284.不死鳥、堕つ
時間の流れがひどく歪んで見えた。
視界に映るすべてのものが速度を失くし、ゆっくりと動く。
一拍(一秒)が一小刻(一分)にも感じられ、立ち上がろうにも体が動かない。
ゆえにただ、ただ、眼前で噴き上がる赤と倒れゆく彼の背中を見つめることしかできず──されど座り込んだカミラの視線の先で、血の赤とは別の何かが蠢いた。
「……お前か。やつらの言う〝最後の鍵〟というのは」
次いで深淵の底から響くかのような掠れ声が、カミラの意識を揺り動かす。
「八百年ぶりだな、エオネスの子よ」
鎧の男が何を言っているのか、カミラにはさっぱり分からなかった。
唯一理解できたのは、男が自分に話しかけているのだということと。
彼我の間を隔てるように立ち塞がり、そして今まさに倒れようとしているイークを、男の鉄靴がにわかに蹴りのけたこと──
「イーク……!!」
刹那、時の流れがついに正常さを取り戻した。蹴り飛ばされたイークの体は石塊のごとく吹き飛び、暗い大地を転がって、それきりぴくりとも動かない。
頭の中が真っ白になった。
その白が沸騰してカミラの意識を塗り潰し、体だけが勝手に動き出す。
すなわち即座に立ち上がり、イークに駆け寄ろうとした。
星刻の力があればまだ間に合う、と左手が言っていた。
されどイークを斬り裂いた赤い鎌が、黒鎧の頭上で怪しくうねり、
「カミラ……!!」
振り向いた先で赤光が弾けた。
暗闇の中で炸裂し、禍々しい鎌から無数の刃へ姿を変えた赤い何かが迫り来る。
直後、全身に衝撃が走り、カミラの記憶はそこで途絶えた。
最後に名前を呼んだのは、誰だったのだろう。
◯ ● ◯
その瞬間、ジェロディの視界で黒が噴き上がった。神術の火が消され、月明かりも届かないソルン城の広場で夜より黒い暗黒が世界を塗り潰す──死影だ。
あちらにもこちらにも大量に。黒にまとわりつかれた兵士たちが何事か叫んでいる。けれど聞こえない。粘つく煙のような死の影が彼らの声を遮り、あらゆる音を呑み込み、ジェロディの五感から遠ざける。おかげで、見えない。聞こえない。
突如として現れた謎の影に斬られたイークはどうなったのか。
ひどい死臭だ。吐きそうだ。これは死影が発する死のにおい?
それとも、あの黒い鎧が引き連れてきた絶望のにおい?
「イーク……!!」
刹那、茫然と立ち竦んだジェロディの鼓膜に爪を立てたのは、裂帛の叫びに似たカミラの悲鳴だった。そこでようやく凍りついていた意識と体が目を覚ます。
駄目だ。ぼーっとするな。状況を確かめないと。
イークを斬り裂いたアレは何だ? 魔族か?
でも、先刻カミラたちから聞いた魔族の特徴と何ひとつ一致しない。だが少なくとも味方ではない。敵だ。明らかすぎるほどに。ならばどうすればいい?
まずはイークの無事を、いや、けれどこの死影の群は、やつが、黒い鎧の主が無数の死をもたらそうとしている、だとしたら、総帥たる自分が為すべきことは──
「ジェロディ殿!」
錯綜する思考の濁流の中で溺れていると、不意に後ろから腕を引かれた。
トリエステ、だろうか。辛うじて聞こえた呼び声からそう判断したが、振り向いた瞬間背筋が凍った。だって、見えない。トリエステの顔を、胸を、四肢を黒い影が覆って、彼女の顔も見えなければ、声も聞こえない。
(うそだ)
死影。
死影、死影、死影、死影、死影、死影、死影、死影。
どこもかしこも死影まみれだ。放っておけば彼女は死ぬ。
トリエステも本隊の兵たちも、ここにいる全員が死ぬ。どうして。あの黒い鎧が現れるまで、死の影をまとっていたのはほんの数人の味方だけだったのに。
「トリエ、逃げろ!」
ゆえにジェロディは叫んだ。神の眼が見せた最悪の未来を回避するためにはそうするしかない。無論、逃げたくらいで確定された運命が覆るとは思えないが、他に術がない。逃がすしかない。皆を。救世軍の希望を。
「ジェロ──族は──我々が──すので、今すぐ──殿だけでも──!」
「駄目だ、やつの狙いは恐らく僕だ、だから君たちが逃げろ! 動ける兵をひとりでも多く連れて、ここから……!」
「──ません──あなたが──ます──ですから早く──!」
「ハイムの神託が下ったんだ、このままじゃ君は死ぬ! いや、君だけじゃない、本隊も全滅だ! だから行け! 親衛隊、命令だ! トリエを連れて今すぐ戦線を離脱しろ! 何が何でも彼女を守れ……!」
五感を覆う暗幕の向こうに動揺が走るのが分かった。
されど構わず、がむしゃらに叫び続けていると、不意に左手が軽くなる。
ジェロディの腕を掴んでいたトリエステの手が離れた。
黒い影の向こうで複数人の兵士が蠢き、トリエステを引き剥がしたようだ。
彼女が何か叫んでいるのが分かる。分かるだけだ。何と言っているのかまでは聞き取れない。だがこれでいい。トリエステさえ無事に逃げ延びてくれれば、救世軍はギリギリのところで態勢を立て直せるかもしれない──
《──来るぞ!》
ところが兵士たちに引きずられてゆくトリエステを見送った直後、ハイムの声が脳裏で弾けた。瞬間、ジェロディは振り向きざま神の力を解放し、先刻まで魔物を斬り刻んでいた百刃の風を呼び覚ます。
無数の刃の群と、すぐそこまで迫っていた黒き剣が激突した。
人智を超えた剣圧によって鋼の風が両断される。真っ二つにされた刃の群はしかし、怯まず二手に分かれて黒い鎧へ襲いかかった。
鎧は洪水のごとく押し寄せる刃を人外の速度と動きで弾きながら退がる。
かと思えば頭から爪先まで、全身を黒鋼で鎧っているとは思えぬ身軽さで跳躍し、上階よりも張り出したソルン城本館一階の屋根に跳び乗った。
「……思ったより力を使いこなしているな」
とその屋根の上で鎧が言う。兜のせいでくぐもってはいるが、不気味に掠れた声だった。アレの中身は男、と思っていいのだろうか。いや、あるいは魔族?
だがオヴェスト城で初めて魔族と対峙したときの、あの禍々しい邪気を鎧からは感じない。《神蝕》が進み、当時よりもあらゆる感覚が研ぎ澄まされた今の自分に、魔族の気配が分からないはずがない。
(いや……だけどさっきの動きは明らかに人間のそれじゃなかった。だとすると鎧に何か細工が……?)
たとえば魔族の天敵である退魔師に察知されないように、鎧によって邪気を遮断しているとか。オヴェスト城で戦った魔族も聖術使いを警戒し、徹底的に手を打っていたからありえない話ではなかった。
しかし仮にそうだとすれば、今、この城には魔族がふたりもいることになる。
つまりヴィルヘルム隊が現在戦っている魔族は、救世軍の戦力をあちらに集中させるための陽動だったというわけか。まんまとしてやられた。状況は絶望的だ。
本隊の兵の大半はトリエステと共に逃がすことができたが、ここにはまだ──
「……え?」
ところが一瞬、視線を広場に戻したところでジェロディは忘我した。だって、先程までジェロディの視界を覆い尽くしていたはずの死影の霧が晴れている。
おかげで、見えた。そこに広がる目も当てられない惨状が。
死影の代わりにジェロディの視界を埋め尽くしたのは、死体。
死体、死体、死体。死体の山だ。
ほんのわずか生まれた雲の切れ目が月光を透かし、ジェロディに見せつける。
既に事切れた何人もの兵士たちと、彼らの向こうで倒れている仲間の姿を。
「あ──」
イーク。カミラ。カイル。三人とも動かない。特にひどいありさまなのがカミラだ。彼女は無数の赤い光に貫かれ、東館の外壁に磔にされている。
夥しい血が流れていた。ここからでは息があるのかどうかも確認できない。
カイルは彼女を守ろうとしたのだろうか。
同じように刃の形をなした赤い光に串刺しにされ、地に伏している。
「み、んな、」
「──ジェロディ様!」
言葉を失い、魂が抜け落ちてしまったような感覚に襲われた直後、にわかにジェロディの天地がひっくり返った。何者かに突き飛ばされ、地面を転がったのだ。
同時にまた血が飛沫いた。ジェロディの青い血ではない。赤い血だ。
目を見開いた先に見えたのは、アルド。
彼がジェロディをかばうように覆い被さり、そして──血を流していた。
「アルド……!」
ようやく我に返ったジェロディは体を起こし、叫ぶ。隙だらけだったジェロディを狙い、天から降った黒い刃をアルドが代わりに受けた。
袈裟斬りにされた彼の背中からはドクドクと血が溢れている。されどアルドにはまだ意識がある。彼は息を詰めて激痛に耐えながら、震えた声で、言った。
「に……逃げて下さい、ジェロディ様……このままじゃ、みんな、やられて……」
「駄目だ、アルド! せめて君だけでも……!」
「い……イークさん、も……カミラさんも……ふたりとも、助けられなかった……だから……ジェロディ様……お願い、です……どうか、救世軍を──」
刹那、悲鳴と絶叫が弾けた。
はっと顔を上げた先で、何人もの兵士の首が飛ぶ。腕が飛ぶ。血飛沫が飛ぶ。
カミラ隊とイーク隊の兵士たちだ。彼らが鎧の男に群がり、決死の覚悟で行く手を阻もうとしている。けれど駄目だ。敵うわけがない。全滅する。
皆、殺されてしまう。
「やめろ……!!」
喉が裂けんばかりに叫んだ。
同時に頭上で渦を巻いていた鋼の風を呼び戻し、鎧を斬り刻まんとする。
だが相手は百刃の猛襲を軽快に躱し、ある程度距離を取ったところで黒剣を薙ぎ払った。刃から放たれた剣圧が赤光を帯び、三日月の形を取って飛翔する。
赤い風と鋼の風。ふたつの風が激突した。
爆風にも似た衝撃があたりに走り、近くにいた兵士たちが吹き飛ばされる。
力尽き、意識を失ったアルドも飛ばされかけた。
しかしあの傷で壁に叩きつけられでもしたらきっとアルドもただでは済まない。
ゆえにとっさに手を伸ばし、アルドの体を押さえて覆い被さった。
突風が吹き去るのを待って顔を上げ──
「……あ、」
そしてジェロディは、自身の死を悟った。
鎧の男。目の前にいる。剣を振りかぶっている。
間に合わない。避けるのも、剣を構えるのも。
(僕は、死ぬのか)
こんなところで。こんな形で。
(マリー、)
最後の瞬間、脳裏に浮かんだのは彼女の笑顔だけだった。
一切の思考も感情も排され、ただ刃が降ってくる。
黒い切っ先が肉に食い込んだ。そこから縦にまっすぐ、まるで骨や筋など存在しないもののように刃が斬り下ろされる。信じられない量の血が噴き出した。
しかしその血は赤かった。
何が起きたのか理解したときには意識が漂白され、声も出ない。
「マ、リー」
されど辛うじて喉から絞り出した名前の主が。
ジェロディをかばうように両腕を広げ、飛び込んできた彼女が。
斬り裂かれた右半身から大量の血を流しながら、倒れ込んでくる。
──最後に、ひと目だけでも。
黒刃が振り下ろされる間際、そんなことを願ってしまったせいだろうか。
いつか彼女に贈った不死鳥のショールが血に染まり、そして、宙を舞った。




