301.名もなき怪物
遥か頭上で、細く甲高い鳴き声がした。
同時に羽音を聞いた気がして、ジェロディは顎を上げ天を仰ぐ。
そこには一羽の鳥影があった。
立派な翼を広げ、何度も繰り返し鳴きながら、薄い曇天の下を旋回している。
ぐるぐる、ぐるぐると、まるで何かを呼ぶように。
「……アリーチェ?」
と、その鳥影を見上げているうちに、ふと脳裏をよぎった名前を呟いた。
アリーチェ。確かマティルダが飼っていた鷹がそんな名前だったはずだ。
皇室付きの鷹匠から名を上げ貴族となったオルキデア家は、今も優秀な猛禽使いを数多く輩出している。マティルダも幼い頃から鷹と共に育ち、中でも幼鳥の頃から世話してきたアリーチェという名の雌の鷹を妹のようにかわいがっていた。
今、ジェロディの頭上をゆっくりと飛翔するあの鳥も恐らくは猛禽だ。少し遠いが神子の視力をもってすれば、指のように開いた猛禽特有の翼の形がしっかりと見て取れる。無論野生の鷹や鷲が、戦場から漂う血のにおいに惹かれてやってきただけという可能性は否めない。けれどもジェロディは何故かほとんど確信していた。
あれはやはりアリーチェで、自分を呼んでいる、と。
「ジェロディ様。どうかなさいましたか?」
「……うん。ケリー、マティルダ将軍の鷹は今も元気かい?」
「はい?」
「アリーチェ。確かそんな名前だったと思うんだけど、正黄戦争のとき、僕も何度か触らせてもらった。戦場では賢くて勇敢なのに、城にいるときは大人しくてかわいい雌の鷹だったよね」
「そうですね……鷹の寿命は二十年前後と言われていますし、あるいは今も健在かもしれません。ですがその鷹がどうかされたのですか?」
「うん。たぶん、僕を呼んでると思うんだ」
「……呼んでいる?」
「トリエ。前線の状況は?」
ジェロディがそう尋ねたのは、長らく敵と味方の乱戦が続いていた吊り橋前。
そこでは現在、中軍のオーウェン隊が城館の正面入り口を確保し、上階から矢を射かけてくる敵軍の攻撃を防いでいた。
途中、シズネら諜務隊がもたらした情報のおかげで、戦況は有利に進んでいる。
カミラ隊、イーク隊、ヴィルヘルム隊が抜け道からトラクア城本丸への侵入に成功し、正面入り口を解放してくれたおかげで戦局はいよいよ大詰めとなった。
あとは城館に立て籠もる敵兵を一掃し、マティルダ率いる第六軍本隊を叩くだけだ。その本隊とは既にヴィルヘルム隊及び連合国軍が交戦を開始しており、ジェロディたちも間もなく加勢に向かう手筈になっている。けれども、何故か。
(……胸騒ぎがする)
頭上から聞こえる鷹の声が、ジェロディの胸裏に一抹の波紋を起こしていた。あれが気になって仕方がないゆえに、トリエステを顧みて味方の状況を確認する。
「先刻届いたウォルド隊からの伝令によれば、先行したウォルド隊、コラード隊、ジュリアーノ隊が城館二階の占拠を完了。現在三階での敵掃討を開始しています。またカミラ隊、イーク隊は再びヴィルヘルム隊と合流し、敵本隊との戦闘に加わったようですが……」
「敵本陣の兵力は?」
「およそ三百。旗幟と規模からして、マティルダ将軍の親衛隊と思われます」
「親衛隊……」
ということはやはり諜務隊の報告どおり、マティルダは本陣で親衛隊に守られている可能性が高い。しかしヴィルヘルム隊、カミラ隊、イーク隊に加えて連合国軍までそこで戦っているとなれば、兵力はこちらが圧倒的有利。この分なら、救世軍本隊が駆けつけるまでもなく戦に決着がつきそうだ──それならば。
「……トリエ。上階部の掃討はウォルド隊とジュリアーノ隊に任せて、コラードを呼び戻してくれ。出入口と吊り橋の守りは彼に任せる。オーウェン隊はコラード隊が戻り次第、本隊の後詰めにつくように」
「コラード隊を……ですか? しかし、本隊は」
「うん。このまま城内へ突入する予定だったけど、少し行きたい場所がある。西門を守っているリチャード隊にも伝令を出して。想定外の事態に備えて城内と城外、どちらからの攻撃にも即時対応できる布陣を維持するようにと」
「本隊は持ち場を離れるということですか? ですが、どちらへ……」
「僕にも分からない。だけど行き先は、たぶんアリーチェが教えてくれる」
そう言ってジェロディが再び見上げた視線の先を、トリエステやケリーも追いかけた。そしてようやくジェロディの言わんとしていることを理解したようだ。
「……なるほど。しかし危険です、ジェロディ殿。あなたを誘い出すための罠かもしれません」
「分かってる。だからオーウェン隊を後詰めにつけるのさ。いざとなればオーウェンが必ず僕らを守ってくれる」
「でしたらワレワレもお供致しマス、ジェロディさま。城内に魔族が潜んでいるならバ、御身をお守りするのに、ワレラの忍術が役立つかト」
「ありがとう、シズネ。頼りにしてるよ」
「お任せ下サイ。もう二度と……ソルン城のときのような失態は、犯しマセン」
というシズネの返事が、ジェロディには少々意外だった。彼女はジェロディの跨がる馬の傍らに直立しながら、思い詰めた表情でわずか視線を落としている。
そう言えば、あの晩──マリステアが命を落とした晩。
ハクリルートに追い詰められ、絶体絶命の窮地に立たされたジェロディを真っ先に助けに現れたのは、他でもない彼女だった。
「シズネ」
「ハイ」
「あの日のことなら気にしなくていい。君やソウスケは僕たちを守るために全力を尽くしてくれた。そのことを感謝こそすれ、君たちを責めるつもりはないよ」
「……っデスが」
と、顔を上げたシズネはジェロディと目が合うや、年相応に細い両手を握り締めた。そうして必死に頭の中の異国の言葉を探りながら痛みを吐き出すように言う。
「デスが、ワタクシに忍術が使えれバ……マリステアさまをお守りすることがデキたかもしれないのデス。ワタクシがキリサトの恥晒しでなけれバ……」
「姫様」
微か肩を震わせたシズネの後ろから、ソウスケが短く諫めるような声を上げた。
しかしシズネの背を見つめる彼の眼差しに険しさはなく、むしろシズネと同じくらい苦しげに見える。
「フザシラサイ……というのが何のことかは分からないけれど」
ゆえにジェロディは馬上からそう声をかけた。
ジェロディにはシズネが時折口にするサギリ語が分からない。けれど彼女が、忍術を使えないことに激しい負い目を感じているらしいことは何となく理解した。
今までシズネがそんな素振りを見せたことはなかったから、シノビの中にも忍術が使える者とそうでない者が当たり前にいるのだと思っていたのだが、どうやらそういうわけではないらしい。そして恐らくそれはシノビの里に生まれた者にとって致命的なまでの欠陥なのだろう。
少なくともシズネ自身はそう感じているように、ジェロディには見えた。
「忍術が使えようが使えまいが関係ない。あの日、君とソウスケは僕を守るために危険も顧みず戦ってくれた。僕にとってはその事実だけがすべてだ。君は命の恩人だよ、シズネ。だからどうか自分を責めないでほしい」
「シ……シカシ、」
「そもそもシズネは、神に選ばれた僕にもできないようなことを平気でやってのけるじゃないか。たったひとりで何人もの屈強な兵士を薙ぎ倒したり、走って馬に追いついたり、誰にも気づかれずに敵地へ潜入したり……」
「ソ、ソレは……シノビならバ、デキて当然のコトデスから」
「いや、トラモント人の僕からすれば、そんなことが当たり前にできるのが驚きだよ。あれで忍術を一切使ってないなんて、正直まったく信じられない。たとえ永遠の命をもってしても、僕に同じことができるようになるとは到底思えないしね。だから君は今のままでも充分すぎるくらい僕らに貢献してくれている。そして、これからも頼りにしてるよ」
ジェロディがそう笑いかけた刹那、シズネが薄桃色の唇をきゅっと結んだ。
かと思えば彼女は何かをこらえるように眉を寄せ、深黒の瞳を潤ませる。
どんなときも淡々と務めを果たし、感情を表に出すことのなかったシズネが、初めて見せた少女としての顔だった。けれど彼女は、ほんのわずか上気した顔をすぐに伏せると、トラモント人の敬礼を真似て頭を下げる。
「……アリがたきお言葉。今後も全身全霊をもってお仕えし、必ずやジェロディさまのご期待に応えてみせマス」
「いや、仕えるなんて仰々しく考える必要はないよ。僕らは利害の一致から手を取り合った同盟相手だ。だから君と僕とは対等で……」
「そういうワケには参りマセン。キリサトのシノビにとってアルジと定めたお方にスベテを捧げ、お仕えするのは最も重要なコトであり、ナニモノにも代えがたきホマレです。そして今のワレワレのアルジは、アナタ方救世軍デスから」
「そ、そうか……僕としては、ライリーみたいに偉そうに振る舞ってもらっても全然構わないんだけど」
「エラそうなのはライリーさまだけデ、他の同盟者は皆、ジェロディさまに敬意を払っていると思いマスが?」
「……言われてみれば確かにそうだ。じゃあ、ライリーの方が君たちを見習うべきだな」
ジェロディが真面目な顔をしてそんなことを呟けば、顔を上げたシズネが初めて笑った。普段滅多に表情を変えることがない彼女が笑うと、にわかに可憐な印象を受ける。シノビは幼い頃から感情を殺す訓練を受けると聞いたが、いつもは胸奥に心を押し込めているだけで、決して心がないわけではないのだと思った。
おかげでジェロディも張り詰めていた緊張の糸が緩み、ふっと肩が軽くなる。
「よし、それじゃあ行こう。相手はあのマティルダ将軍で、しかも魔族を連れている。正直何が起きてもおかしくない。みんな、くれぐれも油断はしないように」
ジェロディが下した号令に、周囲の仲間が頷いた。そうして動き出した救世軍本隊を後目に、上空を舞う猛禽が悠々と風に乗って飛んでゆく。
ジェロディたちの頭上をぐるぐると回るばかりだった軌道が明らかに変わった。
やはり鳥影は地上の者どもを誘うように、明確な意思を持って飛んでいる。
(教えてくれ、アリーチェ。マティルダ将軍はどこにいるんだ?)
胸裏でそう呼びかけながら、入り組んだ桝目虎口を進んだ。とにかく鳥影の待つ方向に向かって進み、閉じられている門はすべて生命神の力で開けていく。
仮にあの影の主をアリーチェとするならば、彼女は城の南へ、南へとジェロディたちを導こうとしていた。
先刻ヴィルヘルムたちが突入したという隠し通路とは真逆の方向だ。
まさかと思いながらもさらに追っていくと、一行はやがてトラクア城南の側防塔へ辿り着いた。やはりジェロディの予感したとおりだ。そこには北の塔と同じように城壁の内部を走る通路が伸びていて、それが本丸の方向へと続いていた。覗き込んだ通路の中には何の気配も光源もなく、ただ無音の闇だけが溜まっている。
「トリエ、ここは……」
「ええ。トラクア城の本郭と接続する通路ですね」
「ひょっとして知ってたのかい?」
「城の南にも北と同様の道があることは、諜務隊の報告で把握していました。ですが南側の通路は搦手ではなく、城の兵舎区へ続いているようでしたので」
「兵舎区?」
「はい。こちらからも一応本郭へ進入することはできますが、裏口へ至るには城館を迂回しなければならないのです。ですから別働隊には、最短距離で搦手を目指すことのできる北側からの進軍を指示しました」
「なるほど。けど城館の入り口から遠ざかるこっち側に誘導されたってことは……これは本隊を前線から引き離すための罠なのでは?」
「いや。既に城内戦の大勢は決しつつある。今更本隊を遠ざけたところで戦況は変わらないよ。それでも敢えて誘導したってことは……」
「……確実に何かありますね。いかがなさいますか、ジェロディ殿?」
トリエステは硬い表情で尋ねてきたが、ジェロディの答えは決まっていた。
ゆえに無言で眼差しを返せば、トリエステは数瞬の思案ののち、傍らのソウスケを顧みる。
「ソウスケ。あなたは壁上を先行し、通路の出口付近の偵察を。何か異変があればすぐに知らせて下さい。シズネには本隊の先導を任せます。いつでもソウスケからの連絡を受けられるよう備えつつ、通路内を索敵して下さい」
「畏まりマシタ」
シズネはそう言って頷くと、束の間ソウスケと目配せし合い、別れた。
ソウスケはまるで翼が生えているかのような跳躍で一気に壁を駆け上がり、本郭の方向へ馳せていく。他方シズネも首に巻かれた紫の口布を引き上げ顔を隠すと、トリエステが呼び寄せた火術兵と共に先行して通路へ入った。
彼女が真っ暗闇の中へ吸い込まれてから数小刻待ち、異変がないのを確かめて、ジェロディたちもあとに続く。わずかな数の火術兵がともす明かりを頼りに、城壁の内部を慎重に進んだ。ほどなく行く手に光が見える。
先に行ったシズネたちが掲げた神火ではない。出口から注ぐ陽光だ。
「何事もなく出られましたが……」
あまりにも呆気なく通路を抜けられたためだろうか。
外へ出たケリーはかえって警戒した様子で、注意深く周囲を見渡した。
先に出ていたシズネとソウスケもあたりを探ったものの、罠や伏兵などは見当たらないという。通路を抜けた先はトリエステが言っていたとおりの兵舎区で、本丸城館との間に何棟もの兵舎が整然と並んでいた。が、今はすべての兵が前線に駆り出されているせいで、どこもかしこも不気味なほど人気がない。
敵のものとも味方のものともつかぬ鯨波が遠くから微か聞こえるのみで、まるでここだけが世界から切り取られてしまったかのように、静かだ。
(アリーチェは)
と、とっさに上空を見上げてみたものの鳥影は既にない。やはりあれは血のにおいを嗅ぎつけてきただけの野生の鷹で、アリーチェではなかったのだろうか?
「……どう思う、トリエ?」
「現段階では何とも申し上げられませんが、念のため周囲を探りつつ前進しましょう。遠回りにはなりますが、この先にある軍庫区を抜けて迂回すれば搦手から城館内へ進入できます。敵が死角に予備兵力を隠していないとも言い切れません。せっかくここまで来たのでしたら、警戒しておいて損はないかと」
というトリエステの提案に、ジェロディはこくりと頷いた。
救世軍は既に何度もマティルダの奇策を目の当たりにしている。これ以上後手に回るのを防ぐためには、必要以上に疑うくらいがちょうどいいだろう。
かくしてジェロディ率いる救世軍本隊は静まり返ったトラクア城の兵舎区を粛々と縦断した。どうやら兵舎区と軍庫区の間には、将兵が利用する売店や酒場などが集まった商業区のような区画もあるようだ。
けれどもジェロディたちがそこを抜け、いよいよ軍庫区へ入ろうとした刹那、甲高い鳴き声が再び鼓膜を震わせた。
はっとして馬を止め、鳴き声の主を探せば金色の閃きが目に入る。それは礼拝堂の屋根に据えられた黄金の雄牛の像だった。王冠に前脚をかけ、勇ましく天を仰ぐその雄牛は、言わずもがな太陽神シェメッシュの化身たる《太陽を戴く雄牛》だ。
そして、かの雄牛が額に戴く太陽の上に一羽の鳥影がとまっているのを、ジェロディは見た。間違いない。やはり鷹だ。猛禽の証である鋭い爪で守るように太陽を掴み、彼女は高みからじっとこちらを見下ろしている。否、ジェロディにはあの鷹の雌雄など判別のしようもないが、しかし心は半ば確信している──アリーチェ。
「トリエ」
傍らの彼女に合図をし、本隊の進軍を止めた。
呼ばれるように馬を下り、閉ざされた扉の前に立つ。
トラモント黄皇国の国教会である、東方金神会の礼拝堂。
ここにマティルダがいるのだろうか。
仮に彼女がいたとして──自分は、どこまで冷静でいられるだろうか。
(……マリー。この先に、君の命を奪った人がいる。それでも君は、彼女を救えと言うだろうか)
真鍮製の把手を掴み、されど引くことをためらって、ここにはいない彼女に問うた。今、胸の内側に爪を立てる感情を人は怒りと呼ぶのだろうか。憎しみと呼ぶのだろうか。悲しみと呼ぶのだろうか。
いや、あるいはそれらすべてを貪り肥え太った名前のない怪物?
その怪物が次に喰らおうとしているのは恐らく理性だ。
そいつを喰われたら最後、自分はきっと人でも神でもないものになる。
けれどマリステアはきっと、ジェロディに人であれ、と言うだろう。
だから、ほんの数瞬目を閉じて。
嘲笑うように吼え猛る怪物の声を振り払い、把手を握る指先に力を込める。
ひと思いに扉を開けた。黄砂岩造りの荘厳な聖堂に、開放の音が轟き渡る。
やはり彼女はそこにいた。
太陽を象った大きな彩色硝子を見上げ、ただひとり、祈るように佇んでいる。
「……マティルダ・オルキデア将軍ですね」
その背に抑揚を殺した声をかけた。
頭上の太陽を仰いだ榛色の髪が揺れ、ゆっくりとこちらを振り返る。
「待っていましたよ、ジェロディ」
凪のような声がした。
彩色硝子から降り注ぐ陽光の中で、今、両軍の総大将が向かい合う。




