生きているのか。まるで出来損ないのパン生地みたいに手も足もなく、半分溶けかけたような塊なのに、そいつが今、自らの意思を持って起き上がり、目の前で殺し合う人間の群を見て──
「ヒュゥゥゥ……」
どす黒い粘液の間にニタァと裂けた口が見えた。かと思えば次の瞬間、生まれたての粘液たちが跳び上がり、示し合わせたように人間へと襲いかかっていく。
「うわぁっ!?」
入り乱れる敵味方の間から、驚き混じりの悲鳴が上がった。
目を凝らせば自我を得た粘液どもが人の頭部にすっぽりと被さり、趣味の悪い帽子のごとく張りついているのが見える。するとたちまち滴り落ちた粘液が目や鼻から体内へと侵入し、取り憑かれた者たちが絶叫した。
彼らは皆一様にもがき苦しみ、どうにか粘液を頭から引き剥がそうとしたようだがいずれも果たせず、やがてだらりと両手を垂れて動かなくなってしまう。
「ちょ……ちょっと、何あれ!? あれも魔物なの……!?」
「あ、あの魔物は、寄生粘虫……! まずいことになりましたぞ!」
「ま、まずいことって?」
カミラの疑問に答えたのは翼獣と共に地に降り立ったアーサーだった。彼は白黒の毛皮をぶわりと膨らませると、緊迫した面持ちで寄生粘虫なる魔物を凝視する。
「寄生粘虫は我々がオヴェスト城で戦った屍霊に似た魔物で、人間に取り憑き体を乗っ取ってしまうことで知られています。そして屍霊との決定的な違いは、死体ではなく生きた人間を乗っ取るということ……!」
「えっ……い、生きた人間を乗っ取るって、つまり……!」
「要は知性がなく魔術が使えない憑魔のようなものです。人間に寄生し、脳を蝕んで体の自由を奪ってしまう……! ここからは官兵だけでなく、粘虫に憑かれたお味方が襲ってきますぞ!」
「そんな……!」
カミラたちが慄然と立ち尽くす間にも、粘虫は次々と胎樹から生み落とされ、目の前の人間へ飛びかかった。そこに官兵か救世軍兵かの選別はなく、まったくの無作為に狙いを定めて飛びついているようだ。そうして粘虫の餌食となった者たちはやがて両腕をだらりと垂れたまま、ゆらり、ゆらりと歩き出した。
彼らの動きはどう見ても生きた人間のそれではない。ところがあるとき、乗っ取られた人間の頭の上でぐりんと白い目玉が剥いた。不気味に裂けた粘虫の口の上に剥き出しの眼球がふたつ。あんなものさっきまで見当たらなかったのに、急に目玉が現れたのはもしや乗っ取った人間の眼球を奪った、のか?
粘虫はその眼をぎょろぎょろと動かし、やがて視線の先にカミラを、捉える。
「シシシシシ……」
真っ黒な粘体の中で異様に際立つ赤い口が、歯の隙間から息を抜くような気味の悪い笑い方をした。おかげで全身に粟が立つ。剥き出しの目玉と目が合ったカミラの本能が、ドクドクと鳴る心臓の音に合わせて耳もとで叫んだ。まずい。アーサーはやつらに知性はないと言ったけれど、明らかに自分を認識している、と。
「お、おい……あいつらまさか、オヴェスト城のときの屍霊みたいに──」
と、青ざめたカイルが口角を引き攣らせ、カミラと同じ予感を口にしかけたときだった。直前まで弛緩した両腕をぶらぶらと揺らしていただけの粘虫が、突如口々に奇声を上げて、もとの体の持ち主の手にある得物を振り上げる。
かと思えば彼らはさっきまでの緩慢な動きが嘘のような機敏さで、床を蹴って走り出した。目指す先はもちろんカミラだ。
進路上にいる人間には誰彼構わず襲いかかり、斬り捨てて迫ってくる。彼らの前にはもはや敵も味方もない。もとが官兵だろうと、救世軍兵だろうとだ。
「うわああああ! やっぱ来たあああ!」
「お、おい、どうなってる!? あいつら、周りの人間には目もくれずに向かってくるぞ……!?」
「やつらの狙いはカミラどのです! 恐らくは無知性の魔物ながら、魔族の命令に従っているものと……!」
「け、けど乗っ取られた人間は!? 一応まだ生きてるんですよね……!?」
「いいえ、寄生粘虫に脳を冒された以上、死んだものと見なすべきです! 退魔師がいない今、彼らを救う手立てはありません……!」
「そ、そんな……だけど、中には私たちの仲間も──」
と、戦慄している暇もなかった。混乱する戦場を飛び出してきた粘虫が、地獄の底から響くような雄叫びを上げて迫ってくる。けれど、あれは。
あれは黄皇国兵ではない。身なりからして救世軍の仲間だ。中には連合国軍の軍服をまとった者もいる。どうしよう。本当に救えないのだろうか? 魔を祓う聖術さえあれば救えるというのなら、生きたまま捕らえられれば、あるいは──
「カミラ、下がってろ!」
戦わなければと分かっているのに、足が震えて腰に力が入らない。ゆえに青ざめたまま立ち竦んでいると、イークがカミラの視界を塞ぐように前に出た。
待って、と止める時間はなかったように思う。操られるがまま剣を振るい、襲いかかってきた味方の兵をイークは斬った。斬り捨てた。その剣捌きに迷いはない。
どうして。あれは味方だ。まだ救えるかもしれないのに、
「イークさん……!」
瞬間、イークを追ってアルドが飛び出した。何をするのかと思ったら、イークが斬り倒した味方の頭からずるりと剥げ落ち、今にも跳び上がろうとした粘虫にギリギリで剣を叩き込む。粘虫の次なる狙いは明らかにイークだった。
やつは寄生対象が死んでも、本体が無事なら宿主を乗り替えられるのだ。
「援護します、でもなるべく魔物本体を狙って下さい!」
「ああ、そうした方がよさそうだ。くそっ、人の体を乗っ取るってだけでも厄介なのに……!」
「我々も助太刀致しますぞ! 見えにくいかもしれませんが、寄生粘虫の体内には核があります。核を破壊しない限り、いくら斬っても再生しますのでご注意を!」
「そうか。なら剣で斬るよりも、神術を使った方が効率がよさそうだ、な……!」
アーサーの忠告を聞き入れるが早いか、イークは右手にある雷刻を閃かせ、幾筋もの雷を生み出した。
それは寸分の狂いもなく、取り憑かれた宿主ごと頭部の魔物を貫き破壊する。
「イーク……!」
「カミラ、お前はヴィルヘルムと合流してあの胎樹の枝を何とかしろ! 神術で焼き払えば、これ以上魔物が生まれるのを阻止できるかもしれない……!」
「でも……!」
「いいから行け! そいつが唯一味方を救う方法だ……!」
こちらを振り向きもせず叫ぶイークの言葉に、カミラは唇を引き結んだ。
──馬鹿。私の馬鹿。イークは私が仲間とは戦えないことを分かってる。
だから代わりに全部の汚れ仕事を被って、私を……。
私があんまり弱いから。だからまたイークを苦しめてる。傷つけてる。
お兄ちゃんのことだけでも、あんなにつらい想いをさせているのに。
なのに私だけが、守られて──
「……っ!」
カミラは噛み締めた唇を血が滲むほどに痛めつけて、一縷の迷いを断ち切った。
と同時にここまで斬り伏せてきた敵の血を払い、剣を構える。
──考えるな。魔物に憑かれた味方を救おうとすれば、代わりに誰かが傷つき、犠牲を払う危険が増す。だから、たとえ心が嫌だと叫んでも斬らねばならない。
今いる仲間を守るために、カミラ隊の隊長として。
「カイル。私、イークの言いつけを破るけど、いい?」
「へっ?」
「胎樹の枝はほっといてもヴィルが何とかしてくれる。だから今は、隊の仲間を守ることを最優先にする。それでもいい?」
「……オレはカミラの命令なら何だって従うよ。だって一応君の副官だし?」
「カイル」
「まあ、そうじゃなくてもカミラの言うことなら従うけどねー! なんたってオレってば、骨の髄までカミラへの愛でできてるから──だからカミラがどんな決断をしても責めたりしないよ。たぶんここにいる全員、ね」
そう言って笑ったカイルの言葉に促され、カミラは背後にいる自隊の仲間を顧みた。戦いに次ぐ戦いでたった五十人足らずまで減ってしまった仲間だけれど──皆がまっすぐにカミラを見つめ、頷き、隊長の命令を待っている。
彼らはみな手放しでカミラを信じ、ここまでついてきてくれた。カミラの兄が黄皇国軍にいると知りながら、疑いや軽蔑の眼差しなんてこれっぽっちも見せることなく。ならばカミラも隊長として、彼らの信頼に応えねばならない。
今、最優先にすべきはやはり隊の仲間を守ること。そう、覚悟を決めた。
「じゃ、行くわよ。総員、応戦! この戦場から魔物を駆逐して!」
「応!!」
勇ましい味方の唱和と共に、カミラは床を蹴って駆け出した。既に魔物との乱戦に突入しているイーク隊に加わり、寄生粘虫を片っ端から叩き斬る。もちろんそれは粘虫に憑かれた味方ごと斬り殺すことと同義だったが、迷わなかった。
今までも救世軍の勝利のために、自分は何人もの仲間を死なせてきたのだ。
だから今さら〝死なせたくない〟なんて綺麗事は言えない。殺した敵の命も、死なせた味方の夢も全部背負う。そうやって苦しむことでしか贖えない罪だから。
「おい、カミラ……!」
「平気。私なら大丈夫だから……イークも自分の隊を守ることに専念して!」
今ならまだ、自分の身は自分で守れる。
だからこれ以上イークの重荷にはなりたくなかった。今の自分はもう、寂しまぎれにイークに負ぶってもらおうとした一年前の自分とは違う。イークからしてみればまだまだ頼りなくて、危なっかしい子供に見えるかもしれないけれど。
自分だって背負えるし、戦える。
そしてイークが背負わせたくないと思っているのと同じくらい、カミラだって背負ってほしくない。だったら最適解は対等に、半分ずつ、だ。
「ちっ……無茶だけはするなよ」
「お互いにね!」
ほんの束の間、背中合わせで敵と向き合ってからまた駆け出した。
後ろはイークに任せておけば大丈夫。代わりに自分もイークの背中を守る。
魔物の狙いはあくまでカミラだ。だから襲われはしても、殺されはしない。
オヴェスト城で戦ったときと同じように、その優位性を最大限に利用する。
「──大旋風……!」
ところが刹那、魔物に操られた官兵と迫り合うカミラの耳に神の言葉が飛び込んできた。はっとして目をやれば、乱戦が続く広間に可視の嵐が巻き起こり、次なる魔物を生み出そうとしていた胎樹の枝を切り飛ばす。
と同時に入り乱れる敵味方を挟んだ反対側で、緑色の風から生まれた隼が胎樹を破壊するのが見えた。間違いない。ヴィルヘルムとユカルだ。そう言えばユカルは一時的にヴィルヘルム隊と行動を共にしていたのだった。ふたりの風使いによって胎樹の枝はズタズタにされ、悲鳴にも似た音を立てて黒い霧へと化してゆく。
「おお……! やりましたぞ! ヴィルヘルムどのとユカルどのが……!」
「だがこれで戦場は秩序を取り戻す。魔物の乱入がなくなれば、官軍はまた救世軍を襲ってくるぞ……!」
確かにイークの言うとおりだった。寄生粘虫が現れて両軍は一時的に魔物の駆逐に追われたが、戦場の真ん中で暴れていたやつらが消滅すれば再び人間同士の戦闘が始まる。そうなると未だ魔物に囲まれているこちらが不利だ。
救世軍は事実上、官軍と魔物の混成軍を相手にする形になる。
会戦直後はこちらが数的有利を確保していたが、こうなると戦況は──
「おい、カミラ、イーク!」
そのときカミラ隊とイーク隊を囲む魔物の包囲網が破られて、巨斧を振り回した大男が戦闘に乱入してきた。驚いて目をやれば、飛び込んできたのはレナードだ。
傍らにはユカルの姿もある。
ユカルの方は既にかなり体力を消耗しているようだが……。
「レナード、どうしたの!?」
「オレたちの役目はだいたい果たせたんでな、後方に退くようヴィルヘルムに言われてきたんだ。だがなんか妙だぜ……!」
「妙って、何が?」
「オレたちが魔物に気を取られてる間に撤退した敵がいる……! やつら、魔物に襲われてる味方を放って裏口から姿を晦ませやがった! ありゃ敵大将と合流しに行ったんじゃねえか……!? ここにはマティルダらしき女は見当たらないぜ!」
しまった。突如として出現した胎樹と魔物への対策に追われてすっかり失念していたが、そう言えば敵本隊が守っていたこの広間にマティルダはいないと、最初にアーサーが言っていた。とするとレナードの推測もあながち的外れではないかもしれない。何故ならここにいた敵軍はマティルダの親衛隊だ。
ならば彼らの軍主であるマティルダの居場所も知っている可能性が高い──
(だとしたら、ティノくんが……!)
という衝き上げるような衝動が、カミラに一瞬の隙を生んだ。
直後、背中にドンッと衝撃が走り、剣を握った左手が動かなくなる。
「……え?」
ふと見れば、死角から伸びる誰かの腕に左手をがっしりと掴まれ、押さえられていた。同時に身につけた薄い鋼の鎧越しに、びたりと背中に張りついた誰かの体温と鼓動を感じる。
「さァ、帰ロウ。一緒に帰ロウ。魔界に帰ロウ……」
「……!」
途端に耳もとで誰かが囁いた。ひどい腐臭がする。
たぶん寄生粘虫に憑かれた人間だ。けれど全身が凍りついて、振り向けない。
瘴気を帯びた生臭い吐息が耳にかかり足が震える。カミラがそうして立ち竦んでいる間にも、魔物に操られた誰かはもう一方の腕でカミラを抱き竦め、笑った。
シシシシ……と、歯の隙間から息を抜くように──そしてひどく愛おしそうに。
「アカい髪。誓イのアカシ。ならバ果たセ。《魔王》トの契約──神のハカイを」
「──カミラ!」
その瞬間、カミラの首もとに顔をうずめようとしていた誰かの首が刎ね飛んだ。降り注いだ血の雨が立ち尽くすカミラの全身をバタバタと濡らしてゆく。床を転がった誰かの首は、鼻から上を覆う鋼鉄の兜を被った黄皇国兵のものだった。
兜には当然ながら寄生粘虫が張りついていて、宿主が死んだと分かるやすぐにずるりと剥がれ、脱出を試みる。ところがそこへカイルが剣を叩き込んだ。
ギャッと悲鳴を上げた粘虫は脱力し、音もなく床へと溶けてゆく。
「おい、カミラ! 無事か!?」
座り込みそうになる両足を必死に奮い立たせていると、後ろから肩を引かれた。
振り向いた先には血相を変えたイークがいる。
魔物に組みつかれた際に、カミラが何かされたのではないかと思ったようだ。
「あ……だ、大丈夫……ちょっと、驚いただけ……」
「本当か? 瘴気を吸わされたりは──」
「イーク」
「何だ?」
「私の、髪……なんで、赤いと思う?」
「は?」
「お父さん、は……どうして、いつも……おじいちゃんやおばあちゃんの話を、したがらなかったの……?」
尋ねる声が震えた。何故かひどく恐ろしくて、床に置いた視線を上げられない。
たったいま聞いた魔物の言葉はただの戯れ言?
自分を惑わせ、隙を生み出すためのデタラメ?
けれど、もしそうではないとしたら──《魔王》との契約とは、一体何だ?
「……ヒーゼルさんの過去は俺も知らない。知ってるのはあの人が父親を知らずに生まれて、そのせいで郷中から疎まれて、家出同然にクィンヌムの儀へ出たってことだけだ。それがどうした?」
「……」
「とにかく何ともないなら、今は戦いに集中しろ。レナードの言うとおり、逃げた敵がマティルダと合流しようとしてるなら外の味方が心配だ。さっさとここを片づけて、俺たちも援護に向かうぞ」
「う……うん……」
そうだ。今は魔物ごときの戯れ言に惑わされ、手を止めている場合じゃない。
ジェロディ。彼が危険だ。早く助けに行かなくては。
そう思うのに、呪いの言葉に掻き回された胸が騒いで仕方がない。
〝神の破壊〟とは一体何だ?
守るべき人の右手にだって、神はいるのに。




