289.取り戻すまで
たった数百回剣を振っただけで、もう息が上がった。
額からもだくだくと汗が流れてくる。鬱陶しい。
季節はもう冬に片足を突っ込んでいて、日が昇っても骨身に染みるほど風が冷たいというのに、やはりまだ完全には熱が引いていないのだろうか。
だとしても、モタモタしている暇はない。
「くそ……」
弾む呼吸をどうにか整えながら、顎を伝って滴り落ちようとする汗を乱暴に拭って悪態をついた。そうしながらイークは身を屈め、練兵場の隅に放り投げていた水筒を取り上げる。灼けつくように熱い喉に中身を流し込めば、あっという間に空になった。何ならあと二つか三つ満杯の水筒があったとしても飲み干せる気がする。
(倒れる前なら休まず千回振ってもまだ余力があったってのに……五百を数える前からもう腕が上がらない。こんなザマで戦場に出たところで味方の足を引っ張るだけだ。たった百回でへばった初日よりはマシになったとは言え……)
医務室を出てから五日目の朝。
七日間に渡る昏睡から目覚め、ようやくラファレイから剣を握る許可が下りたというのに、まったく戻らない体の感覚にイークは苛立ちを覚えていた。
ラファレイからは「少しずつ馴らせ、無茶をすれば逆効果だ」とくどいほど忠告されたが、今は戦の真っ只中だ。焦るなと言う方が無理に決まっている。
(どんなに順調に回復したとしても、完全にもとに戻るまでひと月はかかるとあの医者は言ってたが……)
そんな時間は今の救世軍にはない。
それを分かっているからこそ、イークの中の焦燥はますます募った。
敵将ジャレッドを討ち果たし、その日のうちに魔物をけしかけられたソルン城攻略戦から早半月。暦の上ではついに月を跨ぎ、新年まであとふた月を切った。
ここ、ソルン城はトラモント黄皇国南部に位置するパウラ地方でも南寄りの地にあるためか、未だ雪が降り出すような気配はない。されどレーガム地方以北では既に降雪が見られてもおかしくはない時期で、遅くとも年内には第六軍との決着をつけなければ救世軍が窮地に立たされるのは目に見えていた。
無論、救世軍とてこの半月、ただ手を拱いていたわけではなく、軍師のトリエステがあれこれと手を回しているらしいことは知っている。イークが右半身の肋骨を寸断され、肺に達するほどの深手からようやく生還した日、見舞いに現れた彼女は「あなたの恢復を待っていました」と、いつもと変わらぬ冷静な声色で告げた。
イークが目覚めたと知った直後のカミラのように泣きじゃくるでもなく、ラファレイとかいう医者のように上からものを言うでもなく。
「無事に目を覚ましたからと言って、すぐに戦線復帰できるわけでないことは承知の上で申し上げますが」
と、彼女はイークの体調を気遣いつつも現在の救世軍の状況及び今後のおおまかな展望を語り、詳しくは後日軍議にて、と知らせて立ち去った。
そこで聞いた話によれば明日にもポンテ・ピアット城から一千五百ほどの援軍が到着し、例の夜襲で大きく兵力を失った部隊の再編に充てられるという。
而して態勢を立て直したのち、進軍。
彼我の兵力差は歴然だが、ここで何としてもトラクア城を落とし、パウラ地方を平らげなければ救世軍に未来はないとトリエステは言っていた。
そしてその勝利のためには、どうしてもイークの存在が必要だとも。
「現在我が軍は想定外の魔族の介入と、先の夜襲で受けた不測の被害により兵が浮き足立っています。今のところはまだ辛うじて軍としての体裁を保っていますが、これ以上状況が悪化すれば間違いなく士気は低迷し、最悪の場合脱走兵や離反者を出すことになるでしょう。ですがイーク、旧救世軍では副帥として組織の中心にいたあなたの存在は、あなたが想像している以上に大きなものです。フィロメーナの時代から救世軍を支えてきたあなたやカミラ、ウォルドが陣頭に立てば、それだけで奮い立つ兵がいます。病み上がりのあなたに無理をさせるのは本意ではありませんが……どうか救世軍の勝利のために、私に力を貸して下さい」
息が整うのを待ちながら、冷たい石の外壁に背中を預けて先日のトリエステの言葉を反芻する。新救世軍に合流してから三ヶ月。イークは今日まで、トリエステとフィロメーナをひそかに比べては「ほとほと似てない姉妹だな」と首を拈っていたのだが、あの日初めて、ああ、確かに彼女は彼女の姉なのだと痛感した。
何故ならどこまでもまっすぐで、透徹の底に剣のごとき鋭さと熱情を秘めた青灰色の瞳。一度こうと決めたら何を前にしても怯まぬ覚悟の眼光。
他の容姿はまったくと言っていいほど似ていないのに、その一点だけが揺るぎなく、彼女らが姉妹であることの証としてそこにあった。
ならば自分は全力で応えなければならない。イークが己が剣と魂を捧げると誓ったのは四年前の夏、リーノで出会ったあの光なのだから。
(……何より今のままじゃ、次にまた魔族や鎧野郎が現れたときにカミラを守ってやれない。万全の状態のときですら手も足も出なかったってのに……)
──ハクリルート。忽然とイークたちの眼前に現れ、そして嵐のごとくすべてを薙ぎ倒していった鎧の男をトリエステはそう呼んでいた。
聞けばやつは古くからルシーンに付き従ってきた魔界の手先で、現在は黄皇国第一軍の客将という地位にいるという。人呼んで『狂乱の剣士』。
率いる兵力は持たないがたったひとりでいかなる戦況をも覆し得るほどの力を持ち、味方であるはずの官兵にすらも恐れられているそうだ。その正体を魔界と契った殺戮者だと言う者もいれば、魔道に堕ちた神子だと囁く声もある。
だが何者であれひとつだけ確かなことは、やつの存在は救世軍にとって魔族と同等かそれ以上の脅威だということ……。
(トリエステは〝不意を衝かれる形で襲われたんだから仕方のないことだった〟と言ってたが、仮にあいつと正々堂々、正面から斬り合ったとしても、今の俺じゃ五小刻(五分)と持たずに殺されるだろう。やつがルシーンの手先だって言うならなおさら、今後も戦場で遭遇する可能性は充分にある……なら、いつまでもへばってる場合じゃない。さっさと体を戻して、今まで以上に鍛えないと……)
渋面を浮かべてそう思案しながら、ふと見下ろした己の右手は震えていた。
我ながら無様すぎて笑えてくるが、あの晩のことを思い返すたびいつもこうだ。
果たしてあれは魔術であったのか神術であったのか。
とにかく文字どおり目の前が真っ赤に染まった瞬間の光景は、何度思い返しても薄れることのない恐怖をイークの魂に刻み込んでいった。
幼い頃から戦士として育てられたおかげで、死に対する恐れなど遠い昔に置いてきたとばかり思っていたのに。ハクリルートが見せつけていった圧倒的な力は、生物としての本能に残された畏怖を容赦なく引きずり出し、拭いようのない敗北感と共に植えつけていった。これまでも戦いに敗れたり、命の危機を感じたことは何度もあるが、ここまで打ちのめされたのは初めてだ。
フィロメーナを失ったときとはまた違う、己の全力をもってしても抗えなかった事実への屈辱。無力感。だからこそイークの中の焦りは消えない。
もっと強く。もっと力を。この手で救世軍を──カミラを守り抜くためには、一瞬足りとも立ち止まっている暇はない。
そうしなければ次に命を落とすのは、今度こそカミラかもしれないのだから。
「マリーさんが殺されたの」
刹那、目覚めたその日に聞いたカミラの声が脳裏をよぎり、未だあの夜の絶望に震えている右手を握り込む。イークの無事を知って散々泣きじゃくったあとだったからなのか、はたまた感情を凍らせてしまったのか。短くマリステアの死を告げたカミラの瞳は空虚で、独白のように零れた声色も魂の重みを感じさせなかった。
自分がハクリルートに呆気なく斬り捨てられたあと、何があったのか詳しいことは分からない。ただマリステアの死という動かし難い事実だけがそこにあり、救世軍が失ったものの大きさを何よりも如実に物語っていた。
「私……また何もできなかった。城が魔物に襲われる直前までマリーさんと一緒にいたのに。これからも一緒に頑張ろうねって、約束したばっかりだったのに──」
そう言ってうつむいていたカミラの姿を思い出すたび、完治したはずの肺の傷を抉られるような気分になる。希術によってつながったはずの肋骨がギリリと痛む。
(あいつがやっとエリクの件から立ち直りかけてたところだったってのに……)
マリステアが死んだ。結局彼女とはそこまで親しい関係を築けなかったイークですら、その現実の重みに立ち竦んでしまいそうだった。何故ならマリステアはカミラが新救世軍内でも特に慕っていた友人であり、ジェロディの姉だったのだ。
彼女を失った夜以来、この城でジェロディの姿を見た者はいない。
彼は東館の最上階に与えられた部屋に閉じ籠もったまま、食事も睡眠も取らず抜け殻のごとく過ごしているという。無論、ジェロディは神子だから、何日食べなかろうが眠らなかろうが肉体的な死を迎えることはない。
されど彼の魂はあの晩、マリステアと共に死んでしまったのではなかろうか。
(俺がフィロを失ったときとは違う。あいつは為す術もないまま、目の前で……)
考えれば考えるほど胸が鬱ぐ。
ジェロディが置かれた状況を思うと、フィロメーナが息を引き取る瞬間を直接見届けなくて済んだ自分は幸福だったとすら思えた。こんなことになる前は、彼女の死に目に立ち会えなかった己をいくら責めても足りないと思っていたのに。
(せめて俺がもう少しでも持ちこたえていれば……)
ハクリルートがジェロディたちのいた正門前広場を襲ったとき、居合わせた者の中で最も戦闘経験豊富で年長だったのはイークだった。
ゆえに自分こそがもっとうまく立ち回らなくてはならなかったのだ。
だというのにできたのはとっさにカミラをかばうことだけで、そのカミラすらろくに守れず、あげくの果てには仲間から犠牲者を出すなんて。
「ちっ……」
今更考えたところで詮ないことだと分かっていても、堂々巡りの思考に頭の中を掻き回される。イークはいつになく弱気になっている己に舌打ちし、乱暴に頭を掻いたのち、足もとに放置していたわずかな荷物を担いで練兵場を出た。とにかく今は、間近に迫ったトラクア城攻略戦に備えることが最優先だ。二度とあんな無様を晒さないためにも、出陣までの間に可能な限り体を作り直さねばならない。
となればまずは一旦鍛錬を切り上げ、朝食を取って隊の様子を覗いたのちにまた鍛錬あるのみだ。幸い隊の管理は副隊長のアルドに任せておけば今のところは問題ない。アルドもあの晩重傷を負ったと聞いたが、比較的すぐに意識が戻ったおかげか彼の心身に衰えは見られなかった。むしろ七日も眠っていたイークを気遣ってか「隊のことはおれに任せて下さい」と胸を叩いてみせたほどだ。
ならば今は彼の好意に甘えることにして、イークは井戸水でザッと汗を流したのち、兵舎代わりとなっている東館一階の食堂へ足を向けた。
幸いマティルダがソルン城に置いていった兵糧の備蓄があるおかげで、質素だが決して飢えることのない毎日の食事が今はまだ保証されている。
だがそれもこの地で冬を越すとなれば決して潤沢とは言えない量だ。
ポンテ・ピアット城を押さえたことでコルノ島からの兵站は一応確保できているとは言え、島の蓄えまで食い潰す前に何としてもトラクア城を落とさなければ──
「……ん?」
ところがそんなことを考えながら食堂までの道を歩いていると、前方に人の気配を感じた。気づいて思わず足を止め、ふと視線を上げれば、数歩先に設けられた窓の前で赤い髪が風に煽られている。
「カミラ」
ひどく見慣れた横顔が目に入った。石の壁が刳り抜かれただけの窓辺に佇み、彼女はじっと外を見つめている。既に視界に入る距離まで来ているというのに、こちらに気づく気配もない。一体何を見ているのかと、隣の窓から視線の先を透かしてみれば、そこにあるのはあの日──マリステアが命を落とした広場だった。
「……おい、カミラ」
とうに日は昇っているにもかかわらず、妙に薄暗い廊下に他の人影はない。
ゆえにカミラを呼ぶイークの声はよく響き、何ものにも妨げられることはなかったが、やはり彼女は反応を示さなかった。……ああ、まただ。
(……くそ)
目覚めてから何度目になるとも知れない悪態を胸裏で吐き出し、イークは一歩踏み出した。マリステアの死を知らされて以来、カミラはずっとこんな調子だ。普通に話をしていたと思ったら突然泣き出したり、声をかけてもぼんやりしていて気づかなかったりと、とにかく精神的に不安定になっている。だからイークが傍にいてやれない間のことは頼むと、不本意ながらもカイルに任せていたはずなのだが。
「カミラ」
放っておいたら今にも消えてしまいそうな肩を掴んで、今度は至近距離から名前を呼んだ。するとさすがに反応があり、ここではないどこかを見つめていた瞳が揺れながら、緩慢な動きで振り向いてくる。
「……イーク」
長い眠りから覚めた直後のような調子で、ぽつりとカミラが口を開いた。
やはり肩を掴まれて初めてイークの存在を認識したのか、ほんの少し驚いた様子ではあるものの、まだ半分眠っているみたいに茫洋としている。
「お前、ここで何してる。カイルはどうした?」
「カイルなら……さっき、トリエステさんに呼ばれて。朝ごはん食べに来たんだけど、何だか急ぎの用事だったみたい」
「カイルがトリエステに……? じゃあ、ヴィルヘルムは」
「ヴィルも一緒にトリエステさんのところに行った。そもそもカイルを呼びに来たの、ヴィルだし」
「……ずいぶん妙な取り合わせだな。隊長のお前が呼ばれるならともかく、その三人で何を話し合う気だ?」
「さあ……知らないけど。近いうちトリエステさんから発表があるんじゃない? シズネたちはみんな出払ってるし、ウォルドもずっと出たり入ったりしてるし……動ける人たちで何かの準備してるみたいだから」
と、まるで他人事のように言いながら、カミラは再び窓の外へと視線を戻した。
今、彼女の双眸が何を映しているのかはイークにさえ分からない。ただすぐそこの景色を眺めているようでいて、もっと別の遠いどこかに意識が飛んでいる。
最近のカミラはずっとそんな感じだった。何を話していても上の空といった様子で、会話は成立しているはずなのに空気と喋っているような手応えしかない。
油断していると、数瞬目を離した隙にふっと消えてしまいそうだ。
あるいはフィロメーナを失った直後の彼女もこんな状態だったのだろうか。
そうだとしたら、あのとき何故カミラの傍にいてやらなかったのかとウォルドから理不尽に責められた理由が、少しだけ分かるような気がした。
「……そういやケリーはまだ戻らないのか? ウォルドやキリサト一門とはまた別の任務で動いてるって話だったが」
「うん……まだしばらくは戻ってこれないみたい。もし次の出動までに間に合わなかったら、ケリーさんの隊はコラードさんが代わりに指揮するって。ただ最近オーウェンさんが荒れてるらしいから……コラードさんが傍についてなくて大丈夫かなって、ちょっと心配だけど」
「そう言うお前も今は部屋にひとりだろ。やっぱりケリーが戻るまでの間だけでも、ラフィかナアラと相部屋させてもらった方がいいんじゃないのか」
「私なら平気だって。ラフィは急患に備えてラファレイと一緒にいた方がいいし、ナアラもやっとユカルと姉弟水入らずで過ごせてるのに邪魔しちゃ悪いでしょ」
「なら、俺の部屋に移ってもいい。アルドには悪いが、あいつには別の部屋を用意してもらって……」
「あはは、何それ。そこまで私が心配なの?」
「じゃなきゃわざわざこんなこと言うかよ」
笑っているようで笑っていない、からっぽの作り笑い。そんなものを目の前で見せられてはさしものイークも黙ってなどいられなかった。しかしカミラにとっては予想外の答えだったのか、意外そうに目を丸くしている。が、面輪に感情が戻ったのはほんの一瞬で、彼女の瞳はすぐに色を失うや、ふっと翳って足もとを向いた。
「……ティノくんに会いたい」
ところがしばしの沈黙のあと、ぽつりと零れたのは謝罪でも誤魔化しでもない答え。まるで想定していなかった返事に今度はイークの方が驚いていると、カミラは何かを封じ込めるように自身の片腕を掴み、ぎゅうっと握った。
「でも……今、ティノくんに会ったところで、なんて声をかければいいの? 私が何を言ったって、マリーさんがもうどこにもいないことは変わらないのに……」
「……そいつはジェロディ次第だろ。あいつが次に俺たちの前に姿を見せるとき、マリステアの件を乗り越えて前を向こうとしてるなら、特別な慰めの言葉なんか要らない。ただ仲間として傍にいて、一緒に戦ってやればいいだけだ。どんな言葉をかけるよりも、きっとそうしてやった方が支えになる」
「だけど……もしまだ立ち直れてなかったら?」
「そのときはお前から何か言うんじゃなくて、ただ話を聞いてやれ。本人が何も話したくないって言うならしょうがないが……あいつもお前になら話すんじゃないか。今、自分が何をどう感じてるのかも、これからどうしたいと思ってるのかも」
「……なんでそう思うの?」
「お前もフィロを目の前で看取ったからだよ。俺は……あいつが死ぬとき傍にいてやれなかったが、お前は違うだろ。何よりお前自身、マリステアとは親しかったみたいだからな。ジェロディもそれを知ってるなら、お前を頼るかもしれない」
「……でも、ティノくんがマリーさんと一緒にいた時間に比べたら、私とフィロが過ごした時間なんて……」
「時間なんて関係あるか。ジェロディがマリステアを想ってたのと同じくらい、お前だってフィロを大事に想ってたろ。もし人が人を想う気持ちに時間や貴賤で優劣をつけたがる馬鹿がいるなら、そいつは本気で誰かを想ったこともないクソ野郎だ。お前はジェロディがそんなやつだと思うのか?」
思わず語気を強めてそう言えば、カミラの肩がはっとしたように揺れた。
かと思えばふたり以外人影のない廊下に、再び沈黙が垂れ込める。
されど先程の沈黙とは明確に違った。何故ならカミラは泣いていた。
うつむいたまま、顔も上げず、されど嗚咽を押し殺して。
「イークも……フィロが死んじゃったって知ったとき、そうしてほしかった?」
「ああ」
「なら……私なんかでも、ティノくんを助けてあげられるかな。マリーさんのことはティノくんのせいじゃないって……伝えたら、分かってもらえるかな」
「……今すぐには無理でも、いずれ分かる。お前から伝えるならなおさらだ」
「ほんとにそう思う?」
「俺が心にもないことを言える人間じゃないってことは、お前が一番よく知ってるだろ」
イークがややそっぽを向きつつ答えると、途端にカミラが噴き出した。
自分で言っておきながらその反応にカチンときて、ぎろりと不穏な視線を投げかければ、カミラは泣きながら笑っている。
ほんの微か口の端が上がっているだけではあるけれど、確かに。
それはマリステアを失った夜以来彼女が初めて見せる、本物の笑顔だった。
おかげで思わず手が伸びる。
「カミラ、」
そうして指先で、彼女の笑顔を濡らす涙を拭ってやろうと思った。ところがイークの手がカミラの頬に届くよりも一瞬早く上体に衝撃が走る。病み上がりの肺腑をドスッと突くような衝撃に、たまらず「うッ……」と呻きが漏れた。が、何事かと目をやれば、カミラがイークに抱きついて胸もとに顔をうずめている。
「お、おい、カミラ──」
「ありがと。……ちょっとだけ、元気出た」
胸のあたりからくぐもった声がした。カミラは依然顔を上げない。
だからイークも小さく笑って、すぐそこにあるカミラの頭に手を乗せた。
同時に思う。やはりのんびりなどしていられない、と。
多少無理をしても構わない。次の戦いに備えて少しでも戦士の勘を取り戻す。
そうしなければ守れない。守ってやれない。この笑顔とぬくもりを。
(次は、絶対に……こんな風に泣かせやしない)
己の魂にそう誓った。いつか、次にまたカミラを泣かせたら軽蔑する、と言って微笑っていたマリステアを思い出しながら。
何より〝カミラを頼む〟と。
自分はあの日、親友に託されたのだから。
「ねえ、そこのおふたりさん」
ところが刹那、不意に背後から声が上がって、イークははたと我に返った。
振り向いた先には官軍将校の軍服をまとった少年がいる。
ソルン城の落城以降、いつの間にやらすっかり救世軍の一員として馴染んでしまった『嵐の申し子』──ユカルだ。
「……あ」
が、歳のわりにふてぶてしい態度は変わらず、今もぞんざいにイークとカミラを呼んだ彼は、果たしてふたりの状態を見るや間の抜けた声を上げた。かと思えば数瞬の沈黙ののち、何かしらの悟りに至ったような表情をしてひらりと身を翻す。
「ごめん。お邪魔みたいだから出直すよ」
「ち、違う! 別にそんなんじゃない! 俺たちに何か用か!?」
「用っていうか……召集。一刻(一時間)後に本館軍議室で、副隊長以上の幹部全員を集めた軍議を開くって軍師さんから通達だよ」
瞬間、腕の中でカミラがはっと息を飲んだのが分かった。
顔を上げた彼女と思わず視線を交わし合う。
──いよいよ動き出した。
多くの因縁を残していった第六軍との、再戦のときだ。




