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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
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295.破滅とワルツを


 光さす曇天に、すうっと高く左手を掲げた。


 すると羽音が近づいてきて、鋭い爪を蓄えた猛禽(もうきん)の両脚が分厚い皮の手套(しゅとう)を掴む。トラクア城本丸最上階にある塔の露台に、美しい鳶色(とびいろ)の羽毛を(なび)かせた一羽の(たか)が降り立った。金色の瞳を閃かせた彼女は大空から舞い降りるや否や、優雅に広げていた翼をたたんで誇らしげに主人を(かえり)みる。


「アリーチェ」


 と、偵察を終えて戻った妹にそう呼びかければ、アリーチェと呼ばれた鷹はただいまを言うように軽く翼を羽ばたかせた。彼女がいつものように甲高く鳴いてみせないのは、黄色い(くちばし)の先にあるものを(くわ)えているためだ。マティルダは吹き荒ぶ北風にそれを奪われぬよう、慎重にアリーチェの届け物を受け取った。

 彼女が運んできたのは糸屑(いとくず)のような毛髪のような、数本のか細いものの束。

 ただの糸にしては質感が硬く、毛髪にしてはいささか太い。その感触を右手の指先でしばし確かめてからマティルダは頷き、傍らの副官に向き直った。


「そちらは馬の(たてがみ)、ですか?」

「ええ。どうやら敵が四(ゲーザ)(二キロ)圏内まで進入してきたようです。全軍に臨戦態勢に入るよう命じなさい。各隊の配置は当初の計画どおりに」

(かしこ)まりました。将軍は前線に?」

「いいえ。私は城内にて全体の統制を図ります。前線の指揮はパルヴィス卿に一任しましょう。ゼナッティ卿は最終防衛線にて待機するよう伝令を」

「承知しました」


 副官はいつもどおり簡潔な返答と共に敬礼すると、塔内に待機していた伝令を呼び寄せてテキパキと指示を飛ばした。命令を復唱した彼らが次々と持ち場へ散っていく気配を感じながら、マティルダは左手にとまったアリーチェの全身を翼の裏まで確認する。馬の鬣を持ち帰ったということは、果敢にも敵の陣列に急降下して突っ込んだのだろうが、どうやら怪我などはしていないようだ。


 (ひな)の頃から大切に育ててきた妹が無傷だと分かると、マティルダは内心ほっとしてねぎらいの言葉をかけた。

 同時に餌入れから肉の切れ端を取り出し、褒美として与えてやる。

 その肉を鋭い嘴の先で咥え、嬉しそうにたいらげたアリーチェは、うっとりと瞳を細めてマティルダの頬に額を擦りつけてきた。


「……この戦いが終わったら、おまえともお別れね」


 温かな羽毛の感触を肌に感じながら、マティルダは誰にも聞かれぬようそっと妹に声をかける。当然人の言語など解さぬアリーチェは、マティルダの声の響きからいたわりを感じたのか、依然瞳を細めたまま喉を鳴らすように小さく鳴いた。


「おまえはとても賢い子だから、野生に帰ってもきっと生きていけるわ。……よき(つがい)を見つけて、幸せにおなり。私のように行き遅れては駄目よ」


 刹那、アリーチェは何かを感じ取ったのだろうか。不意に頭をもたげてマティルダを見つめると尋ねるように、あるいは訴えるように、喉の奥で短く鳴いた。


「マティルダ将軍」


 伝令たちへの指示を終えた副官の呼び声がする。

 マティルダは最後に妹へ微笑みかけると、彼女を伴って(きびす)を返した。

 塔の天辺から見える景色に別れを告げて、部下を振り向いたときにはもう、気丈にして冷徹な軍人としての顔に戻っている。


「イーサン。おまえは開戦前に城内を見回って、異常があれば報告なさい。私はひと足先に司令所へ入ります」

「はっ。しかし、将軍……お言葉ながら、せめて戦の前に一度だけでも、将兵と直接お会いになった方がよろしいのではございませんか?」

「何故?」

「……」

「例の噂なら徹底して無視するようにと、既に全軍へ通達したはずです。命令に背く者がいるなら迷わず懲罰房へ送りなさい。まんまと敵の策略に踊らされるような弱兵は、我が軍に必要ありません」

「仰せのままに」


 若く有能な副官はそう告げて一礼すると、与えられた命令を遂行すべく立ち去った。最後に残った数人の従者にもそれぞれやるべきことを伝え、塔にはマティルダとアリーチェのふたりだけが残される。


「──いよいよだな」


 そうして塔が静寂に満たされた、直後。突然背後から低くぜろぜろとした声が聞こえて、アリーチェがキッと警告に似た声を上げた。

 かと思えば彼女は突如としてマティルダの背後に現れた()()()()()に激しく吼え立て、翼を鳴らして威嚇する。が、マティルダはとっさにアリーチェの嘴を押さえると、彼女を安心させるため「どう、どう」と静かに声をかけた。


「なんだ、その身の程をわきまえぬひ弱そうな生物は? やかましいな。(ひね)(ころ)してやろうか」

「地上の生き物の本能として、魔のものを警戒しているだけです。私が襲うなと命じれば襲いません。……ハクリルート将軍のご容態は?」

「ふん、あのような男のことなど知るものか。ルシーンごときに尾を振る()(もの)が、先の戦では魔人の分際で『魔王の忠僕(ギニラルイ)』たる我に囮役(おとりやく)など命じおって……まあ、傷を癒やすべく魔界へ降りたようだから、ひとまず死にはしないだろう。やはり瘴気(しょうき)に馴れた体に(テヒナ)の毒は効いたようだな」

「おまえの言う〝テヒナ〟とは、人類(われわれ)が〝神子〟と呼んでいる者のことですか?」

「いいや。(うぬ)らが愚かにも〝神〟だと思い込んでいる、異界の侵略者どものことだ。もっとも今は我ら魔族(ムドリェーツ)の方が、彼奴(きゃつ)らの腐り果てた故郷に追いやられてしまったがな」


 (あり)の頭部に、雌雄(しゆう)の別を持たぬ漆黒の肢体(したい)。赤く明滅する不気味な複眼と邪竜の翼を持った魔族は、そう言って不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 こうしてこの魔族と対面するのも久しぶりだ。名も知らぬ蟻頭(ぎとう)の魔族はマティルダの影に潜み、常にこちらの動向を監視しているようではあったが、人前では決して姿を見せないようにと交渉すると存外素直に従った。


 というのもソルン城が落ちてからというもの、反乱軍がマティルダと魔族の結託を領内で吹聴(ふいちょう)しているのだ。彼らが魔族の存在を裏づける証拠を得ているとは考えにくいものの、パウラ地方に渦巻き始めた噂の影響は決して小さくはなかった。

 おかげで第六軍の将士の中には混乱が広がり、マティルダも先のハーマンと同じように魔族に憑かれているのではないかと疑い始めている者がいる。


 初めのうちはただの流言だとあしらうことができたその疑惑も、次第に払拭(ふっしょく)するのが難しくなってきた。何故なら反乱軍は旗頭たる生命神の神子(ジェロディ)だけでなく、いつの間にやら真実神(エメット)の神子さえも仲間に引き込んだというではないか。たったひとりで大軍同士の戦争をひっくり返すとまで評される『狂乱の剣士』ことハクリルートを撃退したのも、どこからともなく現れたエメットの神子だと聞いている。


 ゆえに一部の将兵が動揺し、指揮官たるマティルダに疑惑の眼差しを向け始めていることはひしひしと肌で感じていた。そこに本物の魔族が姿を現そうものなら、第六軍はまず間違いなく戦わずして瓦解(がかい)する。


 だからマティルダは今日まで魔族と直接の接触を避け、存在をひた隠しにしてきた。最も望ましいのは魔族との契約を破棄してしまうことだが、そんなことを言い出せば即座に用済みの烙印(らくいん)を押され、殺されるであろうことは目に見えている。

 しかしいま総大将(マティルダ)を失えば、第六軍を待ち受けるのはどのみち滅びの未来のみ。


(この戦さえ乗り切れば……トラクア城を守り切ることさえできれば戦況は一気に覆る。反乱軍はコルノ島への撤退を余儀なくされ、弱体化したところを黄皇国(おうこうこく)の全力でもって叩けば、ほぼ確実に内乱を終息させることができるだろう……だから、それまででいい。それまで持ちこたえることさえできれば、私は──)


 パウラ地方を守り、オルランドの御代(みよ)を次代へつなぐこと。

 その願いさえ叶うのならば、我が身などどうなろうが構わない。死したのち魔族の傀儡(かいらい)となろうが、魔界と(ちぎ)った魔女と罵られ、粛清の炎にくべられようが。

 マティルダが生涯でただひとり愛した『金色王(こんじきおう)』、オルランド・レ・バルダッサーレを守ることさえできればすべては報われる。


(滅ぼさせるものか)


 守り抜く。何に代えても。そう誓った。他でもない、不条理という名の氷海で溺れ死のうとしていたこの身を、オルランドに救い上げられた在りし日に。


「……魔族よ。おまえたちが〝テヒナ〟と呼ぶものとの間に、かつて何があったのかは興味がない。おまえはただ私を勝利へ導き、すべてが終わったのちに我が魂を盗めばよい。以前交わしたあの契約に、今更二言はありませんね?」

「フッ……相変わらず不遜な物言いをする女だ。そっちの目障りな生物諸共(くび)(ころ)してやりたいところだが、我らも一度交わした契約は守る。誇り高き魔族(ムドリェーツ)は、欺瞞(ぎまん)と狡智の種族たるテヒナほど落ちぶれてはいないからな」

「ではその言葉を信じます。私の願いは覚えていますね」

「見くびるな。(ねずみ)を払い、逆賊を殲滅(せんめつ)し、汝の主君を命果てるまで守り抜くこと。それさえ叶えば、あとはどうなろうと構わんのだろう?」

「ご名答。……私亡きあとの陛下を、どうか頼みます」


 たとえ相手がエマニュエルの破滅を願う魔王の手先であろうとも。

 今のマティルダには、目の前の魔族と運命に身を(ゆだ)ねる以外の道はない。

 ゆえに恐れも虚栄もなく、血のように赤い複眼(まなこ)をまっすぐ見上げてそう告げた。

 視線の先で巨大な眼が明滅する。

 かと思えばにわかに魔族の手が伸びてきて、マティルダの顎を掴んだ。

 嘴を押さえられたアリーチェが主人を守ろうと暴れている。

 されどマティルダは、決して手を放さなかった。


「……惜しいな。我が一族に生まれておれば、汝もまた『魔王の忠僕』として名誉の座に就くことを許されたであろうに」

「……それは魔界流の讃辞と受け取ればよろしいので?」

「クックックッ……愚か者め。これだから人間は面白い。マティルダ・ファルコニエレ・ネル・ヴィットリ・オルキデアよ」


 瞬間、前触れもなく告げられた己の真名にマティルダは瞳を見開いた。

 ──何故、私の真名を。一度も名乗っていないのに。

 そんなことを魔術の使い手に尋ねるだけ野暮だろうか。

 されどマティルダの小さな動揺を余所に、魔族はヴヴヴ……と、笑ったようだ。


「覚えておけ。我が名はムラーヴェイ、魔界(ヴァセ=ボガ)を統べる七十二の『魔王の忠僕』、その第三十三位に据えられし者だ」


 鼻先に触れそうなほど醜い顔を近づけ、そう名乗った魔族の姿は直後、音もなく影の中へと消えた。あとにはわずかな瘴気(しょうき)のにおいだけが残り、マティルダは魔族が姿を消した己の影を見据えて呟く。


「〝ムラーヴェイ〟……」


 何ともおぞましい響きの名前だ。

 だが破滅への道連れにはこの上なくふさわしい。マティルダは口の端に小さく笑みを刻むと、ようやく大人しくなった(アリーチェ)を連れて身を(ひるがえ)した。

 全軍に出動を命じる喇叭(らっぱ)の音が、薄明の曇天(そら)を切り裂いていく。


 まるで《新世界(エデン)》の到来を告げる《夜明けの喇叭(シャルマン・ヨベル)》のように。



 いつもご愛読ありがとうございます。2020年最後の更新です。


 そして突然ですが連載維持のため、来年より当面の間、毎月7日のみの月1更新とさせていただくことになりました。更新を楽しみにお待ち下さっている皆さまのご期待を裏切り、大変申し訳ありません……。


 恐らく2021年いっぱいはこのペースでの連載になるかと思われますが、充分な更新ストックが溜まり次第、また元のペースに戻す予定です。


 しばらく亀更新となりますが、引き続きお付き合いいただけましたら嬉しく思います。来年も『エマニュエル・サーガ』をどうぞよろしくお願い申し上げます。

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