26.こそ泥と聖女
帰さなければ、と思う。
帰したくない、とも思う。
早く確かめなければ、と思う。
このままうやむやになってしまえばいいのに、とも思う。
どちらの声も本当の私。
そんな自分の浅ましさに眩暈がする。
◯ ● ◯
チッタ・エテルナ二階にある客室のドアを開いたところで、カミラたちはしばし立ち尽くした。まず、状況が掴めない。イークにはこの部屋に例のパオロという男がいる、と聞いてきたのだが。
いや、確かにそこにパオロはいた。カミラはその男の姿を視認するのはこれが初めてだが、たぶんあれがパオロだろう、という見当はつく。何せ部屋の中に見知らぬ顔はそれひとつだけだし、イークが言っていた特徴と見た目が一致するし。
だがそのパオロが何故ウォルドに胸ぐらを掴まれて悲鳴を上げているのだろうか。パオロと思しき男はぎえええとかお助けええええとか叫びながら必死で足をばたつかせている。並ぶとウォルドの胸もとくらいまでしか背丈がないせいで、体が宙に浮いているのだ。対するウォルドは珍しく怒りの形相をしていて、それをアルドが必死に宥めている。が、状況は一向に好転せず、アルドはもはや半泣きだ。
刹那、カミラの脳裏に〝カオス〟というハノーク語が浮かんだ──なんだこれ。
「ウォルド、戻ってたの?」
とは言えいつまでも立ち尽くしているわけにはいかないと判じたのだろう。
やがて入り口からフィロメーナが、結構迷った末にまずウォルドへ声をかけた。
するとウォルドは「あ?」と不機嫌にこちらを振り返る。
右頬の古傷も手伝って、こうして見ると極悪人の人相だ。
「なんだ、フィロか。つーかどうした、お前ら揃いも揃って」
「それはこっちの台詞だ。お前、今の今までどこ行ってたんだ? もう二ヶ月も音信不通だったんだぞ」
と、ときに横からカミラを押しのけて食ってかかったのはイークだった。現在の彼もまたウォルドに負けず劣らず不機嫌で、言葉つきにさっき以上の険がある。
まあ、でも今回はイークの言い分が正しいかな、とカミラは内心イークの肩を持った。何せ彼の言うとおり、ウォルドは二ヶ月前に例の略奪作戦へ出たきり行方が分からなくなっていたのだ。
その作戦にはカミラも同行していたから、経緯ははっきりと記憶している。
──俺は事後処理のためにしばらくここに留まる。まあ、上手くやるから心配すんな。帰りの指揮はお前に任せる。分からねえことがあればアルドに訊け。くれぐれも湖賊やら山賊やらにお宝を横取りされるようなヘマはすんなよ。
カミラがウォルドの姿を見たのはあれが最後だった。略奪に赴いたレーガム地方のとある町で悪徳商人の屋敷を襲撃したあと、ウォルドはそう言ってカミラたちを町から送り出したのだった。彼の言う〝事後処理〟というのが具体的にどんな内容なのかは誰も知らなかったが、まあたぶんウォルドのことだから黄皇国軍の目を適当にだまくらかして追っ手がかからないようにしてくれるんだろう、なんて楽観的な判断をして、そのときは皆彼の言葉に従った。帰りの兵たちの面倒を見るよう言われたカミラは、初めての隊長っぽい仕事にちょっとだけ緊張しながら、言われたとおり無事にロカンダまで帰り着くことができた。
で、それきりウォルドは音信不通だ。まさかあのまま黄皇国軍に捕まったのでは、なんて噂まで流れて、カミラたちが最後に別れた町へ調査の兵が送られたりしたが、その後の行方は杳として知れなかった。唯一分かったことはと言えば、とりあえずウォルドらしき人物が黄皇国軍に捕まったという情報はないということと、彼がカミラたちを見送った数日後には町を出たという目撃証言があったことだけ。
それから二ヶ月。忽然と消えたはずのウォルドは忽然と戻ってきた。パオロを問答無用で締め上げていることを除けば様子は行方を晦ます以前のままで、窶れたとか怪我をしているとかいう異変もない。身なりもきちんとしているし、多少旅塵にまみれてはいるがたったいま彼が掴み上げているパオロの状態よりは数段マシだ。
「いや、ちょっと野暮用でな。あちこち寄り道してるうちにすっかり帰るのが遅くなっちまった」
「遅くなるどころの話じゃないだろ、二ヶ月だぞ。例の作戦を終えてカミラたちと別れたあと、今までどこで何してた?」
「まあ、その話は今はいいだろ。んなことより今はこの野郎だ。カールから妙な客が来てるって聞いて来てみれば、こいつ、俺が苦労して手に入れた酒と肴を盗み食いしやがって……」
「すいやせんでした、すいやせんでした! あ、あっし、とにかく腹ぺこで、ちょっとばかし魔が差したんでさ! こ、こ、このお詫びは何でもしやすから、命だけはお助けを……!」
「詫びだぁ? 言っとくがな、あの酒と保存肉は俺がわざわざ黄都まで足を運んで、値切りに値切って手に入れてきたもんだぞ! てめえはそれを……」
「ああもうウォルドさん、落ち着いて下さいってば! ほら、フィロメーナ様もいらしたんですから……!」
アルドが泣きべそをかいて取り縋り、イークが額に青筋を立て、フィロメーナが頭痛をこらえるように額を押さえた。
カミラはあーあと思いながらもひとまず我関せずを決め込み、今にもパオロを絞め殺しそうな勢いのウォルドに呆れと諦めの眼差しを注ぐ。だがそのとき、泣き喚くばかりだったパオロがはっと声を引っ込めた。そうして何かひどく驚いた様子でこちらを振り向くやまずカミラを見、次いでフィロメーナを見やって口を開く。
「あ、あ、フィロメーナさま……!? ど、どちらの女性がフィロメーナさまで!?」
「私よ」
あ、とカミラが思ったときにはフィロメーナが自ら名乗りを上げていた。
途端にイークが舌打ちしたのをカミラは聞き逃さない。
相手がフィロの顔を知らないなら私が。そう思ったのはカミラも同じだった。
思ったときにはすでにフィロメーナが進み出ていて、それがイークのさらなる不興を買ったわけだが、もうこうなったら仕方がない。
カミラは右手の手套に隠れた火刻に神力を溜めた。
その神力の流れを同じ神術使いのイークも感じ取ったはずだ。彼がちらりとこちらを見やって、カミラは頷く。いざというときの準備は万端だった。
もしもあのパオロという小男が、フィロメーナに危害を加えるようなら──
「あ、あああ、フィロメーナさま……! お探ししてやした……!」
「あっ、おい」
刹那、パオロがいきなりウォルドの両手を振りほどいてどてっと尻から床に落ちた。が、彼は悲鳴も上げずにそのままがばっと飛び起きると、石の床に手をついてフィロメーナの前まで這っていく。
瞬間、カミラは身構えた。パオロがあの体勢から小刀でも取り出してフィロメーナに躍りかかる素振りを見せたら、迷わず消し炭にする用意があった。
一同の間に緊張が走る。しかしパオロは立ち竦んだフィロメーナの足もとまでやってくると、途端に「ははあっ」と頭を下げて、床に額を擦りつけた。
「フィロメーナさま、お初お目にかかりやす。あっしはゲヴラー一味が舎弟のパオロ、生まれは知らず、流れて育ち、恥ずかしながら日陰の道を通って参りやした。そんなあっしを拾い諭して下すったのがかのゲヴラー親びん、何を隠そう一味の棟梁でごぜえやす。あっしはその親びんをどうかお救いいただきたく、こうして御前を汚しに参った次第。未だ駆け出し者にて不作法の段、平に、平にご容赦下せえ」
カミラたちは呆気に取られた。体を縮めたパオロの口からは流れるような口上が紡がれ、それがあまりに流暢すぎて、カミラは数瞬理解が追いつかなかった。
……えっと、つまり。この男はゲヴラー一味という名の組織の一員で、頭であるゲヴラー親分なる者を助けてほしくてここまで来た、ということか?
しかしそもそも〝ゲヴラー一味〟とは何だろう。カミラは湖賊のライリー一味やロドヴィコ一味といった名前は聞いたことがあるけれど、ゲヴラー一味などという名前は聞いたことがない。名前の響きは強そうだけど。
「その持って回った前口上、やっぱりお前、ヤクザ者だな」
と、ときに皆の戸惑いを縫ってそう声を上げたのはイークだった。
彼はあからさまに胡散臭いものを見る目つきでじっと目の前のパオロを見下ろしている。しかしカミラは耳慣れない単語に眉をひそめ、思わず横から聞き返した。
「なあに、その〝ヤクザモノ〟って?」
「ヤクザ者ってのは、タチの悪い博徒を中心にしたならず者のことだ。中には徒党を組んで悪事を働くやつらもいて、湖賊や山賊がその類だな。連中は大抵独特の流儀や掟を重んじてるからすぐに分かる。大方ゲヴラー一味ってのもそういう連中の集まりだろう」
「へへえっ、まったくおっしゃるとおりでごぜえやす。あっしらは北の竜牙山脈を根城にしている山賊一味。北の山賊、南の湖賊とはよく言ったもんで、あのあたりには十やそこらじゃきかない数の山賊がうようよしておりやす。あっしらゲヴラー一味はその中でも近頃頭角を現してきたと評判の一党、舎弟の数も二百を超える大所帯でごぜえやす」
「そんな山賊風情が救世軍に何の用だ。俺たちにとっちゃ民を襲って食ってるお前らも黄皇国軍と大して変わりない。そんな連中を助けてやる義理なんてないぞ」
「いえ、いえ、お待ちなすって。話はこっからでごぜえやす。確かにあっしらは紛うことなき山賊でごぜえやすが、何も好き好んで賊なんぞに身を落としたわけじゃあございやせん。あ、いや、あっしはもともと流れの盗っ人でやんしたが、ゲヴラー親びんは北じゃ名の知れた道場主、過日には官軍の武術師範も務めたどえらい方でごぜえやす」
「武術師範? それほどの人がどうして山賊なんかに」
目を丸くして尋ねたのはフィロメーナだった。カミラはそもそもブジュツシハンとは何だろうというのが気になって驚くに驚けなかったのだが、あとから聞いたところによるとブジュツシハンとは官軍の兵士に武術を教える指南役のことらしい。
中でも軍外から招かれて指南役を務める者を武術師範というらしく、彼らは一定期間軍属となって官兵を鍛え、国から少なくない謝礼を受け取るのだと聞いた。
しかし国に武術師範として招かれるためには本人の武芸の腕はもちろん、道場の規模や弟子の数、巷の評判、日頃の素行や交友関係などあらゆる面で高い評価を得る必要があり、道場主であれば誰でもなれるというものではないらしい。
だから武術師範として選ばれるということは市井で武芸を極める者にとってこれ以上ない名誉であり、それ自体が崇高な人格と実績の証なのだという。
「うちの親びんは、子分のあっしが言うのも何ですが、そりゃあそりゃあ立派なお人で、門弟どころか町の人間にまでこぞって好かれるお方でごぜえやした。ところがどっこい、今からちょうど七年前、正黄戦争が終わった頃から金がない、飯が食えないと親びんを頼ってくる人間があとを絶たなくなりやして、親びんも面倒を見てるうちに先立つものがなくなっちまったんでさ」
「だから食うに事欠いて山賊になったと?」
「身も蓋もない言い方をすりゃあそうなりやすがね。そりゃあ親びんだって悩みましたよ。悩んで悩んで、悩んだあげくに道場も土地ごと売っ払って、それで儲けた金は全部貧しい連中に配っちまった。おかげで親びんは素寒貧でさ。ところがね、それでもまだ親びんを頼ってくる連中がいる。そもそもの原因は役人でさ。やつら、ただでさえ貧しい北の民から重い税を取り立てて、その金で自分たちばかり大いに飲み食いしてやがる。親びんはそんな役人どもの悪行を腹に据えかねて、ある日ついに山賊になるとお言いなすった。しかもただの山賊じゃねえ、役人どもの倉を襲って稼ぐ山賊になると」
「つまりあなたたちは、山賊は山賊でも国の砦や役所だけを標的にしているということ? 罪のない人々にまで手を上げているわけじゃないのね?」
「当然でさあ。そんな真似をしようもんなら、逆にあっしらが親びんに殺されちまう。うちの親びんはね、怒るとほんとにおっかねえんですよ。本気で怒ったら山ひとつぶち抜いて放り投げるんじゃねえかってくらいおっかねえ」
「そいつは分かったが、仮に今の話を信じるとして、その親分とやらを救ってほしいってのはどういうことだ。本当に山ひとつぶん投げるほど豪気なやつなら、余所者の助けなんて必要ないんじゃないのか?」
「それ、それ、それでやんす」
未だ半信半疑といった様子のイークの前で、パオロは床に手をついたまま何度もへこへこと頭を下げた。一度あの姿勢になってから、パオロは饒舌に喋りこそすれ決して顔を上げようとしない。あれがイークの言っていたヤクザ者の流儀というやつなんだろうか。だとしたら確かにずいぶん変わっている。
「フィロメーナさま。あなたさまを大義ある救世軍の棟梁と見込んでお頼み申しやす。あっしの親びんは今、てめえらの不徳を棚に上げ、親びんの所業に怒り狂った官軍の攻撃を受けて追い詰められちまってます。今じゃ山中のアジトに閉じ込められ、周りに五百の官軍がひしめいてやがる始末。おかげであっしの仲間は飢え、疲労困憊してこのままじゃあ長くは持ちません。その仲間を何とか、あなたさま方のお力で救い出していただきてえんです」
「五百の官軍……」
と、それまで黙って話を聞いていたアルドが、初めてうなるような声を上げた。
兵力五百と言えばカミラたちがジェッソで戦った地方軍のおよそ二倍だ。
パオロの話では現在ゲヴラー一味のアジトを囲んでいる官軍も地方軍だというが、それにしては数が多い。地方軍の兵力は郷区によって差はあるものの、だいたいが二百から三百程度だというのが一般的な認識だった。五百以上の兵力を擁するのはここロカンダのように、地方の要衝となる町を抱えた大きな郷区だ。
そんな郷区の郷守が配下の全軍を率いてゲヴラー一味の討伐に乗り出した。
となれば事態はカミラたちが思っていた以上に深刻だと言っていい。
「親びんは事ここに至ったからには仕方ねえ、まっこと汗顔至極だが、最近巷で評判のあなたさまならあっしらを助けて下さるかもしれねえとおっしゃいやした。あっしはそんな親びんの密命を受けて竜牙山をどうにか這い出し、命辛々やってきたというわけです。改めてお頼み申します、どうか親びんを助けて下せえ。このままじゃさすがの親びんも官軍連中に拈り殺されちまいやす」
「……」
「厚かましいことをお願いしてるのは百も承知です。ですがあっしには他に頼る先がねえんです。親びんは今のままじゃあとふた月持つかどうかだと言ってやした。それで駄目なら男は度胸、最後は腐れ軍人どもに一矢報いてあっぱれな死に花を咲かせてやると。だけどもあっしは親びんや兄弟のようには戦えねえ。盗っ人時代の技を活かしてこそこそ逃げ出してくるのが精一杯、だから一味が斃れたそのときは、あっしだけでも生き延びろと親びんは言いやした。けれども、あっしは……」
と、依然床に額をつけたまま、パオロは不意に言葉を切った。彼はなおも顔を上げない。しかしそうして縮こまった両肩が、何かをこらえるように震えている。
「あっしは過日、黄皇国の腐れ軍人どもに殺されかかっていたところを親びんに救っていただいた身。その後も親びんには何くれとなく世話になり、まるで歳の離れた弟か息子のようにかわいがっていただきやした。あっしが長年の盗っ人稼業から足を洗えたのも親びんのおかげ、親びんがいなかったらあっしは今頃腐れ軍人どもの玩具として嬲り殺されてたに違いねえです。あっしは、あっしはその親びんに何のご恩も返せねえまま死ぬのかと思うと、無念で無念でなりやせん」
「パオロさん」
「あっしは親びんを死なせたくねえ。死なせたくねえんです。あんな立派でお優しいお方が、どうして官軍なんぞに殺されなきゃならねえんですか。親びんが何をしたって言うんですか。そりゃ食うために盗みも殺しもしやしたよ。ですがそいつも連中が初めからきちんと政を為してりゃなかったことです。こうなったのはあいつらのせいだ。なのにどうして親びんが死ななきゃならんのですか。理不尽だ。あっしはそれが許せねえ。許せねえよ……!」
床についた手を拳に変えて、パオロは叫んだ。血を吐くように叫んだ。
震えた両肩には計り知れないほどの怒りと、悲愴と、無力感が乗っている。
さらに彼が額をつけた黄砂岩の床にはぽたぽたと小さな染みが落ちて、それを見たカミラはついに右手の神力を引っ込めた。これは演技なんかじゃない。
「だからどうかお願えしやす。お願えしやす。このとおりです。あっしはどうなっても構いやせん、代わりに出来ることなら何でもしやす。ですからどうか、どうか親びんだけは……」
「パオロさん。頭を上げて下さい」
瞬間、凛と咲く硝子の花のような声があたりに響いた。その声に促され、パオロがわずかに顔を上げる。垢だらけの顔は涙と鼻水でぐしょぐしょで、お世辞にも整っているとは言えない面立ちがさらにひどいことになっている。
けれどもフィロメーナはためらわず、そんなパオロの前で膝を折った。
そうして床にひれ伏したままのパオロと目線を合わせ、微笑みかける。
パオロの視線はたちまちその笑顔に吸い寄せられた。パオロだけじゃない。
カミラもイークもウォルドもアルドも、その場にいた全員の視線が、だ。
「事情は分かりました。お話を聞く限りあなたの親分さんはとても高潔で誇り高いお方。それも民のために黄皇国と戦う力と覚悟をお持ちの方とお見受けしました。ならば彼もまた我々の同志。救世軍は同志のために剣を取ることを厭いません」
「……! じ、じゃあ……!」
弾かれたように身を起こし、勢い込んでパオロが尋ねた。
フィロメーナはそんなパオロの前でゆっくり頷くと懐から手巾を取り出して、汚れきった彼の顔を拭ってやる。
「アルド。今すぐカールのところへ行って、温かい食事と飲み物を用意してもらってちょうだい。それをこの部屋まで届けてもらって」
「分かりました!」
「パオロさんも、黄皇国軍の包囲を抜けてここまで来るのはさぞ大変だったことでしょう。すぐに食事を運ばせますから、まずはゆっくり体を休めて下さい。あなたにもしものことがあったら、無事を祈って送り出して下さった親分さんに会わせる顔がありません。あとのことは私たちにお任せを」
そう言ってフィロメーナが拭ってやる傍からパオロの頬を涙が濡らした。彼は三白眼気味の瞳から大粒の涙を零し、もともとくしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにする。そうしてフィロメーナから一歩退くや、再び床に額を擦りつけた。
そんなにすると顔中砂や埃まみれになりそうだが、本人は気にする様子もない。
「ありがとうごぜえやす。ありがとうごぜえやす。フィロメーナさま、このご恩は一生、いえ、たとえ死んでも忘れやせん……!」
「いいえ。私はたとえ我が身を擲っても恩人を救いたいという、あなたの心に動かされたのです。ですから感謝するのなら私ではなくあなたの勇気に。私たちはいつだって勇気ある人の味方です」
土下座したままのパオロの嗚咽が部屋に響いた。
彼は小柄な体を震わせながらフィロメーナへの感謝の言葉を繰り返している。
──これを聖女と呼ばないのなら、他になんて形容すればいいのかしら。
と、その様子を見ながらカミラは思った。フィロメーナはそんな器じゃないといつも謙遜するけれど、やっぱり嘘だ。少なくともカミラには、彼女の人柄を形容するのにふさわしい言葉をそれ以外に探せない。
──だから私は決めたのよ、フィロ。何があってもあなたについていくって。
カミラは左手を腰に当て、人知れず小さく笑った。
これでこそ我らが救世軍のリーダーだ。
「イーク、今すぐトラジェディア支部へ伝令を出してちょうだい。今回は本部の兵を動かしている時間はないわ。ゲヴラーさんたちの救出には本部の少数精鋭と、トラジェディア支部の三百の兵を当てる。ちょうどギディオンがさっき任務から戻ったばかりでまだ装備を解いていないわ。彼ならすぐに出動できる。事情を話してそのまま先遣隊になってもらいましょう」
「分かった。だがな……」
「この期に及んで真偽を確かめるのが先だ、なんて言わないでちょうだいね。今は一刻を争うの。今回の作戦の指揮は私が執るわ。皆にもそう伝えて。これは救世軍の威信を懸けた戦いよ」
珍しく強い口調で押し切られ、イークはぐっと押し黙った。
その横顔はまだ何か言いたげだが、今のフィロメーナには何を言っても無駄だと諦めたのだろう、生返事をして身を翻す。
カールのもとへ向かったアルドに続いて、そのままイークも部屋を出た。遠ざかっていく足音を聞きながら、カミラはちらとウォルドへ目配せする。その視線を感じたのだろう、ウォルドもこちらを一瞥するとため息混じりに肩を竦めた。
──まったく、誰のせいだと思ってるのよ。
カミラは内心そう悪態をつきつつも、口には出さない。