298.会いたかった
遥か深い地の底にあるという魔界がどんな場所なのか、人類は知らない。
ただ神話の時代から、こんな伝承ならば残されている。
曰く、《原初の魔物》たる《魔王》は、エマニュエルの生命の源である天樹エッツァードを欲していた。しかし神々の妨害により奪取は叶わず、こっそり天樹の枝のみを手折って魔界へ持ち帰った。そうして《魔王》は魔界の天井に枝を挿し、挿し木によって第二の天樹を生み出そうとしたのだ。
結果、天樹の枝は魔界の天井に根を張って、やがて一本の樹となった。
されど魔界の瘴気を吸い上げた天樹の枝は徐々に禍々しき姿へ変貌し、実をつけては魔物を生み出す呪われた樹となった。
魔界の天井から逆しまに枝を伸ばしたかの樹を、魔のものたちはこう呼称する。
──胎樹リューリカ。
魔のものたちの言葉で〝ゆりかご〟を意味するというおぞましき大樹。十五ヶ月前、ピヌイスでカミラを襲った黒い樹の根はそれだとヴィルヘルムは言った。
魔界の天井、すなわちエマニュエルの大地の裏側に根を張ったリューリカは、魔族の呼び声に応えて根を操り、生き物のごとく地上の生物を襲うことができると。
つまり今、地の底からかの樹が根を伸ばし、カミラを魔界へ引きずり込もうとしたのは他でもない、魔族に呼ばれたからだ。
やはり、魔族は、いた。
かの者がマティルダを操っているのか、はたまた手を結んでいるだけなのかは分からない。されど確かにこの戦場にいて、今もカミラを見ている。
それだけはまぎれもない事実であり、救世軍が最も欲していた決定的な確証だ。
「見よ、救世軍の勇士たちよ! 今のはまぎれもなく魔界に堕ちた天樹の根! やはり真実の神子のお言葉は正しかった! 黄皇国軍は既に魔道に堕ち、呪われた術に手を染めているぞ……!」
刹那、戦場の隅々まで轟く大音声でそう叫び、敵の心胆を寒からしめたのはアビエス連合国軍のデュランだった。
するとたちまち味方が呼応して雄叫びを上げ「異端者どもを討て!」と士気を盛り返す。これに動揺したのが、一部始終を目撃していた壁上の敵兵だった。
彼らは身に覚えのない異端者の汚名を着せられ、誰もが顔面蒼白になっている。
戸惑いのあまり弓を構えるのも忘れ、互いの顔色を窺っているありさまだ。
あとひと押し。カミラは城兵たちの反応に確かな手応えを感じた。トリエステの入念な根回しのおかげで、あの噂はやはりトラクア城にも届いている。
であれば敵兵の胸裏には、上官に対する疑心が深く根を張っているはず……。
ならばあとはそこをつついてやればいい。カミラは城壁に結わえつけた縄がまだ生きているのを確かめてから、声を励まして周囲の味方に号令した。
「みんな、デュランの言うとおりよ! 連中は魔界の手先! 胎樹の根があいつらを守ろうとしたのが何よりの証拠! そんなに魔界へ堕ちるのがお望みなら、私たちの手で送ってやりましょう! 呪いと瘴気にまみれた地の底へ……!」
「騙されるな、誇り高き黄皇国の兵士たちよ!」
ところが敵兵の狼狽が頂点に達したかに見えた、瞬間。突如壁上に割れ鐘のごとき怒号が轟き、戦意阻喪しかけていた兵士たちがびくりと肩を震わせた。
何事かと目をやれば、城門の真上でひとりの男が大声を張り上げている。
一際目立つ豪奢な身なりからして、前線の指揮を任された将軍だろうか。
齢四十がらみと思しい男は鎧に覆われた肩を怒らせ、生え際が後退しつつある額に青筋を立てて咆吼していた。見るからに歴戦の士といった風貌に違わず、彼の号令は眼下の乱戦をものともせずに響き渡る。
「敵の奸計に惑わされるな! やつらは魔女に魂を売った異教徒と手を組み、魔術を操っている! 真に魔道に堕ちたは彼奴らの方よ! 今こそ祖国に奉じた忠誠を奮い立て、友のため、家族のため、故郷のためにそなたらの血と勇気を捧げよ!」
まるで聞く者の腸を揺さぶるような名演説だった。指揮官の一喝で我に返った敵兵たちが、覚悟を決めた様子で唇を噛み、弓を構える。
なんてことだ。官軍にあれほどの勇将が残っていたとは。
完全にルシーンの傀儡と化していた第五軍とは、まったくもって勝手が違った。
こちらに狙いを定めた兵士たちの表情には未だ迷いと不信が見て取れるものの、救世軍が〝魔女の国〟と後ろ指をさされる連合国軍と手を結んでいるのは事実だ。
だとすれば指揮官の言うことにも一理ある、と彼らが靡いてしまうのも無理からぬこと。カミラは舌打ちと共に手の中の縄を引いた。
かくなる上はもう一度我が身を危険に晒し、魔族の介入を誘うしかない。
救世軍からしてみれば、この戦場に魔族が潜んでいることは明らかなのだ。
それを証明することさえできれば、今度こそ戦況はひっくり返る。ひっくり返すしかない。まずは敵軍の士気を支えているあの将軍を討ち取って──
「おい待て、カミラ! まずいぞ……!」
ところがいざ城壁へ飛び移ろうとした刹那、にわかにイークに腕を引かれ、カミラはすんでのところで急制動した。どうしたのかと振り向けば、イークの視線は遥か後方を向いている。否、もっと正確に言うなれば、トラクア城が聳える台地の麓──トリエステのいる本隊と、後陣として展開するリチャード隊のいる方角。
そこでは不動の構えを見せていたはずの本隊とリチャード隊が乱戦に突入していた。相手は一糸乱れぬ動きで両隊を切り裂いていく人馬の群。遠すぎて旗幟は判別できないが、辛うじて見分けることができたのは先頭で翻る真紅の旗。
赤地に金糸の旗印は、言うまでもなく黄皇国軍の象徴だ。
つまりあれは──黄皇国第六軍の主力とも言うべき軽装騎兵。
「な……なんで本隊が襲われてるの!?」
一瞬の不意を衝かれた。一体どこから現れたのか、竜守る雄鹿の紋章を高らかに掲げた敵の軽騎隊が、一匹の獣となって縦横無尽に駆けている。
彼らが救世軍の戦列に突っ込むたび、味方が次々と撥ね飛ばされ、陣形が崩れていくのが台地の上からよく見えた。わずかな数の神術兵が必死に応戦しているものの、敵の動きが速すぎて術の発動が追いついていない。アーサー率いる『誇り高き鈴の騎士団』も上空から軽騎隊の動きを追っているが、降下して攻撃をしかけようとすると素早く味方の陣列へ突っ込まれ、手も足も出せないでいるようだ。
「まさか、伏兵……!? こうなることを想定して、事前に軽騎隊を城の外に出してたっていうの……!?」
「ちっ……どうやらそういうことらしいな。連中と張り合えるのは騎馬隊しかいない。大将が討たれる前に戻るぞ!」
マティルダ・オルキデア。
『鷹の娘』の異名を持つ、近衛軍上がりの大将軍。
まさか彼女がここまでの強敵だとは思わなかった。救世軍の策は成就する一歩手前まで来ているのに、マティルダも寸前で斬り込むような一手を打ってくる。
まさに一進一退。カミラはギリ、と切歯しながら馬首を返した。
イークの言うとおり、敵の騎馬隊を止められるのは同じ騎兵で構成されたカミラ隊とイーク隊しかいない。が、ここでカミラが後方へ下がれば、魔族の介入を誘うこともできない──あと一歩のところまで来ているのに。
勝機に手が届かないもどかしさに背を焼かれながら、斜面を一気に駆け下りた。そのまま逆落としの勢いを駆り、執拗に本隊を襲う敵騎馬隊の横腹に突っ込む。
敵勢はざっと二千騎ほどか。
対する救世軍の騎馬隊は、カミラ隊とイーク隊を合わせてもたったの百騎。
分が悪すぎる。しかし突撃の瞬間、ほんの一瞬だけ敵の陣列が乱れた。そこへすかさず鈴の騎士たちが降ってくる。同時にリチャード隊も突っ込んできた。
敵勢の半分ほどが歩兵の波に呑まれ、乱戦になる。だが残りの千騎は再び駆け出し、蜥蜴が尻尾を切るように、乱戦に巻き込まれた味方を切り離して離脱した。
駆けながら隊列を組み直すさまは敵ながら惚れ惚れするほど見事で、態勢を立て直すや否や原野を大きく旋回し、またも巨大な一矢のごとく迫ってくる。
「トリエステさん!」
カミラは敵軍から本隊をかばうように飛び出した。
イーク隊は乱戦から抜け出そうとする敵騎兵を牽制するだけで手一杯だ。
たった五十騎。この戦力のみでぶつかるしかない。ズタズタにされた味方本隊の真ん中で、シズネに守られたトリエステとほんの数瞬、視線が交わる。
馬上から身を乗り出した彼女が、口を大きく開くのが見えた。
されどそこから言葉が発されるよりも早く、ぶつかる。一千対五十。
まるで肉の壁が押し寄せてくるみたいだ。勝ち目なんかない。
衝突する前から、そんなことは分かっていた。
だけどやるしかない。カミラは神の言葉を唱えた。
時裂の盾。展開する。左手の星刻が応えた。
幻視を試みようとしても一切反応を示さなかったくせに、こんなときだけ。
けれどそういう文句はあとでいい。とにかく今は最大出力で。体内に残されたすべての神力を動員し、時空の裂け目を広げられるだけ横に広げる。あっという間に意識が遠くなった。けれど鐙を踏み締め、歯を食い縛り、耐える。
裂け目に激突した敵騎兵が時間を吸われ、静止した。ときが止まった前方の敵兵に後方の騎兵が突っ込んでくる。すさまじい衝撃がきた。とても支えきれない。
時裂の盾。持ってあと数拍といったところか。
「カイル……!」
カミラの号令に合わせて、カイルを始めとする隊の数人が一斉に神術を放った。
それを見た本隊からも援護の射撃と神術が降ってくる。
だが敵勢は止まらない。薙ぎ払えたのは先頭のほんの一部だけ。
駄目だ。意識が途切れる。星刻から放たれていた光が明滅し、時裂の盾、が、
「──神の息吹よ。千の星となりて我を導け」
その刹那、今にも閉じようとする意識の帳を擦り抜けて、カミラの耳に届いた声があった。
「癒やしたまえ」
直後、鞍から転げ落ちようとする体を抱き留められる。
なつかしいにおいがした。縋りついて泣いてしまいたいほどなつかしいにおいだった。誰かの腕に抱かれたまま、体の中心に火がともる。
心臓が大きく脈打った。同時に体の隅々まで生命力という名の炎が駆け巡る。
力尽きかけていた魂が、息を吹き返した。
束の間のまどろみから目覚め、カミラはゆっくりと瞼を開ける。
睫毛の先で、見覚えのある美しい金細工がチリチリと揺れていた。
「遅くなってごめん、カミラ」
ああ、もしかして自分は夢を見ているのだろうか。耳もとで彼の声がする。
「ただいま」
それはカミラが今、世界で一番聞きたかった言葉かもしれなかった。
名前を呼びたいのに、声が出ない。
ゆえにただ喉を震わせて、カミラはゆっくりと体をもたげた。
やっぱりこれは夢かもしれない。いや、この際、夢でも何でもいい。
だって呼吸を止めて見つめた先で、彼が。
ジェロディが、微笑んでくれていたから。
「ティ……ティノ、くん?」
やっとのことで彼の名前を紡いでから、はっとして本隊を振り向いた。
ジェロディ。確かにいる。向こうにも。つまり、ジェロディがふたり。
だけどカミラは知っている。
今、本隊の真ん中でジェロディのふりをしているのはソウスケだ。
ということは今、目の前でカミラを支えてくれている彼は、
「ほ……本物の、ティノくん、なの……?」
「ああ、そうだよ。信じてもらえなくて当然だけど──待たせたね」
彼がそう言って苦笑した、瞬間。気づけば音を失っていたカミラの聴覚に、爆ぜるような悲鳴と馬の嘶きが突き立った。
はっとして目をやれば、百、否、数百の剣や槍や戦斧の嵐に飲まれた敵騎馬隊が弾き飛ばされ、視界を埋め尽くさんばかりの血飛沫が上がる。
ああ、まるで生命神の神話に聞く千刃の計。あれほどの数の武具が意思を持ち、あたかも一個の生き物のごとく敵兵を襲っている。ということは本当に、
「……ティノくん……!!」
ようやく思考が現実に追いついた。
途端にカミラの視界はぐしゃぐしゃに歪み、世界が輪郭を失ってしまう。
けれど構わなかった。
カミラは感情が赴くままに泣き、そしてジェロディに抱きついた。
喫驚した彼の声が耳もとで弾けた気がしたが、今だけは許してほしい。
会いたかった。
胸が張り裂けてどうにかなってしまいそうなくらい、会いたかった。
「ちょ、ちょっとカミラ!? オレというものがありながらなんでジェロに──ていうか、あれ……!? ジェロがふたり……!?」
「ッシャア! 突っ込みなァ、野郎ども!」
直後、すぐ後ろで聞こえたカイルの素っ頓狂な声を遮って、にわかにわっと喊声が上がった。何事かと見やった先で、強烈な既視感を主張する奇抜な髪の主がド派手なキモノを翻し、喜々として敵軍に突っ込んでいく。
カミラたちは揃って呆気に取られた。やっぱりこれは夢なのではなかろうか。
だって唖然とする一同の視線など意に介さず、歩兵を率いて敵に特攻をかけているのは──ジュリアーノだ。
魅惑の女商人という自称とは程遠い長躯を武器に、子供の身の丈ほどもある長刀を振り回し、人が変わったような高笑いを振り撒いてはいるけれど、間違いなく。
「お……おい、ジェロ? あれってもしかしなくても、ジュリアの姐さん……だよな? え? なんか完全にキャラ変わってるけど……そうだよな?」
「カイル。あんたジュリアーノを〝姐さん〟なんて呼んでるのかい? だとしたら今すぐ呼び名を改めることだね。あいつはそんなかわいいもんじゃない──見てのとおりの化け物だからさ」
「け、ケリーさんまで……!?」
カミラはまたしても目を疑った。
何故なら気づけばすぐそこに槍を担いだケリーがいて、次々と敵を膾にしていくジュリアーノに半眼を向けていたからだ。が、彼女はカミラの呼び声に気がつくと何食わぬ顔で振り返り、そして少し困ったように苦笑した。
先刻のジェロディと同じく、ほんの少しの後ろめたさを隠そうともせずに。
「その様子だと、あんたは状況を把握してるみたいだね、カミラ。心配をかけてすまなかった。だけどこのとおり、ジェロディ様も私も五体満足で戻ってきたよ」
「ふ……ふたりとも、どうして……だって、ティノくんは……」
「うん。ごめん。僕が間違ってた。みんなを裏切ったことを、謝らせてほしい──だけど話し込む前に、まずは目の前の敵を排除しないとね」
そう言って手綱を捌き、敵軍に向き直ったジェロディの横顔はあまりにもまぶしかった。まぶしすぎてまた視界が滲み、かける言葉を見失ってしまったほどだ。
けれどもそこへ馬蹄の音が近づいてきた。
トリエステ。傍らにはいつの間にか変装を解いたソウスケもいる。
彼女は馬上からジェロディの背をまっすぐに見つめていた。そして言う。
「……ジェロディ殿。ご帰還を、お待ち申し上げておりました」
ジェロディは振り向かなかった。されどカミラには分かる。
ジェロディもトリエステも、互いにどんなに会いたいと願っていたか。
「ごめん、トリエ。僕はまだ、君に会わせる顔がない」
「ご安心下さい。……私も似たようなものです」
「そうか。なら、少しだけ待っていてほしい。もう一度、君と向き合うための償いを──今、済ませるから」
ジェロディが馬上で振り下ろし、構えた剣が、一際まぶしく陽光を弾いた。
トリエステは目を離さない。曇天の切れ間から注ぐ光を負った背中から。
「行くよ、ケリー」
「はい、ジェロディ様」
黄都で出会ったあの日から、まるで変わらないふたりがそこにいた。
ゆえにカミラも頬を拭い、剣を握り直して号令する。
「総員、総帥に続け……!」
燃えるような鬨の声が天を衝き、カミラ隊の全騎が駆け出した。たった五十騎。
されど今は彼らの上げる咆吼が、百騎にも二百騎にも感じられる。
救世軍はジェロディの帰還と共に士気を盛り返し、怒濤の勢いで敵軽騎隊を撃破した。後顧の憂いを断った本隊、カミラ隊、イーク隊の三隊は、戦列を組み直したリチャード隊に背後を守られながら、再びシヴォロ台地を駆け上がる。
「続け、救世軍の勇士たちよ! 魔界と契った官軍を許すな──神術砲、発射!」
ジェロディの操る鋼の風が戦場を席巻し、味方に取りついていた魔物の群を薙ぎ払った。そうしてできた空隙に狙いを定め、二門の神術砲が閃光を炸裂させる。
すさまじい轟音がはたたいた。並んだ砲門から交互に打ち出される炎弾がトラクア城の城門に命中し、分厚い鉄の扉をひしゃげさせていく。一発。二発。三発。四発──そしてついに五発目で右の扉が弾け飛び、城内へ続く道を作った。
砲撃の切れ目を狙って魔族が現れることも警戒したが、今のところ気配はない。
気勢を上げた救世軍が城内へ雪崩れ込んだ。真っ先に城門をくぐったウォルド隊が城壁を駆け上がり、敵軍の士気を支えていた将軍の首を、刎ねる。
「よう、ティノ。遅かったじゃねえか」
ほどなく本丸に向かって潰走を始めた敵兵を後目に、救世軍旗を壁上へ突き立てたウォルドが笑った。
そんな彼を見上げたジェロディが、どんな顔をしていたのかカミラは知らない。
「うん、僕もそう思う。もっと早く君にお礼を言いに来るべきだったってね。──ありがとう、ウォルド」
けれど恐らく、彼も笑ったのだろうとそう思った。
城壁に翻る救世軍旗が、英雄の帰還を告げている。




