278.当たり前だ
ユカルにはナアラという名の姉がいる。
そう話していたのは、かつてふたりを死の運命から救ったレナードだった。
彼らはたったふたりだけの、ピッコーネ村の生き残りだ。
エクリティコ平野からソルン城へ向かう道すがら、ジェロディが姉のナアラについて尋ねると、ユカルはばつが悪そうにしながらもぽつぽつと話してくれた。
この世界に彼女以上に大切なものなど何もない、と。
そのナアラが今、敵将の手の中にいる。いや、彼女がナアラだという確証はまだないが、十中八九そうだと思っていいはずだ。
何しろジャレッドに身柄を拘束され、刃を突きつけられている少女にはうっすらと弟の面影がある。髪の色やそばかすの散った面差しはユカルにあまり似ていないものの、涙に濡れた菫色の瞳や白く整った鼻の形、そして何より三つ編みにされ脇に留められた前髪がユカルのそれとまったくの同じだ。
(だけどユカルのお姉さんは、こことは別の町にいるんじゃなかったのか?)
と、ソルン城の屋上で渦巻く凶風の音に息を飲みながら、そう疑問に思ったところでジェロディは気がついた。なるほど、ユカルの隠しごとはこれだったわけだ。
彼はジャレッドの狗として働き、手にした金を遠くの町に隠れ住む姉に仕送りしていると話していたけれど、あれはトリエステの読みどおり虚言だった。
何故ならジャレッドに捕らわれた少女は──見るも無惨に破かれてしまってはいるが──城の女中のお仕着せと思しい衣服を身にまとっている。
その事実から推測する限り、ナアラもまたこの城に囚われたひとりだったのだろう。彼女を人質に取られ、ジャレッドに無理矢理従わされていたのだとすれば、ユカルの異様な忠誠心にも納得がいく。どんなに虐げられても決してあの男の下を離れようとしなかったのは、姉を守るためだったのだと。
それならそうと打ち明けてくれればいいものを、ユカルは何故黙秘したのか。
いや、答えは訊かずとも分かる。彼は救世軍を信じられなかったのだ。
今日まであまりにも多くのものに裏切られてきたから。
だからユカルは姉の居場所を隠した。無事にジャレッドを討てたとしても、次はジェロディたちに彼女を囚われ、また同じように利用される未来を恐れて。
「ジャレッド……お前、姉さんに何をした!?」
不穏に逆巻く風を従えながらユカルが吼える。ジャレッドを睨む彼の形相は、ジェロディがこれまで目にしたことがないほどの憎悪に彩られていて、見ているだけで背筋が凍った。が、対するジャレッドは意外にも余裕の表情だ。
供はたったの数人しかおらず、逃げ場のない屋上に追い詰められた状況だというのに、口もとには笑みを湛えている。
エラの張った頬を細く裂くような口角にジェロディはジャレッドの狂気を見た。
「クハハハハハッ! 主人に向かってその口の利き方はなんだ、ユカル? まったくつくづく手のかかるガキだ。お前にはこの二年、じっくりと時間をかけて身の程というものを教え込んでやったはずだが、どうやらまだまだ教育が必要なようだな? ん?」
と、既に激昂しているユカルをさらに挑発するように、ジャレッドは金の指輪を嵌めた手で白いナアラの顎を掴んだ。
そうして彼女の喉もとを晒しながら、鋭く磨かれた短剣の腹でぺしぺしとナアラの肌を叩く。途端にぞわりとユカルがまとう風がおぞましさを増し、暴れ狂った。
「薄汚い手で姉さんに触るな、下郎……!!」
「ほう。どうやらほんの数日会わない間に、ずいぶん賊に感化されてしまったようだな。だが悪いのはお前だろう、ユカル? 生きていたならさっさと城へ戻り、再び忠勤を尽くすべきところを、あろうことか反乱軍なんぞに寝返り主に弓引いたのだからな……!」
「……っ!」
刹那、ジャレッドの手から逃れようとしたのだろうか。
ナアラが突然身をよじり、ジャレッドの腕の拘束を解いてまろび出ようとした。
が、ジャレッドもすかさずそんなナアラの腕を掴み、素早く足払いをかける。
加えて「あっ……!」と体勢を崩した彼女を引きずり起こすや、彼は短剣を握った拳の裏でナアラの頬を殴打した。まったくの無感情に繰り出された暴力にユカルが総毛立ち、ジェロディたちもまた息を飲む。
「ジャレッド……!!」
「騒ぐな。まったく手間のかかる女だな。何度やっても無駄だとこうして教えてやっているのに、お前が生きていると知るや暴れて逃げ出そうとしおって……」
「……っユカル、逃げて! 私のことはいいから、早く──ッ!」
殴られた唇から血を流しながらも、ナアラは悲痛な声を上げて弟を逃がそうとした。が、ジャレッドは大きな手で忌々しげに彼女の口を塞ぎ、再びしっかりと刃を押し当てる。刃先がわずか触れたナアラの首筋にはうっすらと血が滲んでいた。
それを見たユカルが全身を瘧のように震わせ、叫ぶ。
「姉さん……!!」
「クハハハハッ! そんなにこの愚かな姉が大事か、ユカルよ。だがこいつはな、ほんの数刻前までお前が死んだと信じて疑ってもいなかったのだぞ? おまけにお前を殺したのは私だなどと言いがかりをつけ、のこのこと復讐に現れた。まあ、おかげで手間が省けて助かったよ。かわいいかわいい弟のために、こいつはわざわざ自分から我が身を差し出してくれたのだからな!」
「ジャレッド!」
──これ以上は聞いていられない。ジャレッドの腕の中で涙を流すナアラと、震えるユカルの背中を見てそう判断したジェロディは、剣を構えたまま前に出た。
するとジャレッドはわざとらしく眉を上げ、さもたった今ジェロディの存在に気づいたかのような素振りで口を開く。
「おや、これはこれは偉大なる神子ジェロディ・ヴィンツェンツィオ殿。総大将自ら敵陣に乗り込んでこられるとは勇ましいことですな。お父上は息災で?」
「お前の戯れ言に付き合う義理はない。今すぐ彼女を放せ。今回の戦、お前たちの負けだ。今更抵抗したところで見苦しいだけだぞ」
「クククッ……ハハハハハ! 思い上がるなよ、成り上がり貴族のガキが! 我々はまだ敗北などしていない! 負けるのは貴様らの方だ、反乱軍!」
「何を──」
「ユカル、分かっているだろうな!? 今すぐお前の神術で、そこにいる賊どもを一掃しろ! 皆殺しだ! ジェロディ・ヴィンツェンツィオの首を取れば、私を裏切ったお前の罪はなかったことにしてやるぞ!」
「は……何言ってんだ、あのオッサン? 残念だけどここまでの道中で、ユカルの神力もとっくに尽きて……」
「──ティノくん!」
そのときだった。突然自分を呼ぶカミラの声が聞こえたと思ったら、いきなり背後から押し倒された。直後、スパッと空気が裂けるような音がして、ジェロディと共に倒れたカミラの赤髪が宙を舞う。
切れた。頭の後ろで一本に結われているカミラの髪の先が一葉(五センチ)ほど、何もないはずの空間で、まるで刃物にでも切られたように。
「は……!? おいユカル、お前……!?」
「……うるさいな。さっき言ったろ。ジェロディさえよければ、お前を今すぐ粉々に切り刻んでやるってさ」
動揺しているカイルに向かってそう吐き捨てたユカルが、ザリ、と石の床を躙って振り向いた。今の彼の形相は──鬼だ。半分だけ長く垂れた前髪が影を作り、炯々と光るユカルの眼の異様さをよりいっそう引き立てている。
「ユカル……あなたまさか、まだ神力を残してたの……!?」
「ハハハハハッ、馬鹿どもめ! そのガキをそう簡単に飼い馴らせると思ったら大間違いだぞ! そいつは実に狡猾で用心深く、おまけに姉のためならば、尽きたはずの神力をいくらでも引き出せる生きた兵器なのだからな!」
……どうりで先程から風が騒がしいと思った。
今のジャレッドの言葉を信じるのなら、ユカルは神力が尽きたふりをして、いざというときに戦える程度の余力はしっかりと残していたということだろう。
おまけに今は目の前で姉を人質に取られている。
ジャレッドの言うとおり、彼女を救うためならばユカルは何だってやるだろう。
事実この二年、彼はそうしてナアラを守り続けてきたのだから。
「ユカル、君は……!」
「……悪いね、ジェロディ。どうやらあんたらは本気で約束を守ってくれるつもりだったみたいだけどさ。見てのとおり事情が変わったんだ。だから、申し訳ないけど──ここで死んでくれるかな」
影の中でいびつに笑い、そう言ってユカルは右手を掲げた。
彼の掌の上では小さな風が逆巻き、それが徐々に肥大化して、ジェロディたちを包む空気そのものを巻き上げていく──これが『嵐の申し子』の力。
先の戦闘でも彼の脅威的な神術を目の当たりにしたが、今、眼前の彼から感じる神力の量と禍々しさはあのときの比ではなかった。
そして困ったことに、こちらは誰も彼もが大半の神力を使い切っている。唯一ユカルに対抗できると目されていたカミラとイークの合体神術もイークがいなければ成立しない。このままでは本当に、ユカルの持つ圧倒的な神力に蹂躙されて──
「従ってはダメよ、ユカル!」
刹那、闇を増していく曇天の下に、血を吐くようなナアラの叫びが谺した。
「ユカル、あなたはもう充分苦しんだわ……! 何の力も持たない私のせいで……私さえいなければ、あなたはとっくに逃げ出せていたはずなのに……だからもういいの、お願いよ……どうかあなただけでも自由になって……!」
「ハハッ、ハハハハッ! 聞いたか、ユカル!? まったく泣かせる姉弟愛だなァ!? 愛しい愛しい姉さんはこう言っているぞ? ここは大好きな姉の願いを叶えてやるべきなんじゃないのか? そんなに私が憎いなら足手まといの姉など捨てて、お前だけ自由になるといいさ! クハハハハハハハハ……ッ!」
「……っあんの野郎……!」
「だ、ダメです、カイルさん……!」
──ユカルが絶対に逆らえないと分かっていながら。
その上でさらに追い討ちをかけようとするジャレッドの振る舞いにいよいよ堪忍袋の緒が切れたのか、残りわずかな神力を右手にまとわせたカイルをマリステアが慌てて止めた。同じようにカミラもギリ、と切歯し、目の前の脅威ではなく卑劣な手段の限りを尽くすジャレッドを睨み据えている。けれど、不意に、
「……ほんとに馬鹿だな、姉さんは」
瞬間、荒れ狂う凶風を頭上に従えたユカルが、笑った。
「どう考えたって足手まといは僕の方だろ。僕が……天授児さえいなければ、姉さんがこんな毒の森に囚われることはなかった。僕のために苦労することも、嗤われることも、殴られることもなかった。僕なんかが……生まれたせいで……」
「ユカル、」
「なあ、ジェロディ。あんた言ったよな。僕を救いたいんだって。だったら──」
そう言ってユカルは顔を上げた。吼え猛る風が激しさを増す。
けれどユカルは泣いている。ぐしゃぐしゃに壊れた笑みを湛えながら。
「だったら、救ってくれよ。僕と姉さんを、この地獄から……頼むから……救ってくれ……!」
傍らでカミラが息を止めたのが分かった。
未だ神気を猛らせたままのカイルも言葉を失い、マリステアは泣いている。
だから、ジェロディはすうと息を吸った。答えは最初から決まっている。
「当たり前だ」
ユカルが色の違うふたつの眼を見開いた。
その瞳に映り込んだジェロディの右手から神の力が炸裂する。
獰猛な吼え声を上げた魂が矢のごとき勢いで飛び、無数に弾けてジャレッドたちへと降り注いだ。未知の現象にぎょっと固まった彼らの武器に──そしてナアラの首にあてがわれていた短剣に生命は降り注ぐ。
「なっ……なんだ!? 剣が勝手に──!?」
そう、ジェロディはこの瞬間を待っていた。
ジャレッドが勝利を確信し、慢心と油断という名の隙を露呈する瞬間を。
而して策は成った。神の怒りを帯びたジャレッドの得物は彼の手を振り払い、宙へ飛び上がって、いきなり持ち主の顔面目がけて急降下する。
が、同じく自らの剣に襲われた従者たちが次々と絶命する中で、ジャレッドだけは辛うじて短剣の反逆を躱した。完全に気は動転しているようだが、あんな男でも一応、軍人らしい瞬発力と反射神経だけは有していたようだ。
「くっ……くそっ、一体なんだ!? まさかこれが大神刻の力……!?」
「姉さん……!」
もはやジャレッドの手もとに武器はない。従者もいない。それにいち早く気づいたユカルが、ジャレッドと共に倒れたナアラに駆け寄ろうとした。
が、寸前、ユカルの接近に気づいたジャレッドは慌ててナアラを捕まえる。
そうして再び彼女を引きずり起こした。とりあえず人質は確保したまま逃げる気か。しかしそうはさせない、とジェロディが宙空に浮かぶ剣の切っ先をジャレッドへ向ければ、やつは舌打ちして身を翻した。真っ先に迫った短剣を腰から引き抜いた短鞭で弾き飛ばし、ナアラを抱えて逃げる。
「待て、ジャレッド……!」
「来るな!!」
直後、ジャレッドが取った行動はジェロディたちの予想を超えていた。
救世軍一行が出てきたのとは真逆の位置にある、もうひとつの出口を目指すかに見えた彼は寸前で進路を変え、自ら屋上の際まで馳せていく。
かと思えば短く悲鳴を上げたナアラを抱え上げ、彼女の半身を矢狭間の間へ押し込んだ。力づくで押しやられたナアラは当然ながら体勢を失い、四階もの高さから真っ逆さまに落ちそうになる。
「姉さん……!!」
が、落下の寸前、ジャレッドはナアラの両手を縛る縄をとっさに掴んだ。
おかげでナアラは──既に全身の六割ほどずり落ちている状態だが──すんでのところで屋上から転がり落ちるのを免れる。
「おい、今ここで私を殺してみろ! さすればこの女も死ぬぞ! 分かったらやつらを殺せ、ユカル! これは命令だ、従わなければ今度こそお前の姉を殺すぞ!」
もはやあとがなくなったジャレッドはそんな強行手段に出たあげく、顔中を醜く歪ませて喚き散らした。だが確かにやつの言うとおり、今、ジャレッドを殺せば屋上から落ちかけているナアラを支えるものがなくなる。
城塞の最上階から投げ落とされたりしたら、彼女は絶対に助からない。
なんて往生際の悪い男だ。ジェロディは舌打ちし、今にもジャレッドに襲いかかろうとしていた剣たちを止めた。しかしジャレッドは今や丸腰だ。
ならばきっとナアラを救う方法はあるはず──
「マリーさん!」
そのとき俄然、カミラがマリステアを顧みた。
ふたりの間にそれ以上の会話はない。
されどカミラが左手を掲げた刹那、マリステアは何か理解したようだった。
彼女が決意した表情で頷くと同時に、カミラもニッと口角を持ち上げる。
「ねえ、そこの首狩り貴族さん! 突然だけど『神弓』って知ってる?」
「あァ!? やかましいぞ、女! 貴様の戯れ言に構っている暇など──」
ない、と、ジャレッドはそう言葉を続けたかったのだろう。
されどそうできなかったのは、突然どこからともなく飛来した一本の矢が恐ろしいほどの狂暴さで、彼の左肩の肉を食い破ったからだ。
「ぐわあっ……!?」
死角からの正確無比な一撃が、ジャレッドを見事に怯ませた。
──一体誰が?
と、ジェロディはジャレッドを襲った矢の軌跡をとっさに目で追い破顔する。
コラード。本館の真横に聳え立つ東の塔の上にいた。
カミラにはあれが見えていたのか。その証拠に彼女は『神弓』から放たれた矢が生んだ一瞬の隙に躊躇なく飛び込んだ。
「はい、邪魔ッ!」
次の瞬間、見惚れるほど美しい体勢で跳躍したカミラが、とんでもない切れ味の蹴りをジャレッドの顔面に叩き込む。矢に気を取られていたジャレッドは避ける間もなく、まんまと数本の歯を砕かれて屋上に倒れ伏した。
と同時にジャレッドが手放したナアラの腰へ、振り向きざまカミラが抱きつく。
だが彼女の体格と筋力で人ひとりの体重を支えるなんて無理だ。
おかげでカミラも落ちゆくナアラに引きずられ、一緒に矢狭間の間から転がり落ちそうになったところで、
「氷霜の枷!」
マリステアの祈唱と共に青い光が炸裂した。ナアラを抱えたのとは逆の手を矢狭間につき、ほんの一瞬落下を耐えたカミラの体を瞬く間に冷気が包み込む。
やがて石の壁から生まれ、身を乗り出したカミラの腰に巻きついた冷気が氷の枷へと姿を変えた。おかげでカミラの体はがっちりと矢狭間に固定され、落下に急制動がかかる。あまりに見事な作戦だ。
が、それでもカミラがナアラの転落を防いでいられるのには限界がある。
「ぐ、うっ……おのれ……小娘がァッ……!」
ところが最後の抵抗と言わんばかりに、屋上に倒れ伏したジャレッドが、自らの肩に突き刺さった矢を引き抜いた。そうして彼に唯一残された凶器をカミラに向かって投げつけようとしたところで、すさまじい閃光と轟音がはたたく。
カイルの放った神術だった。
黄金の光を発した稲妻がジャレッドの右手から矢を弾き飛ばす。しかし続いてトドメの一撃を放とうとしたところで、ジェロディは先刻ジャレッドが逃げ込もうとした扉から、戦いを終わらせるのに最もふさわしい男が走り出してくるのを見た。
「うおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!」
聞く者に畏怖の念さえ植えつける咆吼を上げ、瞬間、振り下ろされた斬馬斧の柄がジャレッドの側頭部にめり込む。
背後からの急襲を避けること能わなかったジャレッドは鞠のごとく吹き飛ばされ、そそり立つ胸壁に全身を叩きつけられて動かなくなった。
「カミラ!」
「カミラさん……!」
続いて同じ扉から飛び出してきたイークとアルドが、屋上から身を乗り出したままのカミラへすかさず走り寄る。
ふたりのおかげでカミラとナアラは無事引き上げられた。マリステアがカミラを支えていた神術を解けば、途端に彼女はへたり込み、脱力した顔で笑い出す。
「はは……あはははははは、いや~、助かった~! さすがの私も今度という今度はもうダメかと……いたっ!?」
「なんて無茶をしやがる、このバカ! マリステアの援護がなかったら、間違いなくお前も転げ落ちてたぞ!」
「だ、だからって殴ることないでしょ!? 私だって必死で──っていたたたっ……こ、腰が……な……殴られた頭よりも、腰の方が思いのほか痛い……!」
「ああっ、もうっ、病み上がりであんな無茶するからですよ! 動かないで、とにかく安静にして下さい……!」
腰を押さえて屈み込んだカミラをアルドが慌てて覗き込み、傍らでイークが呆れのため息をついた。そうしている間にカイルもまた走り寄り、カミラたちの傍らで呆然と座り込んでいるナアラの縄を切ってやる。
「お怪我はありませんか、お嬢さん?」
「は……はあ……わ、私は大丈夫、ですが……」
と、呆けているナアラの前で片膝をつき、胸に手を当てて、やたらとキザっぽく振る舞おうとしたカイルの脳天にも等しくイークの拳が降った。が、彼の悲鳴でようやく我に返ったらしいナアラが、はっとした様子で弟の姿を探す。
「ユカル……!」
されど今回ばかりは、彼女の弟が姉の呼び声に応えることはなかった。
腰の剣を抜き、屋上の壁際に無言で佇んだユカルの足もとには、既に動けなくなったジャレッドがいる。
「や……やめろ、ユカル……こ……この二年……養ってやった、私の恩を、仇で返すつもりか……」
頭から血を流し、朦朧と譫言を呟くジャレッドを見下ろすユカルの眼差しは、ジェロディがこれまで経験したどんな冬よりも冷たかった。
剣を握る彼の右手は、震えている。その右手に宿るありとあらゆる感情を、ジェロディはただ想像することしかできない。
刹那、ユカルの傍らにじっと佇んでいたレナードが声もなく華奢な肩を叩いた。
彼の大きくて武骨な手は、確かに少年の背中を押したようだ。
「……そうだな、ジャレッド。お前には感謝してるよ。何せ故郷が滅んだ理由を知り、こうして首謀者のひとりに報復する機会を僕たちに与えてくれたんだから」
「や……やめろ……私は……」
「僕らがピッコーネの生き残りと分かった時点で、お前は僕だけでも確実に殺しておくべきだった。だけどそうしなかったお前の強欲に敬意を表して祈ってやるよ。どうかお前の魂が神鳥の慈翼に抱かれ、魔界へ堕ちることなく天へと昇り──そうして無事に迎えた来世で、今世よりもみじめな死と苦しみが与えられますように」
ジャレッドの目が絶望に見開かれた。
直後、男の眼窩目がけてひと振りの刃が振り下ろされる。
ほどなくソルン城の屋上には、翼と星の旗が突き立てられた。
毒茨の城は完全に制圧され、あちこちで救世軍の勝鬨が上がっている。
誇らしげに翻るその旗の麓で、ふたりの姉弟が泣きながら身を寄せ合っていた。
そんな彼らをまぶしそうに見つめていたレナードの眼差しを、ジェロディは一生、忘れない。




