291.贖いの旅 ☆
ソルン城を離れてから、十日目の日が暮れようとしていた。
年の瀬が近づいたこの季節の日没は早い。時神の刻(十五時)を過ぎるともう日が傾き出し、光神の刻(十七時)を回る頃にはあたりが真っ暗になっている。
雪が降り出すまであとどれくらいだろうか。ジェロディは目の前でゆらゆらと揺れる焚き火を眺めながら、ぼんやりととりとめもないことを考えた。
向かいでは厚手の外套を羽織ったケリーが、煮凝りを入れた小さな手鍋を火にかけて即席のスープを作っている。細かく切った野菜や豆を肉と一緒に煮固めたもので、溶かすだけでスープになる携行食だ。ただ干し肉を囓るより栄養豊富な上に暖も取れる。ケリーは溶け始めた煮凝りを大きめの食匙でゆっくりと掻き混ぜたのち、やがてできあがったスープを器に盛ってジェロディへと差し出してきた。
「召し上がりますか?」
「いや……僕は、いいよ。食べなくても平気だし、寒くもない」
「ですが、もうひと月近く何も口にしていらっしゃらないではないですか。いくらお食事が不要のお体とは言え……」
「僕は水さえ飲めればいいよ。気にしないで、君が食べて」
「……では、お言葉に甘えて」
ケリーはそう言って律儀に目礼すると、湯気の立つ器に口をつけ、スープを啜り始めた。少し離れたところでは、馬具をはずされた二頭の馬が身を寄せ合うようにして、冬の大地にわずか残った枯れ草を食んでいる。
エクリティコ平野に連なる丘の上。街道を大きく西に逸れたその場所が、ふたりの今夜の寝床だった。見晴らしのよい丘の上にはぽつねんと一本の高木が佇んでいて、背にすると北からの冷たい風をわずかながら防いでくれる。
もっとも見上げた梢は既に侘しくなっており、すっかり瑞々しさを失った枯れ葉が数枚、枝先に辛うじてしがみついているだけだった。
ジェロディは一切の食事を取らなくなった頃から暦を数えることをやめてしまったが、恐らく年明けまでもういくばくもないのだろうな、と思う。ということは父と共にソルレカランテ城へ登り、黄帝に謁見したあの日からもうすぐ一年。
……たった一年しか経っていないのだ。
幼い頃からの夢が叶い、ついに官軍に仕官できると胸躍らせていた日々が、こんなにも遠く色褪せて感じられるというのに。
「……グランサッソ城まで、あとどれくらい?」
風のない、静かな夜だった。おかげで薪の爆ぜる音がよく響くのを聞きながら、膝を抱えて尋ねてみる。トリエステらと訣別し、救世軍を離脱したジェロディとケリーは現在、父のいる北西のイーラ地方を目指して旅していた。
激情に任せて城を飛び出した直後はただ逃げ出したい一心で、行き先などまるで考えていなかったのだが、ケリーがそうしようと勧めてくれたのだ。救世軍を離れ、戦いを放棄した時点で、ジェロディはもはやガルテリオと敵対する理由を失っている。ならば父子の再会をためらう理由はないはずだとそう言って。
「そうですね……街道を使えれば話は早いのですが、各地の関所を避けつつ間道を使って北上するとなると、確実に年は跨ぐ行程になるかと思われます。城を出る前に聞いたトリエステ殿の話が事実なら、第三軍は現在もシャムシール砂王国の軍勢と国境を挟んで睨み合っているそうですから、今年はガル様も領地で年を越されると思いますが……」
「……それ以前に父さんは、僕の謀反が原因で黄都への上洛を禁じられているからね。あの勅令はまだ有効だろ?」
「恐らくは。しかし現在の黄都の情勢によっては、既に謹慎を解かれている可能性もないわけではありません。そうであった場合、ガル様が国境の戦況如何によって、年賀行事のために上洛される可能性も残っているのが懸念事項ですが……」
「……僕らのグランサッソ城到着と入れ違いになったら笑えるね。だったら初めから黄都を目指しておけばよかった、ってことになるかも」
「そうなったとしても、ガル様がお戻りになるまではイーラ地方で待ちましょう。軍の顔馴染みに口利きすれば、その程度の便宜は図ってくれるはずです。第三軍所属の将士は皆、例外なくガル様に堅い忠誠を誓っておりますから、大丈夫ですよ」
「……」
「久しぶりに皆の顔が見られると思うと、少し心が浮き立ちます。ウィルやリナルドもこの一年で昇進したと聞いていますし……軍の後輩たちがガル様の下でどれほどの力をつけたのか、確かめるのが楽しみです」
静かに微笑みながらそう言って、ケリーはなおも即席のスープを啜った。彼女は共にソルン城を発ったあの日から、救世軍のことをまったく話題に出さない。
ジェロディの口数が極端に減ったことも理由のひとつとしてあるのだろうが、たまに交わす会話と言えば旅の行程やガルテリオにまつわることばかりだ。
まるで数日前まで自分たちが救世軍に身を置いていたことなど綺麗に忘れて、軍人に戻ったかのような立ち振る舞い。彼女のそんな気遣いはジェロディにとって救いでありながら、心の奥底にある暗い水面に小さな波紋を呼び起こしもした。
「……ケリーは、さ」
やがて訪れたしばしの沈黙を破り、ジェロディは小さく声を吐く。
火から下ろされた手鍋はもう空になっていた。もともと器一杯分の量しかなかったものを、ケリーは半分、ジェロディに分け与えようとしていたのだ。
残り数口分しかないスープを、ケリーはたっぷり時間をかけて口に運んでいる。
咀嚼の回数を増やしたり、間を置きながら食事することで、少ない食糧でもしっかり満腹感を得るためだろう。
「ケリーは……どうして僕についてきてくれたの」
と、ジェロディが足もとに視線を落としたままそう尋ねれば、向かいでケリーが視線を上げた気配がある。
ソルン城を離れてもう十日も経つのに、ジェロディはまだそんなことすら聞いていなかった。尋ねたら何かが壊れるような気がして、恐ろしかったからだ。
「ご迷惑でしたか?」
ところがジェロディの怯えを余所に、ケリーはそう尋ね返してくる。あまりにも短い答えに顔を上げれば、焚き火の向こうでケリーはやはり微笑んでいた。
「以前申し上げたでしょう。たとえあなたがどんな選択をされようと、私はジェロディ様の味方ですと。何よりあなたを傍でお助けするようにというのが、ガル様より授かった主命ですから……私はヴィンツェンツィオ家にお仕えする者として、当然のことをしているまでです」
「だけど……本心では君も、僕に幻滅したんじゃない?」
「まさか。ずっと黙っていましたが……実はジェロディ様が皆の前にお姿を見せなくなった頃から、いつでも城を離れられるよう荷物をまとめていたのですよ。ジェロディ様が城を出たいとおっしゃったなら、すぐにでも発てるように」
「……え?」
「神子様なら身ひとつで城を飛び出されても問題ないでしょうが、生憎私は食糧やら防寒具やら、最低限の装備が必要でしたので。それらの支度に手間取って、城を出るのに支障を来しては困ると思いまして……」
と、こともなげに話すケリーに、ジェロディは驚きを禁じ得なかった。
いや、しかし言われてみれば確かにそうだ。ジェロディは食事も睡眠も必要としないため今日まで気にも留めなかったが、ケリーの装備は思いつきで城を飛び出してきたとは思えないほど万端で、食事や野宿に困っている素振りは一切なかった。
だがジェロディが城を出ると決めてから行動に移すまで、時間は半刻(三十分)とかからなかったはず。そのような短時間でどうやってここまで万全の準備を整えたのかと、もっと早い段階で疑問に思うべきだった。
そんなことすら気づけないほどぼんやりと半月も過ごしていたのかと思うと、ばつが悪いのを通り越して我ながら心配になってくる。
「つまりケリーには、僕が救世軍を離れるのが分かってたってこと?」
「いいえ。あくまで可能性のひとつとして備えていたまでのことです。ですが本心では……ジェロディ様があそこから逃げ出したいとおっしゃるのを、どこかで待ち望んでいたのかもしれません」
「どうして……」
「あなたが傷つき苦しむ姿を見ていられなかった……とでも申しましょうか。皆には悪いことをしたと思っていますが……特にウォルドには、最後の最後で借りを作ってしまいましたし」
「借り?」
「ええ。あの男はジェロディ様を追うと告げた私を引き留めもせずに、ただ〝持っていけ〟とこれを渡してきました。必要ないと断ったのですが、持っていって損はないはずだと押しつけられまして」
ケリーが苦笑と共にそう言って腰の物入れから取り出したのは、動物の皮らしきもので作られた小さな袋だった。口は紐でしっかりと閉じられているものの、膨らみ方を見る限り、かなりみっちりと中身が詰まっているようだ。
ジェロディは無意識のうちに手を差し出して、ケリーからそれを受け取った。
思考は未だ靄に覆われているものの、中身が気になる一心で口紐を解いてみる。
直後、驚きに息を飲んだ。何故なら袋の中には限界まで押し込まれた金、銀、銅の硬貨が窮屈そうに詰まっていたからだ。
「これ……」
どうりで袋を受け取った瞬間、掌にずっしりと硬い重みを感じたわけだった。
かなり乱雑に詰め込まれているせいで総額は分からないが、少なくとも金貨が二、三枚はまぎれているように見える。
──どうしてウォルドがケリーにこんなものを。
理由が分からず、ジェロディが茫然と座り込んでいると、やがて質素な夕食を終えたケリーが空になった器を水でゆすぎながら言った。
「最後まで態度には出そうとしませんでしたが……もしかしたらウォルドも、内心では責任を感じていたのかもしれませんね。我々が救世軍に合流するきっかけを作ったのは、他でもないあの男でしたから」
「……」
「とは言えあのときウォルドとカミラに助けられていなければ、我々が五体満足で黄都を出ることは難しかったはずです。ですからやはりこれは〝借り〟だと……返す機会に恵まれるかどうかは分かりませんが、そう思っておくことにします」
水を注いだ器をくるくる回しながら、ケリーは声色を変えずにそう告げた。ほどなく捨てられた水がびしゃりと地面を打つ音が、耳の奥でやたらと反響する。
翌朝、ふたりは日が昇る前に焚き火を消し、手早く支度を終えて再び馬上の人となった。ケリーは朝食を抜いた代わりに、北へ向かう道すがら、馬の背で乾パンと干し肉を囓っている。
ふたりの行く手にはそろそろベラカ湖畔の村が見えてくるはずで、ケリーはそこから船に乗り、ヴォリュプト地方を経由することなくオディオ地方へ渡る算段を立てていた。何しろ今は救世軍領という扱いになっているオディオ地方にさえ入ってしまえば一旦は旅路の安全が確保できる。かの地からイーラ地方は目と鼻の先だ。
オディオ地方とイーラ地方を分かつシャールーズ河を無事に渡ることさえできれば、そこから先は父の治める領地……。
けれど果たして、ガルテリオは自分を歓迎してくれるだろうか。
いくら救世軍を抜けてきたとは言え、一度は祖国に弓引いた自分を。
もちろんジェロディとて反逆の罪を許されようなどとは思っていない。
父のもとを目指すのはむしろ、己の犯した過ちを清算するためだ。
血のつながった唯一の家族である父を裏切り、その立場を危うくしたこと。
そうして起こした戦争で夥しい血を流し、国中の民を苦しめたこと。
そして何よりマリステアを、あんな形で死なせてしまったこと……。
一連の罪を、この身でもって贖おうと思っている。
だが、もしそれすらも父に拒絶されてしまったら? お前のような愚か者はもはや息子ですらないと、存在ごと唾棄されてしまったら?
父の手で首を刎ねられるのなら本望だ。されどそう思う一方で、せめて父だけには赦されたいと渇望している自分がいる。
ゆえにもし父にまで見放されたらと考え始めると、神子の肌が忘れたはずの北風の冷たさを思い出し、全身が震えるのだ。身を切るような寒さはあまりに長い夜と結託し、呪わしい不眠の力に苛まれる心身をさらに摩耗させていく。
おかげでジェロディは考えずにはいられない。
こんなことになるのなら、いっそ自分も、あの晩──
「──わあああああああああっ!!」
曇天の下、馬の背に揺られながら、ぼんやりと。
気づけばいつの間にか景色が変わり、ケリーと共に森の中の間道を進んでいたジェロディは刹那、突如轟き渡った裂帛の叫びに意識を揺り戻された。はっとして顔を上げれば、とっさに槍を抜いたケリーがジェロディの馬の轡を取り、木陰に身を潜めている。何が起きているのかととっさに目を凝らしたのに視界がきかない。
世界の輪郭がぼやけて、森の奥まで見通せないのは……霧?
否、違う。雨だ。音もなく降り出した霧雨が、数枝先の視界を掻き消している。
だが何やら行く手が騒がしい。
獣道をちょっと広げて草を毟ったような、狭い道の先で何かが起きている……。
(……血のにおい)
ほどなく鋭敏な神子の嗅覚が、微かな風に乗って運ばれてきた鉄と脂のにおいを嗅ぎ取った。直後、薄ぼんやりと張り巡らされた霧雨の膜の向こうから、血相を変えた数人の男女が飛び出してくるのが見える。
ジェロディよりほんの少し年上に見える青年から、走るのもやっとと見える老婆まで。皆が背に背に大小の荷物を背負い、必死の形相で逃げてくる。
雨の向こうから彼らを追って迫り来るのは──おぞましき異形の咆吼。
「ジェロディ様、魔物です!」
異変の原因をいち早く突き止めたケリーが叫んだ。
かと思えば人の群の最後尾を駆けていた大荷物の中年女が、絶望にまみれた顔のまま、背負った荷ごと巨大な口に呑み込まれる。
ぬめぬめとした真っ黒な頭部に、無数の眼を持つウツボのような魔物だった。
全長は一枝(五メートル)以上あるだろうか。長い胴には不気味な赤い背鰭と、爬虫類に似た短い足が何本か生えている。地底鱓と呼ばれる魔物だ。
「ジェロディ様はここでお待ち下さい。彼らを救出して参ります!」
「いや……僕も行く。あの大物相手にひとりじゃ危険だ」
「しかし……!」
「大丈夫。戦える……戦わないと」
ケリーひとりを危険に晒すわけにはいかない。マリステアを失って以来まともに思考することをやめてしまった頭でも、それだけは確信できた。
剣を抜いた瞬間、悪夢のようなあの晩の記憶が甦って心臓が暴れたが、唇を噛み締め震えを押し殺す。──怯むな。そう言い聞かせた。
ここでケリーを失えば、今度こそ己を許せなくなる。おまけに無知で非力な自分は、彼女なしでは父のもとへ辿り着くこともできない。父に会うことができなければ、この身が背負った罪を贖うことさえできないのだ。
だから、戦え。
凍てついてしまった己の魂に、もう一度火を入れた。
気遣わしげに見つめてくるケリーに頷き、馬腹を蹴る。
恐怖と涙で顔を歪めた人々が、こちらの姿を見つけるなり何か叫び出した。すれ違いざまに聞こえた「助けてくれ」という悲痛な叫びが、耳の奥にこびりつく。
ちらりと横目に見やった彼らは完全な丸腰だった。
武装しているのは老婆の手を引く青年だけで、あとの者はみな着の身着のままといった感じだ。身なりはボロボロで、薄汚れていて、誰もが疲れ切っている。
放っておけば早晩魔物に追いつかれ、ひとり残らず喰い殺されてしまうだろう。
(やるんだ、ジェロディ)
震えて立ち竦んでいる胸中の自分に鞭打った。
と同時に剣を構え、右手の《命神刻》に念じる。
枯れ木が身を寄せ合う冬の森から、無数の枝が浮き上がった。天を仰ぐように頭をもたげ、ごくりと獲物を飲み込んだ魔物がジェロディに気づいて吼声を上げる。
それが開戦の合図だった。
「百刃の計……!」
神の力で生命を吹き込まれた百の枝が、吼え猛る凶器となって魔物へ肉薄する。
彼らと共にジェロディも馳せた。
霧雨を薙ぐ銀の一閃が魔物の皮膚を斬り裂き、おぞましい悲鳴が地に満ちた。




