288.エタリムに捧ぐ
「おいウォルド、なんでケリーまで行かせたんだ! あいつは本隊の片翼を担ってた救世軍の要だぞ!? しかもうちで唯一騎馬隊に対抗できる槍兵隊の隊長だ! これから軽騎兵を主戦力にしてる相手と戦おうってときにわざわざ味方の戦力を削るやつがあるか! 今からでも遅くない、俺が呼び戻してくるからそこをどけろ!」
と、猛獣のごとく怒鳴り散らしたオーウェンがウォルドに掴みかかるのを、トリエステはまるで別世界の出来事のように眺めていた。
つい五小刻(五分)前まで救世軍の総帥だった少年が起居していた部屋には今、トリエステとオーウェンとウォルドの三人しかいない。
直前まで共に留まっていたはずのケリーは、ジェロディが部屋を出ていってから間もなく、彼のあとを追うと告げて救世軍を去った。オーウェンは彼女の突然の翻身に驚き、慌てて引き止めようとしたようだがウォルドがそれを阻み、むしろ率先して送り出したがゆえに今に至る、といったところだ。
「あのな、いい歳した男がガキみてえにぎゃあぎゃあ喚くな、みっともねえ。そもそもティノを追いかけるって言い出したのはケリー本人で、俺はあいつの意思を尊重しただけだ。お前だってあいつと長え付き合いなら、外野がああだこうだ騒いだところで聞く女じゃねえってことくらい分かんだろ。だったら今更ガタガタ抜かすな。人に当たり散らす前に、ちったあ頭冷やしてこい」
ところが当のウォルドは悪びれた様子もなく、平生と変わらぬ調子でオーウェンを突き飛ばした。オーウェンも救世軍内では五本の指に入るほど恵まれた体躯の持ち主だが、さしもの彼もウォルドの膂力の前では赤子同然らしい。
難なくあしらわれたオーウェンは数歩たたらを踏んであとずさったあと、なおも食ってかかりそうな剣幕でウォルドを睨みつけた。が、再び爆発するかに見えた怒りはにわかに萎れ、彼は黒く長い髪を垂らしながら力なく椅子に沈み込む。
「……くそ……本当に何なんだよ、どいつもこいつも……」
「……」
「いきなりなんで……なんでこんなことになったんだ? 第六軍の手の内は読めてたんじゃなかったのかよ? なのに、なんでマリーが……どうしてあいつが死ななきゃならなかった? あいつはただ、家族といつまでも平和に暮らしたいって……そんな些細な願いを叶えたがってただけなのに……」
「……オーウェン殿、」
かけるべき言葉なんてなかった。
かけるべき言葉なんてないはずなのに、何か言わなければならないような気がして口を開き、しかしトリエステはやはり何も言えなかった。
オーウェンは依然、椅子の上でうなだれたまま顔を上げない。泣いているのかもしれなかった。オーウェンはマリステアを失った晩から今日までずっとジェロディの傍にいて、彼の前では決して涙を見せぬよう気を張っていたようだから。
「……だから頭を冷やせと言ってる。ここは戦場だぞ。いつ誰が命を落としてもおかしくねえ場所だってことくらい、お前だって承知の上だろ。まあ、敗北知らずの獅子様の下にいたんじゃ、元軍人とは言え平和ボケしちまうのも無理はねえがな」
「……」
「失う覚悟のねえやつは戦場には要らねえ。剣を握って誰かの命を奪う以上、自分だって奪われて当然だからだ。それを受け入れられねえなら、お前もとっとと手を引いた方がいい。だが本気でマリーに報いてやりてえと思ってるなら考えろ。あいつが本当に望んでたもんは一体何で、そいつを叶えてやるために自分にできることは何かってことをな」
されどウォルドの態度は最初から最後まで変わらなかった。
今、この空間で彼だけが残酷なほどにいつもどおりだ。
あるいはウォルドにはいつかこんな日が訪れることが分かっていたのだろうか。
ジャンカルロを失い、フィロメーナを失い、あちこちに生じた綻びをつぎはぎで誤魔化してきた組織など、遠からず瓦解するに決まっている、と。
「……ウォルド」
ほどなくオーウェンは無言のまま部屋を辞し、トリエステとウォルドだけが残された。扉を開けたら虚無が広がっているのではないかと思うほど静まり返った部屋に、彼を呼ぶ自分の声が反響する。当のウォルドはオーウェンが出ていったのを見届けると、直前まで彼が腰かけていた椅子にどかりと腰を下ろした。
まるでそこは初めから彼のための特等席だとでも言うように。
「……あなたは何故ここに? ジェロディ殿に何かご用でしたか?」
「用があったのはあんたの方だ。例の計画の進捗を報告しようかと思ってな。だが外で話が終わるのを待ってたら、自棄を起こした総帥殿が飛び出してきたもんで」
「……」
「で、どうすんだ。戦えるのか、あいつなしで」
てっきりジェロディを呼び戻すための算段を問われるのかと思ったら、ウォルドの思考はひと足飛びで救世軍の今後に向いていた。
あの少年が救世軍を見捨てたことをさも当然のように受け入れ、執着も憤りもせず、ただ戦いに勝つことだけを考えている。そうさせるのは長年の傭兵としての経験か。はたまた個人の意思を尊重するという彼の行動理念ゆえか。
……いや、違う。きっと彼は最初から決めていたのだ。
先刻彼自身がオーウェンに説いた〝失う覚悟〟というものを。
「……パウラ地方の平定に限って言えば、方法はあります。すべては例の計画の成否にかかっていますが、どのみち我が軍の勝機はそこにしかありません。問題はコルノ島に帰還したあとのことでしょうね」
「次の総帥を誰にするのか、今のうちから考えて手を打っておかねえと組織に亀裂が入るだろうな。下手すりゃ盛大な内輪揉めの果てに空中分解する可能性だってある。かと言ってあんたが総帥になる気はねえんだろ?」
「以前にも申し上げましたが、私は表立って人々の上に立つような器ではありません。ですが幸い救世軍にはまだ、ロクサーナとターシャというふたりの神子がいます。そして同盟勢力の筆頭であるライリー殿も」
「神子を戦争の旗頭に担ぎ上げるってのはまあ、古今東西使われてきた常套手段だがよ。ライリーに救世軍まで預けるのは無理だろ。あいつが総大将って器か?」
「いえ……確かにあの方は性格にやや難はありますが、将才については申し分ありません。ただ懸念があるとすれば、周囲にそれを認めさせるのに必要以上の時間と労力がかかる公算が大きいことです。無神論者を自称して憚らないライリー殿にロクサーナやターシャの後ろ盾をつけたところで説得力がありませんし、本人も容易に信念を曲げるような方ではありませんから」
「だったら最初からロクサーナを頼った方がマシじゃねえのか? ターシャは神子とは言え見た目が幼女だし、島の連中の心証もよくねえからな。本人の気質を考えても、いきなりあいつを組織のトップとして認めさせるのは無理があるだろ。その点、ロクサーナには一国の王だった経歴がある。大昔のこととは言え、長として下々の者を率いる心得はあるはずだ」
「ええ……そうですね。ですが……」
と言いかけて、トリエステは不意に、何と言葉を続けようとしたのか分からなくなった。ですが、何だというのだろう。ウォルドの言うとおり、ロクサーナならば既に信仰の対象として島民の心を掴んでいるし、神子としての自覚もある。
かと言って四代目総帥への就任をすんなり飲んでくれるかどうかは難しいところだが、彼女の性格ならば指導者を失い、路頭に迷った民衆を捨て置くなどということはまずないだろう。
おまけにロクサーナは過去に一度、悪政に走る黄帝を諫めようとしてソルレカランテ城へ登城し、門前払いされるという扱いも受けている。
加えて後日、理由もなく拘束されてフォルテッツァ大監獄に入れられていたことを考えても、救世軍の新たな軍主として充分な正統性を主張できるはずだ。
現状取り得る可能性の中では、最も合理的で現実的な選択肢。
頭では確かにそう理解している。けれど、
(……私はまた、自分の望みと目的のために、守るべき相手を見捨てるのか──)
ジャンカルロを失い、泣きながら助けを求めてきた妹を突き放したときも。
その罪を償うと嘯いて、弟を置き去りにしたときも。
トリエステが真に守るべきものを見捨てて追い求めたのは、いつだって身勝手な願望だった。これ以上罪の意識に苦しまなくて済むように、傷つかなくて済むようにと、己の保身にばかりかまけて、最後は結局後悔に苛まれるくせに。
(今度はここで戦いを放棄すれば、見殺しにしたフィロメーナやエリジオに顔向けできないから、と……)
だから、ジェロディを切り捨てた。
最愛の家族を失い、立ち上がれないほどに傷ついていた少年を。
彼がいま最も必要としているのは、悲しみに寄り添ってくれる理解者だと知りながら。手を差し伸べることもなく、絶望の只中に取り残して。
(ああ……だから、私はあの晩──)
そう思い至ったら、急に息が吸えなくなった。
胸が潰れて心臓が飛び散りそうだ。自分という人間にはほとほと愛想が尽きたつもりでいたが、まさかここからさらに堕ちる余地があるなんて思わなかった。
大愚という名の奈落はどこまでも深い。
落ちるところまで落ちたと思っても、どうやらまだまだ先があるらしい。
されどもう、そこから這い上がる力はトリエステにはない。
彼と共に在ればあるいはなどと、愚かな夢に酔う日々もあったけれど。
(本当に……どうして私はこうも愚かなの)
果たしてこんな人間に、残された仲間を率いることなどできるのだろうか。
三度総帥を失った絶望から彼らを救い、生かして勝利へと導くことが……。
「……ウォルド」
「何だ?」
「少し考える時間を下さい。ジェロディ殿の件は、然るべき場で然るべきときに公表します。ですがまずは、そのための具体的な構想をまとめなければなりませんので……しばらくひとりにしていただけませんか」
「断る」
「……は?」
無様に声が震えないよう、詰まる呼吸を精一杯制御して告げたというのに。
トリエステが思わず振り向いた先で、椅子の背凭れにしどけなく片腕を預けたウォルドは、さも当然の回答だとでも言いたげな顔でこちらを見ていた。
だが「断る」とは一体どういう了見だろうか。救世軍の命運を左右する決断を下すための時間が欲しいと言っているのに、この男はどうしてそれを──
「あんた今、自分がどういう状態か自覚してねえだろ。そんな人間をみすみすひとりにして、そこの窓から飛び降りでもされちゃたまんねえからな」
「……以前から気になっていたのですが、あなたは私という人間をどこか曲解していませんか? 今の状況で私が窓から飛び降りたところで、救世軍が得るものなど何もないと思うのですが」
「アホ。あんたこそいい加減、自分がどういう人間か理解しようとしたらどうだ」
「ア……」
「分かんねえなら教えてやる。あんたは今、ティノを総帥に担いだことを後悔してんだろ。あいつが神子だから、ガルテリオの倅だからと勝手に神格化して、たった十五のガキに重すぎる荷を背負わせちまったと内心自分を詰り倒してるはずだ」
「私は」
「そのくせあいつがもう無理だと音を上げた途端、救いもせずに突き放したことを気に病んでどうしようもなくなってる。だがあんただってあいつを殴りたくて殴ったわけじゃねえだろ。そうやってティノを見放したふりをして、自分が与えちまった重荷からあいつを逃がしたかったから手を上げた。あんたはあいつが自分のせいで苦しむ姿を、これ以上見てられなかったんだよ」
「私は、」
「でもって今、こう思ってるだろ。あの晩、死ぬべきだったのはマリーじゃなくて自分の方だったと」
ドッと後ろから心臓を衝かれたみたいだった。
反論したい衝動はあるのに、言葉が出ない。
ああ、どうして見透かされたのだろう。あの晩、ジェロディの手を放してしまったことを、胸を引き裂き魂を握り潰したいほどに後悔していることを。
「私は……」
それでも何とか理性を保とうと、震える喉からどうにか声を絞り出した。
分かっている。ウォルドの言うとおりだ。
自分は自分のせいでジェロディが苦しむさまを見ていられなかった。
だから逃がした。彼を閉じ込めた救世軍という名の檻の中から。
未だ幼き少年を言葉巧みに唆し、悲劇の鎖でつないでしまった己の罪をなかったことにしたかったのだ。そしてそんな醜い保身のために彼を傷つけた自分を許せなかった。そもそもあの晩、自分こそがマリステアの代わりに身を擲ってジェロディを守っていれば、こんなことにはならなかったのに、
「トリエステ。同じことを何度も言う気はねえから一回で聞き分けろ。確かにマリーは死ぬべき人間じゃなかった。だがな、だからってあんたが代わりに死ねばよかったなんて思ってる人間は、世界であんたひとりだけだ」
「どうして──」
「理由なんて訊かなくても分かれ。そもそも今の救世軍に死ぬべき人間なんざひとりもいねえからだ。現実的に考えて、俺たちの二十倍もの兵力を持ってる敵を倒すのに、欠けていい人間なんかいるわけねえだろ。だがそいつを容赦なく奪っていくのが戦争だ。ティノを追い詰めたのもマリーを殺したのもあんたじゃねえ。どうしても誰かに責任を押っ被せなきゃ気が済まねえなら、そいつはこの国に戦争って化け物を呼び寄せた黄帝かルシーンであるべきだ」
「ですがここがそんな化け物の腹の中だと知っていて、ジェロディ殿を引きずり込んだのは私なのですよ、ウォルド。先程の話を聞いていたなら分かるでしょう。私はあの方の中に、勝手にガルテリオ殿の幻影を見て……」
「違うな。いつかのあんたの言葉を借りるなら、〝すべては神のご意思〟ってやつだ。ティノが救世軍と出会ったのも、あんたがあいつを総帥に導いたのもな」
「こんなときに揚げ足を取らないで下さい」
からかうように肩を竦めたウォルドの態度を見て、トリエステはつい語気を荒げた。ここで感情的になっては彼の思う壺だと分かっているのに、止められない。
──ああ、そうだ。きっとジェロディもこうだったのだろう。
変えられない現実に、二度と覆せない過去に、己の犯した過ちに苛立って、打ちのめされて、何に縋ればよいのかも、どうすれば再び息が吸えるのかも分からずに、ただ、ただ、自分と世界を薙ぎ倒すしか……。
「じゃあこう言えば納得するか? そもそもティノが救世軍に入ったのは、俺があいつを騙してフィロと引き合わせたからだ。そうしようと思ったのはあいつに将器を見出したからとか、将来性を見込んだからとか、そんなご立派な理由じゃねえ。ヴィンツェンツィオの名を持つあいつをうまく抱き込めば、弱小勢力の救世軍にもついに運が向いてくる──だったら利用してやろうと、そう思ったからだ」
けれどその瞬間、トリエステの思考は再び寸断された。
呼吸が止まってしまったことにも気づかずに、思わず顔を上げて彼を見る。
ウォルドは至って平静だった。
彼の鳶色の瞳の中で驚愕を隠そうともしていない自分が滑稽に思えるほどに。
「おまけに当時のティノはいかにも温室育ちの、世間知らずのお坊ちゃんって感じだったからな。これなら騙すのは簡単だろうと思った。そして実際あいつはまんまと唆されて、気づいたときには逃げられねえところまで引きずり込まれてたってわけだ。嘘だと思うならカミラに聞いてみろ。あいつも当時、俺の目的を知ってて止めなかった共犯だからな」
「で……ですが、それは……」
「それは、何だ? ティノの中にガルテリオ・ヴィンツェンツィオの幻を見て総帥に仕立て上げたのがあんたの罪なら、やつの血を利用しようとした俺だって同罪だろ。なら俺もあの晩、大人しく毒にやられて死んどきゃよかったか? お望みなら今すぐ森に下りて、いくらでも毒を呷ってきてやるけどな」
「ち……違います、私は……」
「だが俺を殺すならカミラも殺せよ。確かにあいつはティノを丸め込むことに乗り気じゃなかったが、結局最後は俺の提案に折れたんだ。なら責任は取ってもらわねえとな。ティノを追い詰めてマリーを殺したのはお前だと、今すぐカミラにそう言ってあいつの首を刎ねてこいよ。ああ、ついでに、そもそも救世軍なんてもんを創りやがったジャンカルロとフィロも殺すか。あいつらさえいなけりゃ、少なくともティノがこんな戦いに巻き込まれることはなかったはず──」
「やめて下さい! 私は……!」
違う。そうじゃない。自分は誰かを責めたいわけじゃない。ただ。
ただ、幾度も同じ過ちを繰り返す己を許せないだけだ。
カミラにもウォルドにも罪はない。ましてやジャンカルロやフィロメーナにも。
彼らはただこの国にとって必要な選択をしただけ。
正しくなどないと知りながらも、全を救うために一を捨てる決断をしただけだ。
けれど、そうして彼らを許すということは──
「なあ、トリエステ。あんたが自分を許せねえのは勝手だがよ。あんたがそうやっててめえに拳を振るうたびに、一緒に殴られてるやつがいることを忘れんな。それでもてめえを殴らずにはいられねえってんなら、まあ、付き合ってやらねえこともねえけどな。俺はよくても、フィロやカミラまで殴り倒すのはやめてやれ」
「……!」
「ティノの件にしたってそうだ。確かに俺たちのしたことはティノの選択に影響を与えたかもしれねえ。だが最後に救世軍で戦うことを選んだのは他の誰でもねえ、ティノ自身だ。そしてその選択は間違いだったと、過去の自分を否定したのもな」
「……ウォルド、」
「フィロもエリジオも同じだ。あいつらだって迷ったり苦しんだりしながら、どう生きて死ぬべきか自分で考えて、自分で選んだんだよ。なのにあんたはまるで何もかもあんたが決めて、あんたが殺したような言い方をする。だが本当にあいつらのことを想ってるなら、ティノやフィロやエリジオがてめえの命を懸けて選んだ道を、自分を責めるためだけに否定するのはもうやめろ」
ああ、そうか。そうだったのか。
どうして自分はこんな単純なことにも気づけなかったのだろう。
己を虐げることこそが最高の罰だと、甘美な痛みに酔いしれるあまりに。
見えていなかった。見ようとしなかった。見ないふりをした。
自らの心を安らげるために振るった鞭が、愛するひとの名誉を、選択を、魂さえも打ち据えて、傷だらけにしていたことに。
(私は)
そんなつもりじゃなかった。フィロメーナが信念のために命を擲ったことも、エリジオがオーロリー家当主として意義のある死を選んだことも、ジェロディが救世軍を愛し、今日まで共に歩んだ事実も。
否定したかったわけじゃない。間違いだったと詰りたかったわけでもない。
ただそうすることだけが、己が犯した罪への唯一の償いになると信じていた。
けれど違った。
いや、本当は最初から分かっていたはずだ。あの日、ガルテリオがトリエステの手を引いて「生きろ」と告げたのは、こんなことをさせるためではなかったと。
(なのに、私は──)
これ以上心がバラバラになっていくことに耐えられずに、耳を塞いで、目を瞑って。そうして自分を許さないことで、自分を守っていただけだ。
もう傷つけられる場所もないくらい自分で自分を切り刻んでおけば、他の何ものにも傷つけられずに済むからと。されどそんなくだらない逃避のために愛した人々の想いさえも踏みつけて、見向きもせずにいたなんて。
(私は、本当に大馬鹿者だ……)
一度気づいてしまったら、あとはもう止められなかった。溺れるほどに溢れ出した後悔と懺悔の念が頬を濡らし、今度こそ本当に息ができなくなって顔を覆う。
嗚咽をこらえることさえできなかった。なんて惨めで滑稽な女だろう。
けれどもこれが自分なのだ。
どこまでも愚かで、弱くて、ちっぽけなトリエステ・オーロリーという女の──
「ごめんなさい……」
謝ることしかできなかった。
誰にともなく、己が踏み躙ってしまったすべての想いに。
たとえ二度と許されなくても。
謝って、もう一度はじめから、今度こそ本当の贖罪を。
泣きながらそう誓った刹那、不意にぐいと頭を引かれた。
かと思えば額が分厚い胸板に当たって、自分のものではない心音が聞こえる。
顔を上げるべきだと思った。けれどそうできなかった。
まったく思い上がりも甚だしい、甘ったれた幻想だと分かっていても、彼は、彼にだけはほんの少し許されたような気がして、ようやく息が吸えたから。
「……ウォルド」
「何だ」
「私は……あの晩、あなたも死んでしまえばよかったなんて、思っていません」
「知ってるよ」
年甲斐もなくしゃくり上げながら、やっとの思いで告げた言葉への返事は無愛想で短かった。けれど今、この地平の上で、最もやさしい答えだった。




