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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
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287.過ちの対価


 思えばあの約束が、今日までずっとジェロディの心の支えだった。


「この戦いが終わって、僕がまだジェロディ・ヴィンツェンツィオでいられたら……そのときはまた、ソルレカランテの屋敷で一緒に暮らそう。もちろん、ケリーもオーウェンも──それから、もしも叶うなら父さんも、みんな一緒に」


 もちろん叶うはずのない夢物語だと、どこかで分かっていたけれど。

 分かっていても信じたかった。一握(いちあく)の砂にも満たない希望だとしても、確かにそこにあるならば握り締めていたかった。失いたくなかった。そんな夢物語でも、彼女が笑って頷いてくれたことがどうしようもなく嬉しかったから。


 けれど願いはもう叶わない。


「また暮らせるといいですね。みんな一緒に、昔と同じように──」


 そう言って微笑んでいた彼女の笑顔は、今も変わらず(ここ)にあるのに。

 もう叶わない。届かない。どんなに手を伸ばしても。


 だったら自分は、どうしてこんなところにいるのだろう?



              ◯   ●   ◯



 味方の死者は、この数日で二千近くまで上っていた。うち半分は野営地で魔族の急襲を受けた連合国軍から出た被害だが、救世軍もそこそこの痛手を負っている。

 特に被害が甚大なのが、最前線で魔族と交戦していたヴィルヘルム隊とウォルド隊、そして正門前広場で謎の男の襲撃を受けたカミラ隊、イーク隊だ。

 同じ現場に居合わせた本隊は救世軍の頭脳たるトリエステを守るため、早々に退却したおかげで深刻な被害は出さなかった。


 だが出会い頭に隊長二名を失い、副隊長も続けざまに戦闘不能となったカミラ隊とイーク隊は退却の機を逸し、結果として半数近い兵を失ったようだ。

 加えて前線に出ていたヴィルヘルム隊とウォルド隊も魔物との交戦で少なくない犠牲を払った。ヴィルヘルムが文字どおり満身創痍(まんしんそうい)となりながらも、たったひとりで魔族を食い止めてくれたおかげで魔物による被害は少なかったものの、魔族が去り際に放った炎が予想外の災禍(さいか)をもたらしたのだ。


 それが他でもない、ソルンの森の毒茨(どくいばら)が放つ毒煙。

 魔界の炎で燃やされたことにより、煙に乗って舞い上がった毒茨の毒は、あっという間に味方を呑み込み死へと至らしめた。あの茨の毒は肌に触れただけならば痛みに苦しむ程度で致死性はないが、燃やした煙を多量に吸い込むと肺が機能不全に陥り、呼吸困難を起こして死亡するという恐ろしい代物だったのだ。


 おかげで前線に出ていた味方の大半がこの茨の毒にやられた。

 正門前広場から前線支援に向かったケリー隊とオーウェン隊の到着があと少し早かったら、被害はもっと拡大していたかもしれない。だが彼らが毒煙に巻かれる直前に、駆けつけたユカルが大嵐刻(ストーム・エンブレム)の力で森中の炎を鎮めた。

 ソルン城を呑み込むかに見えた毒の煙もその際に吹き散らされ、力を使い果たしたユカルが倒れる頃には、周辺を包んでいた毒素はかなり薄れていたという。


「どうやらソルン城がかつて吸血鬼(ヴァンパイア)の居城だったという言い伝えは、あながち根拠のない話でもないらしい。ヴィルヘルムの証言によれば、魔族が森に火を放ったあとも、魔物どもは毒の影響を受けることなくピンピンしていたという。それが事実なら、毒茨の毒は魔界のものには作用しないという仮説が立てられる。そしてやつらは同じように、人類にとっては猛毒と言われる魔界の瘴気(しょうき)にも適応している──ということは当地の茨が持つ毒は、瘴気汚染によって変異した植物毒だと仮定するのがもっとも適当な判断だろう」


 とは、森から運び込まれてきた兵士たちの様子を見たラファレイの言だ。

 聞けば毒茨の毒を吸った者たちの症状は、低濃度の瘴気を吸引した人間のものと酷似しており、試しに投与した瘴気中毒の治療薬も一定の効果を発揮したという。

 ゆえにラファレイはかの毒が魔界由来のものだと仮定し、彼を手伝うために駆けつけた連合国軍の医務官にも瘴毒(しょうどく)患者に対する治療を要求した。

 おかげで重度の中毒症状を起こしていた者たちも半数は助かり、毒による死者の数は最低限に抑えられたそうだ。


「……とは言っても、適切な治療ができたのは戦闘後城内に運び込まれた一一六名のみで、前線で犠牲になった二七九名のうちの大半は搬送される前に中毒死した兵士だったそうです。幸いヴィルヘルム殿はほとんど毒を吸引せずに済み、ウォルドの症状も軽度だったおかげで両隊の指揮系統は保持できていますが……不足した人員はやはり無傷のギディオン隊から補充する他ないでしょうね。カミラ隊とイーク隊の欠員については、騎兵としての修練をある程度積んだ兵を()てなければなりませんから、再編はコルノ島へ戻ってからになりそうです。それまでは当面、現在の人数で動いてもらうしかありません。ラファレイ殿の見立てではイークも今日、明日中には意識を取り戻す可能性が高いとのことでしたので……すぐに戦線に復帰できるかは目覚めたあとの経過次第ですが、アルドの方は既に隊務に復帰していますから、イーク不在の間は彼に隊長代理を依頼できます。カミラ隊の運用についてはのちほど、カミラとカイルに聞き取りをして判断する予定です」


 そんなトリエステの報告が、今日も右から左へ流れていく。

 ジェロディはソルン城の東館に与えられた自室で、彼女が一日二回、決まった時間に届けに来る報告を黙って聞いているだけだった。

 もうずいぶん長いことこの部屋から一歩も出ておらず、あの晩から何日が経過したのかも分からない。少なくとも窓の外では昼と夜とが何度も交互に訪れていたが、その回数を数える行為にジェロディは意味を見出だせなくなっていた。


「……で、官軍の動きは? マティルダ将軍はトラクア城に戻ったんだろ?」

「ええ……偵察に向かったアーサー殿の報告では、第六軍はトラクア城で再び籠城(ろうじょう)の支度を進めているそうです。城外には着々と防塁(ぼうるい)塹壕(ざんごう)などの防御陣地が構築され、周辺の郷庁所在地きょうちょうしょざいちからもありったけの兵力と物資を集めているとか。どうやらマティルダ将軍はあくまでも、フィオリーナが最初に提示した基本戦略を守ろうとしているようですね。すなわち戦を長期化させ、遠征軍である我々に敵地で越冬させることで、着実に物資と士気を削ごうとしている……」

「……まったく嫌になるほど将軍の思う壺だね。敵の思惑に乗らないためには早々にコルノ島へ引き揚げるしかないが、今ここで私たちが撤退すれば、将軍は間違いなく獣人居住区(ビースティア)へ兵を向けるだろう。かと言って馬鹿正直に籠城戦に付き合えば長期間敵地に足止めされて、下手すりゃその間に態勢を立て直した黄都守護隊(こうとしゅごたい)が背後を襲いにやってくるって寸法か」

「しかしマティルダ将軍がフィオリーナの戦略を忠実に守っている以上、陽動や偽装退却などの奇策はもはや通用しません。官軍としては城に()もって防御さえ固めていれば、我々がどちらを選ぼうと目的は達成されるのですから」

「チッ……まったく嫌らしい戦い方をしやがる。第六軍の強みは軽騎隊の機動力を活かした正々堂々の野戦じゃなかったのかよ」

「だが防御に徹しながらも相手を追い詰める攻めの姿勢は、いかにもマティルダ将軍らしいじゃないか。己の最も得意とする戦術を封印してでも勝ちにこだわる……そういう思い切りのよさが将軍の強さの根源なのは知ってたが、まさか敵に回すとこうも厄介とはね」


 そうしてほとんど壁に向かって喋っているも同然となっているトリエステを気遣ってか、最近は報告の席にケリーとオーウェンも同席している。ふたりはあの晩以来毎日交代でジェロディの部屋の前に立ち、片時も傍を離れようとしなかった。

 時折食事を運んでくることもあるが、ジェロディは一切手をつけていない。神子である自分は何日絶食しようと死ぬことはないし、そもそも食欲もないからだ。


 誰が訪ねてこようと、なんと言葉をかけられようと。すべてはジェロディの体をすうっと通り抜け、かけらも留まることなくどこかへ消えた。気づけばジェロディは格子が()められた窓辺に腰かけたまま、もう何日も身動きさえしていなかった。

 いっそこのまま身も心も冷たい石となり、城の一部と化してしまえればいいのにと思う。そうすれば何も見なくていいし、聞かなくていい。何も感じなくていいし、思い出さなくていい。


「……疲れた」


 すっかり機能を停止してしまった頭でぼんやりそんなことを考えていたら、唇から勝手に言葉が零れた。自分では気づかなかったが、それはジェロディがあの夜以来初めて口を開いた瞬間だった。

 だからだろうか。日が暮れ始めた窓の外を眺めたまま、微動だにしないジェロディを差し置いて話を進めていた三人が一斉に主を振り返る。

 そのとき彼らがどんな顔をしていたのか、ジェロディは知らない。

 知りたいとも思わなかった。どうでもよかった。何もかもが。


「ジェロディ殿、」


 と、トリエステが何か言いかけ、口ごもる。

 いつも台本が目の前にあるかのように言葉を(つむ)ぎ、言い淀んだりどもったりすることのない彼女にしては珍しい反応だった。


「……ジェロディ殿、申し訳ございません。ですがそろそろご決断いただかなくては」


 ……〝決断〟?

 決断とは、何を決めればいいのだろう。何を決められるというのだろう。

 愛したひとひとり満足に守れなかった、こんな自分に。


「ここまでの報告どおり、我が軍はポンテ・ピアット城からの援軍が到着し、残存部隊の再編さえ整えばいつでも出撃できます。ですが敵軍が魔族の支援を受けている可能性が浮上した以上、戦況は想定よりも数段厳しく……犠牲を覚悟でトラクア城の攻略に挑むか、諦めて兵を引くか、軍主であるジェロディ殿のご意向を仰がなくてはなりません」

「……」

「幸いにして我が軍には希術兵器(きじゅつへいき)(よう)した連合国軍の援護があり、マティルダ将軍が当城に運び込んでいた攻城兵器もほとんど無傷で鹵獲(ろかく)しています。将軍がソルン城の落城を見越していながら兵器を処分しなかったのは、トラクア城攻略の手段を敢えて提供することで我々を攻城戦に引きずり込もうという意図があるためでしょうが……誘われていることを承知で攻めるとすれば、可及的(かきゅうてき)速やかに城を落とし、将軍の思惑を(くじ)く以外に勝利はありません。そしてそのためには、恐らく当初の想定よりも多くの犠牲を払う必要があるでしょう」

「……」

「ですが本格的な冬入りの前にトラクア城を攻略することができれば、現在我が軍を悩ませているすべての問題は解決します。此度(こたび)の戦で消耗した物資は官軍から接収することで補填(ほてん)できますし、パウラ地方を手中に収めれば失った兵力の回復も容易です。そして何より、地理的要因により防衛困難な獣人居住区に対する脅威を大幅に削ぐことができる上、黄都守護隊の戦線復帰にも怯えなくて済むという利点が最も大きく……」

「……本当に?」

「はい?」

「パウラ地方を落とせばすべてが解決って、君は本当にそう思ってるのかい、トリエ? たとえ第六軍を倒しても、この国にはまだ中央軍が四つも残ってるのに?」

「それは──」

「だいたい〝兵力の回復も容易〟って……確かに兵士の頭数を揃えるだけならいくらでもできるけど。だけどいくら兵士の数を増やしたって、死んだ人間が戻ってくるわけじゃない。人の命は数字じゃない。百人死んだらまた百人補充すればいいなんて単純な話じゃないだろ。死んだ百人だって全員が名前と、人生と、愛するひとや家族を持ってたんだから」

「ジェロディ殿、」

「なのにこれからもっとたくさんの人を戦いに巻き込んで、人生や家族を奪い取るなんて……僕には無理だ。もう見たくない。人があんなに呆気なく死んでいく行為に、一体何の意味があるっていうんだ?」

「ジェロディ殿、お待ち下さい」

「どんな苦しみも、大切な人を為す術なく失う苦しみに比べたらとても些細なことだと……十年前、母さんを亡くしたときに僕は学んだはずだった。なのに忘れていた。忘れて、同じ苦しみを何百……いや、何千、何万という人に押しつけて……そんなやつが救世軍総帥? 笑わせるよ。馬鹿なんじゃないのか。なんでこんな単純なことにもっと早く気づけなかったんだ?」

「ジェロディ殿」

「もう、うんざりだ。戦争なんて」


 そうして気づけばひと息に言葉を紡いでいた。

 相変わらず視線は暮れていく世界を見つめたままで、ほとんどが無意識に零れ落ちた言葉だったけれど、一度閉ざしていた口を開くともう止まらなかった。

 この数日間、ずっと胸の内に閉じ込められていた黒くてどろどろしたものがどんどん唇から溢れてくる。しかし今のジェロディには止めることも、止めようと思考することもできない。ただ、ただ、思いのままに吐き出すことしか。


「ジェロディ殿。それはつまり、革命を放棄すると仰っているのですか?」


 おかげで頭の天辺から爪先まで、すべてが真っ黒になっていく。

 何かよくないものが自分を侵蝕していることは分かるのに、止められない。

 そこへトリエステが決定的な質問を投げかけてくるものだから、ジェロディはついに振り向かざるを得なかった。そして笑った。

 自分では気づかなかったけれど、とてもいびつに、冷笑的に。


「ああ、そうだよ。戦いは終わりだ。僕が馬鹿だった。何も分からないまま利用されて、躍らされて、何万もの命を犠牲にした。ハイムの神子が聞いて呆れる。まったく神様もどうしてこんな人間を神子なんかに選んだんだろうね」

「ジェロディ様」

「おかげで僕の人生は滅茶苦茶だ。《命神刻(ハイム・エンブレム)》をジェイクに押しつけられたあの日から、すべてが狂ってしまった。資格も素質もない人間が神子なんかになったせいで……だけど今日まで僕がしてきたことを、今更なかったことにはできないからね。責任は取らなきゃならない。この首ひとつで収まるのならどこへでも行くよ。とりあえず黄都へ帰って、陛下に謝罪すればいいのかな?」

「ジェロディ様、落ち着いて下さい。何を言ってるんですか。自分が今、何を言ってるか分かってるんですか!? 俺たちはマリーを殺されたんですよ! なのに黙って国に降伏するって言うんですか? 今日まで俺たちが戦ってきた意味を、全部否定するって言うんですか!」

「だから言ってるだろ。僕が馬鹿だったって。そもそもマリーは最初から戦いなんて望んでなかった。なのに僕が考えなしに巻き込んで殺したんだ。いいや、マリーだけじゃない、僕が総帥なんて役職を安請け合いしてから死んだすべての人が犠牲者だ。僕はその責任を取ると言ってるだけ──」

「ふざけないで下さい! 責任を取るって言うなら、今までの戦いで死んだ連中に報いるのが総帥としての責任でしょう? 今日までジェロディ様を信じて戦ってきた仲間の想いを無駄にしないことが、今できる精一杯の償いでしょう!? なのにあんたは逃げ出すって言うのか! 〝責任を取る〟なんてもっともらしい言い方をして、マリーを殺した連中に一矢報いることもなく……!」

「オーウェン。君はマリーを人殺しの口実にしたいのか。他者(ひと)を傷つけることを最も嫌っていた彼女の想いを()(にじ)ってまで、僕を戦に駆り立てたいと?」

「マリーを利用してるのはあんたの方だろ! あいつがどんな想いであんたを信じて守ろうとしたのか、そいつを全部なかったことにして……!」

「僕とマリーは物心ついた頃からずっと傍にいた。姉弟だったんだ。彼女が何を考えていたかなんて君に言われなくても分かってる。だけど君はただの居候だろ。家族でも何でもない、父さんの好意に甘えて屋敷に転がり込んできただけの──」


 激昂(げっこう)したオーウェンにつられて、ジェロディまでつい語気が荒くなった。

 そんなときだった。室内に突然、パンッと乾いた音が鳴り響いたのは。

 瞬間、ジェロディの視界が大きく揺れて、見えていたはずのものが見えなくなった。同時に頬に熱を感じた。信じられない思いで、改めて振り返る。

 そこにはトリエステがいた。いつもと同じ無表情でじっとジェロディを見つめ、容赦なく右手を振り抜いたトリエステが。


「……もう結構です、ジェロディ殿。これ以上我々を失望させないで下さい」

「トリエ、」

「あなたのお気持ちはよく分かりました。あなたがご自身を愚かだったと(わら)われるのなら、私も等しく愚かだったのでしょう。あなたの中にガルテリオ殿と同じ強さと高潔さを見て、勝手に期待してしまった私が」

「僕は」

「あなたには我々にそう思わせるだけの何かがありました。ですがもう過去の話です。救世軍を去りたいと本気で考えておられるのでしたらどうぞお好きに。それが本当にマリステア殿の願いだと思われているのなら、私もお引き止め致しません」


 刹那、ジェロディは目の前が真っ暗になった。

 遠回しに〝出ていけ〟と言われたからではない。どんな状況になっても自分の味方でいてくれると思っていたトリエステに、突然突き放されたからだ。


 ──どうして。どうして彼女はいきなり(てのひら)を返したんだ?


 そんな思考がぐらぐらと不穏な音を立ててジェロディを蝕んでいく。

 味方だと思っていたのに。理解してくれると思っていたのに。

 同じく戦いを嫌い、かつては戦場に戻ることを拒んでいた彼女なら。

 そのために(フィロメーナ)さえも見殺しにした彼女なら──


「……そうか。結局君も勝手に僕に期待して、勝手に失望するんだね」

「……」

「僕は父さんとは違う。父さんの代わりにはなれない。君なら分かってくれると思ってたけど……やっぱりずっと、僕はあの人と比べられていたんだね」

「……」

「出ていくよ。今の救世軍に必要なのは僕じゃない。強くて誇り高くて、いつだって完全無欠の戦いをするガルテリオ・ヴィンツェンツィオだ。父さんの代替品になれなかった僕はもう用済みだろ?」

「……」

「救民救国を(うた)いながらまだ人殺しを続けたいなら好きにするといい。僕ももう止めないよ。勝手にしてくれ」

「ええ。そうさせていただきます。──お達者で」


 ジェロディを見下ろす青灰色の瞳はどこまでも冷たかった。

 ああ、きっと彼女の父親も同じ目をしているのだろうとジェロディは思った。

 自分は父のようにはなれなかったが、トリエステは完璧な父親の模造品だ。

 ちっとも羨ましいとは思わないけれど。


(……あの晩、僕が親衛隊と共に逃がさなければ、彼女は確実に死んでいた)


 何故ならトリエステにもまた、拭いようがないほど濃くおぞましい死影(しえい)がまとわりついていたのだから。


(同じく死影に取り憑かれたカミラやイークが助かったのはターシャのおかげだけど、彼女が生きているのは僕のおかげだ)


 だというのに、命を救われた恩も忘れて──


(……さすがは妹弟(きょうだい)を平気で見殺しにする女だな)


 父親を嫌っていると言いながら、彼女の父もきっとこんな人間だったのだろう。

 そんな思いが次から次へと胸中に湧いてきて、ジェロディはいてもたってもいられなくなった。それが〝憎しみ〟と呼ばれる感情だと気づいたのはずっとあとになってからのことだが、今はとにかくトリエステと同じ空間で、同じ空気を吸っていることすら我慢ならなくなり、窓辺を下りて彼女に背を向けた。


 案の定と言うべきか、呼び止める声はない。

 オーウェンも先程の問答で身の程をわきまえたのかもう何も言ってこない。

 単純な彼のことだから、はっきりと言葉にされてやっと気づいたのだろう。

 自分はヴィンツェンツィオ家の家族でも何でもないと。


(どいつもこいつも──馬鹿ばっかりだ)


 舌打ちしたい衝動をこらえ、手早く荷物をまとめて部屋を出る。

 荷物と言っても必要なのは剣と金、あとは身の回りのちょっとした品だけだ。

 食糧も寝具もジェロディには必要ない。

 何故なら神子は食事をしないし、晩秋の夜の寒さを(しの)ぐ毛布もいらない。

 空腹も、暑さも寒さも、喜びも悲しみももう感じない。ジェロディ・ヴィンツェンツィオという男はあの日、マリステアと共に死んだのだ。


(……ずっと、傍にいると言ったのに)


 なのに、どうして自分はこんなところで無様に生き長らえているのだろう?


 胸を張り裂こうとするその想いをどこに吐き出せばよいのか分からないまま、乱暴に扉を押し開ける。途端にはたと気がついた。すぐ横に人影。かなり大きい。

 ウォルドだ。彼は一体いつからいたのか、ジェロディが飛び出してきた扉の脇にもたれてじっと腕を組んでいる。かと思えばふとこちらを見下ろして、


「よう、ティノ。顔会わせるのは七日ぶりか」

「……ウォルド、」

「イークが寝込んでるときでよかったな。──見損なったぜ」


 聞き慣れたはずの声で吐き捨てられたひと言が、ジェロディの胸を深く(えぐ)った。

 されどウォルドはこちらに反論する暇も与えず、(きびす)を返してたった今ジェロディが出てきた部屋へと踏み込んでいく。

 扉はすぐに閉められた。そこに荒々しさは微塵もなかったが、ジェロディは何故だか、高い高い崖の上から突き落とされたような気分になった。


(……ああ、そうか。僕はひとりになったのか)


 もう自分を守ってくれる者は誰もいない。

 マリステアも、トリエステも、ケリーもオーウェンも。

 夕闇に染め上げられた城の廊下には、ジェロディひとりだけ。誰の声もしない薄闇の中にしばしぽつねんと立ち尽くしてから、ジェロディは歩き出した。

 久しぶりに言葉を発したことで覚醒しかけていたはずの頭に、また(もや)がかかっている。もう何も考えられないし、考えたくない。


 今はただ、現実(ここ)から逃げ出すことしか残された道はなかった。

 奇跡的に誰にも呼び止められることなく厩舎(きゅうしゃ)まで辿(たど)()き、愛馬にひと揃えの馬具を乗せる。いや、あるいは途中で誰かと擦れ違ったり、声をかけられたりしたのかもしれないが分からない。部屋を出てからの記憶がない。

 しかし愛馬の(くつわ)()いてソルン城の正門まで行くと、さすがに声をかけられた。

 城外の見張りについていた救世軍の兵士たちだ。


 彼らはたったひとり、馬を曳いて現れたジェロディを見るやぎょっとした様子で口々に何か言っている。その言葉が自分に向かって投げかけられていることは分かるのに、何を言われているのか分からない。認識できない。答えられない。

 ゆえにジェロディが茫然と立ち竦んでいると、困惑顔を見合わせていた兵士たちが不意にはっと姿勢を正した。急にどうしたのだろう、とそんな彼らをぼんやりと眺めたところで、すぐ後ろから声がする。


「ジェロディ様はこれより極秘の任務に出られる。軍師殿も了承済みだ。我々が城を出たことは、軍師殿の許しがあるまでくれぐれも口外しないように」


 束の間思考が真っ白になり、無意識のうちに振り向いた。そこには愛用の槍を背負い、旅装を整え、馬具と少量の荷を積んだ馬を連れたケリーがいた。

 どうして、と尋ねようとしたのに、声が出ない。されど木偶(でく)のように立ち尽くすことしかできないジェロディを見やって、ケリーはちょっと微笑んだ。


「では参りましょう、ジェロディ様」


 辛うじて頷き、のろのろと馬に(また)がる。どこに行けばいいのかも分からぬジェロディを先導するように、同じく騎乗したケリーが先に立った。

 何も知らない兵士たちが真剣な面持ちで敬礼している。

 彼らはたった今、信じて命を捧げてきた総帥に裏切られようとしているのに。


「ケリー」


 ソルンの森へと至る山道を下りながら、ようやく前を行く彼女の名前を呼べた。

 けれどできたのはそこまでで、呼んでもケリーは振り向かない。

 ただまっすぐに前を向き、背筋を伸ばして、ひとつに結われた草色の髪を揺らしながら彼女は言った。


「夜のうちに森を抜けましょう。出口までの道は覚えていますのでご安心下さい。ジェロディ様の御身(おんみ)は、このケリーがお守り致します」


 可笑(おか)しかった。最愛の人が腕の中で冷たくなっても泣けなかったのに、ケリーの言葉を聞いて初めてジェロディは涙が溢れた。そんな自分が可笑しかった。

 されどそれをケリーに(さと)られてはいけない気がして押し黙る。

 ジェロディが黙ると、ケリーも何も言わなかった。

 どんどんと暮れてゆく茨の森の夕景に、馬蹄(ばてい)の音がふたつだけ。


 その日、ジェロディはおよそ十八ヶ月のあいだ苦楽を共にした救世軍を去った。


 マリステアの(ひつぎ)にすらも別れを告げずに。


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