293.変わらずそこで君を愛す
青年は名をシタンというらしかった。ジェロディたちと出会った森から北に二四〇幹(一二〇キロ)ほど行った先にある、小さな農村の出身らしい。
彼と一緒に魔物から逃げていた数人の男女もまた、全員が同じ村の住民だとか。
しかし彼らが生まれ育った村を捨て、持てるだけの財産を持って放浪していた理由は、ジェロディの想像を大きく超えていた。
「城を、目指していたんです。あなた方救世軍が、レーガム地方との境にあるポンテ・ピアット城を占拠したと噂で聞いて……何とか助けを求められないかと皆で話し合って、縋る想いで村を出てきました。僕たちの村は、以前からたびたび魔物の脅威に晒されていて……自警団も潰滅し、もう他に身を守る術がなかったんです。二、三年前から魔物が増えているのは感じていましたが、今年に入ってからは特に顕著で……村の生き残りはもう、今ここにいる人たちだけです」
シタンが重い口を開いてそう話してくれたのは、地底鱓と遭遇した森での夜のこと。その日、朝から降りしきっていた霧雨は午を過ぎた頃に上がり、森の中に野営地を確保したジェロディは、シタンらとひと晩を共に過ごすことになった。
というのもケリーが浴びた魔血を洗い落とすための水場を探していたらあっという間に日が傾き、今日中に森を抜けるのは困難だと判断したためだ。
そこでジェロディは、二刻(二時間)ほどかけてようやく見つけた沢の傍を今夜の野営地とし、シタンたちを呼び寄せた。魔物に追われ、すっかり疲弊しきった様子の彼らを放っておくのはさすがに良心が痛んだからだ。
「地方軍はとてもじゃありませんがあてにできませんでした。郷守が軍隊を派遣してくれるのは大抵、魔物の群が去ったあとで……物資の支援などはしてもらえましたが、それだけです。僕たちはどうしても、自分の身は自分で守るしかありませんでした。でももう限界だったんです。僕は自警団の最後の生き残りですが……村からここまでの旅の間で、何人も犠牲を出してしまいました。僕の力が足りなかったばっかりに……」
そう言って焚き火の傍に座り込んだシタンはうつむき、肩を落とした。
時刻は既に縁神の刻(十八時)を回っている。あちこちに焚かれた焚き火の周囲では、疲れ果てて既に眠っている村人が何人もいた。
揺れる炎に照らされた影をざっと数える限り、シタンと共に移動していた村人の数は十七、八人といったところだろうか。これがひとつの村の総人口なのかと思うと、ジェロディの胸の奥で心臓がギィと音を立てた。
「……村を出た直後は、全部で何人くらいの村人がいたんだい?」
「三十三人です。……全部で三十三人いました。自警団の生き残りも、僕の他にあと二人ほどいたんですが、みんな、途中で魔物に喰われて……」
「……」
「どうして……こんなことになったんでしょうね。僕らはただ普通に生きて、貧しくても慎ましやかな生活が送れればよかったのに……正黄戦争が終わったあたりから、黄皇国は変ですよ。とてもまともに暮らせる状況じゃありません。賊や魔物があんなにうようよしているのに、国は国民を守ってはくれないし……税の取り立ても厳しくて、ただ田畑を耕しているだけでは生きていけない。みんな真面目に、一生懸命生きようとしてきたのに……その結果がこれだなんて、あんまりです」
掠れた声で吐き出されたシタンの本心は、薪の爆ぜる音の狭間に呑まれた。ジェロディはうなだれたまま目もとを覆ったシタンにかける言葉が見つからず、黙然と座り込んでいることしかできない。
同じく焚き火の傍らに腰を下ろしたケリーも、じっと目の前の炎を見据えるばかりで何も言葉を発さなかった。が、そうしてしばしの沈黙が降りたのち、ふと顔を上げたシタンが、赤く腫れた目尻を綻ばせて痛々しい笑顔を作る。
「あ、はは、すみません、お見苦しいところを見せてしまって……男が弱音を吐いちゃダメですよね。ジェロディさまなんてこんなにお若くていらっしゃるのに、一軍を率いて立派に戦っておられるんですから。僕、ジェロディさまが救世軍の新しい総帥になられたって話を聞いたときから、ずっとあなたに憧れていたんですよ。村の心配さえなければ、僕も救世軍に加わって戦いたいと思っていたくらいで……まさかそんな憧れの人に助けていただけるなんて、夢にも思っていませんでした」
「いや、僕は……」
「あ、ですがジェロディさまは、どうしてケリーさんとふたりきりでこの森に? 救世軍は今、南のソルン城で戦っていると聞きましたけど……」
「我々にも色々と事情があってね。作戦に関わる機密事項だから詳しくは教えられないが、ジェロディ様は西のオディオ地方を目指しておられるんだ。あちらの地方でも今、我々の味方が黄皇国軍と鎬を削っているからね」
「あっ……そ、そうなんですか。すみません、部外者が込み入ったことをお訊きしてしまって……ですがオディオ地方のハーマン将軍が、先の戦いでジェロディさまの下に降ったことは聞いています。あの噂は本当だったんですね! 官軍の頂点と言っても過言ではないトラモント五黄将までお味方につけてしまうなんて、やっぱりジェロディさまは素晴らしいです……!」
刹那、焚き火の向こうから爛々と注がれたシタンの憧憬の眼差しに、ジェロディはまた胸がギィと鳴るのを聞いた。
──違う。僕は君が思っているような立派な人間なんかじゃない。
だって僕が今ここにいるのは、救世軍を捨てて逃げてきたからだ。
そんな言葉が喉まで出かかっている。叶うことなら逃げ出したい。
目の前の青年の溢れんばかりの尊敬と希望と期待の視線から。
「ところで、シタン。あんた、歳はいくつなんだい?」
「えっ? あ、ぼ、僕は来年でちょうど二十になります。実は去年までお国の兵役に出ていたんですよ。なのでこれでも少しは戦えるつもりです」
「そうか。なら無事ポンテ・ピアット城まで辿り着けたら、城の守りを任されているギディオン・ゼンツィアーノという御仁を頼るといい。道中、我々にギディオン殿を頼るよう言われてきたと門番に話せば、すんなり受け入れてもらえるはずだ。で、あんたにその気があるのなら、ギディオン殿の下について剣術を見てもらいな。あの方は剣の天才だから、きっと学ぶことが多いはずだよ」
「て、天才、ですか。ガルテリオ将軍のご息女にそこまで言わせるお方に師事するなんて、何だか畏れ多いですが……こんな僕でも強くなれるのなら、ぜひお会いしてみたいです。でも、姓をお持ちということは──」
と、顔を上げないジェロディに気づいたケリーが話題を逸らし、シタンがそれに興味を示したときだった。突然、闇の中にわっと割れるような泣き声が響き渡り、驚いたジェロディたちは一斉に振り返る。
泣き声が上がったのは三人が囲んだ焚き火から、一枝(五メートル)ほど離れたところに設けられた別の焚き火の傍だった。見れば五、六歳と思しい少女が飛び起きて、引き攣けを起こさんばかりに泣いている。
「アナ」
大声で泣き喚く少女の後ろ姿を見たシタンが、呟いて腰を浮かしかけた。
アナ、というのが彼女の名前なのだろうか。
ところがシタンが立ち上がって少女のもとへ駆けつけるよりも早く、アナの傍で横になっていたひとりの女が起き上がり、泣いているアナを抱き竦めた。
「アナ。アナ。大丈夫よ……」
少女を抱き寄せたのは、齢四十がらみの痩身の女だ。もともと痩せていたわけではないのだろう。衣服の上からでも分かる、下腹だけがやや張り出した体型は、もうずいぶん長い間ろくな食事が取れていない身であることを物語っている。
焚き火に照らし出された顔色も悪く、目の下には隈も浮いているようだ。
ひと目見ただけでずいぶん具合が悪そうだと分かるありさまだが……もしや彼女が少女の母親なのだろうか? だとしたら少女の方もあまりの空腹で泣き出したのかもしれない──と、ジェロディが自分たちの旅荷に一瞥を向けた直後だった。
「わあああああああん……! おがあざん……おがあざん……! 死んじゃやだああああああ……!」
月のない空を割らんばかりの絶叫が森に谺する。小さな体を痙攣させて泣き叫ぶアナの声はすさまじく、眠っていた村人たちも次々と目を覚ましたようだった。
が、彼らは泣いているのがアナだと知ると、仕方がないとでも言いたげな素振りで再び横になってしまう。ある者はアナに背を向けながら。またある者は毛布とも呼べない粗末な布に頭まで包まりながら。
「シタン。あの子は……」
「ああ……すみません。アナは村を出てすぐに、母親を……目の前で魔物に殺されてしまって。以来毎晩ああなんです。父親も兄弟もいない子なので……ずっと、僕たちが面倒を見てるんですけど……」
女が代わりにアナをあやしてくれているためだろう。シタンは浮かしかけていた腰を下ろして再び座り込むと、膝の上に置いた拳をきつく握り締めた。
その拳の震えが、ジェロディの中の何かを揺り動かす。
泣き叫ぶアナの声が脳を揺さぶる。
うるさい。そう叫んでしまえればどんなによかったか。けれどできない。
できるわけが、ない。
「……シタン」
「は、はい」
「答えたくなければ答えなくてもいい。──君の家族は?」
ジェロディがそう尋ねると、シタンの瞳が見開かれた。
が、次の瞬間、彼はそばかすの散った純朴そうな顔立ちをくしゃりと歪めて──それでも笑顔を作ろうと、泣き笑いのように口の端を持ち上げる。
「僕は、父と母と姉の四人家族でした。でも、みんな……村を出る前に、死んでしまって」
シタンの声が震えている。少女はまだ泣き叫んでいる。
しかしシタンはなおも懸命に、気丈に振る舞おうとしていた。
「母さんは病気だったんですけど。父さんと姉ちゃんは、村を襲った魔物にやられて……本当は僕が、守ってやらなきゃならなかったのに……」
「……」
「でも……だからこそ今ここにいる人たちだけでも、僕が守って連れていかなきゃならないんです。もう誰も……絶対に死なせたくない。そのために死に物狂いで戦うことが、家族もろくに守れなかった僕にできる……唯一の償い、ですから」
彼の言葉を聞いた瞬間、ジェロディは立ち上がった。突然、何の前触れもなく無言で腰を上げたジェロディを、シタンの不思議そうな目が見上げてくる。
しかしジェロディは、一度も彼の方を見られなかった。
ただ、ただ、歩き出して沢を渡り、暗い森へ向かって歩き出す。
「えっ……えっ? じ、ジェロディさま──」
「シタン。あんたはここにいな」
背後からそんなやりとりを交わすシタンとケリーの声が聞こえたが、やはり振り向かなかった。いや、振り向けなかった。
明かりも持たず、神の眼の視力だけを頼りにどれほど歩き続けただろうか。
やがてアナの泣き声すらも遠く聞こえなくなった頃、追いかけてきた足音の主がジェロディを呼び止めた。
「ジェロディ様」
ようやく立ち止まるきっかけがもらえて、ジェロディは足を止める。
しかし、やはり振り向けない。夜鳥の鳴き声も、風の音すらもしない闇の中でひとり、ジェロディは立ち尽くし、両の拳を握り締めた。ケリーは何も言わない。
ただじっと、足もとを照らすわずかな光源だけを手にぶら提げて、ジェロディの言葉を待っている。
「ケリー……僕は、馬鹿だ」
やがてジェロディが震えた声を絞り出しても、ケリーは沈黙を守っていた。
「本当に……どうしようもない大馬鹿だ。どうして……どうして僕はこうなんだ? まるで自分だけが世界の不幸を全部背負わされたみたいに……ひとりだけ被害者面をして、可哀想な自分に酔って、まるで気づきもしなかった。今も黄皇国ではたくさんの人が愛する人を失って、同じように絶望しているのに……!」
血を吐くように吐き出した己への怨嗟を、闇の底へ叩きつける。
けれど足りない。まだ足りない。今すぐこの身を八つ裂きにして、魔界の炎で焼き尽くし、二度と生を受けられぬ呪いをかけてやりたい。
自分は本当にどこまで愚かなのだろう。憎悪の涙が頬を濡らして止まらない。
こんなことにならなければ気がつけもしないなんて。
愛想を尽かして出ていきたいと、心臓が吼え猛るように暴れている。
そのせいで張り裂けそうに痛む左胸を握り締め、ジェロディは泣いた。まったく救いようがない我が身への怒りのあまり、血が滲むほど唇を噛み締めて泣いた。
「僕だけじゃない……カミラも、イークも、トリエステも、みんな……みんなが大切な人を失って、それでも血を流しながら戦っているのに……! なのに僕は、僕だけが不幸だと……頭からそう思い込んで、みんながどれほど傷ついているかなんて、考えもしなかった……! 大丈夫なわけがないのに……みんなだって傷だらけで、本当は今すぐにでも、逃げ出したいはずなのに……!」
たとえば、カミラはたったひとりの家族である兄を。
イークは誰よりも深く愛した恋人を。
トリエステは我が身と引き替えにしても守りたかった妹と弟を。
仲間も皆、この戦いで愛する人を失い、深く、深く傷ついた。
しかし彼らは戦うことをやめなかった。逃げ出さなかった。
身も心もズタズタになって、血を流しながら、しかし彼らが戦いから身を引かなかったのは分かっていたからだ。そして信じていたからだ。
他の誰でもないジェロディを。
ジャンカルロとフィロメーナの跡を継ぎ、救世軍の指導者となったジェロディならば、失った者たちに報いるための戦いを勝利へ導いてくれるはずだと。
そう信じてくれていた。なのに、自分は──
『見損なったぜ』
あの日、ウォルドに投げつけられたひと言が喉を焼く。当たり前だ。皆の信頼を裏切って、傷つけて、その上自分だけが不幸のどん底にいるかのような顔をして。
──殺してくれ。
心の底からそう叫びたかった。誰か僕を殺してくれ。
こんな男、生きている価値もない。無惨に殺され、呪われるべきだ。
自分のような人間が神子に選ばれるなんて、見る目がないどころの話ではない。
エマニュエルの神々は狂っている。そうとしか思えない。
いや、あるいは彼らは人としての正しさではなく、いかにも肉体を乗っ取りやすそうな愚か者ほど神子に選びたがるのだろうか。だとしたら自分は今、この地上で右に出る者がいないほど神子にぴったりな人材だったことだろう。
ジェロディは半ばそう確信した。けれど、
「ジェロディ様。私は、妹の死に目に会えませんでしたが」
刹那、背後から聞こえた静かな声が、ジェロディの呼吸を止めた。
「それでもあの子があの日何を想い、何のために命を投げ出したのか……その理由は、誰よりも深く理解しているつもりです」
暗闇に響く彼女の声はいつもと変わらず、冴えた夜気のように凛としている。
「ですから私は、あの子の願いを叶えるために……そして何よりも私自身の願いのために、あなたがお選びになる道ならば、どれほど険しかろうとお供致します」
目の前の闇が。夜が。世界が。
瞬間、どうしようもないほどの熱を帯びて、ジェロディの視界で溺れた。
この世のすべてを失ったかに思えた、あの晩の彼女の言葉が甦る。
『ティノさま……マリステアの、願いは……ひとつだけです。どうか、運命に負けないで──』
そのときジェロディは、やっと彼女のために泣けた。
──マリー。
爪を立てた胸の中で、叫ぶ。
マリー。僕も君を愛してた。誰よりも幸せになってほしかった。
だけど、君の望みは。君が心の底から望んでいた幸せは──
「……ケリー」
やがてジェロディが彼女の名を呼んだ刹那、耳もとで風がうなった。
風のない無音の夜だと思っていたのに。
いや、違う。たぶん、そう思い込んでいただけだ。マリステアを失った世界からは、色も音もぬくもりさえも消えてしまったと思い込んでいただけだ。
「僕は、彼らを……シタンたちをポンテ・ピアット城へ送り届けたい」
ケリーは何も言わなかった。
「そして、彼らを無事送り届けたら……ソルン城へ戻る。あんな真似をしたあとじゃ、もう二度と仲間として迎えてもらえないかもしれないけど……それでも、いい。戻りたいんだ。戻って、ちゃんとみんなに謝りたい。トリエにも、ウォルドにも……オーウェンにも」
馬鹿みたいに両目を腫らしたままそう言ってジェロディはようやく振り向いた。
そうして視線を送った先で、ケリーは優しく微笑んでいる。
その微笑こそが彼女の答えだと、すぐに分かった。
分かったら情けないことに、また涙が溢れてきた。
でも、彼女は決して見捨てようとしなかった。
こんなにも愚かでどうしようもない、ちっぽけな愚弟を。
「分かりました。では仰せのとおりに致しましょう。シタンたちを連れての移動となると、ポンテ・ピアット城までの道のりはおよそ六日といったところですが……構いませんね?」
「ああ。堂々と街道を行くわけにはいかないから、遠回りさせてしまうのが忍びないけれど……僕と一緒にいるところを官軍に見つかったら、魔物に襲われるより厄介だからね」
「そうですね。いくら彼らが初めから救世軍に合流するつもりでいたとしても、城へ辿り着くまではただの難民のふりをしていた方が無難です。そうと決まれば早速シタンたちのところへ戻って、明日からの行程を話し合いましょう」
「うん。ただ、さっき話した作戦は後回しにして大丈夫なのかって、心配されそうな気がするけど……」
「大丈夫ですよ。目の前の弱者を守ることこそが我々救世軍の最大の使命であることは、まぎれもない事実なのですから」
いつもと何ら変わらぬ顔色で笑いながら、ケリーはそう言って歩き出した。
それに小さく頷いて、ジェロディも彼女のあとを追う。
そうして隣に並びながら、考えた。
自分はまだケリーのように堂々と、再び救世軍を名乗ることはできない。もう一度そう名乗ることを許されるのは、トリエステたちに許されたときだけだと思う。
……果たして許してもらえるだろうか。いや、たとえ許されなくてもいい。
そのときは救世軍の外から彼らを助ける手段を模索するだけだ。
けれどそうなったら彼女は──ケリーはまた自分についてきてくれるだろうかと、隣を歩く義姉の横顔をちらりと見上げながら、少しだけ不安になる。
「……ケリー」
「はい」
「君は……僕を馬鹿だと思うかい?」
「ふふ……いいえ。私はジェロディ様ならきっとそうおっしゃるだろうと、ずっと信じておりましたから」
笑ってそう答えたケリーの横顔に、昼間、ジェロディの指示を手放しで信じ、魔物へ突っ込んでいった彼女の後ろ姿が重なった。途端にまた涙腺が緩みそうになって、ジェロディはきゅっと唇を噛む。……まったく余計な心配だった。
本当に自分はどこまで馬鹿なのだろう。ジェロディが救世軍にはいられないと知ったなら、彼女は誰に頼まれずともついてくるに決まっている。
そう確信できるほどに、ケリーはジェロディを愛し、信じてくれているのだ。
ならば自分も彼女の信頼に応えたい。心からそう思う。
そして、マリステアが遺した願いにも。
「ケリー」
「はい」
「僕もずっと思ってたことだけど……君みたいな姉を持てた僕は、幸せ者だよ」
「ありがとうございます。私も実の両親を忘れたことはありませんが……それでも世界で一番の家族に恵まれたと自負しております」
「うん。……マリーにも、そう伝えてあげたかった」
「伝わっておりますよ。あの子にも、きっと」
そう告げたケリーの左手が一度だけ、ジェロディの頭をぽんと撫でた。すると頭の後ろの金細工がしゃらんと鳴って、母が、頷いてくれたような気がする。
翌日、シタンらの同意を得たジェロディは、彼らを率いてポンテ・ピアット城を目指すべく旅立った。街道は迂回しつつもまっすぐ東へ。
途中食糧が尽きて立ち往生しかけたものの、ケリーがウォルドから預かってきた路銀を手に方々を回り、どうにか数日分の食べ物を確保できた。
凍えるような気温の中、長旅で力尽きそうな村人たちを励まし、可能な限り道を急ぐ。自力で歩く力を失った者は馬に乗せ、代わりにジェロディが彼らの荷物を背負って歩いた。夜は衰弱している者の傍に座って手を握り、もう少しの辛抱だと言い聞かせながら、神の力で自らの生命力を分け与えた。
されど、ひとりだけ。
森を発って四日目の晩に、シタンが手を引いていた老婆が息を引き取った。
泣きじゃくるシタンの肩を抱き、ジェロディも共に死を悼んだ。
何もない道端に穴を掘り、枯れ木のように痩せ細った老婆の亡骸を埋めてやる。そのとき抱き上げた彼女の遺体の軽さを、決して忘れまいとジェロディは誓った。
前の晩、しなびた手をジェロディに摩られながら眠りに就いた老婆の微笑みと、最期の「ありがとう」という囁きを、胸の奥へ刻みつけた。
ところがそうして迎えた五日目の晩。あと一日歩き通すことさえできれば、ついにポンテ・ピアット城へ到着するという夜に異変は起きた。
「──ジェロディ様、魔物です!」
勾配は緩やかながらもそこそこ小高く、平野を六幹(三キロ)ほど先まで見渡せる見晴らしのよい丘の上。そこを今夜の野営地と定め、シタンらに夕食を振る舞っていたジェロディは、夜を引き裂くケリーの声にはっとして立ち上がった。
夜の安全を確保すべく、数幹先まで見回りに行っていたケリーが馬を急かして斜面を駆け上がってくる。
どこから、と尋ねるとケリーは手にした槍で北北西の方角を示した。数日ぶりに雲間から覗いた細い細い三日月が、地を這うように迫り来る影の群を照らし出す。
「……っ! なんて数だ……!」
未だ距離はあるものの、数はざっと二十か三十か。
数日前に遭遇した地底鱓ほど大きな魔物はいないものの、小型の魔物がうじゃうじゃと群を成し、ジェロディたちのいる丘を目指して移動しているのが分かった。
あれほど離れた場所から正確に人間のにおいを嗅ぎつけてくるなんて、魔界の執念とは恐ろしい。一度やつらの嗅覚に捉えられたからには、逃走は無意味だろう。
そもそもシタンら村人たちは疲れ切っていて、逃げたとしても恐らく距離は稼げない。それどころか走ることさえままならず、早晩追いつかれて群に呑み込まれる可能性が高いだろう。そうなれば彼らは今度こそ全滅する。
最悪の未来が脳裏を塗り潰し、ジェロディはぎりと切歯した。次の瞬間、すぐさまピュウッと口笛を吹き、ケリーが戻るまで鞍を下ろさずにいた馬を呼ぶ。
──死なせるものか。その想いひとつ胸に抱き、愛馬の背に飛び乗った。
彼らは絶対にポンテ・ピアット城へ送り届ける。もう誰も死なせはしない。
「ジェロディさま!」
「シタンはここでみんなを守ってくれ。僕はケリーと魔物を迎撃してくる」
「で、ですがあの数が相手では……!」
「大丈夫、僕が可能な限りやつらを引きつけるから。だけど万が一群からはぐれる魔物がいたら、そいつは君に任せるしかない。できるかい?」
「は、はい……! やってみせます! 何匹来ようと絶対に……ここにいる誰も、死なせやしません! ジェロディさまもお気をつけて……!」
祈るように叫んだシタンに頷き、ジェロディは馬腹を蹴った。
ケリーと共に丘を駆け下り、襲歩で群へと肉薄する。
見えてきたのは獣型の魔物ばかりだった。狼よりもふた回りほど大きな肢体に、獅子のそれに似た鬣をぼうぼうと生やしている。
が、鬣は頭部ではなく、獣の顔面を覆うように顔の中心から生えていた。黒い体毛に埋もれた顔の真ん中には左右に開く口があり、さらにその上にはいくつもの赤い光が見え隠れしている。鬣の間から覗くあれらが、恐らくはやつらの眼だろう。
「ケリー、君は囲まれないよう群の外から攻撃を! やつらは僕が引きつける!」
「危険です、ジェロディ様! 囮役は私が……!」
「いいや、僕じゃなきゃダメなんだ」
きっぱりとそう答え、ジェロディは口もとに笑みを刻んだ。
直後、馳せる馬の背で屈めていた身を起こし、力強く鐙を踏み締める。
そうして抜き放った剣をすかさず己が左腕にあてがった。目を見開いたケリーが呆気に取られている気配を感じながら、迷わず自らの下膊を切り裂く。
神の血がほとばしった。
赤い眼を明滅させた魔物の群が、一斉にジェロディを向く。
「魔のものどもよ! 神々の下僕はここだ! 千年前の雪辱を晴らしてみせろ!」
おぞましき咆吼が渦を巻いた。魔界の仇敵たる神の血に憎悪を燃やした邪神の手先が次々と地を蹴り、ジェロディに飛びかかってくる。振り上げられた前脚から、鉄甲さえも切り裂きそうな鋭利な爪が伸びているのが見えた。それを何とか掻い潜り、あるいは斬り払いながら、跳び上がった群の真下を辛くも駆け抜ける。
「くっ……!」
もちろんすべての凶爪を躱すことはできなかった。あるものは羽織った外套を無惨に引き裂き、またあるものはジェロディの肩を深く抉った。
衣服ごと裂けた皮膚から青い血が噴き出してくる。だがどうということはない。
数拍もすれば神の恩寵で癒える傷だ。
今はとにかく、一瞬でも長く耐えてやつらの気を引かなくては……!
「ジェロディ様!」
こちらの身を案じて叫ぶケリーにも、魔のものたちはもはや見向きもしない。
狙うは彼らを地の底へ追いやり、瘴気の海に沈めた憎き神の血を引く者だけ。瞬間、追い縋ってきた魔物の爪に尻を裂かれた馬が棹立ちになった。
そこを目がけて飛びかかってきた一匹を薙ぎ払いざま、ジェロディは鞍を転がり落ちる。振り落とされたわけではない。わざとだ。
何しろ馬を失えば、衰弱したシタンの村の者を運ぶ手段がなくなる。
だから地面を転がるなり飛び起き「行け!」と叫んだ。
傷ついた馬がびっこを引きながら逃げてゆく。
されどジェロディがその背に一瞥を向け、再び敵へ向き直った直後。魔物から注意が逸れたほんの半瞬の隙に、左右の牙を開いた異形の口が、眼前へ──
「ジェロディ様……!!」
ケリーの絶叫が遠く聞こえた。
未だかつてないほど生臭い瘴気のにおいが鼻をつき、そして、血が飛沫いた。




