277.姉と弟
ソルン城の本丸は四層からなる城館だった。
黄砂岩に比べて硬度の高い石材で築かれた灰色の館は、中世の面影を今も色濃く残している。本館を挟み込む二本の塔の屋上にはぐるりと凹凸状の矢狭間が回され、まるで石の王冠を戴いているかのようだ。
そこには洒落た意匠の彫刻や、華やかさを演出する瓦葺きの屋根など一切ない。
ただ、ただ、戦のためだけに築かれたことがひと目で分かる重厚な佇まい。
城塞として必要最低限の機能と設備しか持たないその城の内部は、ジェロディが想定していたよりも薄暗く、毒の森の王として君臨するにふさわしい不気味さを湛えていた。目ぼしい光源と言えば、外壁にぽつぽつと刳り抜かれた小窓だけ。
壁には一応火の消えた松明が備えられているものの、あちこちで敵味方が斬り結ぶ乱戦の只中で、悠長に火をともして回ろうなどという物好きはいない。
ゆえにジェロディはハイムに与えられし神の眼の力を駆使し、味方の先陣に立って並み居る敵兵を斬り払った。
「逆賊め、覚悟……ッ!」
と烈声を上げ、突如暗がりから飛び出してくる敵兵にも冷静に対処する。
彼らはこちらの死角から急襲をかけているつもりだろうが、夜、星明かりだけで書物が読めるほどの視力を誇る神の眼の前では無意味だ。
(もともと視力はいい方だったけど──)
これも《神蝕》が進んだ影響なのだろうか。ジェロディは《命神刻》を刻んで間もない頃よりも、さらに五感が研ぎ澄まされているのを感じた。
今ならあの日、コルノ城の屋上で自分を襲ったシノビたちの足音も聞き逃さないのではないかと思う。そうして徐々に神へと近づいていく我が身を思うと空恐ろしかったが、それでもジェロディはいつか来る解放の日を信じて、神の力を利用することをためらわなかった。
「──百刃の計……!」
ほどなく到達した本丸の階段の麓で、右手に宿るハイムの力を解き放つ。
先にカミラたちから報告を受けていたとおり、幅半枝(二・五メートル)ほどの石の階段には何重にも横列を組んだ敵兵がひしめき合っていて、とても容易には突破できそうになかった。
何故なら彼らは隙間なく大盾を押し並べ、その上に神術を防ぐための術壁を展開し、さらに後方の上段には矢を番えた弓兵がずらりと居並んでいるのだ。
されどそうして築かれた完全防備も、神の力の前では無に同じ。
《命神刻》から生み出された魂の光は、敵の神術兵が懸命に支える術壁をするりと擦り抜け、今、まさに弓兵たちの手もとから放たれようとする矢に宿った。
次の瞬間、弓弦を離れた矢は急旋回し、自らを放った射手へと襲いかかる。
さらに彼らが背負った矢筒の中の残り矢にも魂は宿り、生命を吹き込まれて飛び上がった無数の凶器が敵兵に牙を剥いた。
宙空でギラリと光った鏃は血を求める獣のごとく敵の肉を喰い破り、哀れな子羊たちは何が起きたのかも理解し得ぬまま、次々と階段に頽れていく。
「はー、はは……やっぱいつ見ても神業だな、《命神刻》の力ってのは。オレらがさっきあんなに苦戦した敵の守りをあっさりと……」
「当然だろ、文字どおり神の御業なんだから。使えば使うほど身も心も人間から離れていくような気がして、あまり気持ちのいいものじゃないけど……」
「そういうもん? オレなら遠慮なくバンバン使っちゃうけどなー、女の子に見せたらキャーキャー騒がれてモテそうだし──いてっ!?」
「アホなこと言ってる暇があったらさっさと前進する! 敵本陣はもうすぐそこなんだから! ほら、リーダーのために道を作って!」
「わ、分かってるって~! も~、カミラってばオレが他の女の子の話をするとすぐ怒っちゃって、カワイイんだから──っていででででででで! すみません冗談です真面目にやります!」
数拍ののち、神の力によって敵兵が一掃された階段に動く者がいなくなると、カミラが率先して行く手を塞ぐ亡骸の山を掻き分け始めた。
そんな彼女に思い切り耳を引っ張られたカイルも不承不承といった様子で、唇を尖らせながら隊長の命令を遂行する。
しかしこれまでならうんざりしながら聞き流していたであろうカイルの軽口も、今のジェロディは以前とは違った心持ちで聞くことができた。端から見れば考えなしの軽薄な発言に聞こえるのだろうが、たぶん彼はそこまで無神経ではない。少なくともカイルは真実の神子たるターシャと親しく──彼は一切口外しないが、ターシャが神子になった経緯や正体を黙秘していた理由も本人から聞いたらしい──神子が負う宿命というものが生易しくはないことにも薄々勘づいているはずだ。
だから、なのだろう。こういう場面で敢えて軽口を叩くのは。
皆の空気を必要以上に重くしないために茶化して、ふざけて、わざと場を掻き乱す。さすがはジェイクに間者の卵として見込まれただけはあり、カイルはそういった機微を読み解く力に長けていた。それもこれも生まれつき耳が聞こえず、言葉も話せないという恋人に寄り添った日々の賜物なのだろうか。素直に認めるのは癪だけど、ジェロディはカイルのそういう器用さを羨ましい、と思う。
「ティノさま」
けれどそんな物思いに耽りながら、なおも戯けるカイルとあしらうカミラの背中をじっと眺めていたら、不意に背後から名前を呼ばれた。
ふと我に返って振り向けば、そこには気遣わしげな表情でこちらを覗き込むマリステアがいる。直前に強力な神の力を使ったせいだろう、彼女はひどく心配そうにジェロディの顔色を窺うと、そっと頬に触れてきた。
どうやら先の戦闘で傷を受け、汚れた頬を指先で拭ってくれたらしい──その証拠にマリステアの白い指が、神の血で仄青く染まっていたから。
「傷は……もう塞がったみたいですね。他にお怪我はありませんか?」
「大丈夫だよ、マリー。全部掠り傷だし、最近は前より傷の治りも早い。ちょっとの傷なら数拍もあれば塞がるんだ。だから君の神力は、いざというときのために残しておいて」
「はい……ですがどうかくれぐれもご無理はなさらずに。ハイムさまのお力は確かに頼もしいですが、ティノさまおひとりに負担をかけるわけにはいきませんから」
「大丈夫。全部ひとりで背負おうなんて思ってないよ。ここには君やみんながいてくれるから……本当に困ったときは仲間を頼るし、ハイムの力を使うのも必要なときだけだ。これ以上君に心配をかけないためにもね」
そう言ってジェロディが微笑めば、マリステアは少しだけほっとしたように眉尻を下げて頷いた。今までは心配をかけまいと口を閉ざすことの方が多かったけれど、それがかえって彼女を不安にさせてしまっていたらしいことはジェロディも反省している。だからこういうときは無理に平静を装おうのではなく、きちんと言葉にして自分の気持ちや状態を伝えていくことに決めた。
少なくともマリステアや救世軍にいる仲間たちは、ジェロディがそうすることを望んでくれている。ジェロディが彼らを支えたいと願っているのと同じように、彼らもまたジェロディを支えたいと願ってくれている。マリステアがそのことを思い出させてくれた日から、ジェロディの心はずいぶんと軽くなった。縋るよすがもなく、たったひとりで溺れていたところをすくわれた気分だ。
(もしもこの世界に神や天使と呼ぶべきものがいるのなら──僕にとっての救い主は、間違いなくマリーだな)
なんてことまで口に出して伝えたら、マリステアはきっと赤面して慌てふためくだろうから、そこまでは言わないけれど。でもいつか伝えられたらいい、と思う。
彼女ともう一度人として向き合う術を手にしたそのときに。
「……ん?」
ところが刹那、ジェロディは妙に視線を感じて何気なく傍らへ目をやった。
すると図らずもユカルと眼差しがぶつかり、驚きに目を丸くする。
対するユカルもはっとした様子で白緑の髪を逆立たせるや、慌ててジェロディから顔を背けた。が、視線が搗ち合ったということは、少なくともユカルは直前までこちらの様子を窺っていたということだ。
「ユカル、どうかした?」
「……何が?」
「いや、何か物言いたげにこっちを見てたから……」
「別に見てないけど」
「そ……そうかい? だけどもし何か言いたいことがあるのなら……」
「はっはーん、ユカル、さてはお前、マリーさんの優しさと母性に見とれてたな? まあ気持ちは分からなくもないけどさ、オレだって許されることならマリーさんのぬくもりに包まれたいと思ってるし? でも残念ながらマリーさんに手を出そうとする者は、ひとり残らずウチのリーダーに消されるさだめなんだよなー。だから惚れるなら別の女の子にした方が──」
「ジェロディ。あんたさえよければ、あいつを今すぐ粉々に切り刻んでやってもいいけど?」
「いや、それには及ばないよ。アレは僕が黙らせるから──追い回せ」
「ギャアアアアアッ!? ジェロッ、お前こんなくだらないことに大神刻の力を使っていいと思って……わああああああああ!?」
〝くだらない〟と思うなら口を慎めばいいものを、カイルは屍の山から突如生命を帯びて浮き上がった軍矢に追われ、あちこち逃げ回り始めた。
そうしながら必死にカミラに助けを求めているが、当然と言うべきか完全に無視されている。見向きもされていない。いい気味だ。ついでにさっき、ほんの少しでも彼を見直してしまった事実を取り消そう……とジェロディが嘆息をついていると、ときにマリステアがくるりとユカルへ向き直った。そして何を思ったか、ぎょっとしているユカルの右肩へ手を伸ばし、神の言葉を口にする。
「癒やしの波動」
途端にマリステアの右手から生まれた蒼白い光が、衣服ごと裂かれたユカルの右肩の傷を包み込んだ。刃物で裂かれた皮膚は水刻がもたらす奇跡によってゆっくりと再生し、傷口を覆い隠していく。
「……お加減はいかがですか?」
「は……な、なんで──」
「あ、えっと、もしかしたら傷の治療をお望みだったのかもしれないと思いまして……他に痛むところはありますか?」
「そ……そんなに僕が物欲しそうに見えたわけ?」
「い、いえ、そういうわけではないのですが……! た、ただユカルさんにも、帰りを待つお姉さんがいらっしゃるのですよね。わたしだったら弟が戦場でひとり傷ついている姿なんて、きっと想像しただけで胸が潰れてしまうと思うので……そ、その、つまり、ユカルさんのことも何だか放っておけないと言いますか……」
マリステアはほんのわずか頬を染めながら、そう言って困ったように苦笑した。
思えばユカルはジェロディと歳も近く、小柄で一人称も同じだから、彼女にしてみればどことなくジェロディと重なるところがあるのかもしれない。
対するユカルはマリステアの言葉に一瞬目を見張るやすぐにサッと顔を背けた。
蟀谷の大嵐刻が隠れてしまうほど長く伸ばされた前髪のせいで表情は窺い知れないが、華奢な腕をきつく抱いた指先は、まるで体の内で暴れる何かを抑え込もうとしているかのようだ。
「……だからあんたは戦えもしないのに弟の傍にいるわけ?」
「え?」
「噂で聞いた。姉弟なんだろ、あんたら」
「あ……ティ、ティノさまとわたしですか? そ、そうですね、一応立場上はそういうことになりますが……」
「僕とマリーは確かに姉弟だけど、血はつながってないよ。もうひとりケリーっていう姉がいるけど彼女もね。ふたりは父さんが善意で引き取った養女だから……今はどちらかと言うと、ヴィンツェンツィオ家の家臣って立場の方が強いかな」
「じゃあ、あんたが片時もジェロディの傍を離れないのは家臣だから? それともあそこで騒いでるバカの言うとおり、姉弟として育ったけど今はデキてるとか?」
「ちっ、ちちちちち違います!! ティノさまとわたしは決してそのような……!!」
と、冷ややかなユカルの質問にぶわっと耳まで赤くして、マリステアは全力で否定の言葉を口にした。が、数瞬ののち、彼女は不意に言葉を濁すと手を組み合わせ、惑うように視線を泳がせながら言う。
「け……決してそのような関係ではないと断言できますが……ティノさまがわたしにとって、とても大切な方だということは否定しません。この方はわたしの家族であり、弟であり、主人であり……何と引き換えにしても守りたいと願っているお方ですから……」
「マリー、」
「……僕の姉さんも──」
ところがジェロディがマリステアの告白に言葉を失った刹那、うつむいたユカルが何か言いかけた気がした。しかしジェロディがそちらに意識を向けた直後、上階からバタバタと騒がしい足音がする。
はっとして階段の先を振り仰げば、そこには武装した黄皇国兵の姿があった。
彼らは階下の惨状を見るなり兜の下で舌打ちし、すらりと腰の剣を抜く。
「くそっ、賊がもうこんなところまで……!」
「だがあそこにいるのはジェロディ・ヴィンツェンツィオだ! 討て! やつの首を取れば戦も終わるぞ!」
「そうはさせるか──っての!」
瞬間、カミラが隊士と共に築いた道を駆け上がり、素早く右手の火刻を閃かせた。瞬く赤光の中から生まれ出でた火の玉は先頭にいた敵兵に直撃し、爆風が吹き荒れる。そうして敵が出鼻を挫かれたところへ、カミラ隊が勇ましく躍りかかった。そうだ。この階段さえ登り切ってしまえば、すぐそこに敵本陣がある。足止めを食ってはいられない。
「カイル! いつまでもバカやってないで行くぞ!」
「キーッ! 誰のせいだと思ってんだよ、誰の!」
ようやく生きた軍矢の追跡から解放されたカイルが、文句を言いつつカミラに続いて階段を駆け上がった。いや、さっきのは自業自得だろ、と呆れてその背を見送りながら、ジェロディも本隊を率いて上階への道を切り開く。
狭い階段室内での戦闘は、そう長くは続かなかった。
ジェロディたちは数で敵兵を圧倒し、一気に上階までの道を制圧する。
最上階。辿り着いた。
あそこだ、とユカルが示した先に、固く閉ざされた執務室の扉が見える。
「開け……!」
ジェロディは迷わずハイムの力を解き放った。
神子の命令に従い、意思を帯びた二枚の扉がひとりでに開く。
一行は迷わずそこへ飛び込んだ。マティルダ。彼女と対面することさえ叶えば、説得によって戦を終わらせることができるかもしれない。
ところが扉を潜ったジェロディたちを待ち受けていたのは、まったく予想もしていなかった光景だった。重厚な造りの執務机や書架が並んだ室内は荒れに荒れ、様々な物品が床に散乱している。いや、物品だけではない。
床のあちこちに倒れ伏しているのは、上級兵士と思しい装備に身を包んだ敵軍の兵士たち。そしてぴくりとも動かなくなった彼らの真ん中に佇むひとりの男……。
「誰……!?」
直後、カミラがとっさに剣を構え、ジェロディをかばう位置に立った。
複数人の救世軍兵が彼女に続き、瞬時にジェロディを守る壁を築く。
しかし様子がおかしかった。敵兵の屍の間に佇む男はどう見ても軍の関係者ではない。何しろ鎧も兜も一切身につけていないのだ。代わりに彼が身にまとう真っ黒で風変わりな装束は、諜務隊のシズネが〝忍装束〟と呼んでいたものと同じ──
「ひょっとして……ソウスケ?」
ジェロディが目を丸くしながらそう尋ねれば、血刀を素早く鞘に収めた男がサッとこちらを向いて跪いた。顔の半分を黒い口布で覆っているため、顔つきは判然としないものの、その反応を見る限り間違いなくソウスケだ。
「ソウスケ……って、もしかしてシズネの付き人の? だ、だけど、この間トリエステさんに紹介された人とはまったくの別人……!」
「いや、ソウスケは、人前では忍術で姿を変えてるんだ。でも、今の姿が本来の姿……と思っていいのかな。僕も彼の素顔を見るのは初めてだけど」
「御意」
と、ジェロディに向かって頭を垂れたソウスケの返事は短かった。いつもの変装を解き、倭王国のシノビの姿を取ったソウスケは思っていたよりかなり細身だ。
と言っても頼りなげな印象はまったくなく、装束の上からでも分かるほど引き締まった筋肉は、俊敏にしてしたたかな獣のそれを思わせる。頭の後ろで短く束ねられた髪はシズネと同じ鴉の濡れ羽色で、鬢は男らしく刈り上げられていた。
鼻筋から下を口布で覆っている上に、顔を伏せているため年齢ははっきりしないものの、恐らく二十六、七歳といったところだろうか。
いや、倭王国の人間は実年齢より若く見られるという先のシズネの言葉を踏まえるなら、実は三十をとうに超えている、なんてこともありえるかもしれない。
「ソウスケ、とりあえず状況を説明してくれるかい? 僕たちはここが敵の本陣になっている可能性が高いと踏んで来たんだけど……現状を見る限り、君がひとりでこの部屋を制圧したのかな?」
「おっしゃるとおりにございます。拙者、シズネ様より敵将マティルダの居所を探るよう下知を受け、城内を諜じておりましたところ、見過ごせばお味方の不利となる状況に遭遇し……僭越ながら独断にて対処に当たらせていただいておりました」
「僕らの不利になる状況?」
「はっ。当城の主たるジャレッド・ドノヴァンが人質を取ってこちらに籠城している模様でしたので、彼奴のもくろみを挫かんとしたのです。されどすんでのところで取り逃がし、ただちに追跡を図ろうとしていた次第……」
「ひ、人質って……まさか味方の誰かが敵に捕まってしまったのですか……!?」
「いえ、捕らえられたのはお味方ではございませぬ。ただ、ユカル殿の……」
と言いさして、ソウスケは跪いたままほんの少しだけ視線を上げた。
それがユカルの反応を窺うためだ、とジェロディが気づいた刹那、すぐ隣で彼の髪がぶわりと逆立つ。かと思えば次の瞬間、ユカルは弾かれたように床を蹴り、血相を変えてソウスケに掴みかかった。
「どこだ!? やつはどこに逃げた!?」
「恐らくは屋上かと。彼奴につけた式神の反応が上階から感じられますゆえ……」
「くそっ……!!」
そう悪態をつくが早いか、ユカルはソウスケの返答を聞くなり身を翻して駆け出した。ただならぬ剣幕に面食らったカイルがとっさに呼び止めようとしたようだが、掴まれた腕を瞬時に振りほどき、彼は執務室を飛び出していく。
「ちょ、ちょっとユカル!? もう、ひとりで突っ走るなって言われたのに……! ティノくん、私たちも追いかけましょう!」
「ああ……! ソウスケ、ジャレッドの件は僕たちが何とかする。君は一旦シズネと連絡を取って、引き続きマティルダ将軍の捜索を!」
「御意」
とソウスケが再び頭を垂れるのを見届けてから、ジェロディもユカルを追って駆け出した。執務室を出たときには既にユカルの姿はなかったが、辛うじて彼の走り去った方向を確認していたのか、カミラが「こっちよ!」と味方を先導する。
そうして導かれた先に現れたのは、屋上へ続いていると思しい階段だった。
先刻下層から駆け上がってきた階段に比べるとだいぶ幅が狭く、大人ふたりが並んで登るのが精一杯といった造りだ。
そこをカミラと共に駆け上り、開け放たれたままの鉄の扉を潜った。
途端にびょうと冷たい風が吹きつけ、怯んだジェロディは足を止める。
屋上だった。ずんぐりとした二つの円塔に挟まれた本館の頂上。塔と同じ造りで巡らされた石の矢狭間の向こうでは、天を覆う雨雲が地平で血を滴らせている。
もう間もなく日没だ。まるで城内から這い出したかのような薄闇が世界を覆い、風も冷たさを増していた。
されどそんな夕闇の只中で、ぎらりと不吉な瞬きを宿した刃がある。
ジェロディは息を飲んでそちらを注視した。総帥に続いて屋上へ飛び出してこようとしていた兵士たちをすんでのところで押し留める。
「ジャレッド……!!」
吹き荒ぶ北風が、憎悪にまみれた少年の咆吼を巻き上げた。
「クククッ……遅かったではないか。待ちくたびれたぞ、ユカル……!」
その少年が燃えるように睨む先で、いびつに笑った男が短剣を握り締めている。
ジャレッド・ドノヴァン。四日前、ジェロディが戦場で取り逃がした『首狩り貴族』は今、ひとりの少女の喉もとに切っ先を突きつけていた。
ボロボロに破れた衣服をまとい、後ろ手に縛り上げられた少女は、傷つき腫れ上がった頬を冷たい悲痛で濡らしている。
「ユカル……!」
悲鳴にも似た彼女の声が少年を呼んだ。
刹那、ジェロディは確信し、全身に粟が立つ。
信じたくはなかった。されどもはや疑いようがない。
「あれが、ユカルの──」
低く絞り出した呻きは凶風に呑まれた。
立ち尽くすジェロディたちの頭の上で、風の獣が吼えている。




