294.レゾン・デ・エトル
黄砂岩の石畳が敷かれた町の広場に、大勢の聴衆が集まっていた。
数はざっと二、三十人……いや、四十人は軽く超えていそうな気がする。
彼らが口々に何事か囁きながら不安げな顔で、あるいは興奮の面持ちで十人十色の眼差しを向ける先には、救世軍が急遽設けた木組みの演台があった。
高さも幅も半枝(二・五メートル)ほどのその台に、やがて三人の人影が登壇してくるのが見える。途端に集まった聴衆がわっとどよめき、寒空の下、吹き晒しのはずの広場に熱気が渦巻いた。
何故なら彼らの眼前に〝ひと目姿を拝めれば見た者には神の祝福が約束される〟と語り継がれる神々の代弁者──神子が姿を現したためだ。
いや、真実を知るカミラに言わせれば、正確には神子に扮したまがいものだが。
「神子様」
「ジェロディさま……!」
「ジェロディ・ヴィンツェンツィオ様、万歳!」
壇上に上がった彼の姿を仰ぎ見て、何人かの聴衆が喝采を上げた。
熱に浮かされたように諸手を掲げ、神子の名を叫ぶ彼らは初めから救世軍を支持する町民か、あるいはよほど信心深い信仰者か、もしくはそんな民衆の間にうまくまぎれた救世軍の偽客だろう。
彼らの歓声が降り注ぐ先には救世軍総帥──の姿を借りたソウスケ──と、彼の傍らに佇む軍師、そして真白い貫頭衣の裾を翻した少女がいる。
町民の中には当然、彼女が何者であるかを知る者はない。
が、演台の麓にカミラと並んで佇み、トリエステらの護衛に当たっているカイルはさすがに知らないはずもなく、終始浮かない顔をしていた。
やはり彼も内心では真実の神子を衆目に晒すことに抵抗を感じているのだろう。
「モデレンタの皆さん、初めまして。僕はジェロディ・ヴィンツェンツィオ、救世軍の三代目総帥にして生命神ハイムに選ばれた神子です。今日は皆さんにどうしてもお伝えしなければならないことがあり、こうしてお集まりいただきました。既に噂でお聞きになっている方もいらっしゃるかもしれませんが──」
そうして始まったソウスケの三度目の演説を聞きながら、カミラはそっと視線を落とした。これは救世軍の勝利をわずかでも手繰り寄せるためにどうしても必要なことだ。頭ではそう分かっているはずなのに、やはり胸がざわついて仕方がない。
「トリエステさん」
カミラが彼女の背にそう声をかけたのは半月前、ソルン城で開かれた軍議にて、トラクア城攻略戦の方針が打ち出されたあの日のこと。
皆での話し合いがまとまり、銘々が早速与えられた持ち場へ散ってゆくさなか、軍議室を飛び出したカミラはとっさにトリエステを呼び止めた。足を止めた彼女の傍らには軍議の間、結局一度も表情を変えなかったジェロディと彼に寄り添うシズネがいる。ふたりと共に振り向いたジェロディは確かにジェロディだ。
黒髪を飾る朱いバンダナも、スミッツの作である腰の剣も、こちらを見つめる顔貌も。すべてカミラが記憶するジェロディと一致していた。けれど。
呼び止めようとするイークやカイルを振り切り、慌てて追ってきたせいで弾む呼吸を整えながら。カミラは不安と期待と動揺が綯い交ぜになった心境でジェロディを見つめた。……たぶん、自分の聞き間違いだ。トリエステもシズネも、きっと勘違いだと言ってくれる。それを確かめるだけでいいのだ。
そう自分に言い聞かせ、震える喉で息を吸い──問う。
「トリエステさん。その人、誰ですか?」
カミラがジェロディに視線を向けたままそう尋ねると、傍らに佇むトリエステとシズネが声もなく目を丸くした。
「ティノくん……なのよね? もしそうなら、もう一度声を聞かせて。他のみんなは気づいてなかったみたいだけど……私には、軍議の席でのティノくんの声が、別人の声に聞こえた」
じっとこちらを見つめたままの、ジェロディの表情は動かない。
「答えて。あなたは、誰?」
自分でも馬鹿げた質問だと思った。
──何を言ってるんだい、カミラ? 僕が僕以外の誰に見えるんだよ。
一拍ののち、彼がそう言って笑いかけてくれることを願う。されど祈りにも似たカミラの期待を裏切り、返ってきたのは数瞬の重い沈黙だった。かと思えばトリエステが静かに瞑目し、諦めたように──そして天に許しを乞うように、言う。
「……シズネ」
「ハイ」
「カミラには真実を伝えます。構いませんね?」
「……申し訳ありマセン、トリエステさま。ソウスケの術を見破られるとハ、想定外デシタ」
目の前で交わされる彼女たちの会話が何を意味しているのか、カミラにはすぐに理解できた。本当はこれっぽっちも、分かりたくなんてなかったのに。
「じゃあ……まさか、そこにいるのは──」
消え入りそうになる声で呟いたとき、ジェロディの皮を被ったものがついにふっと目を伏せた。
「お見事です、カミラ殿」
瞬間、カミラは全身から力が抜けてへたり込みそうになった。何故なら視線の先のジェロディの唇から紡がれたのは、まぎれもなくソウスケの声だったから。
「──現在パウラ地方を統治している第六軍統帥マティルダ・オルキデアは魔族と手を結んでいます。今年の夏、救世軍に降ったオディオ地方の領主ハーマン・ロッソジリオも自らが魔族に操られていたことを認め、先般の彼の暴走が魔界の手引きによるものだったことを明らかにしました。にわかには信じられない話でしょうが、今のトラモント黄皇国ではこのように、国家を乗っ取ろうともくろむ魔のものどもが暗躍しているのです。近年、国のあちこちで魔物による被害の増加が叫ばれているのも、魔界と手を結んだ一部の異端者たちが彼らを招き入れているからに他なりません。そしてその異端者の筆頭こそ、数年前から黄帝陛下を誑かし、今や我が国を意のままに操る魔女ルシーンです」
演台の上で身振り手振りを交えながら、力強くそう演説するソウスケの声は、今はちゃんとジェロディの声に聞こえていた。どうしてあの軍議の席でだけ〝あれはジェロディの声ではない〟と認識できたのか、理由はカミラにも分からない。
考えられる可能性としては、やはり星刻だろうか。
星刻は以前から気まぐれに過去や未来の真実を見せてくることがあったから、今回もカミラの意図せぬところで力を発揮したのかもしれなかった。
そもそも最近──具体的にはポンテ・ピアット城で《神蝕》に呑み込まれかけたロクサーナに触れたあたりから、どうも星刻の挙動がおかしい気がするのだ。使い方を知らなかったはずの術がいつの間にか使えるようになっていたり、かと思えば術者の意思にはまったく反応を示さなかったりと、どうも違和感がつきまとう。
ソルン城の戦いの直後、何故だかユカルが星刻のことをやたらと尋ねてきたのも気になるし。
「そしてご存知のとおり僕たちは今、魔界と結託した官軍を討ち、パウラ地方に平和を取り戻すために戦っています。ところがマティルダ将軍は地方軍の武具や糧秣を僕たちに奪われることを恐れ、郷庁の倉を空にして、軍も町から撤退させてしまいました。今の状態では万一町が魔物に襲われたら、あなた方を守ってくれるものは何もありません。ですので皆さんにはどうか魔物の襲来に対する備えを強化してほしいのです。僕たちがこの地から魔族を追い払うまで皆さんで力を合わせ、助け合い、魔物から町を守って下さい。また近隣の集落から助けを求めてやってくる人々がいれば、迷わず手を差し伸べて下さい。冬を越すための蓄えも少なく、皆さんが大変苦しい思いをされていることは僕たちも承知しています。ですが今は、救世軍によるパウラ地方の解放を信じて耐えていただきたいのです……」
と、カミラがそんな物思いに耽っている間にも、ソウスケの演説は続いていた。
台本はトリエステが用意したものだが、それを完璧に暗記して、いかにもジェロディらしく演じてみせるソウスケはカミラが想像していた以上の名役者だ。
実を言うとカミラら救世軍は、トラクア城を目指す途上でこうしていくつかの町に立ち寄り、まったく同じ内容の演説を繰り返していた。
目的は地方軍が姿を消した方々の郷庁所在地で、住民たちに自衛と自立を促すため──ではない。表向きにはそういった体裁を取りながら、マティルダが魔族と結んでいるという噂をあちこちに広めるためだ。
今回トラクア城攻略戦の鍵となるのは、マティルダが魔族と結託している可能性を追及し、第六軍の将兵に不信と動揺を与えること。
軍議で示されたその策に則り、カミラたちはただちにトラクア城を攻めるのではなく、まず作戦の基盤を固めることに注力した。
マティルダが本当に魔族の影響下にあるかどうかは別として、とにかく先に噂を流布し、少しでも多くの敵兵の耳に入るよう工作することにした、というわけだ。
実はこの計画を、トリエステはトラクア城進攻が決定する前からひそかに進めていて、シズネら諜務隊やウォルドが頻繁に出入りしていたのも周辺地域に噂をバラ撒くためだった。もっともカミラは、長らく姿を見ていないケリーも彼らと同じ任務に従事しているものと思い込んでいたのだが、彼女がソルン城を去ったのはまったく別の理由であったらしい。
すなわち、ジェロディが救世軍を捨てて出ていったためだ、と。
あの日、カミラをジェロディの部屋だった場所に招き入れたトリエステはそう言っていた。そしてケリーは彼と共に救世軍を離れることを選び、自ら別れを告げて出ていったのだとも。
「事実を知っているのはここにいるシズネとソウスケ、そしてジェロディ殿と決裂した現場に居合わせたウォルドとオーウェン殿だけです。他の皆さんにもいずれ真実を告げるつもりではおりますが、今はまだそのときではありません。何故なら我々はパウラ地方の人々を救うため……そして何より救世軍存続のために、何としても今回の戦を制し、勝利を手にしなければなりませんから」
そう真実を告げられたとき、自分がどんな顔をしていたのかカミラは知らない。
ただ、ただ、魂まで凍りつき、バラバラに砕けてしまいそうな心と体をつなぎとめておくだけで精一杯だった。自分でも信じ難いことに、涙さえ出なかった。
だって、ジェロディが救世軍を捨てて去った、だなんて。いきなりそんなことを言われてもとても信じられなかったし、受け止められなかった。心と頭は「嘘だ」と念じることしかできず、唇はか細い呼吸を繰り返すだけで精一杯だった。
だけど彼はマリステアを失った。カミラと黄都で出会ったときからずっと、世界で一番大切な宝物のように扱っていたマリステアを。
それを思えば当然の結末だったのかもしれない。きっとジェロディが救世軍で戦い続ける理由の根底には、いつだってマリステアの存在があったのだろう。
たとえば彼女に失望されないために。彼女に恥ずかしくないように。いつかまた彼女と共に、平和で穏やかな暮らしを営みたいという願いを叶えるために。
されどジェロディはその夢と希望さえもマリステアと共に失った。だからもう戦えないし戦う意味もないと言われたらカミラは頷き、納得するしかない。
剣を取る意義も理由も失ってしまった彼に、これからも自分たちを導いてくれなんて言えない──だけど。
(私……何してたんだろう)
さよならも言えずにジェロディを失ってから、もうすぐひと月が経とうというのに未だに考える。
(ティノくんがたったひとりで苦しんでる間……私は、何をしてたんだろう)
最愛の人を失ったジェロディに寄り添うことも、支えてやることもせずに。カミラは自身もまた、大切な友人を失った悲しみをやりすごすだけで精一杯だった。
彼女を守れなかった事実を悔やみ、自らを責めることにばかりかまけて、ジェロディの傍にいてやらなかった。何の言葉もかけなかった。自分がフィロメーナを失って失意と絶望のどん底にいたとき、彼はただひとり悲しみに寄り添ってくれたのに。掴んだ手を決して離さず、もう一度立ち上がる力をくれたのに。
なのに、私は、
(一緒にティノくんを守ろうって、あの夜、マリーさんと約束したくせに──)
──死んでしまえ。
ありったけの憎悪を込めて、そう自分を呪うことしかできなかった。
だって、何も返せなかった。マリステアにも、ジェロディにも。
自分が巻き込んだのに。
彼らをこの戦いに引きずり込んだのは、他でもない自分なのに──
「カミラ。私はジャンカルロが築き、フィロメーナが育て、ジェロディ殿が今日までつないで下さった救世軍を、命に代えても守りたいと願っています」
されどあの日、からっぽになって立ち尽くすことしかできなかったカミラを見据えてトリエステは言った。
「それが、ジェロディ殿のお心を救うことができなかった私にできる唯一の償いです。その償いに……どうかあなたの力を貸して下さい」
まるで硬い硬い氷の塊となってしまったカミラの魂に火を入れるように、トリエステは言った。
「身勝手極まりないお願いであることは百も承知です。ですが私は、ジェロディ殿がいつか救世軍と共に歩んだ日々を振り返るとき、その記憶を悲しみと後悔ではなく、誇りと喜びで飾って差し上げたいのです。あなたならきっと、私と同じ気持ちでいて下さると──そう信じています」
ゆえにカミラは今もここにいる。
真実を知ってなお剣を握り、救世軍と共にいる。
(……ごめんなさい、マリーさん)
自分はあの夜の約束を、まったく守れなかったけれど。
(だからこそ、今……私は私のいる場所で、ティノくんを守るためにできることを全力でやる。トリエステさんが言ってたとおり──この命に代えても)
震える指先で胸もとを掴み、改めてそう誓った刹那。
突如として広場に閃光がはたたき、人々の間にどよめきが広がった。理由は明白だ。何故なら警備に当たるカミラたちのすぐ後ろで、ターシャが瞬く《白鴉の杖》を宙に描き出し、自らが真実の神子であることを証明してみせたのだから。
「皆さん。ご覧のとおり、彼女はジェロディ殿に次ぐ第二の神子──真実を白日の下に晒す神、エメットに選ばれし者です。彼女の名に懸けて誓います。たった今、我々救世軍の代表としてジェロディ殿が語って下さったお言葉にはひとかけらの欺瞞もないと。ゆえにどうか我々の言葉を信じ、行動を始めて下さい。あなた方の命をつなぎ、救世軍が築く新たな歴史の証人となっていただくために」
ほどなくターシャが真実の神子である事実を改めて強調したトリエステが、演台の上から聴衆に訴えかけた。オーロリー家の血を引く彼女の発言力もまたトラモント人の前では絶大で、広場はたちまち熱狂の渦に包まれる。
演説が始まる前は不安そうだったり、救世軍に否定的な態度を取っていた町民も、終わってみれば疑念や心配など忘れて神子たちの言葉に沸き立っていた。
が、群衆の熱に当てられた彼らはきっと気づいていないのだろう。
ターシャは確かに真実の神子だが、彼女の口から直接「マティルダは魔族と結んでいる」という言葉が出たわけではないことに。
「お疲れ~、ターシャ!」
やがて予定されていたすべての演出が終わり、広場を埋め尽くしていた群衆も解散すると、町の外に設営された野営地の天幕でカイルがわざとらしいくらいはしゃいだ声を上げた。中では今回も無事演説を終えたソウスケとトリエステ、ターシャが休んでいて──もちろんソウスケはジェロディのふりをしたままだが──傍らにはシズネの姿もある。どうやら三人が演説を行っている間に、諜務隊が町の様子を探ったようだが、案の定ここも郷庁は既にもぬけの殻で、奪えそうな物資は乾パンのかけらすらも残っていなかったという。
「やー、だけど今回もまぶしかったなー、壇上でのターシャの姿! もうさ、町の男どもがターシャに夢中になっちゃうんじゃないかって正直気が気じゃなかったよね? なんせターシャってば神子サマな上に超絶カワイイ女の子だし? まあジェロの演説に協力してやってくれって頼んだのはオレなんだけども……」
「……戻ってくるなり気色悪い話をしないでくれる? だいたいキミはそこの軍師さんからわたしを説得しろって指図されただけでしょ。真実の神子にこんな狂言の片棒を担がせるなんて……本当にたちが悪い」
「申し訳ありません、ターシャ。ですが噂の信憑性をより高め、作戦を成功へ導くためには、あなたの存在が不可欠でしたので……そもそもマティルダ将軍の背後に魔族がいる可能性はまだ完全に排除できていませんから、現段階では狂言とは言い切れませんよ」
「屁理屈。私は嘘が嫌いだけど、真実かどうか確定してない情報をさも真実であるかのように言い触らすのも嫌い」
既に五百年も生きているというのが信じられないほど小さな体を椅子の上に乗せたターシャは、いつもと変わらぬ無愛想な態度でツンとそっぽを向いてみせた。
実はソルン城で軍議が開かれた日、カイルがヴィルヘルムに呼ばれて席をはずしたのは彼女の説得を頼まれたからだったとかで、当のカイルは不機嫌なのを隠そうともしないターシャの隣で困ったように苦笑していた。
しかし真実の神子というのも難儀なものだ。嘘を憎む神エメットの魂をその身に宿すターシャは決して嘘をつくことができず、虚言を口にしようとすると声が詰まって、言葉を発することすらできないのだという。そしてターシャが真実か否か判別できない物事については、正直に「分からない」としか答えられない。
ゆえに先程の演説では彼女に代わって、トリエステがマティルダと魔族の接触の可能性を説いたのだった。とは言え島に来たばかりの頃の、取りつく島もなかったターシャの態度を思えば、彼女がこうして救世軍に協力的な姿勢を示すようになっただけでもかなり大きな進歩と言える。
一体どこで心境の変化があったのか、ターシャはぶつくさと文句を言いつつも、以前に比べればずいぶん言動が丸くなったし、最低限の意思の疎通も図れるようになった。数ヶ月前までは無視されるか相手にされないかのどちらかだったのに、今は話しかければ何かしらの反応はある。
何よりカミラが驚いたのは、ソルン城でハクリルートに襲われ、死にかけたカミラたちを救ってくれたのがターシャだと聞かされたことだ。
トリエステは彼女の心を開くのにカイルがひと役買ってくれたと話していたが、ターシャはほんの少し前まで、突き放しても突き放してもしつこくつきまとってくるカイルを心底鬱陶しがっている気配しかなかった。
それがどうしてこうなったのか……まったく謎としか言いようがない。
まあ、余計な穿鑿をしてターシャの機嫌を損ねればまた以前の態度に逆戻りしてしまう可能性もあるから、触らぬ神に何とやら。今はとにかく目の前の戦いに集中しようと改めて自分に言い聞かせ、カミラは短くため息をついた。
「まあ、とにかく……広場には特に怪しいやつも見当たらなかったし、今夜の哨戒はイークとヴィルに任せてあるから、私は天幕に戻らせてもらいます。明日には町を離れて、いよいよトラクア城を目指すんですよね?」
「ええ、計画の下準備はもう充分でしょう。あとは運を天に任せて、作戦を決行に移す他ありません。明日早朝に進軍を開始すれば、三日後にはトラクア城攻略に臨めるはずです」
「なら今夜もう一度、星刻を使って幻視を試してみます。何だか神刻がヘソを曲げてるみたいな感じなんで、成功する確率はかなり低いですけど……開戦前に少しでも敵の内情を探れる可能性があるなら、やってみて損はないはずですから」
「や、まあ、それは間違いないんだけどさ……カミラ、そんなに星刻を使っちゃって大丈夫なの? ソルン城を出発してから暇さえあれば幻視してるじゃん。いくら魔族がいるかどうか確かめるためだとしても、無理したらまた……」
「平気よ。確かに何回も幻視しようとはしてるけど、一度も成功してないから神力は消耗してないし。やってもやっても神刻がまったく応えてくれないから、精神はどんどん擦り切れてくけど……」
「申し訳ありマセン、カミラさん。ワタクシたちにモット優れた偵察能力があれバ、ご心労をおかけするコトもなかったのデスが……」
「別にシズネが謝ることじゃないわ。ただでさえ諜務隊は他の任務で忙しくしてるんだし、これ以上あなたたちにばっかり負担をかけるわけにもいかないもの。そもそも忍術には、時間や空間を跳躍する力はないんでしょ?」
「ハイ……予言や遠視を為せるのハ、我が国でも〝狭霧守〟と呼ばれる優れた巫女のみデス。倭王国では常に四人の狭霧守が国を守っておりマスが、その中でも予言や遠視の力を持つ巫女は数十年に一度現れるかどうカ……つまりカミラさんは、我が国でも類を見ない稀有な力をお持ちデス。過去や未来をも見通すことのデキる術とは……何とも面妖デス」
そう言って興味深げに考え込んでいるシズネを見やり、倭王国にも巫女がいるのか、とカミラは少し驚いた。
カミラの故郷であるルミジャフタにもまた巫女と呼ばれる者がいる。代々〝ナワリ〟の名を継ぐ彼女たちは、倭王国の巫女と同じく予言の力を持っていた。
カミラが郷にいた頃にも、ナワリがアムン河の氾濫を予言して皆が難を逃れたことがあったから、きっと彼女には本当に未来が見えていたのだろう。しかし一見万能に見える忍術にも、やはりできることとできないことがあるのだなとも思う。
忍術というのは希石を〝符〟と呼ばれる紙札に置き換えた希術に近いものだとカミラは感じていたのだが、かつてフォルテッツァ大監獄で角人族のテレルが使っていたような遠視の術は、忍術の中には存在しないらしかった。
が、ならば希石を核とした希術兵器を扱う連合国人なら同じことができるかと言えば話はそう単純ではない。何でもデュラン曰く、アビエス連合国で一般に出回っている希石というのは得てして脆く、先見や遠視ができるほどの力はないとか。
角人族の扱う希術と同等の力を使えるのは希石の作り手である口寄せの民のみで、彼女らが〝魔女〟と呼ばれ恐れられる所以もそこにあるそうだった。
その話を聞いて渋面を浮かべていたのが他ならぬターシャだ。
聞けば彼女は神子でありながら希術の使い手でもあり、いつも右手に嵌めていた指輪の宝石──あれこそがときたまターシャが見せた不思議な力の源だった。
が、彼女の希石はソルン城で瀕死のカミラたちを救ったときに力を使い果たし、粉々に砕けてしまったらしい。ゆえにターシャはデュランたちと交渉し、彼らが所有していた希石を譲ってもらったのだが、渡された石を見るなり渋い顔をして、
「……粗悪品」
と吐き捨てた。そう言われてみればかつてテレルたちも、アビエス連合国で使わる希石を贋作と評していたような記憶がある。
自分たちの創る希石こそ本物で、純正の希石は非常に貴重なものなのだとも。
ターシャはそういった希石の真贋が分かるらしく、受け取った希石を眺めては「これじゃ魔物から身を守る程度の術しか使えない」とぼやいていた。
かと言って希術がまったく使えないのも困るから、ひとまず粗悪品で妥協することにしたようだったけど。
(ターシャが五百年も神子でいながら《神蝕》を免れてるのは、大神刻の代わりに希術を使って暮らしてきたから……なのよね。ならティノくんも本物の希石を手に入れて、ターシャと同じくらい希術を使いこなせるようになれば《神蝕》の進行を抑えられるかも……)
と、無意識にそんなことを思案してからはっとした。
……自分は何を考えているのだろう。
今更ジェロディを救う方法なんて考えたところで、彼はもういないのに。
そう考えたらたちまちいたたまれなくなって、カミラはサッと踵を返した。
皆に短く暇を告げ、逃げるように天幕をあとにしようとする。
「カミラ」
ところが不意に、立ち去る背中へ声がかかった。トリエステだ。
「ラファレイ殿から、あなたはまだ本調子ではないから無理をさせるなと再三忠告を受けています。何より三日後の戦闘では、あなたにも前線で部隊の指揮を執ってもらわねばなりません。今はひとりも隊長を欠くことができないのが我が軍の現状ですので……敵の情報をひとつでも多く手に入れたいのもまた事実ですが、どうか無理だけはなさらないで下さい」
いつもと変わらぬ声音で告げられた忠告に、カミラは黙って頷いた。
トリエステの言いたいことは分かる。今、カミラが神力を使い果たして倒れても、手を握って魂を癒やしてくれる彼はいない──言外にそう言われているのだ。
けれどそうと分かっていても、止まることなどできなかった。
エリクも、フィロメーナも、ジェロディも、すべてを失った自分にはもう、救世軍のために戦う以外、生きる理由などないのだから。
 




