300.胎樹リューリカ
「カミラ。分かっているな?」
と、軋みを上げて下りてゆく跳ね橋を前にして、そう声をかけられた。
振り向いた先には、深刻な面持ちをしたヴィルヘルムがいる。
彼の隻眼が投げかけてくる眼差しの意味はすぐに解した。
ゆえにカミラは顎を引き、竦みそうになる心臓を覚悟の鞭で引っ叩く。
「……ええ、もちろん。今回の相手も『魔王の忠僕』、でしょ? 連中と鉢合わせたら正面からは戦わない。味方から引き離されて孤立しないように注意する。で、いざとなったら希術兵器を使える連合国軍と連携して応戦。他に何かある?」
「ああ。敵の戦力がこちらの想定以上だった場合には、俺がやつらの気を引いて囮になる。お前はその間に撤退しろ」
「ちょっと」
と、巻き上げ器が鳴らす鎖の音を聞きながら、カミラは右手を腰に当て、思わず眉を吊り上げた。トラクア城の本丸へ至る吊り橋は、もう間もなく濠にかかろうとしている。敵の最終防衛線は突破した。あとは本丸に籠もる敵本隊を叩くだけだ。
「あのね。一応訊くけど、私が仲間を囮にしてひとりで逃げ出せるほど器用な人間だと思ってる?」
「いいや、思わん。だからこうして忠告している」
「じゃ、悪いけど諦めて。みすみす魔族に捕まるつもりはないけど、だからって仲間を盾にして自分だけ逃げ延びる気も毛頭ないわ。今回の相手がオヴェスト城の魔族より格上だったらどうするの? メイベルもギディオンもいないのに、ヴィルひとりで食い止めるなんて危険すぎる」
「だがお前が魔族の前に留まれば、戦いに巻き込まれる者がいるだろう。下手をすればあのときの二の舞になる。お前がそれで構わんと言うなら止めはしないが」
刹那、ヴィルヘルムが接岸する跳ね橋を見やって告げたひと言に、カミラはぐっと声を詰まらせた。彼の言うあのときとは言わずもがな、多くの仲間たちが死にかけたオヴェスト城の戦いのことだ。ちらと目をやった先には、トラクア城突入時からカミラの傍を離れないイークやアルドやカイルがいる。
ヴィルヘルムの言うとおり、彼らはカミラが魔族との戦闘に我が身を晒すなら、自らも危険を押してカミラを守ろうとするだろう。
ソルン城でハクリルートの急襲を受けたときもそうだったように。
けれどあのときも彼らはみな死にかけた。ターシャが駆けつけてくれなかったら全員が命を落としていたに違いない。でもだからと言って、それはヴィルヘルムを見捨ててもいい理由にはならない。少なくともカミラにとっては。
「安心しろ」
ならば全員が生きて帰還するにはどうすればいいのか。カミラが黙り込んで必死に智恵を巡らせていると、橋を渡り始めた味方を眺めてヴィルヘルムが言った。
「俺にとってはお前の無事が最優先事項だというだけで、軽々しく命を投げ出すつもりはない。可能な限り生き残るための手は尽くす。でないとマナに何を言われるか分かったものではないからな」
「……マナさんに?」
どうしてそこで先代渡り星の名前が出てくるのか、とカミラが小首を傾げると、ヴィルヘルムは何も言わずにこちらを向いて、微か笑った。そんな彼の反応に束の間目を丸くしつつ、信じてもいいのかもしれないとカミラは思う。
少なくともヴィルヘルムは、まったくその気もないのに気休めを言っているわけではなさそうだ。自分のために危険を冒すような真似はしてほしくないけれど──ヴィルヘルムがマナに誓うなら、きっと嘘はない。
「……分かった。だけどヴィルが逃げろって言うまでは、絶対傍を離れないから」
「ああ、そうしてもらった方が俺もお前を守りやすい。だが念のため、これを渡しておく」
ヴィルヘルムがそう言って差し出してきたのは、空色の水晶を刳り抜いて作られた小瓶だった。カミラはそれに見覚えがある。他でもないオヴェスト城の戦いで、魔族に捕らわれかけた自分を救ってくれた聖水だ。
神の力を宿し、振りかけるだけで魔のものを遠ざける神聖な水。
本来はヴィルヘルムが自らの内に巣くう魔物を鎮めるために持ち歩いているものだが……と、カミラは受け取った小瓶と彼とを見比べた。
「あ、ありがとう……でも、もらっちゃって大丈夫なの?」
「問題ない。予備ならまだいくつかあるしな」
「そっか……じゃあ遠慮なく。でも聖水って、実はめちゃくちゃ高価なんでしょ? できれば今回は使わずに済むといいんだけど……」
「確かに稀少なものではあるが、金の心配ならしなくていい。一族を離れてから今日まで一度も、金に困ったことはないからな」
「うわ……さすが第一級傭兵様はおっしゃることが違いますね……」
聖水の一本や二本失ったところで痛くも痒くもないと言いたげなヴィルヘルムの言動は、羨ましいを通り越して若干恨めしかった。けれどもそういうことならば、いざというとき躊躇なく聖水を使える。もちろんピヌイスのときのように、ヴィルヘルムにまで害が及ぶことのないよう細心の注意は払わなければならないが、やはりこれが手もとにあるのとないのとでは安心感が格段に違った。ゆえにカミラは大切なお守りを抱くように、聖水の小瓶を一度だけぎゅっと胸に押し当てる。
(絶対に──みんなで生きて帰れますように)
前進を促す鉦が鳴った。先鋒を務めるウォルド隊、コラード隊、ジュリアーノ隊は既に跳ね橋を渡り、濠の向こうに聳え立つ本丸の扉を破ろうとしている。
天を衝くような尖塔が美しい城館の上階からは、城内に立て籠もる敵兵の矢と神術が雨のごとく降っていた。敵も窓や露台から身を乗り出し、城館の正面入り口を死守しようと必死だ。しかし歩兵希銃を担いだ連合国軍の援護のおかげで、先鋒の三隊は深刻な被害を出していない。
希銃から放たれる極小の炎弾は、敵の射手や術師を次々と撃ち落とした。
その間に三隊が城館前に踏み留まる敵軍を押し込んでいく。されど敵もここを突破されるとあとがないためか、抵抗が激しく戦況は拮抗していた。
できることならカミラたちも加勢したいところだが、城館前の広場は既に敵味方の兵で溢れ、これ以上の人数が入り込める余地がない。城内戦はすべての兵力を展開できるほど戦場が広くないのが厄介だ。無論、攻城軍の兵力を大量投入させないために、城自体がそれを狙った造りになっているのだろうが──
「ヴィルヘルム殿」
ところが刹那、意識の外からヴィルヘルムを呼ぶ声が聞こえて、カミラは思わず振り向いた。妙にくぐもった声だなと思ったら、いつの間にかヴィルヘルムの傍らに黒ずくめの人影が片膝をついている。言わずもがな、諜務隊のソウスケだった。
声がくぐもって聞こえたのは彼の人相を隠す口布のせいだ。
ソルン城からここまでジェロディの影武者に徹していたソウスケは、彼が帰還したことでようやく本来の務めに復帰したようだった。しかし一体いつからそこにいたのか、まるで気配を感じさせなかったあたりが空恐ろしい。
全身真っ黒なシノビの衣装は、どう考えたって悪目立ちするはずなのに。
「トリエステ様からの伝令にござる。ヴィルヘルム隊、カミラ隊、イーク隊はヴィルヘルム殿の指揮の下、搦手より城内へ進入。本丸の内側から味方の進入経路を確保せよとのお達しです」
「搦手だと? 正面を突破する以外に、本丸へ侵入する経路が見つかったのか?」
「はっ。諜務隊が桝目虎口内を探ったところ、本丸へ至る別路を発見しました。また敵大将の旗本が城館一階の大広間に集結していることも確認済みです」
「なるほど。道はこの跳ね橋一本と思わせておいて、本丸からひそかに兵力を供給するための通路が隠してあったわけか」
「うへぇ……マジで守りながら攻める城って感じだな。危うく挟み撃ちされるところだったじゃん」
「だが今ならそいつを逆手に取れる。おい、ヴィルヘルム」
「ああ。敵の注意がウォルドたちに向いている今なら動きやすいだろう。トリエステの指示に従う。行くぞ」
ヴィルヘルムの号令に力強く頷き返し、カミラ隊、イーク隊を含む三隊はただちに反転した。隠し通路の場所を知るソウスケの案内に従い、来た道を引き返す。
迷路のごとく連なる桝形の郭は、扉を潜れども潜れども同じ景色が続いていて、あっという間に方向感覚を失う造りになっていた。おまけに桝の四方すべてに扉が設けられているから、正しい道順も分かりにくい。
が、先導役のソウスケはまるで目印でも見えているみたいに、何の迷いもなくスイスイと扉から扉へ移動した。端から見れば当てずっぽうに右へ行ったり左へ行ったりしているようにしか見えないのに、気づけばカミラたちはいつの間にか、枡目虎口の最端に設けられた側防塔の入り口へ至っている。
「こちらです。ここから城壁の内部を通り、濠の向こう側へ渡れるようになっています。出口を抜けた先は本丸の搦手に接続しておりますゆえ、そちらを突破すれば館内への侵入もたやすいかと」
「分かった。お前は戻って、別働隊が指示どおり進軍を開始したとトリエステに伝えろ。俺たちはここから城館正面入り口の開放を目指す」
「御意。ご武運を」
道案内を終えたソウスケは再び片膝をついてヴィルヘルムに答えたかと思うと、次の瞬間には視界から消えていた。目を凝らしていなければ危うく見逃すところだったが、瞬時に跳躍して城壁を登り、本隊のいる方角へ走り去ったようだ。
いや、そもそも垂直にそそり立つ壁をどうやって一瞬で登ったのか……とカミラはしばし立ち尽くしたが、いつまでも呆けている場合ではなかった。
外郭の城壁に埋め込まれるような形で佇む側防塔の内側には、なるほど、確かに塔の屋上へ至る階段とは別に横道が伸びている。
まさか城壁の内部が空洞になっているなんて、一体誰が想像したことだろう。
こんな造りにしてしまったら、城壁の強度は確実に落ちる。外側から強力な神術を一発見舞われるだけで、黄砂岩の石積みは脆くも崩れ去ることだろう。しかしここは城の北側で、壁の向こうは敵が取りつくことを許さない断崖絶壁だ。
だからこの城を設計した人間は、城壁の内部を通路にするなどという大胆な発想が取れた。大軍が崖をよじ登って攻めてくることなど、まずありえないのだから。
「うーん、中は真っ暗だけど……火術兵を使えば何とか進めそうかしら?」
「ああ。戻って松明を用意している時間はないからな。だが侵入者に備えて、何らかの罠が仕掛けられている可能性もある。慎重に行くぞ」
カミラたちは三隊の中にいるわずかな火術兵を掻き集め、均等に配置することでどうにか光源を確保した。
先頭ではもちろんカミラが火をともし、味方の行く手を照らすことになる。
かくしてヴィルヘルム隊、カミラ隊、イーク隊の面々は、早速通路への進入を開始した。可能な限り迅速に、されど細心の注意を払いながら暗闇を照らして進む。
ところが通路に入っていくばくもしないうちに、前方に光が見えた。
出口から注ぎ込む陽光ではない。闇の中でちらちらと瞬く、無数の松明の火だ。
「──! 敵兵だ、応戦しろ!」
瞬間、素早く剣を抜き放ったイークが号令し駆け出した。
大人が四人並んで歩くのが精一杯の通路の中に、わっと悲鳴と喊声が弾ける。
どうやら敵もこの隠し通路を使い、吊り橋前で足止めを食っている救世軍に奇襲をかけようとしていたようだ。しかしおかげで期せずして、カミラたちの方が逆に奇襲する形となった。まさか救世軍が隠し通路を見つけているとは夢にも思っていなかったのか、いきなり会敵した敵兵は泡を食い、応戦どころではない様子だ。
「よっしゃ、松明ゲット~!」
完全に算を乱している敵兵を薙ぎ倒し、カミラたちは彼らが手にする光源を次々と奪い取った。そうしながら敵を押し戻し、強引に出口までの道を確保する。
通路から押し出された敵軍は、何とか出口を塞ぐ形で態勢を立て直そうとしたようだがさせなかった。ヴィルヘルム隊に同行していたユカルがすかさず暴風を叩きつけ、敵勢が怯んだ隙に三隊が敵陣へ突撃する。別働隊の指揮を執るヴィルヘルムを先頭に、カミラたちはとにかく暴れ回った。混乱した敵の指揮系統が整う前に蹴散らし、追い払って、城館の側面に用意された搦手へと辿り着く。
鉄鋲が打たれた扉を神術でぶち破り、そのまま中へ雪崩れ込んだ。
下階の異変を察知した敵兵の一部が、慌てて階段を駆け下りてきたがもう遅い。
カミラ隊とイーク隊で階段の降り口を塞ぎ、敵を食い止めている間に、ヴィルヘルム隊が正面入り口へ走った。ほどなく割れるような喊声が館内に轟き渡り、カミラたちも無事作戦が成功したことを知る。
「おう、カミラ、イーク! 上階の敵の掃討は俺たちが請け負った。お前らは敵本隊がいる広間を目指せ! ヴィルヘルム隊と連合国軍が先に向かってる!」
「了解!」
やがて駆けつけたウォルド隊と入れ替わり、カミラたちは再びヴィルヘルムと合流すべく階段を離れた。どうやらこの城館には上階へ至る経路が複数あるらしく、ウォルド隊、コラード隊、ジュリアーノ隊が手分けして上からの増援を阻む手筈のようだ。であればあとは敵本陣を落とすのみ。
カミラは結い上げた髪を靡かせ、鬨の声が谺する館内を疾駆した。
やがて前方に見えた大扉を潜り、大広間へと進入する。
そこでは既に大規模な戦闘が始まっていた。
響き渡る銃声の狭間に、オルキデア家の紋章である鷹の旗が揺れている。されども刹那、味方に加勢しようと踏み出しかけたカミラの頭上で誰かが叫んだ。
「カミラどの!」
オヴェスト城ほどではないものの、トラクア城の広間もかなり天井が高い。
その天井を支えてそそり立つ柱の間を縫い、宙空を滑るように現れたのは翼獣に跨がったアーサーだった。連合国軍と共に突入してきたのか、入り乱れて戦う敵味方の頭上には何騎もの鈴の騎士の姿がある。ところが駆けつけたアーサーは何故か困惑した様子で、慌ててカミラたちの前へ降り立った。
「アーサー! どうしたの?」
「そ、それが……どうやら我々は虚報を掴まされたようです。広間にマティルダ将軍の姿はありません!」
「えっ……!?」
「立て籠もっていたのは間違いなく敵本隊のようなのですが、肝心の将軍の姿がなく……ソルン城を攻めたときと同じ状況です。またしてもマティルダ将軍が行方を晦ませました……!」
──そんな馬鹿な。
アーサーの報告を受けて、カミラはぞっと背筋が冷えた。
マティルダの行方が分からない。つまり本丸に籠もった敵本隊は、またしても目くらましのための囮だったわけだ。ひと月前のソルン城攻略戦でも、マティルダはジャレッド率いるソルン城常駐部隊を囮に悠々と逃げおおせた。
けれど今度はどこへ? 彼女にはもう逃げ場なんてありはしないはず。トラクア城唯一の出入口である西門は救世軍が押さえ、残り三方は脱出不可能な断崖絶壁。
であればソルン城陥落後も毒茨の森に身を潜めていたように、城内のどこかに隠れているのか? 傍らに魔族を引き連れて、あの晩と同じ状況を再現するために?
(なら、マティルダ将軍の狙いは──)
──ジェロディ。
トラクア城の陥落を目前に控えた今、彼女が狙うものなど他にない。
救世軍総大将の首。第六軍に残された勝機はそれを奪うことだけだ。
そして皆が口々に言っていたように、マティルダ・オルキデアという将軍が最後の瞬間まで攻めて攻めて攻め続ける戦を得意とする人間ならば──
「……! イーク! 今すぐティノくんのところに──」
と、全身が総毛立つのを感じながらカミラが叫びかけたときだった。
突然城全体を揺るがすような衝撃が走り、広間がどよめきに包まれる。
それは地の底から現れた。大広間の床を割り、左右の壁の根もとから天に向かって伸びたのは──幾本もの、胎樹の根。
瞬間、イークがカミラをかばうように前へ出た。
たぶん彼は、魔族が再びカミラを攫うために邪樹を呼んだと考えたのだ。
だがギチギチと不気味な音を立てながら、地底から伸びた邪樹の根はどうも様子がおかしい。というか根の先端付近に何かぶら下がっている。まるで植物に植えつけられた卵のように、いくつも連なっている丸い物体はまさか──大樹の実?
胎樹リューリカのもととなった天界の大樹エッツァードは、その実に生命を宿して天上に枝葉を広げ、人々は実の内で瞬く魂を〝星〟と呼んだ。
そして星降る夜には天樹の実が地上へ降り注ぎ、世界のどこかで新たな命が生まれているのだと今も信じられている。
けれども魔界の瘴気に呪われた大樹の枝に宿るのは〝星〟なんて美しいものじゃない。まるで生き物の羊膜がくっついたような、ぬらぬらと光るあの物体は……。
「うぇっ……なんだあれ……!」
胎動しているかのように微か蠢く邪樹の実と、同時に立ち込めたすさまじい悪臭に顔をしかめたカイルが、腕で鼻を覆いながら呻くのが聞こえた。
瘴気のにおいよりもさらに生臭い、魚が腐ったようなにおい。
嗅いでいるだけで眩暈がしてきて、吐き気を催しそうだ。
されど刹那、動揺するカミラたちの視線の先で、プツッと小さな音がした。
胎樹の実の表面に薄い亀裂が走ったのだ。
そして中から液状化した瘴気らしき液体が溢れ出し、ずるり、と。
醜悪な胎樹の羊膜を破って、何かが姿を現そうとしている。それらは示し合わせたように次々と羊水を吐き──直後、ぼとりと何かを生み落とした。




