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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
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286.さよならも言えずに


 最後の瞬間、夢を見た。

 なつかしい夢を見た。

 あれは、そう、確かまだアンジェさまが生きておられた頃のこと。

 わたしがまだ、ヴィンツェンツィオ家に招かれて間もなかった頃のこと。


「まりー?」


 と、たどたどしく名前を呼ぶ声に気がついて振り向くと、そこにはようやくおひとりで屋敷中を走り回るようになったばかりの、小さな小さなティノさまがいた。

 ティノさまは無垢という言葉が宝石のかたちを取ったかのような大きな瞳で、冬の庭園の片隅に隠れてうずくまっていた、わたしの泣き顔を見つめていた。


「ティ……ティノ、さま」


 まさか誰かに見つかるなんて思ってもいなかったわたしは、直前まで心を支配していた郷愁さえもどこかへ吹き飛んでしまうほど大慌てで、場を取り繕おうとしたように思う。されどティノさまはしばらくじっと、愛おしいほどまんまるな瞳でこちらを見つめたあと、必死で涙を拭うわたしの手を取った。


「まりー、どこかいたいの? けがしたの? たてる? おかあさん、よぶ?」

「あ……あ、ち、ちがうんです、ティノさま……ま、マリステアは、だいじょうぶです。どこも痛くないです。けがもしてません」

「でも、まりー、ないてる。だいじょうぶじゃないよ」


 根拠なんてどこにもないはずなのに、妙に真剣で確信に満ちた言葉。幼いティノさまが真顔で発したそのひと言に、わたしは数瞬呆気に取られてしまった。

 けれどすぐに、引っ込んだはずの涙がぶり返してきて。

 そう、わたしは全然〝だいじょうぶ〟なんかじゃなかったのだ。

 ヴィンツェンツィオ家の養女として迎えられてひと月余り。わたしは徐々にお屋敷での暮らしにも慣れ始め、荒野にぽつんと佇んでいたカラカラの故郷とは別世界としか思えない黄都(こうと)の喧騒にも恐怖を感じなくなりつつあった。


 けれど、シャムシール砂王国(さおうこく)砂賊(さぞく)に故郷を焼かれた日の記憶が薄れることはなく。わたしは数日に一度、当時の光景を──砂賊からわたしを守ろうとした父と母が、目の前で斬り殺されたあの光景を──夢に見ては悲鳴を上げて飛び起き、そんなわたしを見かねて毎晩一緒に眠って下さっていたアンジェさまにあやされるのを繰り返していた。


 ──どうしてわたしが。わたしだけが生き残ってしまったんだろう。


 お父さんもお母さんも、わたしを守るために死んでしまったのに。

 わたしだけが今もこうして息をして、とっても偉い貴族さまのお屋敷で、たくさんの花や、おいしい食べ物や、優しい人たちに囲まれて暮らしている。

 そう思うと苦しくて苦しくて、時々泣いてしまうことがあった。だけど同時に、温かな手を差し伸べて下さったガルテリオさまやアンジェさまにはとても感謝していたから、おふたりを困らせたくなくて、泣きたいときはひとりで泣いた。


 ティノさまがわたしを見つけて下さったのは、ちょうどそんなときで。

 本当にまったく〝だいじょうぶ〟でなかったわたしは、いま思い返すととても恥ずかしいのだけれど、幼いティノさまの前でわんわん泣いた。

 わたしがご両親に手を引かれてお屋敷にやってきた理由を、当時のティノさまがどこまで理解していたのかは分からない。けれどわたしは、冬の花をたくさんつけた生け垣の陰でとにかく泣きじゃくって、


「会いたい、です……お母さんと、お父さんに、会いたい、です……っ」


 と、叶うはずもない想いを吐露していた。

 あのときティノさまは、どんなお顔でわたしを見ていたのだろう。

 ずっと下を向いてしゃくり上げていたせいで、ちっとも覚えていないのだけど。

 そのときわたしは、思いがけない力でぐいと手を引かれて。

 しゃがみ込んだ姿勢から、均衡を失ったわたしが膝をついたのは生け垣の影の外──日の当たる芝生(しばふ)の上だった。

 そこはとても温かかったことを覚えている。何故って四歳も歳が離れたわたしの体を、ティノさまが小さな体で精一杯抱き締めて下さっていたから。


「ごめんね、まりー」


 そうしてティノさまはおっしゃった。


「ぼく、どうすれば、まりーのおとうさんとおかあさんにあえるか、わからない。でも、かわりにぼくがいるから──ずっといっしょにいるから、なかないで」


 ああ、あのとき、わたしは思ったんだ。

 わたしが、わたしだけが生き残ったのはきっと、この方と出会うためだったのだと。父と母はそのためにわたしを守ってくれたのだと。

 ティノさまはきっと知らない。

 あの言葉が、温もりが、どれほどわたしを救って下さったかなんて。


 だけど、ねえ、ティノさま。


 そんなあなただからこそ、わたしは。




 わたしは──




              ◯   ●   ◯



 夢を見ていた。

 どんな夢だったのかは覚えていないけれど、確かに見ていた、と思う。

 何故なら目が覚めたとき、頬が濡れて冷たかった。

 あれは誰の夢だったのだろう。

 起き抜けの頭に(おぼろ)な疑問がぽつりと浮かんでは消えてゆく。


「……! 先生、カミラさんが……!」


 そうしてぼんやり石の天井を見上げていると、不意に視界の外から声がした。

 誰だろう、と緩慢な動きで首を傾け目をやれば、女中のお仕着せをまとった背中が慌てた様子で駆けてゆく。やわらかそうな胡桃色(くるみいろ)の髪をふたつのおさげにしたあの後ろ姿は──ナアラ、だろうか。


「……ここ、どこ?」


 思わず声に出して呟こうとしたものの、喉がからからに乾いていて無理だった。

 (かすみ)がかったような頭で眠る前の記憶を辿(たど)ってみるも、何ひとつ思い出せない。

 ただ異様に体が重く、指一本動かすのも億劫だということが分かっただけだ。

 まだ寝ぼけているのだろうか。

 許されるのならもう一度、このまま眠りに就いてしまいたいところだけれど──


「……ようやく意識が戻ったか。ラフィ、水だ。それから診療簿(カルテ)を持ってきてくれ。ナアラ、脈の測り方は覚えたな?」

「はい……!」

「なら頼む。おい、触診するぞ。触られて痛むところがあれば声を上げろ」

「……? ラ……ファレイ、何ごと……?」

「分からんのなら思い出さない方が身のためだ。いいから今は指示に従え」


 ほどなく一度は駆け去ったナアラが奥からラファレイを連れてきて、いきなり体のあちこちを触られた。ナアラはナアラでラファレイの助手のようなことをしているし、一体何がどうなっているのか。

 カミラがぼんやりしたままの頭に疑問符を乗せていると、すぐにラフィがふたりのあとを追ってきて、カミラに水を飲ませてくれた。

 荒野みたいに乾ききって罅割(ひびわ)れていた唇に水の冷たさがピリリと()みる。

 されどおかげで幾分か呼吸が楽になった。粘膜に何か貼りついているようだった喉の違和感も薄れて、ようやくまともに声が出せる。


「──ッい……った……! ラファレイ、そこ、痛い……!」

「……左上腕骨の接骨がまだか。だが幸い内臓の方は異常ないようだ。熱もだいぶ下がったな。およそ万全とは言い難いが、(とうげ)は越えたと見ていいだろう」

「ほ、本当ですか……! よかった……一時はどうなることかと……」

「上腕骨の治療はのちほど連合国軍の希術医(きじゅつい)に改めて頼めばいいとして、あと二、三日安静にすれば容態も安定するはずだ。いくら非常時とは言え、連合国の魔術に頼らねばならんのは心底遺憾と言わざるを得んが……」

「希術は魔術ではない、と何度も言っているだろう。そもそもお前がいくら優秀な医者だとしても、これだけの患者をひとりで(さば)くのは無理がある。ならば使えるものは使うべきだ。医者の矜持(きょうじ)に懸けて、ひとりでも死者を減らしたいと考えているならな」


 ところがカミラが触れられた左腕の痛みに悶えていると、枕頭(ちんとう)で交わされていたラファレイたちの会話に突如割り込む声があった。

 聞き慣れた声だ、と涙目になりつつ目をやれば、そこには今日も今日とて黒ずくめの軍装に身を包んだヴィルヘルムがいる。

 まるで今から戦にでも(おもむ)くかのような装いで、しっかりと剣を()いているだけでなく、黒く染色された胸鎧(きょうがい)や手甲まで身につけた姿が何だか妙に物々しかった。


「……来ていたのか、ヴィルヘルム。上の状況は?」

「本館広間に収容された者たちのことを言っているなら、容態は快方に向かっているようだ。先程遺体袋がいくつか運び出されていくのを見たが、担当医(いわ)くあれが最後の重篤患者だったらしい。残りの者の大半は熱も下がり、もう間もなく全快するだろうと言っていた。あちらは連合国軍に任せておけば問題ない」

「そうか。それは重畳(ちょうじょう)なことだ。ついでに貴様の()()()()も今し方意識を取り戻したぞ。こちらはもうしばらく安静が必要だがな」

「ああ、どうやらそうらしい。だが安静が必要な者は他にもいるんじゃないか?」

「無論、ここにいる患者は皆そうだが?」

「お前の話だ、レイ。もう何日もまともに寝ていないだろう。広間の患者が減ったおかげで、連合国軍の医務官の中に手の空いた者がいる。そいつらをこちらへ回すようトリエステに要請してきた。あとのことは連中に任せて、お前も少しは休め」


 ふたりは一体何の話をしているのだろうか。

 未だ意識がはっきりとしないカミラにはぼんやりと会話を聞いていることしかできなかったが、相変わらず抑揚のかけらもないヴィルヘルムの言葉が、ラファレイの神経を逆撫(さかな)でしたらしいことは何となく分かった。

 彼は束の間、眼鏡の向こうの瞳を見開くと、たちまち怒気をあらわにする。

 かと思えば、結び目がほんの少し緩んで曲がっていた臙脂色(えんじいろ)のタイを素早く締め直し、真っ向からヴィルヘルムを睨みつけた。


「貴様はこの俺を誰だと思っている? 人から指図されずとも、自分の体調管理くらい自分でできる。余計な心配をしている暇があったら、貴様こそ己の体の心配をしろ。処方した薬はすべて服用したんだろうな?」

「俺の方は何も異常ないと言っているだろう。大人しく飲まなければ次は毒を渡されかねんから、出されたものはすべて飲んだがあれ以上はもう必要ない。まだ在庫があるのなら、残りは本当に必要としている者に使え」

「誰に何を処方するかは俺が決める。貴様の場合はもうしばらく経過観察が必要だ。あの毒茨(どくいばら)の毒の正体が我々の仮説どおりのものだったとして、中毒症状が見られないのは結構なことだが、貴様には他にもっと警戒すべき()()()()があるのだからな。いくらマナが施したものとは言え、魔術ごときを過信するなよ」


 実に棘々(とげとげ)しい口調で最後にそう警告するや、ラファレイは「フン」と鼻を鳴らして奥へと消えた。それを見たラフィもヴィルヘルムにぺこりと一礼し、慌てて師のあとを追っていく。取り残されたのはナアラひとりで、彼女はやれやれと嘆息しながら向き直ったヴィルヘルムと目が合うなり「ひっ……」と小さく肩を竦ませた。


 うっすらとそばかすの散った頬にはどうにか笑みを貼りつけているものの、やはり初対面の相手の目には、ヴィルヘルムの風貌はかなり恐ろしく映るらしい。

 おまけにヴィルヘルムの方も無言でそんなナアラを見つめるばかりだからなおさらだ。彼女はやや青ざめた顔で「え、えっと……」としばし口ごもったのち、はっとしたようにカミラを見やって、崩れかけていた笑顔を立て直した。


「す、すみません、カミラさん。目が覚めたばかりで混乱していらっしゃいますよね。あ、あの、ヴィルヘルムさん、私はラファレイ先生のお手伝いがあるので、代わりに説明をお願いしてもよろしいですか?」

「ああ、構わんが……レイの手伝いというのはもうしばらくかかるのか?」

「えっ……? あ、は、はい、先生からは休んでいいと言われているのですけど、もう少しだけ他の患者さんのお世話をしていこうかと……」

「そうか。あいつに手を貸してやってもらえるのは有り難い。が、今夜はほどほどにしておけ。──ユカルがお前を待っている」


 彫像のごとく佇んだままのヴィルヘルムがそう告げると、ナアラはみるみる目を見張った。かと思えば息を飲んで口もとを覆い、たちまち瞳を潤ませる。


「ユカルが……ユカルも目を覚ましたんですか……!?」

「ああ。ここへ来る途中そう聞いた。あの晩、毒茨の被害を最小限に留めることができたのはあいつのおかげだ。助かったと、礼を伝えておいてくれ」

「はい……! ありがとうございます……!」


 ナアラは喉を震わせながらそう言うや、ヴィルヘルムに深々と一礼して駆け去った。そうして奥へと消える彼女の背中を目で追って気づいたことだが、今は夜で、どうやらここは医務室らしい。それも当然ながらコルノ城の医務室ではなく、先日カミラたちが黄皇国(おうこうこく)第六軍から奪ったソルン城の医務室だ。あちこちに焚かれた灯明(ほあ)かりのおかげで、簡素な造りの寝台が奥までずらりと並んでいるのが見えた。


 おまけにどの寝台にも人が寝かされており、燭台の()が届かない暗闇の向こうからは微かな(うめ)(ごえ)も聞こえる。カミラのすぐ隣で眠っているのは見知らぬ兵士だが、顔の半分が包帯で覆われているところを見る限り負傷者だ。

 ということは自分もまた、戦いで負傷してここに運び込まれたのだろうか?

 そう言えばさっきラファレイが、左腕の骨がどうとか言っていたし……。

 けれどそこまで予測がついても、やはり意識を失う前のことが思い出せない。

 まるで思い出すことを脳が拒んでいるみたいに──


「具合はどうだ?」


 一向に晴れない思考の(もや)の中でカミラが懸命にもがいていると、ヴィルヘルムの声が降ってきた。彼は道中の光源にしていたらしい手燭(てじょく)を手近な脇棚の上に置き、たまたま傍に置かれていた椅子の上に腰かける。


「ヴィル……一体何があったの?」

「覚えていないのか?」

「うん……全然何も思い出せなくて……私たち、確かソルン城を無事に攻略して、城でひと休みすることになったはずよね? 落城前に逃げ出したマティルダ将軍の行方が分からないから、日が昇ったら捜索を開始するって段取りで……」

「……」

「で……なんで私、医務室(ここ)にいるの? もしかして寝込みを襲われた……?」

「……似たようなものだ。そして敵の戦力が想定以上に強大だった。途中で森の外に出ていた連合国軍が合流し、希術兵器を駆使してどうにか退けることには成功したが……敵は退却の直前、ソルンの森の毒茨に火を放ってな。おかげで甚大(じんだい)な被害が出た。ユカルが大嵐刻(ストーム・エンブレム)の力で火を鎮め、茨の毒を散らしてくれたおかげで全滅は免れたが、あと数日は身動きが取れない状況だ」

「毒茨に火を、って……そんなことになってたの!? じゃあ、他のみんなは? ティノくんは無事──」


 と、思わず身を起こしながらそう尋ねようとしたところで、突然鋭い痛みがカミラの頭蓋を貫いた。先刻ラファレイに左腕を触られたときのそれにも勝る痛みに、カミラは呻いて再び寝台へと沈む。


「おいカミラ、どうした?」

「ご……ごめん……なんか、急に起きたら頭痛が……も……もしかして私も、茨の毒を吸った?」

「いや……お前に中毒症状はなかった。頭痛は毒のせいではないだろう。ただ……本当に覚えていないようだから、落ち着いて聞け」

「う、うん……」

「俺たちが官軍の夜襲を受けたのは四日前だ。つまりお前はあれから四日、ずっと昏睡状態にあった。お前は城の正門前広場でジェロディたちと共にある男の襲撃を受け……殺されかけた。男の名はハクリルート。ウォルドの話によれば、大昔からルシーンに仕え続けている側近中の側近だそうだ」

「ハクリ、ルート……」


 と、その名を復唱した刹那、カミラの脳裏で何かが砕けた。

 それは火花を伴って炸裂し、思考を真っ白に染め上げ、直後、怒濤(どとう)のごとき記憶の奔流となって頭の奥から押し寄せてくる。


「あ──」


 思い出した。


 四日前の晩。黄皇国軍の夜襲。魔族の襲来。黒い鎧の男。


 ハクリルート。


 そうだ。あの男だ。あの男がすべてをめちゃくちゃにした。


 目の前で何人もの味方が血祭りに上げられ、気がついたときにはやつの切っ先が眼前にあり、その凶刃からカミラを守ろうと、イークが──



『八百年ぶりだな、エオネスの子よ』



「いや……!!」


 次の瞬間、カミラは暗闇が裂けんばかりの絶叫を上げて飛び起きた。

 ところが四日も眠りっぱなしだった体は、たったそれだけの衝撃にも耐えきれずに悲鳴を上げる。全身という全身に激痛が走った。おかげで息ができない。

 カミラは己の体を抱いてうずくまった。苦しい。痛い。たすけて。

 全身が、そう、この体中に、鎧の男が放った赤い刃が打ち込まれて、最後の一本がカミラの胸を貫く直前、暗転する視界に誰かが飛び込んできた。


 あれはたぶん、いや、間違いない──カイル。


 男と対峙したときの記憶はそこまでしかない。

 痛い。思い出そうとすると全身を貫かれた痛みまで(よみがえ)る。

 苦しい。必死に息を吸っているはずなのに息ができない。

 死ぬ。死んでしまう。否、あの瞬間自分は、確かに死んで──


「カミラ、しっかりしろ!」


 痛い。苦しい。痛い……!


 文字どおり息つく間もなく押し寄せてくる苦痛の濁流の中で、カミラは溺れた。

 早く息を吸わなければと思うのに、どうすればいいのか分からない。

 ただ全身が(おこり)のように震え、歯の根が合わず、視界がぐらぐらと揺れていた。

 そこへヴィルヘルムの腕が伸びてきて、思いきり抱き竦められる。

 耳もとで彼の声がした。


「落ち着け、カミラ。やつはもういない。大丈夫だ」


 カミラの全身の震えを押さえ込むように、ヴィルヘルムが腕に力を込める。

 しかしカミラはやはり息ができなくて、苦しくて、怖くて──たまらなく怖くて、ぐしゃぐしゃに泣きながらそんなヴィルヘルムに(すが)りついた。

 まるで肺が()()っているかのように胸が痛み、呼吸が整わない。されどそうして喘ぐカミラの肩に、刹那、ヴィルヘルムが額をうずめたのが分かった。


「すまなかった。俺が判断を誤った。お前を守ると言いながら、現れた魔族が陽動だとも気づかずに……」


 陽動。そうか。あの晩、ヴィルヘルムが邂逅(かいこう)したという魔族は彼を引きつけるための(おとり)だったのか。そしてすっかり無防備になったカミラとジェロディを狙い、やつが闇から降ってきた。ハクリルート。赤い凶光を操る男。やつの振るう刃によって文字どおり味方は()(たお)され、カミラだけでなくイークやカイルまで──


「……っ、ヴィ、ル……イークは……イークと、カイルは……?」

「……」

「ふたり、は、私を、守る、ために……私の、せいで……!」

「お前のせいではない。あいつらはただ、戦場で自分が果たすべき役割を果たした。しかし今回は相手が悪すぎた。それだけのことだ」

「なん、で……なんで、あんな、ことに……イークと、カイルは……無事だよね? お願い、無事だって言って……!」


 未だ引き攣けの治まらない胸で懸命に息を吸い、泣きじゃくりながら、叫ぶようにカミラは言った。嘘でもいい。ふたりは無事だと言ってほしい。

 でないと自分は、今度こそ本当に息が止まってしまう。

 されどヴィルヘルムからの返事はなかった。彼はカミラを抱き竦めたまま顔を上げない。その沈黙が何よりも怖い。溺れる。溺れてしまう。いやだ。お願い。


 お願いだから、どうか、神様──


「イークとカイルは無事だ。まだ危篤を脱してはいないが、助かる見込みはある」


 彼のひと言で、ようやく息が吸えた。……ふたりは無事? 本当に?

 だけど、だったらどうして顔を上げたヴィルヘルムの隻眼(せきがん)は自分を見てくれないのか。どうしていつも感情を表に出さない彼が、こんなにも苦しげに、


「だがひとり、助からなかった者がいる」


 瞬間、カミラの世界が静止した。


「よく聞け、カミラ」




「マリステアが死んだ」




 そこには音もなく、色もない。

 すべてが急速に色褪せ、真っ白になり、抜け殻になった。直前まであんなに記憶の濁流が渦巻いていたはずのカミラの脳裏さえ、空白と静寂に塗り潰される。


「……………ティノくんは?」


 長い長い沈黙の果て、そう尋ねた自分の声が他人のもののように空々(そらぞら)しかった。


 胸にぽっかりと開いた空洞が、魂も感情も、瞬きさえも奪ってゆく。


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