27.幽霊教会 ☆
前にも述べたが、トラモント黄皇国の中心には三神湖と呼ばれる三つの巨大な湖がある。北東に位置するタリア湖と、その西に広がるラフィ湖、そしてふたつの湖のちょうど真ん中、そこからやや南へ下った位置にあるベラカ湖の三大湖だ。
これらの湖はそれぞれ大水神マイムの眷族である三水神の名を冠していて、だからまとめて『三神湖』と呼ばれる。トラモント黄皇国が誇る肥沃な農耕地帯はこの豊かな水源によって形成されており、かの国がエマニュエル史上稀に見る大繁栄を遂げたのも、この三つなる神のおかげだと言えるだろう。
そんな三神湖のひとつ、タリア湖の北にはボルゴ・ディ・バルカという名の町がある。トラモント黄皇国の北方に広がるトラジェディア地方では唯一と言ってもいいほど栄えた町で、規模は救世軍が本拠を置くロカンダと同じかそれ以上だ。
町からタリア湖へ向けて造られた無数の桟橋には、数え切れないほどの船が停泊している。ボルゴ・ディ・バルカはトラモント黄皇国の建国と前後して、水運業で発展した町なのだ。その港には連日連夜たくさんの船が出入りする。
おかげで町にはロカンダにも引けを取らないほど多くの人種が入り乱れ、晩秋にあっても熱気を感じさせる賑やかさは小さな都さながらだった。
けれどもそんなボルゴ・ディ・バルカの西のはずれに、『幽霊教会』と呼ばれるいかにもな建物が建っている。もとはどこの教会の所有物だったのかもはっきりしない、絵に描いたような廃教会だ。
外壁はぼろぼろ、聖堂の屋根は半分以上崩れ落ちていて、敷地内には背の高い雑草がぼうぼうに生えている。かつては修道士たちの宿舎として使われていたと思しい建物もくっついているものの、現在の住人と言えば無数のカラスだけ、灰色の石を積んで造られた壁には不気味な蔦がのたうち回り、もとの模様も定かでない。
おまけにその教会には妙な噂がいくつもあって、月のない夜は教会の中に幽霊が出るとか、鐘のない鐘楼から真夜中に鐘の音がするとか、とにかくその存在はボルゴ・ディ・バルカの人々にひどく恐れられていた。
だから幽霊教会には昼間でも人が近づかない。面白半分で敷地に足を踏み入れようものなら、かつてその教会を取り壊そうとした人々のように気が狂い、あるいはそれきり行方が分からなくなると、皆が固く信じているのだ。
そんな幽霊教会の真ん中に、カミラはいる。
いや、もっと正確に言えば幽霊教会の真下に、だが。
「ようこそおいで下さいました、フィロメーナ様!」
あちこちに灯火がともった地下の空間に、兵たちの歓声が沸き立った。フィロメーナは自身を歓迎する彼らに笑顔を向けながら、カミラたちを引き連れ奥へと向かう。廃教会の真下に位置する地下共同墓地。
救世軍トラジェディア支部の活動拠点はそこにあった。
現在地下墓地にはこの支部の総員である三百人の兵たちが集結している。
さらにカミラたちがロカンダから率いてきた精鋭が加わって、兵力は四百弱だ。
今回は出動までの時間が限られていたので、あまり多くの兵を連れてくることができなかった。何せロカンダから最短距離でボルゴ・ディ・バルカを目指すにはタリア湖を縦断するしかなく、そのためには船が必要になる。が、残念ながら救世軍はまだそれほど多くの船を所有していない。それで動かせる人数が限られた。
フィロメーナが自ら陣頭指揮を執るべくやってきたのはそのためだ。
本部からは他にもイーク、ギディオン、ウォルドと有力幹部が揃い踏みでやってきて、兵たちの士気は一気に上がっている。フィロの狙いはこれかあと、薄暗い地下の熱狂を横目に見ながらカミラは思った。人数の不足を士気で補う、というのも典型的な兵術のひとつだと、かつて彼女が講義してくれたとおりだ。
組織の総帥とそれを支える三幹部を迎えて、トラジェディア支部の兵たちはカミラの想像以上に昂揚していた。今なら死をも厭わず炎の海に飛び込めるといった感じで、ちょっと危うくはあるがその勢いが戦場ではものを言う。
フィロメーナはそんな興奮のうねりを、自ら前線に身を晒すことであっという間に作ってしまった。さすがは伝説の軍師エディアエル・オーロリーの末裔といったところか。カミラは改めてそんなフィロメーナの人望と才能に感嘆する。
──美人で人格者で頭もいいって、なんかそれもう最強じゃない?
そう思うと新参のカミラでさえ簡単に勝てるような気がしてくるから、フィロメーナはやっぱりすごい。
「よく来たな、フィロ。それにイーク、ウォルドも、久しぶりだ」
やがて地下墓地の最奥にある空間へ辿り着くと、低く太い声がカミラたちを出迎えた。外の通路よりも幾分か明かりが落とされているその部屋にはどっしりとした体格の男がひとりいる。歳は四十をいくつか超えた頃と思しく、ちょっとばかし下腹が出ていて、しかし単に太っているわけではない。カミラは奥の壁にかけられた灯明かりの中で、男の二の腕がたくましい筋肉に覆われているのを認めた。
筋肉の申し子たるウォルドほどではないが、それでも革の上着の上からはっきりと分かるくらいだから、なかなかに鍛えられた肉体だと言っていい。
「スミッツ、元気そうね。また会えて嬉しいわ」
対するフィロメーナもそう言って男に笑いかけると、どちらからとなく歩み寄り、互いに抱擁を交わした。茶色の口髭を蓄え、中年然とした男とフィロメーナが並んで立つと親子のように見えなくもない。
だがフィロメーナがスミッツと呼んだその男が、彼女の父親などではないことはカミラにも分かっていた。彼はこのトラジェディア支部の責任者。
イークやウォルド、ギディオンに次ぐ救世軍の重鎮だ。
「急に兵を集めてくれなんて無茶を言ってごめんなさい。私たちが到着するまで、慌ただしくて大変だったんじゃない?」
「なんの。お前の頼みとあれば聞かんわけにはいかないからな。何よりいち早くギディオン殿が駆けつけてくれたおかげで俺はそこまで苦労せずに済んだよ。戦の準備をしながら鍛冶場の方も仕切れたくらいさ」
心配顔をするフィロメーナの肩を抱いたまま、スミッツはわっはははと声を上げて豪快に笑った。彼はボルゴ・ディ・バルカで鍛冶屋を営む傍ら、こうしてトラジェディア支部のまとめ役を務めているのだ。
そんなスミッツの背後にはカミラたちより数日早く到着したギディオンが控えていて、目配せすると厳かな頷きが返ってきた。やはりこういうとき、戦の経験豊富なギディオンは頼りになる。既に老齢で、しかも先の軍資金調達任務から戻ってすぐのことだというのに、しゃんと佇む姿からはまったく疲労が窺えない。
おまけにスミッツに代わって戦支度の指揮まで執ったというのだから、本当にとんでもない人だ。カミラがまだ救世軍に入ったばかりの頃、ウォルドが陰で「あれは化けモンだ」とギディオンを評していたが、その意味が今なら分かる──本人には口が裂けても言えないけど。
「で、もしかしなくてもそっちにいるのが?」
「ええ。彼女がカミラ、イークと同じ太陽の村出身の戦士よ」
と、ときに自分の名を呼ばれ、カミラははっとスミッツへ向き直った。
そもそもカミラが幹部たちにまぎれてここへ来たのも、新参者として支部責任者に挨拶をするためだ。
「はじめまして、カミラです。鍛冶師のスミッツさん、ですよね」
「ああ、スミッツでいい。話はフィロから聞いてるよ。ようこそ、救世軍へ」
「ありがとう、スミッツ。お会いできて光栄です」
カミラはにっと不敵に笑って、同じように笑い返してきたスミッツと握手を交わした。スミッツの手はまさしく鍛冶師のそれで、握られると痛いくらいごつごつと節くれ立っている。というのも当然で、スミッツはかつて黄都に工房を構えていたほどの敏腕鍛冶師であり、かのトラモント五黄将がひとり、ガルテリオ・ヴィンツェンツィオの剣も打ったことがあるのだとフィロメーナから聞いていた。
一方自分のことはフィロメーナからどんな風に伝えられているのだろうか。
カミラはそこが気になりつつも、幹部たちが早速机の周りに集まって作戦会議に入る素振りを見せたので、自分は出入り口にほど近い場所で待機することにする。
「それで、早速だけどスミッツ、現在のゲヴラー一味の状況を報告してくれる?」
「ああ。これはさっき戻った偵察の話だが、今のところ地方軍は一味の砦を囲むばかりで、攻撃らしい攻撃は行われていなかったそうだ。砦は切り立った崖の上に築かれていて、これに攻め込もうと思ったら崖際の細い道から兵を進めるか、麓の崖をどうにかよじ登っていくしかない。それで連中も攻めあぐねて、仕方なく兵糧攻めに出てるって感じだな。ただ砦の方からもこれといった反撃はなく、中にいるそのゲヴラーって男が生きてるのか死んでるのかまでは確認できなかったとさ」
「そう……だけど砦側が未だ降伏していないということは、ゲヴラーさんがまだ生きて皆の指揮をしているということじゃないかしら。パオロさんの話ではかれこれ六ヶ月もこの状態が続いているというし、いくら心身共に屈強な人たちが揃っていると言っても、統率者がいなければとっくに秩序が失われている頃だわ」
「だな。だが仮にゲヴラーがまだ生きてるとしても、砦が落ちるのは時間の問題だぜ。何せパオロが砦を出てくるとき、ゲヴラーは持ってあと二ヶ月って言ってたんだろ?」
「ええ。そしてパオロさんがロカンダへ辿り着くまでの間に、既にひと月が経過している。彼の証言をもとに正確な日数を計算してみたのだけれど、パオロさんが砦を出てから今日で三十五日目よ。あといくばくの猶予もない」
「だとすればこちらも時間をかけて敵を引き剥がすのではなく、短期決戦に持ち込まねばなりませんな。かと言って相手は岩山の中腹に陣取る上方の軍。これを麓から攻めるのは愚策というものです。そのあたりについて、フィロメーナ様には何か策がおありですかな?」
──わあ、すごい。みんなほんとに軍議してる。
なんて場違いにも感動しているカミラの視線の先で、ギディオンから投げかけられた問いにフィロメーナが力強く頷いた。実を言うとカミラはまだ幹部の身分ではないものの、救世軍に入ってから暇を見てはフィロメーナから軍学の講義をつけてもらっている。ルミジャフタ上がりのカミラは個人でならば自在に戦えこそすれ、集団戦の経験に乏しく、それを補うには兵術の知識が有用だと勧められたのだ。
おかげでこうして軍議を傍聴していても、フィロメーナたちが何を話し合っているのか分かる。先程ギディオンが指摘したのはたぶん、山や丘のような地形では上方に陣取った軍の方が常に優位であり、それを下から攻めれば逆落としをかけられる危険がある、というようなことだろう。
だがフィロメーナは、それに対抗するための秘策がある、と言った。
彼女はスミッツに声をかけて、ゲヴラー一味の砦があるあたりの地図を用意させると、同時に目線をこちらへ向ける。
途端にその目と視線が合って、カミラは一瞬ドキッとした。いつもは花のようにふわふわした印象のフィロメーナが、まるで一本の剣に姿を変えたような。
彼女のあんな表情を、カミラはこれまで見たことがない。
「カミラ。悪いのだけど、パオロさんを呼んでくれる?」
「えっ?」
「パオロさんよ。そこに控えてくれているでしょう?」
あ、と間抜けな声を上げ、カミラは慌てて外の通路を振り向いた。そこにはアルドに付き添われたパオロがいて、薄暗い地下墓地をおどおどと見回している。
これから戦場となる砦周辺の土地勘を持っているのは彼だけなので、どうしてもその協力が必要だとフィロメーナがここまで連れてきたのだ。が、そのパオロに、
「パオロさん。フィロが呼んでるんだけど……」
と声をかければ、
「ヒイッ!?」
と突然飛び上がった。彼の反応に驚いたらしいアルドも隣で飛び上がった。
「な、何ですか急に!? 脅かさないで下さいよ!」
「そ、そ、そいつはこっちの台詞でさあ! あ、あんたら、なんで揃いも揃って平気な顔をしてるんです? ここはあの幽霊教会でやすよ? しかも地下墓地でやすよ? そんなところに連れてこられて平静でいろって方が無理な話でさ!」
「なんだ、お前。幽霊教会の噂を知ってたのか」
「ヒイッ!?」
と、ときに部屋の奥からウォルドが現れて、パオロは再び飛び上がった。
と言っても二度目の「ヒイッ!?」はたぶん心霊的なアレではなくて、ウォルド自身に向けられた「ヒイッ!?」だ。何せパオロは先日ウォルドに殺されかけてからというもの、彼の一挙手一投足に怯えている。完全にトラウマを植えつけられたようだ。カミラは胸中パオロに同情した──かわいそうに。
「まあ、そう怯えんなって。地上で流れてるあの噂はな、支部の存在を隠すために俺たちが流したデマだ」
「え?」
「要するに部外者が肝試し気分でここに迷い込んだりしたら困るから、あちこち手を回して誰もここに近寄らねえようにしたんだよ。おかげで効果覿面だろ」
「え……え、ええっ!?」
「あ、ちなみにここにあった遺体は全部、上の教会の移転が決まったときにきちんと新しい墓地へ移されたそうですよ。だから別に幽霊とかも出ないです。教会の人たちがちゃんと供養していってくれたみたいですから」
「えええええっ!?」
ウォルドとアルドからこもごもに種明かしをされたパオロは、眼窩から目玉が零れんばかりに驚愕していた。反応から察するに、どうやら彼は教会に入ると気が狂うとか、悪霊に攫われるとかいう噂をこれまで信じきっていたらしい。
もとはこそ泥だったというわりに意外と信心深いようだ。カミラは心の中で先程と同じ言葉を繰り返した──かわいそうに。
「で、フィロ。作戦ってのは?」
「結論から言えば陽動作戦よ。まずは山の上にいる敵軍を麓まで誘き寄せてこれを奇襲する。強襲地点はここ。ゲヴラー一味の砦がある岩山からおよそ八幹(四キロ)南西に常緑樹の森がある。小さな森だけどこの季節でも葉が落ちない草木が密生しているから、視界が悪く伏兵を置きやすいわ。そうよね、パオロさん?」
「へ、へえっ、間違いないでさあ」
ほどなくパオロを席に加え、幹部たちの軍議はさらに続いた。フィロメーナは事前にパオロから砦周辺の地形についてあれこれと聞き出していたらしく、地図の上に敵味方を表す黒と白の駒を置きながら、淀みなく説明を続けていく。
「そこに山の上から地方軍を誘い込み、一気に叩く。ここの伏兵はイーク、あなたに指揮を任せるわ。今回はただ単に奇襲をかけるだけじゃなく、最初に神術で敵の勢いを削いでほしいの。あなたの神術はかなり大きな音が出るから、まずそれで相手を怯ませ、左右から挟撃をかける」
「それはいいが、肝心の囮はどうする? 敵を麓まで引きずり下ろすには、当然そのための餌が必要だろ?」
「囮役は私が担当するわ。相手も救世軍の総帥が自ら戦場に出てきたと知れば、首を取ろうと躍起になって攻めてくるでしょうし」
「なっ……!? 何言ってんだ、そんな危険な役をお前に任せられるわけ──」
「大丈夫よ。直接の指揮は私じゃなくてウォルドに執ってもらう。私は彼の隊にまぎれて逃げるふりをするだけ。偽装退却ということになるけれど、あなたならお手のものよね、ウォルド?」
「ああ、まあ、俺は別に構わねえが……」
「待て! だったら陽動部隊の指揮はギディオンでもいいだろう? どうしてよりにもよってこいつと……」
「ギディオンの隊じゃ強すぎるからよ。敵を麓まで誘い出すにはある程度山上で戦って負けたふりをする必要がある。ギディオンにそれができないと言っているわけじゃないけれど、彼の強さは敵に警戒心を与えかねないわ。そうなれば陽動は失敗する。そもそもギディオンは敵に顔を知られている可能性もあるし……」
「確かに。仮に相手が儂の顔と経歴を知っておれば、まあまず追撃はしてこないでしょうな」
腕組みをしながら本人がしれっとそんなことを言い、パオロが怪訝そうな顔を向けた。まあ、事情を知らない人間なら〝このジジイ、何を自惚れてやがるんだ?〟と思うのは無理もない。
けれどもそうした疑問は、かつてギディオンが近衛軍団長──黄帝の側近く使えてその身を守る近臣中の近臣、エリート中のエリートだ──の座に就いていたと知れば、あっという間に吹き飛んでしまうだろう。
ギディオンは二十年にも渡ってその座に君臨し続けた生きる伝説みたいな人だ。
いくら地方の役人や軍人は馬鹿ばかりと言っても、さすがにそんな相手へ突っかかっていくほどの大馬鹿者はそうそういない。
「だからギディオンにはイークと一緒に伏兵部隊の指揮に就いてもらう。隊の編制は追って伝えるわ。それからパオロさんには……」
「お待ち下さい、フィロメーナ様。その前に儂からも提案があるのですが」
「何かしら、ギディオン?」
「簡単なことです。現在北でゲヴラー一味の砦を囲んでいる軍勢は、ここボルゴ・ディ・バルカの地方軍だということがスミッツ殿のお話で分かりました。ということは目下この町の郷庁はもぬけの殻。ならば直接地方軍を叩くのではなく、郷庁を急襲し占拠してしまえば、報せを聞いた郷守は大急ぎで取って返してくるはずです。さすれば戦わずして敵を砦から引き剥がすことができます」
落ち着いたギディオンの声が部屋に響き、それだ、とイークが賛同した。
確かにギディオンの策を採用すれば地方軍との戦闘は必要最低限に抑えられる。
指揮官不在の郷庁を落とすのがいかに簡単かということはカミラもジェッソで体験しているし、わざわざフィロメーナが危険に飛び込む必要もなくなるだろう。
が、当のフィロメーナは、
「残念だけれど、それはできないわ」
と一瞬の躊躇もなく首を振った。
彼女の言に「そうだな」と追従したのは口髭を摘んだスミッツだ。
「悪くない作戦だが、実行するにはリスクが多すぎる。町で騒ぎを起こせば国に支部の存在を嗅ぎつけられる可能性があるし、何より問題は東のエグレッタ城だ。ボルゴ・ディ・バルカはあの城に近すぎる。馬なら三日かかる距離でも、船を使えばわずか一日だからな。おまけにエグレッタ城に控えてるのは──」
「我が国最強のトラモント水軍と、かの軍を率いるリリアーナ皇女殿下」
「ご名答。その皇女様率いる二万の中央軍と、砦から引き返してくる地方軍に水陸から挟撃されてみろ。俺たちに勝ち目はないぞ」
「勝ち目がないどころか、全滅よ」
だから郷庁を襲う作戦は採れない、とフィロメーナは言った。エグレッタ城というのはここから北東に五百幹(二五〇キロ)ほど行ったところにある中央軍の拠点のことで、かの城には現在、トラモント黄皇国でたったひとりの皇女がいる。
リリアーナ・エルマンノ。かつてのトラモント五黄将がひとり、アレッシオ・エルマンノと現黄帝オルランド・レ・バルダッサーレの妹の間に生まれた娘。
つまり彼女は黄帝の姪ということだが、肝心の黄帝オルランドには子がいない。
よってこのままいけば、リリアーナは黄皇国史上初の女黄帝になるかもしれないと目されている人物だ。
が、噂によれば本人は皇族として生きるより父親のような軍人として生きることを望んでいる変わり者の皇女だそうで、軍才もなかなかのものだとフィロメーナなどは評していた。本人に拝謁したことがあるというギディオンもその評価に誤りはないとしている。リリアーナは若いが果断で、兵法の心得もあり、経験を積めば父をも超える軍人に育つだろうとも言っていた。
そんな皇女が相手では分が悪い、とギディオンは思ったのかどうか。
自分の提案した策が容れられないと分かると、彼はちょっと拍子抜けするほど簡単に引き下がった。表情は終始平然としていて、まるで初めから却下されることが分かっていたようにも見える。そこまで考えてカミラははっとした。
次いで奥にいるイークに目をやる──そういうことか。
ギディオンは最初から郷庁を制圧するのは無理だと分かっていて、敢えて作戦を提示したのだ。そうすることで遠回しに〝他に策はない〟とイークに伝えた。
直接本人に言えば角が立つから、あくまで遠回しに。
「そういうことだから作戦はこのまま明朝決行。日の出と共に兵を出すわ。ただその前にパオロさん、あなたは今からゲヴラーさんの砦へ戻ることは可能ですか?」
「ひょっ? あ、あっしが、ですか?」
「ええ。私たちが救出のためにもうここまで来ていることを、一刻も早く彼らに伝えてほしいのです。砦の中の食糧が完全に尽きるまで、もうあまり日がありません。食糧が尽きればこれ以上は籠城できないと悟って、皆で砦を飛び出してしまうかもしれない。そうなる前に希望があることを伝えないと」
「た、確かにおっしゃるとおりでやんすね。分かりやした。そういうことでしたらあっしがひと役買いやしょう。なあに、来るときは寝てる官軍の間をするするっと抜けてこられたんでさ。帰りだってきっと何とかなりやすぜ」
「ありがとうございます。スミッツ、あなたは支部の兵の中から特に信用できる者を数名選んでパオロさんの護衛につけて。できれば隠密行動に支障が出ない程度の物資も持たせてほしいわ。ゲヴラーさんたちに少しでも食糧を届けたいの」
「分かった。すぐに準備しよう」
「イーク、ウォルドは兵たちに食事と仮眠を取らせて。その間に各隊の編制を決めて指示を出すわ。ギディオンはここで編制作業を手伝ってくれる?」
「おう、任せろ」
「仰せのままに」
そうして軍議は一度お開きとなった。一同は三刻(三時間)後に再びここに集まることを確認して、それぞれが与えられた任務のために動き出す。
だがただひとり、石像のようにじっと動かない人物がいた。イークだ。
彼は未だ納得がいっていない様子で机上の地図に目を落とし、考え込んでいる。
──本当に他に策はないのか。
このままフィロメーナを囮役にしてしまっていいのか。
たぶん彼が考えを巡らせているのはそんなことだろう。
けれどそうして立ち尽くすイークの前で、フィロメーナが無情にもサッと地図から駒を避けてしまう。他の書類を広げるためだろう、彼女はその地図をくるくると器用に丸めながら動こうとしないイークに声をかけた。
「ほらイーク、あなたも行って。兵の指揮をウォルドひとりにやらせるつもり?」
「フィロ」
「時間がないわ。カミラ、あなたもイークを手伝ってあげて。アルド、あなたはウォルドの方を」
「は、はい!」
カミラよりも先に返事をしたアルドが、水を得た魚のごとく駆け出した。
どうもアルドはこういうとき、少しでも自分にできることを見つけて動きたい性格のようで、何か指示を受けると嬉しそうにすっ飛んでいく。そんなアルドの背中を通路の先へ見送ったのち、カミラは改めてイークへ目をやった。
「行きましょ、イーク。私、支部は初めてだからひとりじゃ迷うわ」
「……ああ」
返ってきたイークの声は低く、短かった。
地上ではまるで何かから逃げ出すように、太陽が沈み始めている。




