282.魔の降る夜
とても久しぶりに深い、深い眠りに落ちていた。
昼間の戦闘でさすがに体力を消耗したせいだろう。
夢も見ないほどの深い眠りだったように思う。
ところが夜半、突如として鳴り響いた警鉦の音を、まどろみの中にあってなお神の聴覚は鋭敏に拾い上げた。その音は見えざる刃となって意識の闇を切り裂き、心地よい深淵の底からジェロディを引きずり起こす。
「──ジェロディ様!」
かくてハッと覚醒したジェロディが飛び起きるのと、寝室の扉が激しく叩かれるのがほぼ同時だった。目覚めた直後、いつもであれば漏れなく意識を覆うはずの分厚い緞帳も今夜ばかりはただちに上がり、ジェロディは枕もとに立てかけておいた剣を取るやすぐさま扉へ走り寄る。
「ケリー、オーウェン! この警鉦は……!?」
「ああ、よかった……! ジェロディ様、お部屋にいらっしゃいましたか……!」
鍵を開けた扉の先に控えていたのは松明を手にしたケリーとオーウェンだった。
彼らはそれぞれ得物を携えているものの、いでたちはほとんど着の身着のままといった様子だ。防具の類は短時間で着脱可能な胸当てや籠手のみで、どちらも急いで駆けつけたことが窺える。さらに味方の兵士たちが休んでいるはずの下階からも、慌ただしく人が行き交う気配が伝わってきた。
複数の足音はもちろん、怒声に近い大音声があちこちから飛び交っている。
時刻は恐らく真夜中だというのに、尋常でない騒がしさだ。
一体何が起きているのかとジェロディが改めて目をやれば、ケリーとオーウェンは束の間顔を見合わせ、苦り切った表情で口を開いた。
「軍師殿がおっしゃっていた最悪の想定が当たりました。敵襲です。トラクア城方面から魔物の大群が押し寄せてきたとの報告が」
「魔物の大群……ということは、やっぱりマティルダ将軍が動いたんだね。僕らがソルン城を落とすのを待って、事前に集めておいた魔物を放ったのか……」
「ええ、恐らくは。軍師殿の読みどおりなら、将軍は最初からソルン城を防衛するつもりなんざさらさらなかったってことでしょう。逆に俺らを毒の森に閉じ込めて、身動きが取れなくなったところに魔物を放つ計画だった……」
「もちろんこっちが攻城戦で疲弊したところを狙ってね。輜重や対空兵器を露骨にこの城に集めていたのも、我々を誘き寄せるための策だったということでしょう」
「そしてそのために自分自身をも囮にした……全部トリエの読みどおりではあったけど、やっぱり将軍はひと筋縄ではいかないか……」
どう転んでも決してタダでは起き上がらない。どんなわずかな勝機でも果敢に、かつ機敏にそこへ飛び込み勝利への道を抉じ開ける。
それがマティルダ・オルキデアという女だ。ジェロディは父がかつてそう評していた若き女将軍の手強さを痛感しながら、素早く剣帯に剣を佩いた。
だが救世軍とてそう易々と敵の策に乗せられるほど愚かではない。
トリエステはソルン城落城後、マティルダの行方が分からなくなったと知るや、「最も考えたくなかった可能性ではありますが」と、こうした事態も事前の想定に入っていたことを打ち明けてくれた。しかしたとえこれが敵の策だとしても、今の救世軍の兵力では、ソルン城を落とさないことにはマティルダの本拠であるトラクア城を攻めることはまず不可能だったのだ。
ゆえにトリエステは敢えて敵の策略に乗り、ソルン城を奪取したのちにあらゆる対策を講じる道を選んだ。マティルダが救世軍に城を奪わせたがっている今ならば、最低限の犠牲でソルン城を落とせるはずだとそう踏んで。
「犠牲と消耗を最小限に抑えた上で勝利できれば、将軍の次の一手を読んで備えることも可能です。シズネたちに調査させたところ、将軍はサビア台地の囚人を使って集めた魔物の多くをトラクア城に収容していることが判明しました。万が一我々が将軍の策には乗らず、直接トラクア城を攻めるようなことがあれば、その魔物を使って対抗する算段でいたのでしょう。しかし無事にソルン城が落ちた今、恐らく将軍は、あれらをもっと合理的に使おうとするはずです」
と、トリエステが救世軍の主要なメンバーを集めてそう語ったのは、ソルン城攻略が成ったあとのこと。彼女の宣告は戦勝に沸いていたジェロディたちの昂揚にぴしゃりと水を打ち、たちまち背筋を冷やしたが、同時に敵があの『鷹の娘』であることを思い出させてくれた。
というのもマティルダの生家であるオルキデア家は、もともと鷹匠としての腕を買われて今の地位を築いた歴史があり、マティルダ自身も鷹の扱いを得意としている。そうして猛禽と共に育った彼女もまた鷹のごとき智勇と優雅さを兼ね備えていることから、軍では長く『鷹の娘』の異名で知られているのだった。
そんなマティルダが信条として掲げているのが〝即断即応〟と〝合理性〟。
彼女は戦に勝つためならば──黄帝の栄誉を守るためならば、何よりも合理性と確実性を重視する。自身の手が汚れることなど厭わない。だから文字どおり囚人を餌にして魔物を集め、あれらを戦に投じるなどという破天荒な策も採れたわけだ。
おまけに一度決めたら二度と迷わず、行動も速い。
ゆえに彼女が次の手を打ってくるとすれば今夜だとトリエステは予告していた。
ケリーの言うとおり、激しい戦いのあとで疲れ切っている救世軍をゆっくり休ませてくれるほど『鷹の娘』はやさしくはない、と。
「伝令の代わりに鷹を飛ばせば、その日のうちにトラクア城へ指示を出すことも可能だろうからね……だけど幸い、僕らもまったくの不意を衝かれたわけじゃない。こうなることはある程度予測できてたんだ。冷静に対処すれば乗り切れるはず……まずはトリエと合流しよう。彼女はもう前線に?」
「はい。真っ先に異変に気づいたカミラが知らせに向かったはずですから、早ければ既に陣頭指揮を執っておられるかと」
「カミラが? まさか彼女、また星刻の力を使ったんじゃ……」
「いえ、どうやら今回は違うようです。何でもマリーの話によれば、カミラは少し前に起き出して、マリーとふたりで風に当たっていたらしく……そこで偶然野営地の様子がおかしいことに気づき、皆に知らせに走ったと言っていました」
「マリーとふたりで? ならマリーは?」
「ケリーと俺を起こしにきたあと、他の連中のところにも状況を知らせにいきましたよ。リチャード殿やヴィルヘルムの旦那を起こしたら、自分もすぐに軍師殿のところへ向かうからと」
「そうか……じゃあ僕らも急ごう。トリエならたぶん、正門前広場にいるはずだ」
防具を身につける時間も惜しみ、ジェロディはすぐさま部屋を出た。
刻々と慌ただしさを増す城内を突っ切り、ケリーとオーウェンを連れて仮の兵舎となっていた東館をあとにする。するとジェロディの読みどおり、城館を出てすぐの広場には本隊の兵と、彼らを指揮するトリエステの姿があった。
隊士はまだ全員揃っておらず、武装が完了した者から順に集まってきているようだが人数は思ったよりも多い。やはり城を落としたあとも気を緩めず、将士に厳戒令を出していたことが功を奏したようだ。
「トリエ!」
「ジェロディ殿、よくぞおいで下さいました。状況は伝わっているようですね」
「ああ、だいたいのことはケリーとオーウェンから聞いたよ。森の外に布陣していた連合国軍から何か報告は? デュランたちは無事だろうね?」
「それが……事態は想定よりいささか深刻かもしれません。先程森の南に布陣していた第四野営地から届いた報告によれば──五百の兵力からなる連合国軍の中隊が、半刻(三十分)足らずでほぼ壊滅した、と」
「何だって……!?」
「急報を届けてくれた鈴の騎士も重傷で……得られたのは必要最低限の情報のみでした。マリステア殿が応急処置を施し、すぐにラファレイ殿のもとへ運んで下さいましたが、あの傷では恐らく……助からないかと」
明々と焚かれた松明の明かりの中で眉を曇らせ、普段より幾分低めた声でトリエステは告げた。ときにふと血のにおいが鼻を衝き、ハッとして振り向けば、広場の片隅、篝火の灯が届かないあたりに一頭の翼獣が横たわっている。
恐らくは野営地から早打ちとして飛んできた猫人の乗騎だろう。
既に息はないようで、黒い毛皮と羽毛は血溜まりに沈んでいる。
かなりの出血をしながら、それでもどうにか救世軍に危険を知らせようと、最後の力を振り絞ってここまで飛んできたようだった。途端にジェロディは胸の内側を掻き毟られるような痛みにうなじの毛を逆立たせ、両の拳を握り込む。
「馬鹿な……あの歩兵希銃とかいう兵器で武装した連合国軍が一瞬で壊滅だって? 今夜敵軍の反撃があるかもって通達は全軍に行き渡ってたんだろ? なのになんで……そんなに大量の魔物が押し寄せてるってのか?」
「分かりません。ですが鈴の騎士の報告によれば、野営地が急襲される直前、陣中の篝火が一斉に消失したと……そうして視界を奪われ、味方が混乱したところへ魔物が雪崩れ込んできたようです。さらに上空から確認したところ、魔物の群は黒い人型の何かによって統率されているようだった、と──」
刹那、トリエステがオーウェンに返した答えが、ぞっとジェロディの背筋を舐めた。何しろ猫人は人間より遥かに夜目がきく。
その彼が見たと言うのだ。魔物を率いる人型の何かを。
思えば人を喰らう以外能のない無知性の魔物が、檻から解き放たれたからと言ってまっすぐソルン城を目指すはずがない。再び自由を得た彼らが真っ先に牙を剥くのは、彼らを捕らえていたトラクア城の将兵であるはず……。
「魔物に敵や味方の区別はない……人間なら誰であれ構わず襲いかかるはずだ。それが将軍の狙いどおり、群をなしてソルン城に攻め寄せたってことは──」
「──魔族、が彼らを率いている可能性は否定できません。現在諜務隊に詳しい戦況を探らせると同時に、ヴィルヘルム隊を南へ向かわせました。仮に魔族が魔物を率いているとなれば、すぐに知らせが入るかと」
最悪だ。
ジェロディはもうひとりの自分がそう吐き捨てるのを聞いた。何しろ敵が魔族を味方につけているのだとしたら、状況は想定よりもっとずっと悪くなる。
魔族と呼ばれる生物の恐ろしさは、ジェロディもオヴェスト城の戦いで嫌というほど思い知った。神の力をもってしても討ち取ること能わず、人間離れした剣技を持つヴィルヘルムとギディオンがふたりがかりでようやく牽制できる存在。
魔界の頂点に君臨しているという上級魔族──通称『魔王の忠僕』と呼ばれる彼らは、生ける兵器とも呼ぶべき強靭な肉体と脅威的な魔術とを併せ持っていた。
ジェロディたちがそんな相手と対峙しながら生き残ることができたのは、退魔師という強力な助っ人がいたおかげだ。天授児の彼女が生まれ持った聖刻は数ある神刻の中でも特に退魔の術に優れ、至聖神カドシュの加護を受けた力の前ではさしもの『魔王の忠僕』も為す術なく祓われるしかなかった。
しかし今回、そのメイベルはソルン城攻略に従軍していない。
何故ならマティルダの身辺を探っていた諜務隊から、彼女がかつてのハーマンのように魔族の傀儡となっている気配はないとの報告が上がってきていたからだ。
実際、ソルン城陥落の直前まで官軍側にいたユカルも、マティルダの様子におかしなところはなかったと言っていた。
刻んでいる神刻の違いこそあれ、ユカルもまたメイベルと同じ天授児だ。
特に生まれつき蟀谷に刻まれた大嵐刻と右眼の神経がつながっているというユカルは、常人の眼には決して見えない神気の流れや魔の気配を視ることができると話していた。であるならばマティルダが憑魔に憑かれていたり『堕魂』と呼ばれる呪いにかかっていた場合、彼が気づかないはずがない。
だからジェロディたちは完全に安心しきっていた。
ただの魔物が相手なら、非戦闘員であるメイベルをわざわざ前線に引っ張り出さずとも、自分たちの力で何とか太刀打ちできるはずだと。
とりわけトリエステは、救世軍の主戦力が出払ったあとのポンテ・ピアット城を気にかけていた。マティルダがトラクア城に集めた魔物の群を、手薄になったかの城の奪還に使う可能性も捨て切れなかったからだ。
ゆえに彼女は救世軍内でも特に精強なギディオン隊にメイベルをつけてポンテ・ピアット城に残し、彼らに城の守りを託した。だがその読みがはずれ、マティルダがジェロディたちの知らぬ間に魔の手に落ちていたのだとしたら……。
(……そう考えればソルン城に潜伏していたシズネの仲間や、希術兵器で武装した連合国軍が全滅したのにも頷ける。オヴェスト城で戦った魔族と同等かそれ以上の魔族なら、忍術や希術に対抗するのはもちろん、野営地の火を魔術で吹き消すなんて造作もないはずだ。おまけに今回はメイベルだけじゃなくギディオン殿もいない。もしも敵方に魔族がいるとなれば、いくらヴィルヘルムさんでもひとりで食い止めるのは……)
と、そこまで一気に思考を巡らせたところで、ジェロディははたと静止した。
ヴィルヘルム。そうだ。そもそも彼が救世軍に身を置き、魔族とも互角に渡り合うほどの剣を振るっているのは何故だ? オヴェスト城の戦いで竜尾の魔族と対峙したとき、彼が魔界の勢力から命懸けで守ろうとしていたのは──
「……カミラ」
そう思い至って彼女の名を呟いた瞬間、全身に粟が立った。そうだ。カミラ。
魔族の狙いは神子である自分を討ち、彼女を地上から攫うことであったはず。
彼らが何故執拗にカミラを狙うのかは知らない。しかしもし今回の戦にも魔族が絡んでいて、今、まさにこの城に降り立とうとしているのなら、
《──守れ!》
直後、頭が割れんばかりに轟き渡った声があった。
ハイムの神託だ。ジェロディがそう悟った刹那、革の手套の下、右手の甲に刻まれた《命神刻》が大きく脈打ち、すさまじい痺れが腕を駆け上ってくる。
「……ッ!?」
脳が揺さぶられるような感覚に襲われながら、しかしジェロディは激しい違和感を訴える右腕を押さえ込んだ。されど痺れは瞬く間に全身へと伝播し、体中の血管という血管、神経という神経を脈動させる──まるで体内を駆けずり回る何かが、ジェロディの肉体を内側から乗っ取ろうとしているかのように。
《守れ、守れ、守れ、守れ! あの娘を魔界に渡してはならぬ!》
「ジェロディ様……!?」
仲間の声が遠く聞こえた。
頭の中で鳴り響くハイムの声が、ジェロディの聴覚を閉ざそうとしている。
意識がぐらつき、倒れ込みそうになるのを歯を食い縛って耐えた。
ここで気を失えば、本当に肉体を乗っ取られる。そんな予感とも恐怖ともつかない感情が唯一ジェロディを地上につなぎとめ、全身の皮膚という皮膚が内側から食い破られようとしているかのような痛みと痺れをやり過ごす。
「ジェロディ様、しっかりして下さい! 一体何が……!?」
「だ……大丈夫だ、オーウェン。ただ急に《命神刻》が疼いて……」
「《命神刻》が……? ということはやはり魔族がすぐ近くまで……!?」
「そう……なの、かもしれない……トリエ、カミラは今どこに?」
しばらくじっと息を詰め、異変に耐え続けていると、ハイムの声は諦めたように遠のいていった。同時に全身の痺れも弱まり、やっとのことで息が吸える。
だがこれでひと安心、とはいかなかった。
ハイムがあそこまで直接的に宿主に干渉してくるなんて、未だかつてなかったことだ。かの神がそうまでしてジェロディを急き立てたのは、恐らくケリーの言うとおり、魔界のものがすぐそこまで迫っているからに違いない。
(だとしたら、カミラを守らないと──)
彼女を魔族に奪われたら取り返しのつかないことになる。
理由はまったく分からないものの、その確信だけがはっきりと頭の中にある。
ゆえにジェロディがカミラの居場所を尋ねれば、トリエステもすぐに表情を強張らせた。本当に魔族が近づいているのなら、カミラに危険を知らせなければならないと彼女も思い至ったらしい。
「カミラでしたら、イークとウォルドを起こしたあと、自隊に召集をかけに行くと……出動可能な状態になったら、一度ここへ来るよう伝えてはありますが──」
「──敵襲ーッ!! 飛行型の魔物が来ます!!」
瞬間、トリエステの言葉を遮って、本館の左右に聳え立つ塔の上から見張りの兵の声が上がった。かと思えば彼の掲げた松明が、突如として宙に放り出される──否、違う。崩れたのだ。塔が。見張りとして立っていた数人の味方ごと。
「ジャアアアアアアアアアッ!!」
仲間の悲鳴と共に崩落していく塔の向こうから、石積みをぶち破って巨大な黒蛇が現れた。その頭はふたつに分かれ、背中には蝙蝠を思わせる飛膜が二対。
さらに下半身には猛禽に似た鉤爪つきの後肢が生えている。
あまりにもデタラメな生き物だ。
「ジェロディ様、来ます!」
闇夜に浮かんだあまりにおぞましい影を見て、すかさずケリーが槍を構えた。
オーウェンも背中の大剣を抜き、舌打ちと共に身構える。
そうして皆が臨戦態勢を取る間にも、城館の向こうからは次々と空飛ぶ魔物が現れた。大きさは大小様々、しかしいずれも地上の生物とは隔絶したおぞましい姿の魔のものどもが、ジェロディたちのいる広場目がけて悪夢のように降ってくる。
「くそっ……!」
ジェロディも悪態と共に抜剣した。こうなったらもう戦うしかない。
右手の《命神刻》から炸裂した光が無数に分かれて飛翔した。それらは崩れた塔の残骸に宿り、生命と使命を吹き込んで、魔界の勢力を迎え撃つ強力な礫となる。
「全軍、応戦! 怯まず続け……!」
味方の上げた喊声と、魔物の咆吼が衝突した。ジェロディが放った無数の礫に撃たれ、怯んだ魔物に勇士たちが次々と襲いかかる。
──カミラの居場所は。
真っ先に応戦に向かったデュランやヴィルヘルムは無事なのか。
何ひとつ満足に分からないまま、魔物との戦いが始まった。
そんなジェロディの遥か頭上で、ガシャリ。
暗黒の鎧が、石の城を踏み締めた音がする。




