28.星は輝いているか
はっきり言って自信がなかった。
──何に?
もちろん、自分が立てた作戦に、だ。
出陣の準備は整った。兵たちも今は地下の墓所でそれぞれ仮眠を取っている。
あとは夜明けを待つだけだ。
空の端が滲むように白み始めたらフィロメーナが出発の号令を下して皆が従う。
そうして二日でゲヴラー一味の籠もる砦まで到達し、会敵。フィロメーナはウォルドが指揮する百人の精鋭に紛れて、山の上の地方軍を挑発する。
その間にイークとギディオンは麓の森へ。そこに敵を誘い込む。偽装退却。
上方から攻めてくる敵の攻撃を去なしながら、西へ。
だけど、もし。もしも攻撃を支えきれなかったら?
よしんば無事に山を下りられたとして、伏兵を見破られたら?
そもそも敵軍は本当に誘いに乗ってくるだろうか。
いくら総帥が自ら囮になると言っても、敵はこちらを追おうとすればゲヴラー一味の砦に背中を向けることになる。彼らはそれを恐れはしないか?
後顧の憂いを断つまで誘いには乗ってこないのではないか?
そうなったときどうする? 麓から愚直に敵を攻めるか?
無理だ。陣取りが悪すぎる。そもそもこちらは相手より兵が少ない。
上から攻めてくる敵を迎え撃つのに兵力が足りないというのは致命的だ。
相手は急な岩山の斜面を嵩にかかって攻め下りてくる。
あるいは巨石や木材を雨のように降らせてくる。
それをたった三百強の兵力でどうやって支える?
いや、そもそも陽動が上手くいかなければ以降は間違いなく長期戦になる。
そうなったらエグレッタ城から皇女率いる中央軍が駆けつけるのは時間の問題だ。フィロメーナたちに勝ち目はない。
つまり陽動に失敗した時点でこちらの負けということだ。前後から黄皇国軍の挟撃を受けて全滅するか、ゲヴラー一味を見捨てて遁走するか。残される選択肢はふたつだけ。もしもそういう事態になったら? 自分は一体どちらを選ぶ?
誰を見捨てて、誰を救う?
(そんなの、選べない)
はあ、と深く息を吐き出して、フィロメーナはぼろぼろの長椅子の上で屈み込んだ。そうして垂れた栗色の髪の間、そこで自分の息が白く染まるのを見て、思わずはたと我に返る。
──そうか。同じトラモント黄皇国でも、北はもう冬か。
どうりで星が綺麗なわけだ。
フィロメーナは改めて崩壊した聖堂の天井を見上げた。
頭上には大きな……大きすぎるほどの穴が開いていて、屋内にいながら星が見える。いや、この場合もう〝屋内〟とは呼べないか。幽霊教会の建物はもうどこもかしこも朽ちかけていて、吹きさらしも同然だ。それを思い出したら急に肌寒くなってきた。フィロメーナは震えながら自分で自分の腕を抱く。
夜明けまであと数刻。周りには誰もいない。
「……静かね」
当たり前のことをフィロメーナは意味もなく呟いた。時刻は深夜。
ここは決して人が寄りつかない幽霊教会で、仲間たちも今は寝静まっている。
そうした圧倒的な静寂の中で、ひとり。今夜は風も吹いていない。
既に冬を迎えようとしている北の大地では、虫の鳴く声も聞こえない。
──今度の戦では、誰が死んで誰が泣くのかしら。
そういう静けさの中にいると、考えたくもないのにそんなことばかり考える。
『だからお前は半人前なのだ、フィロメーナ』
耳もとで父の声がした。
『結局お前も姉と同じだな。戦になれば人が死ぬ。雨季が来れば雨が降り、乾季が来れば旱が続くように、定められた当然の摂理だ。だというのにいちいち心を動かして何になる? 心を痛めれば天が動くか? お前は神にでもなったつもりか』
幼い頃から何度も聞かされた、冷たくて残酷で、この世のすべてを否定するような声。
『戦は勝たねば意味がない。敗者には何も残らない。ひとたび戦争という手段を選んだならば勝つことだけを考えろ。兵はそのための道具。将は代えのきく手足。使えるものはすべて使え。余計な情に惑わされるな。姉のようになりたくなければ』
──うるさい。
フィロメーナは耳を塞いだ。
うるさい、うるさい、うるさい。
どうせ私はあなたのようにはなれない。なりたくもない。
勝つためなら実娘の命まで利用し踏み躙る、血も涙もない人間には。
(……だけどあの人は、戦えば必ず勝った)
『神謀』。かつて正黄戦争で圧倒的劣勢に立たされた黄帝を勝利へ導き、人々からそう呼ばれた軍師。約束された皇位を簒奪されたオルランドと、今は『偽帝』と冷嘲される先帝の弟フラヴィオ六世が争ったあの戦いは、父の存在なくしては終結しなかったと言われていることもフィロメーナはよく知っていた。
それは父の正しさの証左なのだろうか。
戦いにおいて正しいのはいつも勝利した者だ。父は口癖のようにそう言った。
あの人は己の正しさを証明するために戦っていた。そして勝った。勝ち続けた。
フィロメーナは父が戦で敗北したという話を、誰の口からも聞いたことがない。
ギディオンのような長く軍に身を置いていた将軍たちの口からさえ。
だとしたら間違っているのは私?
父のやり方を正しいとは思えない私?
そんな自分がこのまま指揮を執り続けたら、やがて救世軍は──
「フィロ」
突然名を呼ばれ、うなだれていたフィロメーナはびくりと肩を震わせた。
驚き、振り向けば、薄青い月明かりを背負った人影が目に入る。
イーク。途端にフィロメーナは喉をきゅうと絞められるような苦しさを覚えた。
「こんなところにいたのか。姿が見えないから探したぞ」
「……まだ休んでなかったのね」
「こっちの台詞だ。いつからここにいる? この寒さじゃ風邪ひくだろ」
言って、イークはごく自然な手つきで自身の青い外套を剥いだ。
そうしてフィロメーナの肩に巻きつける。
まるでそうするのが当然だとでも言うような、あまりにさりげない所作だ。
フィロメーナは短く礼を言って、外套に残った彼の体温に身を委ねた。
口から勝手に吐息が漏れる──温かい。
「夜明けまでもう時間がない。休めるうちにちゃんと休め。そうでなくともお前、直接戦の指揮を執るのは久しぶりだろ?」
「ええ……そうね。久しぶりすぎて、怖くてたまらないわ。私、今まであなたたちにこんなことをやらせてきたのね」
「今更何言ってんだ。それが隊長の仕事だろ」
──将は代えのきく手足。
再び父の声が耳に甦ってきて、フィロメーナはイークの外套をぎゅっと握ったまま顔を伏せた。違う。少なくとも彼らは好きなときにつけたりはずしたりできる義手や義足なんかじゃない。まさにフィロメーナの手足そのものだ。
もがれたら痛いし、傷ついたらつらい。悲しい。
だから彼らをそんな風に使いたくない。自分の手足のように大事にしたい。
なのに。
「……ごめんなさい」
「は? 何で謝る?」
「あなたをこの戦いに巻き込んだのは、私だから」
「急にどうしたんだよ。だいたい俺が救世軍に入ったのはジャンに誘われたからであって、お前のせいじゃないだろ。俺は俺の意思でここにいるって決めたんだ。やりたくないなら、あの場でジャンの誘いを断ることだってできた」
「そうね。でも……」
──それはあなたが知らなかったから。
そう言いたいのに、言葉が続かない。
──知っていたらここにはいなかったでしょう?
そう尋ねたいのに、何か冷たいものが喉を塞いで声が出ない。
「ところで、フィロ。明日の作戦のことだが」
と、ときにイークが話題を変えてくれたおかげでフィロメーナはようやく息が吸えた。けれど代わりに、喉を塞いでいた冷たいものは胸へと転がり落ちていく。
そうしてちょうど心臓のあたりで硬くなって、改めて息が詰まった。
「私が囮役になるのは反対、という話ならもう耳一杯よ。あと、ウォルドの役目を誰かと入れ替えろという話も」
「フィロ。俺は」
「あなたがウォルドを信用していないことは分かってる。彼が黄皇国の手先なんじゃないかって疑っていることも」
「だったらどうして」
「私はそうじゃないって思うからよ。今日までウォルドとは色々な話をしたわ。彼には彼なりの事情があって、信念があって、だから救世軍に入った。私は彼の言葉に嘘はないと思うし、人柄や能力を尊敬してもいる」
「ならあいつが二ヶ月行方を晦ましてた件についてはどう思ってる?」
「それは……」
予想していなかった問いを投げかけられて、フィロメーナは言葉に詰まった。
ウォルドは決して怪しい人間ではない。たびたび行方を晦ますのも様々な事情があってのことだ。フィロメーナもおおよそのことは知っているし、理解している。
しかし何をどこまで打ち明けていいものか。そういう逡巡からきた沈黙を、イークは別の意味で捉えたようだった。彼はフィロメーナの座る長椅子の側面に腰を預けると、腕を組んで穴の開いた聖堂の壁を見据える。
「あれから俺も散々問い詰めたが、あいつは二ヶ月どこで何をしてたのか、結局はっきりとは答えなかった。黄皇国の情報を集めてたとか、昔の知り合いに会いに行ってたとか、曖昧な言い訳ばかりだ」
「イーク。それは」
「頼むから、あいつを根拠もなく信用するのはやめてくれ。たとえ黄皇国の間者じゃなかったとしても、日頃の言動に裏があるのは間違いない。そんなやつにお前を任せるなんて……」
「だから何度も言ってるでしょう、ウォルドはあなたが思っているような人じゃないって。今回の作戦で私の護衛に彼を指名したのは証明するため。もしもウォルドがあなたの言うように悪意を持って救世軍に近づいた人間なら、こんな好機、絶対に逃したりしないでしょう? 地方軍の仕業に見せかけて私を殺せるのだから」
「フィロ、お前は救世軍のリーダーだぞ。なのにどうして敢えて危険に晒す必要が──」
「それを言うならあなただって救世軍の副帥なのよ、イーク。だったらもっと肩書きにふさわしい視野を持ってちょうだい。今のあなたの言動はいたずらに皆の不安や不信感を煽るだけだわ。個人的な感情でどこまで周りを振り回すつもり?」
「俺は」
カッとなったようにイークが身を翻した。その青い瞳がこちらを向く。
睨まれる、と思った。あるいは怒鳴られるかも、と。
そう覚悟を決めて見上げたフィロメーナの視界に映ったものは、
「俺は、お前を失いたくないんだ」
ぐらり、フィロメーナの意識が揺れた。
まるで横からガツンと頭を殴られたみたいだった。
イークはまるで捨てられた子供みたいな顔でそこにいる。帰る家を失くして、どこへ行けばいいのかも分からず途方に暮れているような不安と失意を抱えた顔で。
──どうしてそんな顔をするの。私のせい?
違う。そんな顔をさせたかったわけじゃない。
私だって同じよ。あなたを失いたくない。
けれど私はいつだってあなたを傷つけて、苦しめて──
「……私のことなんて、どうでもいいのよ」
──そして、本当は裏切っている。
「あなたが考えるべきことは、そんなちっぽけなことじゃない。守るべきものは私なんかじゃない……」
「……フィロ? 何言って……」
「イーク。私、あなたが思ってくれているような人間じゃないのよ。本当に違うの。私は自分を守るためならどんなものだって利用する。あなたのことだって、ずっと……」
「フィロ」
「結局は……そう、結局は私も父と同じ。やっぱり私にもあの人の血が流れているのだわ。自分のためなら……勝つためなら、どんなに大切な人だって──」
「フィロ。お前、おかしいぞ。一体何を隠してる?」
心臓が揺れた。
あまりに激しく揺れるものだから胸が軋んで、痛みでようやく我に返った。
闇に塗り潰された足もとの床へ向かって涙がひと粒落ちていく。でもすぐに唇を引き結んだ。ちょうど顔を伏せていたから、イークには気づかれなかったはずだ。
──何ならここですべて吐き出してしまおうか。
一瞬そんな考えが脳裏をよぎったものの、すぐに全力で振り払った。
今は駄目だ。今は、まだ。
何せ明日の作戦がどうなるか分からない。成功するかどうか自信がない。
だというのに、大切な戦力を手放すようなことを言うなんて。
──そうやって、また彼らを利用するのね。
耳もとで、今度は自分の声がした。
全身が震える。すぐそこにいるイークを直視できない。
「おい、フィロ」
「……でも、ないわ」
「何?」
「何でもない。何でもないの……」
「何でもないわけないだろ。お前、俺が気づいてないとでも思ったのか。ここ最近お前が急に痩せたこと、ひとりでぼんやりしてることが増えたこと、夜遅い時間まで部屋に明かりがともってること」
「違う、私は」
「それは俺にも言えないようなことなのか?」
イークの声が、うなだれたフィロメーナの背中にざくざく刺さった。
彼は別にフィロメーナを責めているわけではない。
むしろ案じてくれている。声の響きから分かる。イークはそういう人だ。
でも、だからこそ今はイークの優しさが刺さる。
深く深く、心臓が抉れるほど深く刺さって、痛みで顔を上げられない。
「ウォルドには言えて、俺には言えないようなことか」
ガンッと、再び頭に衝撃が走った。今度は鋭利な刃物じゃない。
巨大な槌を遥か高みから振り下ろされたような。
「フィロ。俺はそんなに頼りないか?」
「ち、ちが……違うのよ、イーク。私は──」
動揺と焦りで、思わず彼を振り向いた。そしてすぐに後悔する。
こちらを見つめるイークの瞳には、暗い悲しみだけがあった。
怒りでも憎しみでも嫉妬でもない。
ただただ、深海の底の孤独を思わせるような悲しみだけが。
「……いや、悪い。くだらないことを訊いた。忘れてくれ」
「イーク」
「俺はもう寝る。お前も早く戻って休め。明日からは体力勝負だ。あんまり体に負担をかけるなよ」
「待って、イーク」
立ち上がり、叫んだ声はしかし、イークに届かなかった。彼はこちらに背を向けて立ち止まることなく歩き出すと、あとは一度も振り向かず聖堂を去っていく。
暗闇に残されたのは静寂と冷たい夜気、そして立ち尽くしたフィロメーナだけ。
その闇の中に嗚咽が漏れた。
フィロメーナは誰もいない聖堂でしゃがみ込み、子供のように泣きじゃくる。
「ごめんなさい……ごめんなさい、イーク……」
吹きさらしの幽霊教会に、風が吹いた。
その風は低いうなりを上げて雲を運び、星明かりを掻き消していく。




