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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
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285.銃声は遠い


 ゆっくりと倒れ込んできた体を、無意識に抱き留めた。

 不死鳥が血溜まりに沈んでいる。

 赤い血。人間の血。マリステアの血だ。

 彼女の白い頬が、いつものように結われていない髪が、赤く濡れている。

 直前まで純白だったはずの寝間着も今は赤い。真っ赤だ。


「マリー」


 そう名前を呼びたいのに、声が出ない。

 まるで体が自分のものではなくなってしまったかのように動かない。

 瞬きすらできない。

 世界は凍りつき、何もかもが色を失い、時間も止まった。

 そんな中でただひとり、黒い鎧の男だけが凍えずにいる。

 ガシャリ、と鉄靴(てっか)を鳴らして地を踏み締め、こちらへ歩み寄ってくる。


生命神(ハイム)の神子よ。お前の右手の《命神刻(ハイム・エンブレム)》をもらい受けに来た」


 いびつに曲がった角つきの(かぶと)の下で男が何か言っていた。されど男の言葉はジェロディの意識に届かない。ただ目には見えない空気のように漂い、消えるだけ。


「……大神刻(グランド・エンブレム)がもたらす力と運命は、人間の手に余る。ゆえにお前も手放して楽になれ──俺が、それを許そう」


 鎧が剣を振りかぶった。振りかぶったような気がしただけだ。

 ジェロディは見ていないし、知らない。どうでもいい。

 そんなことより今はマリステアを、誰か──


「さらばだ」


 風がうなる音がした。

 力も魂も失って座り込んだジェロディの首を狙い、黒い(つるぎ)が飛んでくる。

 されど次の瞬間、あたりに響き渡ったのは青い血の飛沫(しぶ)く音ではなく、甲高い鉄の音だった。その鋭い音色がジェロディの鼓膜ごと意識を突き刺し、ようやくほんの少しだけ視線を上げることができる。


「……シズネ、」


 そこで男が振るった剣を受け止め、歯を食い縛っている少女の名を呼んだ。

 よほど膂力(りょりょく)に差があるのだろう。

 男の剣を止めたシズネの暗器は小刻みに震えている。

 されど彼女は一歩も引かなかった。燃えるような覚悟と決意の宿った瞳で男を睨みつけ、殺気という殺気を体中にみなぎらせながら、叫ぶ。


「ソウスケ!!」


 シズネの叫びに呼応して城館の屋根から影が舞った。口布で顔の半分を隠し、右手に〝()〟と呼ばれる紙札を構えたソウスケが宙空で耳慣れない言葉を口ずさむ。


「リン・ピョウ・トウ・シャ・カイ・ジン・レツ・ザイ・ゼン……!」


 彼の言葉によって眠りから目を覚ましたかのごとく、五枚の符が輝いた。

 ソウスケは遥かな高みから、その符を鎧に向かって投げつける。

 同時にソウスケの右手を離れた符はしかし、空中を走りながら意思を持ち、五方向に分かれて鎧を囲んだ。

 直後、符から発された光が線となり、互いを結び合って五芒星を描く。

 黒の鎧はそうして生まれた星の中心に閉じ込められた。

 とっさに剣を振り上げようとしたようだが、艶消(つやけ)しされた黒剣は光の壁に当たって弾かれ、悲鳴にも似た金属音を立てる。


「……なるほど。逆神の術(メレド)、か」

「せっ……!!」


 男のひとりごとをみなまで言わせず、シズネが即座に踏み込んだ。菱形(ひしがた)に近い形状の暗器(やいば)を両手に構え、兜と鎧の狭間に滑り込ませるように振り上げる。

 彼女の暗器捌(あんきさば)きはぞっとするほど正確だった。倭王国(わおうこく)の優れた刀匠によって打たれた刃は、迷わず男の首もとに吸い込まれるかに見えた。

 ところが瞬間、居合わせた全員の視界が真っ赤に染まる。

 男の足もとから突如赤光(しゃっこう)が噴き上がり、それが無数の針のごとく闇を貫いて、宙に浮かんでいた五枚の符をたやすく貫いたのだ。


「……ッ!?」

「姫様──!!」


 一瞬の出来事だった。赤い光が符を貫くと同時に五芒星の拘束は消え、獰猛(どうもう)な赤い光の向こうから剣を振り上げた男の姿が現れた。

 シズネが目を見張ったときにはもう遅い。男の剣は無情にも振り下ろされ、


「あっ……!?」


 直後、シズネの体が軽々と地を転がった。にわかに飛び込んできた人影が、目にも留まらぬ速さで凶刃からシズネをかばったのだ。

 彼女と共に転倒し、されど超人的な反射で体勢を立て直したのは──アッシュローズの髪をキリリと団子状に結い上げた軍服の女。

 テレシア・モデスティー。黄皇国(おうこうこく)派遣軍の副将としてデュランと共に海を渡ってきた、アビエス連合国の女将校だ。


「敵性生命体を確認。排除します」

 

 独白のようにそう呟いたときには、テレシアは二挺(にちょう)の銃を構えていた。

 連合国の兵士が装備している歩兵希銃(ミーレス)ではない。もっと銃身が短く、カルロッタの神術銃(シグリアス)から余分な装飾を取り払ったかのような──デュランたちが〝短希銃(ブレウィス)〟と呼んでいる小型銃だ。テレシアは迷わなかった。

 鋭角的な形の眼鏡の下で獣のごとき眼光を瞬かせ、撃つ。

 二挺の銃が轟音(ごうおん)と共に火を噴いた。


 胡桃大(くるみだい)に圧縮された炎がすさまじい速度で射出され、黒い鎧に肉薄する。

 おまけにその弾道がまた恐ろしいほど正確だった。

 テレシアが撃ったふたつの炎弾は、男の行動を完全に予測していた。

 ほんのわずかに時差をつけて撃たれた炎弾は、男が一発目を(かわ)すことを想定して、回避した先で命中するよう仕組まれていたのだ。


 被弾の直前、ジェロディの目には男が辛うじて身をよじったのが分かった。

 おかげで兜の額に直撃するはずだった炎弾(たま)は左の角に当たり、鋼でできているはずのそれを弾き飛ばす。中程から折れた角の断面は真っ赤な熱を帯び、溶けかけているのが遠目にも分かった。しかし男は怯まない。

 忌々しいほど冷静に剣を構え、暗黒の刀身に三日月を生む赤い光をまとわせて、


「──グルルァアッ!!!!!!!」


 ところが男が黒剣を振るおうとした直後、猛烈な勢いで飛び上がった何かが背後から彼を襲った。

 わずかな月明かりを反射した無数の牙が男の肩口に突き立てられる。

 思いがけない巨体に組みつかれたためだろうか、男の足取りがわずか揺らいだ。

 黒い鎧の背中に飛びついたのはジェロディの記憶よりひと回りほど大きい、狼?

 いや、違う。猟犬だ。右耳が半分千切れた、灰色の。


翼佐(よくさ)……!」


 銃を構えたテレシアがそう叫んだのを聞いて理解する。

 あの猟犬はデュランだ。無事だったのか。

 今は獣化(じゅうか)しているが、手負った様子はない。

 鋼の鎧が軋みを上げるほどの力で男に喰らいついている。

 おかげで男の動きが止まった。

 ほんの一瞬の隙だったが、テレシアがその好機を見逃すはずもない。


 彼女は撃った。撃ちまくった。

 思わず目を疑うほどの早撃ちで、男の逃げ先を完全に予測しながら。

 されど男の人外じみた動きも健在だった。

 彼は全体重をかけて組みついていたであろうデュランを力づくで振りほどくと、風のごとく飛びずさってテレシアの射撃を躱した。

 しかし最後の一発をどうしても躱し切れず、剣で弾こうとしたようだ。


 実際、男は寸前で身を守ることに成功した。ところが代償は大きかった。

 神術の炎にも劣らぬほどの高熱を帯びた炎弾に触れたことで、弾け飛んだ兜の角と同じように剣が溶け、折れたのだ。あれが連合国の誇る希術(きじゅつ)の力。

 男は断面を赤く燃焼させた剣を一瞥(いちべつ)すると、つまらなそうに投げ捨てた。

 だがやつの武器は()()()()()()()だけではない。


「神に(あらが)う者どもが揃いも揃って……面倒だな」


 兜の下からため息混じりの掠れ声が零れた。

 忍術や希術といった未知の力を操る面々に囲まれてなお男に動揺は見られない。

 それどころか余裕さえ感じさせるおもむろな動作で、男が不意に両手を持ち上げた。何かを握るように開かれた両手に赤い光が生まれ、収束していく。

 やがて二本の(つるぎ)の形を取った赤光は、今もカミラを東館の外壁に縫いつけている()()とまったく同じものだった。途端にジェロディの背筋に悪寒(おかん)が走る。


 駄目だ。あれは。あれだけは。たとえ希術や忍術を駆使しても止められない。

 事実、最初にソウスケが放った忍術は同じ光に打ち破られた。

 果たしてあの光は魔術が生み出したものなのか。あまりにも強力すぎる。

 太刀打ちできない。このままでは皆、カミラたちのように、


「そこまで」


 刹那、広場に風が吹いた。ほんの一瞬、闇に慣れたジェロディたちの視覚を閃光が突き刺し、怯んだところを逆巻く風が()ぜてゆく。

 次に目を開けたとき、(まぶた)の向こうには思わぬ人物がいた。──ターシャ。

 ギディオンたちと共にポンテ・ピアット城に残してきたはずの、真実の神子。


 どこからともなく、突如として姿を現した彼女は真白い貫頭衣(かんとうい)(すそ)を舞わせながら、臆することなく男の正面に立ち塞がった。

 男を見据えるターシャの瞳はどこまでも冷たく、無感情だ。

 されど視界のはずれで赤光に貫かれ、倒れているカイルを一瞥した瞬間──彼女の小さな体から、おぞましいまでの殺気が立ち上ったような気がする。


「……驚いたな。真実の神子のおでましか」

「こうして面と向かって話すのは初めてね、裁きの神子」

「な……」


 そのとき誰もが耳を疑った。裁きの神子? あの男が?

 魔族にも劣らぬ禍々(まがまが)しさをまとった鎧の主が?

 ハノーク大帝国時代の記録に登場したのを最後に行方知れずと言い伝えられている、裁きと許しを司る神──ナーサーの神子?


「お前はここで何をしている、真実の神子」

「知っていることをいちいち()かないで。わたしは今、救世軍にいる。つまりあなたの敵。敵は排除する。当然の理屈だと思うけど?」

「ほう。それはつまり、堕天した俺を神々に代わって討つということか? ならばそこにいる反逆者(アーヴォン)どもも等しく討つべきだろう。やつらの力は神々を否定し、侮辱し、世界の意志を拒むものだ。俺の存在よりもたちが悪い」

「だけど人類が神に背く力を持つことを()()()のはあなたでしょ?」

「ああ、そうだ。だから尋ねている。俺を討つということは、すなわち──お前は人間を滅ぼす側につく、ということだろう?」


 ふたりが何の話をしているのか、ジェロディにはまったく分からなかった。

 ただ男が兜の下で、地に伏したカイルに視線をくれたのが何となく、分かる。

 直後、ぞわりと背筋が寒くなった。

 ターシャの全身から、冷気にも似た殺意が再び立ち上ったせいだった。

 彼女の表情は変わらない。されどターシャの中の見えざる嵐を物語るかのように周囲で風が逆巻き、やや()せた胡桃色の髪を生き物のごとくうねらせる。


「たとえそうだったとしても、あなたには関係ない」

「関係ならある。ルシーンの目的を阻むというのがどういうことか、お前には分かっているはずだ。お前の望みはやはり世界の滅びか。女王が嘆くだろうな」

「同じ魔女でもルシーンとペレスエラさまは違う。侮辱しないで」

「ほう。存外女王になついているのか? 人間の死を望んでいるくせに?」

「うるさい。そんなに人類の味方をしたいなら、さっさと魔界に戻ればいい。骨の髄まで瘴気(しょうき)に冒された神子の言葉に貸す耳はない!」


 思えばターシャが声を荒らげる様を見たのは、これが初めてのことかもしれなかった。彼女の叫びに呼応して、逆巻いていた風がにわかに光を帯びる。

 真実のみを照らし、偽りを掻き消す純白の光。

 それが無数の鎌となり、鎧の男に襲いかかった。男は跳び上がって躱すも、光の風は瞬時に向きを変え、城館の屋根へと逃れた男を追跡する。


 同時にターシャが掲げた手の中に、一本の光の杖が生まれた。

 真実の神たるエメットを象徴する、白き(からす)を乗せた杖だった。

 男が振るった黒剣が赤い三日月を放ち、光の風を粉砕する。されどターシャは初めからそうなることを見越していたかのように凜然と杖を構え、唱えた。


エメットの名の下にアニ・シェム・エメット偽誓者の罪を雪がん・ハーヤー・シャカル・マドン──白日よ()来たれ(ナホン)!」


 《真実を照らす杖(シェイベット)》にとまった白鴉(はくあ)啞々(ああ)と鳴いた。

 瞬間、城館の屋根に佇んだままの男の頭上に白き光の輪が浮かび上がる。

 気づいた男が見上げる暇もなかった。

 光輪はあたりを真昼のごとく照らしながら、潔白の滝となって男を押し潰した。


 すさまじい衝撃が渦巻き、雷気にも似た神気が弾ける。ほんの数瞬広場を照らした光の柱は、やがてゆっくりと光量を失い痩せ細るように掻き消えた。

 世界が再び夜に包まれる頃には、城館の屋上にいたはずの男の姿も消えている。

 活性化した神気の名残が小さく音を立てるのを聞きながら、ターシャは直前まで男が立っていた矢狭間(やざま)の向こうを睨んでいた。

 かと思えばやがて短い嘆息をつき、手にした杖を消滅させる。


「ターシャ殿、今の力は……否、それよりも彼奴(きゃつ)は? 仕留めたのですかな?」

「……違う。逃げられた。腕の一本くらいは()いたと思うけど」

「そうか……だが脅威は去ったのだな。助かり申した。我らだけでは彼奴に太刀打ちできていたかどうか分からぬ」


 ほどなく広場に静寂が戻ってくると、猟犬の姿を取ったままのデュランがターシャに向かって深々と(こうべ)を垂れた。恐らく先程の男とのやりとりで、彼女がエメットの神子であることを理解したのだろう。副官であるテレシアやシズネ、ソウスケも、彼に(なら)ってターシャに臣下の礼を取っている。


「しかし驚き申した。まさか救世軍には生命神(ハイム)の神子と光明神(オール)の神子の他に、真実神(エメット)の神子まで座を連ねておられたとは……貴女(きじょ)は先刻の鎧の男のことも〝神子〟と呼ばれていたが……」

「詳しい話はあと。そんなことよりまず先にやらなきゃいけないことがある」


 相変わらずにべもない声色でそう答えると、ターシャは貫頭衣の裾を(ひるがえ)して振り向いた。彼女が目を向けた広場には、惨状としか形容できない光景が広がっている。どこまでも死体と血溜まりが連なる、酸鼻極まる光景。

 そのありさまを前にして、ターシャが初めて眉を曇らせた。

 鎧の男が消えたことで、カミラやカイルを貫いていた赤い光は消えている。だが彼らは動かない。カミラも、イークも、カイルも、アルドも──マリステアも。


「……ターシャ、みんなが……マリーが、」


 再び訪れた闇夜の下で、ジェロディは譫言(うわごと)のようにターシャを呼んだ。

 他に(すが)る相手もなく、そうして声を震わせることしかできなかった。

 だって、こうしている間にも手の中でマリステアの体がどんどん体温を失っていく。斬り裂かれた右半身は血が止まらず、座り込んだジェロディの脚衣まで濡れそぼつほどの血溜まりを作っていく。おまけに、死影(しえい)が。

 全員の体にあの忌まわしい死の影がまとわりついている。

 嘘だ、と叫びたいのに声が出ない。

 ゆえにただターシャを見つめ、眼差しだけで訴えた。


 助けてくれ、と。


「……最善は尽くす。だけど全員は救えない。ハイムの神子──覚悟して」


 ……〝覚悟〟? 〝覚悟〟って何だ?


 ジェロディがそう尋ねる暇もなく、ターシャがすっと右手を掲げた。

 その白く細い中指に()められた指輪の上で、青い宝石がチカリと光る。


癒やしたまえ(ジェヘラン・ハイエ)


 次いでターシャの唇から(つむ)がれたのは、先刻《真神刻(エメット・エンブレム)》の力を解放した神語ではなかった。あれは古代ハノーク語だ。そして彼女の唱えた短い祈りに呼応して、ターシャの足もとからぶわりと青白い光が広がる。希法陣(きほうじん)

 カミラが星刻(グリント・エンブレム)の力を使うときのそれによく似た、されど姿形はまったく違う、古代文字と幾何学模様によって(あざな)われた神秘の光だ。


「これは……」


 とデュランたちも息を飲み、自分たちの足の下を滑るように広がっていく法陣を見つめた。巨大な円陣はほんの数瞬で広場の隅々まで行き渡り、やがて限界まで達すると霧のごとく青光を立ち上らせる。

 次の瞬間、腕の中にあるマリステアの体が同じ光に包まれた。

 すぐ傍で倒れているアルドもだ。

 向こうではカミラも、イークも、カイルも、彼らを守ろうと奮戦し斬り捨てられたすべての兵士が包み込まれている。間違いない。癒やしの光だ。


「ターシャ、君は……」


 青い希法陣の中心で、ターシャは風に包まれていた。普段ジェロディたちが神刻(エンブレム)を通して感じている神気とはまた違う、()()()()()()()()()()()()()()だ。

 されどターシャの額にはうっすらと汗が滲んでいる。

 力の源と(おぼ)しい青い宝石──恐らく希石(きせき)に違いない──も、まるで苦しんでいるかのような不規則な瞬き方をしている。

 何しろ彼女は今、何十人もの人間を一度に救おうとしているのだ。

 如何に希術が万能と言えど、果たしてどこまで力が及ぶのか──


「……ティ……ティノ……さま……?」


 ところがジェロディが固唾(かたず)を飲んでターシャの姿を見守っていると、不意に微かな声がした。はっとして見下ろせば、すぐそこでジェロディの腕に抱かれたマリステアがうっすらと瞼を開けている。


「マリー……!」


 マリステアの意識が戻った。傷は未だ深く、とても苦しそうだが息はある。彼女はジェロディを見つめて数度弱々しい息をつくと、涙を浮かべながら微笑んだ。


「よかっ……た……ティノさま……ご無事で……」

「ああ、僕は無事だよ、マリー。だけどどうしてあんな無茶を……! 待っていてくれ、今、ターシャが希術で傷を癒やしてくれてるから……!」

「ご……ごめん……なさ……わた、し……騎士さまを……助けられ……くて……せめて……ティノさまだけは……お守りし……うと……」


 今にも掻き消えそうな途切れ途切れの言葉を紡ぎながら、マリステアはなおも涙を流した。彼女の言う〝騎士さま〟とは、恐らくトリエステが言っていた猫人(ケットシー)の騎士のことだろう。やはり彼は助からなかったのだ。

 マリステアはそのことを知らせに広場へ戻ってきた。

 そして今にも鎧の男に殺されようとしているジェロディの姿を目撃した。


 まるですべてが仕組まれたようなタイミングで。


 けれどもう大丈夫だ。彼女があと少し耐えてくれればターシャの希術によって救われる。マリステアも、カミラも、イークも、カイルも、アルドもみんな助かる。

 助かるはずだ。ジェロディはそう信じて祈ることしかできなかった。


 だが、どうしてだろう。


 無事に意識を取り戻したはずのマリステアを包む死影が、刻々と濃さを増しているのは。


「……マリー?」

「ティノ……さま……わたし……ティノさま、に……お(つた)……したいことが……」

「だ……駄目だマリー、今は無理に喋らなくていい、喋らなくていいから……!」


 ジェロディが彼女の手を握ってそう訴える間にも、死影はマリステアを(むしば)んでいく。おかしい。だって出血は止まっているし、すぐ傍に倒れたアルドを呑み込もうとしていた死影は徐々に勢いを失っている。

 遠くに見えるカミラもイークもカイルもだ。なのに何故マリステアだけが?

 何かの間違いだ。そうに違いない。とにかく今は彼女に体力を温存させないと。

 これ以上喋らせてはいけない。眠らせないと。僕なら大丈夫だから。

 ジェロディが急き込んでそう伝えても、マリステアは言葉を紡ぐのをやめない。


「ティノさま……わたし……ずっと……不安、でした……ティノさまが……ハイムさまの神子に……選ばれ……から……ティノさまが……どんどん、遠くに……いってしまう……気がして……置いていかれ……のが、嫌で……とても……怖くて……どうすれば……ずっと、お傍に……いられるだろう……って……」

「マリー」

「わたし……本当は……分かって……ました……ティノさまが……わたしの、ために……手を……放そうとして……くださっていたこと……でも……それでも……わたしは……ティノさまを……失いたく、なくて……」

「マリー、」

「ティノさま……わたしは……マリステアは……心から……あなたを、お慕いしております──」


 次第に色を失っていく唇を震わせて、マリステアは微笑んだ。

 その微笑みを黒が覆っていく。零れた涙をジェロディが拭ってやるよりも早く、(うごめ)く死影がずるりと舐め取り、嘲笑う。


「だから……わたし……あなたを……失わない、ために……ティノさまの……本当の、幸せのために……」

「……マリー、やめてくれ」

「約束……したのに……叶えられ……ごめんなさ……ですが……わたしは──」

「もういい、やめてくれ!」


 聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない!


 これじゃまるで別れの言葉だ。ここで彼女の命が終わってしまうみたいだ。

 そんなことはさせない。何と引き換えにしても彼女を守る。そう決めた。

 彼女を愛していると知った日から、ずっとそう心に誓ってきたのだ。

 だのに神の眼が見せる死の運命は、ジェロディの誓いを嘲弄(ちょうろう)する。

 おまえに彼女は救えない、と躍り狂う。


 ──だったら。


 だったらこちらにも考えがある。ジェロディはとっさに、ほとんど無意識に、腰の裏に差していた短剣を引き抜いた。父から譲り受けた愛剣とは別に、いざというときの護身用として持ち歩いていたものだ。

 それを己の左腕にあてがった。肌に刃を滑らせようとする。

 《命神刻》を刻んだあの日から、この身に流れる青き神の血。


 その血が一度だけ死者を救う力を帯びていることをジェロディは知っていた。

 過去千年に渡る人類の歴史の端々に、そうして生まれた〝血飲み子〟と呼ばれる存在がいることを知っていた。

 つまりジェロディの血を飲ませればマリステアを救うことができる。今にも彼女の命を喰らい尽くそうとしている死影を遠ざけ、永遠の命を与えることができる。

 ならば何も迷うことはない。今すぐにでも彼女の唇に神の血を──


「ティノさま」


 ところが意を決して短剣を引こうとした刹那、マリステアがジェロディの右手を掴んだ。思いがけない力だった。こんなにも色濃く獰猛な死の影にまとわりつかれているというのに、マリステアはジェロディの手を決して放さない。


 ジェロディが己を傷つけることを、許さない。


「マリー、放せ、放してくれ! 君はまだ生きられる、生きられるんだ! 僕の血を飲ませさえすれば──」

「いいえ、ティノさま……マリステアは……あなたの、血飲み子には……なりません。絶対に……あなたを……運命の(とりこ)になど、させない」


 ジェロディは言葉を失った。マリステアは微笑んでいた。

 死の影がゆらゆらと視界を覆う。マリステアの命を閉じる。


 それでも、彼女は、


「たとえ……この身が、滅びても……マリステアは……ずっと……あなたと、共に在ります……だから……忘れ……ないで……わたしが……あなたの、隣にいられた……十二年間を……」

「マリー、」

「ティノさま……マリステアの、願いは……ひとつだけです。どうか、運命に負けないで──」


 するりと右手が軽くなった。

 同時に指先が握力を失い、零れ落ちた短剣が地を叩く。

 冷たく乾いた音がした。それきり耳を澄ましても聞こえない。

 彼女の声も──息遣いさえ。


「……マリー?」


 広場を照らしていた光が消えた。

 ターシャの右手で輝いていた希石が罅割(ひびわ)れ、粉々に砕けたためだった。

 マリステアは涙を流しながら眠っている。

 あんなに執拗にまとわりついていた死影が消えた、美しい顔で。


「……マリー、答えてくれ。嘘だと言ってくれ。だって君は言ったじゃないか。僕が道に迷ったら、今度は君が、僕の手を引いてくれるって……」


 だからあの日、この身に刻みつけた。

 マリステアの声も、かたちも、ぬくもりも。

 けれど何もかもが失われた。

 他のどこでもない、ジェロディの手の中で。


「あ……あぁ……あああああああああああああああ──!!」


 言葉にならない叫びが、再び闇に包まれた広場に響き渡った。

 彼方で何かが弾ける音がする。あれは森の外から駆けつけた連合国軍が、魔物に向かって歩兵希銃(ミーレス)を放つ音だろうか。


 されど今はすべてが遠い。


 あの日、母の墓前で聞いた人々の喝采のように。


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