280.わたしたちのエデン
「マリステア。わーは神子として、人間に嘘はつかんことを信条としておる。ゆえにそもじにもわーが真に思うことを話すぞえ」
と、あの日、清らかな旭が注ぐコルノ島の光神聖堂でロクサーナは言った。
「幸い今はトビーもおらん。じゃけん、はっきりと言えるけんじょ……」
夜明け色の瞳をわずか曇らせ、いつになく神妙な顔をしながら。
「わーは、そもじの願いには賛成できん」
されど声には一抹の揺らぎもなく、やがて彼女はそう言った。
「何故なら──」
◯ ● ◯
「わたし、ティノさまの血飲み子になりたかったんです」
とマリステアが告白すると、カミラはたちまち呆気に取られた顔になった。
「えっ……ち、血飲み子ってもしかしなくてもアレですか? 神子の血を分けてもらうことで竜と竜騎士の契約みたいに、お互いの魂を結ぶっていう……」
「はい。神子の血を授かった者は神子を永遠の主とし、互いに離れることができない肉体となる代わりに生命と五感を共有する……という契約ですね。一度血飲み子になれば神子が死なない限り老いることもなく、文字どおり永遠にお傍にいられると聞きました。だからずっと考えていたんです。ティノさまの血を授かれば、この先もあの方にお仕えできる……置いていかれずに済む、って」
そんな考えに取り憑かれるようになったのは、一体いつの頃からだろうか。
記憶を遡ってみても正確な時期は思い出せず、ただ気づけばその願いは当たり前の顔をして、友のようにそこにあった。
願い始めたきっかけすらも今となっては分からない。
されどひとつだけ確かなことは、マリステアの望みは今も昔も変わってはいないということ。すなわちティノのために生きて、ティノのために死にたい──それを叶えるために辿り着いた答えが、血飲み子という神子とは不可分の存在だった。
「あ、ええと、そう言えばわたし、カミラさんにお話したことはありましたっけ? ティノさまとわたしが初めて出会ったときのこと」
「え、ええ、前に少しだけ……確かマリーさんの故郷がシャムシール砂王国の砂賊に滅ぼされて、ご両親を亡くしたところをガルテリオ将軍に引き取られたんですよね? 当時将軍は奥さんとふたりで亜竜の軍用化を進めてて、たまたま亜竜の棲息地である国境付近に来てたときに砂賊襲来の知らせが入ったって」
「ええ、そうなんです。当時わたしはまだ七歳で、両親の他に身寄りもなく、知らせを受けたガルテリオさまやアンジェさまが駆けつけて下さらなかったら、砂王国の奴隷として攫われているところでした。おふたりはそんなわたしを哀れみ、養子として黄都へ連れ帰って下さったんです。ヴィンツェンツィオ家にはちょうど同じ年にお父さまを亡くされたケリーさんがいらっしゃいましたから、境遇の似ているわたしと引き合わせれば、家族を失った苦しみや悲しみを共に乗り越えられるのではないかと期待して……」
そうしてマリステアがヴィンツェンツィオ屋敷に迎えられたのが十二年前のこと。あの日の情景は今でも昨日の記憶のように思い出すことができた。
生まれて初めて目にした黄都の街並み。
何もかもが輝いて見えた黄砂岩造りの小さなお屋敷。
そして余所者の自分を温かく歓迎してくれたヴィンツェンツィオ家の人々──その中でもいっとうまぶしかった、当時三歳のティノの笑顔も。
「だけどせっかく手にした幸せも、あまり長くは続かなかったんですよね。マリーさんがお屋敷で暮らすようになってすぐに正黄戦争が起きて……」
「はい。戦争でアンジェさまが犠牲になられて……わたしは二度、母を亡くしました。アンジェさまと過ごせたのはたった二年のことでしたけど、それでもわたしにとってアンジェさまは本当に大切な〝お母さん〟だったんです。だからアンジェさまが亡くなったことを知ったときは本当に悲しくて、悲しくて……だけどわたしなんかよりもっとつらくて悲しかったはずのティノさまは、とても毅然とされていました。まだあんなに幼くていらっしゃったのに〝母さんが僕を守ってくれたのは僕に笑っていてほしかったからだ。だから僕は泣かない〟とおっしゃって……」
ティノがそう言って小さな肩を震わせていたのは、真帝軍がついに黄都へ凱旋し、正黄戦争の終結が宣言された日のこと。
人々の歓喜と喝采に沸くソルレカランテの片隅で、当時十一歳だったマリステアは確かに見た。大好きだった母を失った悲しみに打ちのめされながら、しかし懸命に母の遺願を叶えようとしていた小さな背中を。
──ああ、この方を決してひとりにしてはいけない。
マリステアが真にそう誓ったのは恐らくあの日、あの瞬間だったのだと思う。
敵兵に囲まれた屋敷からティノとふたりで逃げ出したとき、マリステアは確かに託された。絶体絶命の窮地に立たされてなお気丈に笑ったアンジェから、
「マリー。どうかティノをお願い──この子の手を、絶対に放さないであげてね」
と。
(だから、わたしも)
母の墓前でうつむく小さな背中に誓った。
たとえ何があろうとも、決してアンジェとの約束を違えないと。
しかしあれから八年の月日を経て、ティノとマリステアは新たな苦難に直面することになる──すなわち神に呪われるという宿命に。
「ですがティノさまが《命神刻》に選ばれて、神子としての使命と永遠の命を背負われてから、わたしはどうすればいいのか分からなくなってしまいました。今までどおりティノさまにお仕えしたくとも、いずれあの方に置いていかれてしまうという不安が頭をもたげて……同時にティノさまの存在が、少しずつ遠くなっていくように感じてしまって……」
「不老の力を手に入れたティノくんと人間の私たちとじゃ、同じ時間を生きられないから……ですか?」
「はい。ティノさまを置き去りにして、自分だけが老いて死にゆくなんて想像しただけで胸が詰まりますし……かと言って老いることのないティノさまに置き去りにされるのも恐ろしい。だったらせめて、血飲み子となって共に生き続ければ……そうすれば少なくとも、ティノさまが神となられる日まで手をつないでいることはできると思ったんです」
「だからロクサーナに相談した?」
「ええ。既にトビアスさまという血飲み子をお持ちのロクサーナさまなら、きっと背中を押して下さると思って。ですが──」
結論から言えば、ロクサーナの答えは「否」だった。
明確な言葉にして反対されたわけではない。しかし彼女はマリステアが血飲み子となることに「賛成はできない」と言い放ち、難色を示した。
神子と血飲み子の関係というのは、世間が思うほど美しいものではない。
ゆえに決断を下すのは、真実を知ったあとでも遅くはないとそう言って。
「つ、つまりロクサーナは、神子が血飲み子を持つことに否定的ってことですか? 自分は血飲み子を持ってるのに?」
「ええ……いえ、より正しくは、血飲み子をお持ちでいらっしゃるからこそ、なのかもしれません。ロクサーナさまは、トビアスさまを血飲み子にしてしまったことを今も後悔していらっしゃるそうですから……」
「ええっ? で、でもロクサーナとトビアスさんって、神子と血飲み子って関係以前に、その、お、お互い憎からず想い合ってるんじゃ……?」
「想い合っているからこそ、ですよ。ロクサーナさまはトビアスさまから人間としての生を奪ってしまったことを、とても悔やんでおられました。トビアスさまのことが大切だからこそ、失いたくないというご自身のわがままのために、人の世から遠ざけてしまったのは間違いだったと……もちろんふたりで生きられる喜びも感じてはいらっしゃるそうなのですが、ときを経れば経るほどに、疑問や葛藤や懺悔ばかりが増えていく……ともおっしゃっていました」
たとえばあのとき、人としての生の喜びと引き換えに彼を救った選択は正しかったのか? 自分との出会いさえなければ、彼はもっと自由で幸福な人生を送れていたのではないか? そうした疑問と不安が次から次へと湧いてくるのに、本人には尋ねられないとロクサーナは言う。
何故ならきっと「私は今、幸せですよ」と笑顔で答えるだろうトビアスの、ほんの一瞬の心の翳りさえ神子には見えてしまうから──それが怖くて、苦しくて、互いに見えないふりをしている今の関係を続けることしかできないと。
「トビーの口から出る答えは疑いようもなく本心でおじゃる。彼奴はわーに嘘をつかぬ。されど同時に二十年前、トビーが列侯国に置いてきてしもうた人の世への未練を抱えておることも知っておるのじゃ。じゃけんじょ知っておるだけで、わーにはどうしてやることもできぬ。トビーを再び人に戻してやることも、わーのもとから解放してやることも──いっそ楽にしてやることさえ、わーにはできんのでおじゃる」
何故ならトビアスを生かしてしまったのは自分だから。
彼を失いたくないと願って救った自分が、今度はその存在が重荷だからと、花を手折るように命を奪うことなど許されないとロクサーナは言った。
しかし一方でトビアスも、己の存在が愛するひとを苦しめてしまっていることを知っている。知っているのに離れられない。彼女を解放するためには自ら命を捨てるしかない──されどそんな選択を取れようはずもない。
何故ならトビアスが自死を選べば「自分が殺してしまった」とロクサーナが今にも増して苦しむことは分かりきっているからだ。だから自分たちは互いの本心に見て見ぬふりを決め込んで、ロクサーナの肉体が神に取って代わられる日まで、ゆるやかに死を待つことしかできないと彼女は言った。
「ゆえにわーは思うのじゃ。神々が神子に血飲み子を生む力を与えたのは、恐らく神子を世界につなぎとめるためであろうと。神子が神の力と引き換えに課せられる代償や運命から逃れたいと願ったとき、血飲み子の存在はためらいを生む鎖となる。血飲み子を愛せば愛すほど、神子は己の宿命を受け入れざるを得なくなる。何故なら神子が命を断てば、己が望んで血を与えたはずの血飲み子まで道連れにすることになるのだから──」
──マリステア。
それでもそもじは、ジェロディの血飲み子となることを望むきゃえ?
彼奴に残された唯一の逃げ道を塞ぎ、そこから生まれるありとあらゆる苦しみを、すべて見届ける覚悟があるのきゃえ?
そう尋ねられたとき、マリステアは何も答えることができなかった。
ただ、ただ、絶望に打ち据えられ、涙を溢れさせることしかできなかった。
(だったら、どうすればいいの)
このまま手を放しても放さなくても、ティノを苦しめてしまうのなら。
自分は一体どうすればいい? どうすれば彼を救える? どんなに探してもその問いの答えが見つからなくて、マリステアは声を上げて泣いた。
愛しているのに。
こんなにも苦しくて苦しくて仕方がないほど、彼を愛しているのに。
「だけど、わたしは……やっぱり諦められません。ティノさまがおひとりで苦しんでおられるのを知っていながら、見て見ぬふりなんてできません。だってあの方が苦しんだり悲しんだりしていると、わたしも苦しくて悲しいんです。ずっと笑っていてほしい、って思うんです。わたしの望みはティノさまがつつがなく、幸せに暮らして下さることで……それ以外には何も要りません。今日のユカルさんとナアラさんの姿を見て、改めてそう思いました。だから」
そこまでひと息に告げて、マリステアはすう、と澄んだ夜気を吸った。
あの日──トビアスに本当の望みを尋ねられた日からずっと胸の内で燻っていた想いを、言葉にするのは初めてだ。だから少し不安だった。
自分は自分の想いをきちんと言葉にできるだろうか。言葉にできたところで受け入れられるだろうか。カミラに、ティノに、仲間に──世界に。
(いいえ、たとえ受け入れられなくても)
ティノのためにその道を選ぶ覚悟が、マリステアにはある。
たとえ世界を敵に回したって構わない。
我が身の何と引き換えにしても、必ず守ると誓ったのだ。だから、
「わたし、決めました。この戦いが終わったら、血飲み子になるのではなく、ティノさまを神子としての宿命からお救いする方法を探し出すと」
向き合ったカミラとマリステアの間をびょうと夜風が吹き抜け、そして止んだ。
煽られた赤髪をとっさに押さえたカミラの表情は、驚きに彩られている。
ついに言った。言ってしまった。ティノにもまだ告げていない本心を。
されど後悔はしていない。むしろ何か吹っ切れた気分だ。
一度言葉にして表明したからには、あと戻りできない。
そんな状況が、かえってマリステアの決意を固くしたのかもしれなかった。
不信心で、罰当たりで、あまりに不遜な選択であることは重々承知しているけれど。ティノの手に本当の幸福を取り戻す手段は、もうそこにしかないのだから。
「ティ……ティノくんを神子としての宿命から救う、って、つまり《神蝕》を止める方法を探すってことですか? あ、あるいはティノくんの右手から《命神刻》を引き剥がすとか……?」
「そうですね。現状、考えられる方法としてはそのどちらかになると思います。本当にできるかどうかはまだ全然分かりませんけど……でも、きっと方法はあると思うんです。だってロクサーナさまは六百年も《光神刻》を宿していながら、未だに人格を保っておられますし……何より我が国の建国者であるフラヴィオさまは、エレツエル神領国との戦いが終息したあと、自ら人として生きることを選ばれたと聞いています。つまり《金神刻》を封印し、竜から人間へ生まれ変わったオリアナ妃と共に老いることを選ばれたんです」
「そ、そう言われてみれば……フラヴィオ一世って、最後はごく普通に病死したって言われてますよね。だけどラファレイは、神子が命に関わるような病気にかかったなんて記録は古今東西存在しないって言ってた……だとしたら確かに、フラヴィオ一世は何らかの方法で人間に戻った可能性が高いってこと……? 太陽神の神託をフラヴィオ一世に授けたうちの郷でも、初代黄帝亡きあとの《金神刻》の行方は誰にも分からないって言われてたし……」
「あ。や、やはり太陽の村でもそう言い伝えられているのですか……! 我々トラモント人の間では、《金神刻》は太陽の村で再び眠りに就いていると言われることもあるのですけど……でも結局フラヴィオさまが《金神刻》をどうされたのか、正確な記録はどこにも残されていないんですよね」
「そうですね。少なくとも《金神刻》は太陽の村には還ってきてません。〝シェメッシュの御霊は今もルミジャフタの民に守られてる〟とかいう噂を信じた賊がグアテマヤンの森に入ってくるたびに、族長が迷惑な話だってぼやいてましたし……もし本当に《金神刻》が郷に眠ってるなら、話はもっと深刻になってたはずなんです。キニチ族はフラヴィオ一世の前の神子だった郷の始祖が亡くなったとき、《金神刻》を後世に渡って死守するよう遺命されたそうですから」
「キニチ族……というのは、太陽の村で暮らす一族の呼び名ですよね?」
「はい。つまり私もイークもキニチ族で、もし《金神刻》が郷にあるなら、黄皇国の内乱なんかに首を突っ込んでる場合じゃないってことです。特に混血の私と違って、イークは本物のキニチ族だから、下手したら郷を出ることすらできなかったかも。《金神刻》を守る戦士として、郷には若い男手が必要ですから」
「ではやはりフラヴィオさまは、何らかの手段を用いて《金神刻》を隠された可能性が高い……そうすることでご自身も人としての生を取り戻され、オリアナ妃と添い遂げられた──」
古い言い伝えをもとにマリステアの中で組み上げられていた仮説は、カミラの証言によっていよいよ真実味を帯びてきた。
エマニュエルで最も太陽神の加護厚き民族と言われるキニチ族ですら現在の《金神刻》の在処を知らないというのなら、大神刻を人の思いのままに封印し、誰の手にも渡らぬようにする方法がどこかに存在しているのではないか、と。
無論、それがエマニュエルから神々の祝福を遠ざける冒涜的な所業であることは分かっている。ちっぽけな人間ごときのわがままのために、世界中の人々が待望する《新世界》の到来を拒むなんて絶対にあってはならないことだということも。
(だけど、だったら他に誰がティノさまを救ってくれるというの)
そんなに《神々の目覚め》が待ち遠しいなら、《新世界》を望む者こそが真の神子になればいい。少なくともティノは自ら望んで神子の宿命を背負い込んだわけではなく、彼が世界のために己を捧げなければならない道理もない。
たとえ神に反逆する行為だとしても、マリステアはただティノの幸せを守ることさえできればいいのだ。むしろ彼を救ってくれない神などいらない。
ましてやティノを苦しめ、世界から奪い去ろうとする神々など。
「……カミラさん。カミラさんはわたしのこの選択をどう思われますか?」
「私は……」
「やはり愚かだと思われるでしょうか。世界中で苦しむすべての人々よりも、目の前にいるたったひとりの救済を選ぶだなんて……」
「マリーさん」
「本当は分かっているんです。こんなこと許されるはずがないって。全を捨てて一を救おうだなんて、あまりに傲慢で間違った選択だって……だけど、わたしは……わたしは──」
それでも、ティノを失いたくない。ただ笑っていてほしい。
震える喉からその想いだけを絞り出そうとしたときだった。
今にも溢れようとする不安を抑え込もうと、胸に当てていた両手を掴まれる。
はっとして顔を上げた。途端に心臓が小さく跳ねる。だってすぐそこで、雲の切れ間から注ぐ星明かりを浴びたカミラが、まぶしいくらいに笑っていたから。
「マリーさん、言ったでしょ。私たちはみんなマリーさんの味方だって」
「カミラさん、」
「少なくとも私は、今もあの言葉に二言はないです。むしろ大賛成! ティノくんを助ける方法があるなら、私も一緒に探します。そして絶対に見つけましょ、みんなで幸せになる方法を!」
「み……みんなで、幸せに──?」
「そうですよ! だって私たち、そのために戦ってるんじゃないですか。一緒に戦う仲間も、どこか遠くで苦しんでる黄皇国の人々も、みんなが自由で幸せに暮らせるように……もう誰にも弄ばれたり、踏みつけられたり、搾取されたりせずに済む世の中をつくるために」
「で……ですがたとえ黄皇国で暮らす人々は救えても、《神々の目覚め》が訪れなければ、世界は──」
「確かに世界をあるべき形に戻すには、神々を復活させて《新世界》を目指すのが一番手っ取り早いのかもしれません。でも《新世界》の扉を開くためには、二十二人の神子を人柱にしなくちゃいけない。エマニュエルで暮らす全人類の幸福のためなら、たった二十二人の犠牲なんて安いもんだって言う人も中にはいるでしょうけどね。だったら大神刻なんて、そういう尊い自己犠牲ができる人たちに譲ればいいのよ。まあ、そんな人間が本当にいるなら、とっくに神子に選ばれて《神々の目覚め》に貢献してるでしょうけど? なのに未だにそうなってないって事実が、すべての答えだと思うのよね、私は」
カミラにぎゅっと両手を握られたまま、マリステアは常磐色の瞳を見開いた。
言われてみれば確かにそうだ。大神刻は自らの意思で依り代を選ぶ。エマニュエルに星の数ほどいる人間の中から、より正しく清らかな人間を選ぶのだ。ならば《新世界》の到来を心から望み、自ら進んで人柱となるような人間が神子となって然るべきではないのか。それこそが神々にとっての〝正しさ〟ではないのか。
(なのに、未だに《新世界》が訪れていないのは──)
《神々の眠り》から千年。
エマニュエルには何人もの神子が誕生し、そして消えていった。
彼らは何故、神の代理人としての使命を最後までまっとうできなかったのか。
千年ものときを与えられながら、人々を《新世界》へ導けなかったのか。
──今なら分かる。
彼らにもきっとまた彼らを失いたくないと願う人々がいたからだ。自分たちの幸福のために誰かに犠牲を強いるだなんて、おかしいと気づいた人々がいたからだ。
「だから私は、マリーさんの考えを罰当たりだなんて思いません。全を捨てても一を守りたいと願うマリーさんの想いを否定したら、私はフィロのしたことも間違ってたって言わなきゃいけないから。むしろ本当の《新世界》をつくるのは、そうやって誰かを思いやる、私たちひとりひとりの心だって思うんです。つまり神様の手を借りなくたって、人類は《新世界》に辿り着ける。それを証明するんですよ。まずはこのトラモント黄皇国で!」
──ああ、そうだ。カミラの言うとおりだ。
言われて初めて気がついた。自分たちが身を置く救世軍は──コルノ島の姿は、マリステアが脳裏に思い描いていた理想郷そのものだということに。
(確かに今は戦いが尽きないけれど……)
同時に二ヶ月半前の光歌祭を思い出す。人々の希望と喜びが溢れ、弾け、降り注ぎ、輝ける旋律となって皆の心をひとつにしたあの祝祭を。
(最初はあんなにバラバラだったみんなの心が……)
フィロメーナを失い、散り散りになりかけていた救世軍が。今、こうして一丸となり、黄皇国の歴史を塗り替えようとしているのはまぎれもない事実だ。
だとしたら、不可能ではない。
(わたしたちの手で、《新世界》を)
救世軍の仲間と──ティノと共に。
(わたしたちなら、それができる)
そうして胸の奥に確信という名の炎が燃え上がったとき、マリステアはあまりのまぶしさに泣き出してしまいそうだった。
ああ、やはり自分は不安で不安でたまらなかったのだなと思う。神の意思に背く覚悟を決めた裏で、本当にそんなことが許されるのかと世界の審判に怯えていた。
けれどマリステアはひとりじゃない。
今日までも、そしてこれからも共に戦ってくれる頼もしい仲間がいる。
だから信じて言葉にできたのだ。
彼女なら──カミラならきっとそう言ってくれるはずだと。
「ね、だから一緒に頑張りましょ、マリーさん! 前にティノくんには言ったんですけど、私、マリーさんとティノくんはコルノ島イチお似合いのふたりだと思ってますから! ふたりのためなら、喜んでひと肌でもふた肌でも脱いじゃいますよ! 私もティノくんが《新世界》のための人柱になるなんて嫌ですし……」
「あ……ありがとうございます、カミラさん。カミラさんが手伝って下さるのなら、向かうところ敵なしです……! ティノさまもきっと喜ばれるでしょうし……本当に、なんとお礼を申し上げたらよいか……」
「い、いやいや、大袈裟ですよ、マリーさん。マリーさんの望みは私の望みでもあるんですから、お礼なんて気にしないで! 今までどおり仲良くしてもらえて、たまに愚痴や弱音を聞いてもらえたら、私としてはもう充分ですから!」
「そういうわけには参りません。わたしのわがままを叶えるための方法を、一緒に探していただくのですから──そのお返しに、わたしも一緒に探します。カミラさんがもう一度、大好きなお兄さんと暮らせる道を」
マリステアがそう言って笑いかければ、今度はカミラが目を丸くする番だった。
天上から注ぐわずかな星明かりを反射して、マリステアを映す空色の瞳が見開かれる。かと思えばあっという間に鏡像は輪郭を失った。
「……っマリーさん、それは不意討ちが過ぎますよ……!」
と、みるみる洪水を起こしそうになる両目を左手で覆って、カミラが喉を震わせる。そうしてそっぽを向いてしまった彼女を見やり、マリステアは思わず笑った。
ついさっき、彼女の言葉に泣かされそうになったのはマリステアも同じだからこれはお返しだ。同時にカミラの右手を包み込み、伝える。
互いの体温を分け合う指先から、自分も彼女の味方だと。
「はあ……なんていうかほんと……マリーさんには敵わないです、やっぱり。そういうところ、ティノくんにそっくりですよね……」
「そ、そうですか? そこはあまり意識してませんでしたけど……こう見えて一応、姉弟ですから」
「じゃあケリーさんのことも警戒しとかなきゃですね。まったくヴィンツェンツィオ家の人たちは、油断してるとすぐに人を泣かせにきて──」
涙を誤魔化すためだろうか。カミラはやや戯けた口調でそう言うと、そっぽを向いたまま左手でぐし、と目もとを拭った。ところが次いで小さく洟を啜ったところで、カミラの動きが静止する。すぐにこちらへ向き直るかに見えた彼女は、にわかに硬直してある一点を凝視していた。直前まで困ったように笑っていたはずの口もとは強張り、明らかに顔つきが変わっている。
「か、カミラさん?」
唐突な異変に驚いて、マリステアは戸惑った。すると次の瞬間、ぱっとマリステアの手を放したカミラが床を蹴り、矢狭間から身を乗り出す。
そのまま転がり落ちてしまうのではないかと不安になるほど首を伸ばし、彼女が息を飲んで見つめた先には、
「野営地の火が──」
「え?」
毒茨の森の西の果て。
そこで地上の星のごとく瞬いていた味方の陣地の篝火が、突然、消えた。




