275.眠れる神の手の中で
「……つまりどういうことだ?」
と、その日、籠の中の夜光苔が放つ仄明かりの中でヴィルヘルムは尋ねた。
「人工刻」
そんな彼の視線の先、窓辺に佇んだマナが木々のざわめきの間、夜空へすうっと手を伸ばしながら答える。
「要するに今、私の胸にあるこの神刻──星刻は、古代ハノーク人たちが手がけた叡智の結晶ってこと。彼らは大神刻と同等の力を、神々の干渉を受けることなく使う手段を模索してた。もっと冒涜的な言い方をするなら、神を人類から遠ざけようとしたの。何故なら大神刻は《神蝕》によって宿主を蝕むから。そうして神が世に復活してしまうことを、古代の人々は全力で阻止しようとしたのよ。大神刻の力に頼ることなく、神に対抗する力を得ることでね」
「だから彼らはふたつの大神刻の力を掛け合わせて、人工の神刻を創り出したってこと? なら星刻が大神刻に匹敵するほどの力を持っているのも《時神刻》と《縁神刻》の力を抽出して、人工的に生み出された神刻だから……」
「そういうこと」
茫然と尋ねるユニウスを振り向きもせず、マナは青白く細い指先で月を掴む仕草をした──ギーッチョ、ギーッチョ、ギーッチョ、ギーッチョ。
生暖かい亜熱帯の夜風に乗って、奇妙な虫の鳴き声がする。
大陸の南の果てにあるこの郷に、夏の訪れを知らせる虫の声だ。
「今はもう呪いの種子のせいで見えないけど……星刻にはその証である古代文字が刻まれてる。なんて書いてあるのかは私も知らない。でも、あれがハノーク人たちのかけた呪いだってことは何となく分かった」
「呪い?」
「そう。どうか神様が二度と目覚めませんようにっていう、呪いよ」
そう言ってふたりを振り向いたマナは、笑っていた。博愛の神の神子であるユニウスはもちろん、魔物憑きであるヴィルヘルムさえ言葉を失っている只中で。
「ほら。正黄戦争で一緒になった、光の神子のロクサーナっていたでしょ? 彼女が何百年も神子を続けてるのに、未だに《神蝕》の兆しもないのも同じ理屈なの。ロクサーナの生まれた国では代々の王さまが《光神刻》を継承してたんだけど、彼らはやがて神子の記憶や人格を塗り潰す《神蝕》を恐れるようになった。だから歴代の王は次代の王に神刻を譲り渡すとき、呪いをかけた。神の意思を封じ込め、神子を守る呪いをね」
「……だがそんなことが可能なのか? 人の生み出した呪いが神に勝ると?」
「そうね。結論だけ言うと、彼らの計画は失敗に終わったわ。百人の生贄を捧げてかけた呪いも、最終的には神の力に敵わなかったの。一時的に神々の干渉を遠ざけることに成功していた人工刻も、最後は神の手に落ちた。おかげで人工刻の持ち主も、大神刻を刻んだ神子と同じくらい神の意思の影響を受けやすい存在になってしまった。自分の意思とは関係なく、ただひたすらに神々の操り人形として盤面で踊るだけの駒にね」
「じゃあマナ、君は」
「分かってたわよ」
と、ユニウスの言葉を遮って、なおもマナは微笑んでいた。
「全部分かってた。だから私は運命に抗わなかった。この神刻と一緒に生まれ落ちた瞬間から、自分の人生は神様の手の中だって……だったら抗うだけ無駄だろうって、分かってたからああ言ったの。私の命なんてはした金みたいなものだってね」
思いがけないマナの告白に、ユニウスは言葉を失っていた。
ずっと種子のためだと思われていたマナの諦念が、まさか生まれたときからの──神々によって植えつけられたものだとは、夢にも思っていなかったのだろう。
何故なら彼の胸にもまた神がいる。今は亡きシャマイム天帝国の六十六番目の皇子として生を受けたときから、共に歩んできた博愛の神が。
「でも今夜、全部やめにしたわ」
「……え?」
「神様のために踊ってあげるのはもうやめた。私の死に方は私が決める。筋書きどおりに大人しく舞台を降りてなんかやらない」
「マナ」
「先に言っておくとね。私の寿命、たぶんあと一年もないと思う。少なくとも生きて年は越せない。だから、最後に……最後に一度くらい、里帰りしてもいいかなって思ったのよ。父さまや母さまや兄さまが愛した国をもう一度、死ぬ前に目に焼きつけておきたいって」
「そ……んな、馬鹿なことを言うなよ! 僕が君を迎えに来たのは、その呪いを解く方法を一緒に探すためで──」
「言ったでしょ、ユニウス。すべては神の計画の内なの。本来人工刻の持ち主は二百年から三百年くらい生きるのが普通だけど、私はつなぎの渡り星だった。先代の渡り星と次の渡り星──エリクが郷を旅立つまでの間をつなぐ渡り星」
「エリク……とは、あのヒーゼルとかいう男の息子のことか。あれがお前の次の渡り星だと?」
「そうよ。昨日見えたの。彼がこれから辿る未来が。だけど私はエリクに……エリクとカミラに、私と同じ運命を背負わせたくはない。いいえ、私と同じどころか、ふたりが与えられたのはもっと悲惨で残酷な──最後の渡り星としての宿命」
「最後の渡り星、って……」
マナの言葉を反復して尋ねようとして、しかしユニウスはやめたようだった。
それ以上深く聞いてはいけない。聞けば二度とあと戻りできなくなる。
まるでそんな予感が働いたかのように、蒼白な顔をして再び言葉を失っている。
「だから私、行くわ。最果ての塔に」
けれどマナは少しの迷いも怯みもなく、故郷の海と同じ色の瞳に、燃えるような光を宿して言った。
「そしてこの命を使ってもう一度、星刻に呪いをかけるの」
「エリクがカミラを殺し、世界を滅ぼす未来を変えるために」
◯ ● ◯
ジャレッド・ドノヴァンは、未だかつて感じたことがないほどの苛立ちにさいなまれていた。次々と飛び込んでくる味方の敗報が心を千々に乱す。時間を増すごとに嵩む怒りと動揺は刻々とジャレッドの形相を鬼に変え、司令所に飛び交う怒声は次第に狂気を帯びていく。
「何故だ、何故どいつもこいつも抗戦することなく逃げ帰ってくる!? 私は命に代えても先の敗戦の雪辱を果たせと命じたはずだ、この使えん臆病者どもが……!!」
と、先日エクリティコ平野の戦いで大勢の部下を置き去りに逃げた己の罪を棚に上げ、ジャレッドは真っ赤な顔でひたすらに怒鳴り散らした。
正面から大粒の唾を浴びせられる伝令たちに言わせれば、戦場で命を張らない上官のために命を投げ出す部下などいないと反論したいところだろうが、黄都でも名の知れた嗜虐家の前でそのような無謀を冒す者はいない。
開戦から間もなく三刻(三時間)。森での戦況を伝える兵がひっきりなしに出入りするソルン城の最上階で、ジャレッドは貴族としての品位も忘れ、血のように赤い葡萄酒を瓶から直接流し飲んだ。溢れて顎を伝った液体がボタボタと鎧を染めてゆくが構わない。酒でも飲まねば理性を保っていられないような状況なのだ。
「能無しどもめ……!」
と、ソルンの森のあちこちに埋伏していながら、反乱軍の進行を一向に止められない部下たちの無能ぶりに悪態を叩きつけ、ジャレッドは赤く濡れた口もとを乱暴に拭った。四日前の敗走で地に落ちた己の名誉を回復するためには、ソルン城常駐部隊が最も地の利を活かせる森の中で華々しい勝利を上げる必要があるのだが、部隊の士気は低く、まともに戦えたものではない。
このままでは最終防衛線の指揮に向かったマティルダが戻ったとき、自分はまたあの侮蔑と冷笑の眼差しでもって遇されるだろう。三日前の晩、部下たちの面前で彼女から投げつけられた侮辱の言葉を思い返すと、ジャレッドの腸は改めて煮え繰り返った──女郎ごときが、下手に出ればつけあがりやがって。
(陛下のお手つきという噂さえなければあんな女、とっくに大将軍の座から引きずり下ろしてやっているというのに……!)
マティルダ・オルキデア。オルキデア詩爵家の次女という立場でありながら、六年前、若干三十歳の若さで大将軍の地位をモノにした女。
何も知らない愚民どもはそんな彼女を『鷹の娘』などと持て囃しているようだが、前例のない大出世の裏には、現黄帝オルランドの寵愛があると貴族の間ではもっぱらの噂だった。先妃エヴェリーナの生き写しとも言われるルシーンが現れたことで、今やすっかり鳴りを潜めた噂ではあるものの、そもそもマティルダを帝立軍学校から引き抜いて傍に置いたのもオルランドだ。
彼は軍学校の視察へ赴いた際にマティルダの端麗な容姿を目に留め、あるいは色仕掛けにすっかり乗せられて、臣下に下賜した元愛妾の替えとして、彼女を近衛軍に呼び寄せたと言われていた。そういう経歴のある女だから、どんなに目障りでも簡単に消すことはできない。オルランドの寵愛がいくらルシーンに移ったとは言え、マティルダが愛妾としての地位を完全に失ったという確証はないのだ。
ルシーンの台頭のおかげで彼女の庇護下にある貴族たちは力を手に入れたが、最近ではあれだけオルランドに愛されていながら未だに子ができないことを問題視されている節もある。皇家の世継ぎ問題が紛糾している今、嫡子に恵まれないことを危惧したオルランドが、マティルダに再び手をつける可能性もゼロではなかった。
ゆえにジャレッドも今日まであの女を排除することを躊躇してきたわけだが、こんなことならもっと早く暗殺に踏み切っていればよかったと思う。
いや、ただ殺すだけでは足りない。黄帝の寵愛による出世をあたかも己の実力であるかのようにひけらかし、自分を見下したさかしい女。
どうせ殺すなら、そんなつまらない思い上がりを心の底から後悔させて殺したかった。たとえば拐かして女の尊厳を踏み躙り、「殺してくれ」と泣いて頼むまで存分にいたぶってから恥辱にまみれた死を与えてやるとか。
「ああ、そうだ、それがいい……」
と、酔いのためかついにぶつぶつとひとりごとまで零しながら、ジャレッドは口角を吊り上げた。マティルダが澄まし顔を歪めて泣き叫び、許しを乞う姿を想像するだけで体の芯が熱くなる。得も言われぬ昂揚に身震いし、呼吸が弾む。
ああ、今が戦時でさえなければ迷わずこの夢想を実現すべく行動するのに。
いや、あるいは戦時だからこそ実行に移すべきなのでは?
そうだ。ジャレッドが淫靡で残忍な空想の中に逃げ込んでいる間にも次々と飛び込んでくる戦況を聞く限り、ソルン城は早晩落ちる。エクリティコ平野での勝勢を駆った反乱軍の快進撃は止まらず、もう間もなく城の麓まで押し寄せるはず……。
ならばいっそのこと背後からマティルダに襲いかかり、彼女の首を持って反乱軍に降ってはどうだ? そんな真似をすれば実兄の死をも利用し、苦労して手に入れた黄皇国での地位を捨てることになるが、逆賊ごときの手にかかり、無様に討たれるよりは遥かにマシだ。そもそも現在の反乱軍を率いるガルテリオ・ヴィンツェンツィオの嫡子は神子で、神に選ばれし者による国家転覆の前例は枚挙に暇がない。
エレツエル神領国然り、トラモント黄皇国然り、アビエス連合国然りだ。
彼らは必ず時代の節目に降り立ち歴史を塗り替える。それが神々の思し召しだというのなら、矮小な人間ごときが抗ったところで仕方がない。
生命神の神子の降臨は既に黄皇国の命運が尽きたことを示し、今にも腐り落ちそうな過去の栄光に縋るだけ無駄だと教えているのだ。
であるならばやはりここは反乱軍に寝返り、黄皇国打倒に手を貸すのが最善の選択。彼らの勝利に貢献すれば、虚だらけの古木のごとく老いた国家が倒れ去ったあとには、ジャレッドにも相応の地位が約束されることだろう。
「名案だ、ジャレッド」
と己の聡明さを褒めそやしながら、ジャレッドは空になった酒瓶を荒々しく投げ捨てる。隅の壁に当たって砕けた瓶の底にはまだ若干の葡萄酒が残っていたのか、散らばる破片の間からゆるゆると赤い液体が漏れ出して、あたかもマティルダの未来を暗示しているかのようだった。
「おい、貴様ら、ついてこい。私も最終防衛線の指揮に就く。今般の戦の要であるオルキデア将軍には、そろそろご退陣願おう。あのお方の首がまんまと敵に奪われでもしたら大事だからな」
「はっ……!」
流れ矢に当たることを恐れ、決して本丸の外へ出ようとしなかった城主の急な心変わりに、従者たちは一瞬疑問の表情を浮かべたもののすぐに敬礼した。彼らは腰抜けの下級将校どもとは違い、ジャレッドが手塩にかけて育ててきた側近だ。
命令を忠実にこなすたび、その働きに見合うだけの褒美を下賜されてきた従者たちは、ジャレッドの下知とあらばどんなことにも喜んで手を染める忠犬ぶりを発揮した。そんな彼らの射倖心をうまく利用してマティルダの不意を衝き、総大将たる彼女の首を取ることさえできれば──
「ジャレッド様!」
ところが脳裏をよぎるマティルダの最期に心浮き立たせ、ジャレッドが意気揚々と司令所を出ようとした刹那、血相を変えた伝令が扉を打ち破らんばかりの勢いで飛び込んできた。いきなり出鼻を挫かれたジャレッドはあからさまに不機嫌になり、何事だ、と声を荒らげる。
「森に伏せておいた味方の敗報ならば聞き飽きた。無能な部下どもの醜態など、もはや報告に来なくていい。それよりオルキデア将軍は今どこに……」
「お、お待ち下さい、ジャレッド様! 非常に由々しき事態なのです! 『嵐の申し子』が──ユカルが生きていました! どうやらやつは反乱軍に寝返ったらしく、敵勢がソルンの森を抜けるための手引きをしている模様です!」
瞬間、ジャレッドの全身を燃え立たせていた昂揚が、血の気と共にすうっと引いた。ユカル。賤しく小生意気な天授児。生きていたのか。
てっきり戦場に置き去りにした時点で、死んだものだと思っていたのに。
いや、問題はそこではない。
ユカル。やつが生きていて、しかも自分より先に反乱軍へ寝返っただと?
この二年、私に養われていた恩も忘れて?
「……っあの恩知らずの野良犬が……!!」
すべてが後手に回ったと悟った刹那、ジャレッドは猛烈な怒りに駆られて、傍にあった机の上のものを手当たり次第に薙ぎ倒した。
──恩知らずが、恩知らずが、恩知らずが!
貧困の只中にいたユカルが今日まで生きてこられたのは、他ならぬ自分の慈悲のおかげだというのに。ピッコーネ事件。彼があの事件の生き残りだと知った当初は、ジャレッドも口封じのためにさっさと殺すべきだと思った。
だが天授刻を賜り、神に愛されて生まれてきた子供だからと、特別に見逃してやることにしたのだ。ユカルの神術の才にはそうするだけの価値があったし、幼く世間を知らない少年を適当な嘘で騙しおおせるのは造作もないことだった。
ゆえに今日まで優しい嘘で守り、餌を与え、人間として最低限の生活ができるよう面倒を見てやったというのに、それに対する報いがこれか。
いや、あるいはユカルは反乱軍と接触したことで、六年前の事件の真相を知った可能性もある。そうだとすれば状況はもっと悪い。
天授児として類い稀なる才能に恵まれたアレが敵として牙を剥いてきた、というだけでも相当都合が悪いのに。もしもユカルが真実を知り、ジャレッドに対する憎しみを燃え上がらせているとしたら、たったいま閃いたばかりの〝マティルダの首を取って反乱軍に降る〟という名案が早速潰されたも同然ではないか──
「くそっ!! どいつもこいつも私の邪魔ばかりしおって……!!」
──ならばマティルダよりも先に、まずユカルを殺す。
そう結論を弾き出して、ジャレッドは即座に頭を切り替えた。
そうだ。自分が生き残る道はそれしかない。敵方に寝返ったユカルの首を刎ねさえすれば、マティルダの信用も得られて彼女の油断を誘えるはずだ。
ジャレッドはそこに勝機を見出した。
幸いにして毒茨の森の中ならばユカルも神術が使えない。
すべてを切り刻む大嵐刻の力を使えば、森の茨が細切れにされ、断面から毒素が噴き出し、敵も味方も全滅の危機に瀕することはやつも理解しているからだ。
そうと決まればモタモタしてはいられない。
ジャレッドは従者に「馬を曳け」と下知を飛ばし、目下最大の脅威となり得るユカルを先に討伐する旨を伝えた。反乱軍が森を抜けて城へ到達する前にユカルの息の根を止めなければ、あとはやつの独擅場だ。
そうなったら事態はマティルダを闇討ちするどころではなくなってしまう。
一刻を争う状況だった。すべては時間との勝負だ。反乱軍がソルン城の城壁へ取りつく前に邪魔者どもを排除して、次なる栄光のための一手を打つ──
「ん?」
が、ジャレッドがいよいよ司令所をあとにして、石の階段へと続く廊下の角を曲がった直後。突然ドッと腹ににぶい衝撃が走り、何事かと足を止めた。
そうしてふと見下ろせば、絢爛な装飾が施された鋼の胸当てと腰鎧の間。
そこから露出した上衣に短剣が突き刺さっている。
突き刺しているのは白く細く、頼りなく震えた──女の手。
「ジャレッド様……!!」
ほどなく事態に気がついた従者たちが声を上げ、ジャレッドの腹も熱と痛みを思い出した。急激に迫り上がってきた息苦しさにごふっと咳き込めば、今度は本物の赤が顎を伝う。血だ。ということは、胃の腑を刺されたのか。
「ジャレッド様、お気を確かに……!」
妙に冷静な頭の片隅でそう理解した瞬間、己の意思に反して膝から力が抜けた。
それを左右から従者が支え、すぐに刺さったままの短剣を抜く。
同時に腹と口からさらに血が溢れたが、ジャレッドは騒がなかった。
あまりの激痛で騒ぐどころでなかったと言ってしまえばそうなのだが、一方で、従者の中に癒やしの術が使える水術兵がいることを知っていたからだ。
こんなこともあろうかと、神術の心得がある者をユカルの他にも傍に置いていたのが功を奏した。右手に水刻を刻印した従者が大急ぎでジャレッドの傷に手を翳し、青い神気をほとばしらせたのとときを同じくして、他の者が逃げ出そうとした下手人を数人がかりで押さえ込む。
「貴様、よくも女中の分際で……!」
彼らがそう罵倒しながら冷たい床に押さえつけたのは、胡桃色の髪を短くふたつに編んだ見覚えのある女だった。
まだ若く、女中のお仕着せを着て、捕らえられてなお放せと喚いている。
その不遜さにも覚えがあった。三日前の晩、マティルダの前でジャレッドが恥をかく原因を作った女中だ。名前は確かナアラとかいったか。
ユカルの唯一の肉親にして、彼と同じピッコーネの生き残りの──
「放して……放してッ!! 私はその男を殺さなければ気が済まないの!! どうせ反乱軍に敗れて殺される男だもの、だったら私が殺してもいいはずでしょう……!?」
と、聞く者の鼓膜を引き裂くような甲高い声でナアラは叫んでいる。そばかすの散った頬は涙で濡れて、隈の浮いた双眸は見るに堪えないほど落ち窪んでいた。
今の彼女の面貌は狂人のそれだ。すっかり変わり果てた娘の姿を見やったジャレッドは冷笑を湛え、されど同時に沸々と湧き起こる怒りのままに口を開いた。
「女……貴様もまた私に救われた恩を忘れたか。姉弟揃って、見事に恩を仇で返しおって……!」
「〝救われた〟? 馬鹿を言わないで! 弟を散々苦しめて、痛めつけて、最後は家畜のように殺したくせに! あの子の命を死ぬまで弄んだくせに……! 呪ってやる! おまえもジャンカルロも、みんな、みんな……!」
なおも狂気に冒されたまま、ナアラは血を吐くように喚き続けた。
だがそこでジャレッドは目を見開く。
……弟を殺した? この私が?
(……ああ、そうか)
そうだった。三日前の晩、彼女にユカルは死んだと告げたのは他ならぬ自分だ。
つまりナアラはユカルが生きていることを知らない。当然だ。
城の主であるジャレッドでさえ、たったいま報せを受けたところなのだから。
刹那、ジャレッドの頬がニィッと裂けた。
この女は使える。そう確信したからだ。
ユカルが人としての尊厳や保身さえもかなぐり捨てて、必死に守ろうとしていた姉。傾き続ける戦況と酔いのせいですっかり存在を忘れていたが、こんなに都合のいい駒がまだ手の内に残されていたではないか。
「感謝するぞ、女」
そうして自ら使われにきたナアラを見下ろし、ジャレッドは絶笑した。
天は未だ我を見捨ててはいない。今ならそう断言できる。
ほどなく後ろ手に縛り上げられたナアラの髪を掴み、引きずり起こして、愉悦にまみれた口もとでジャレッドは告げた。
「さあ、来い。そこまで言うならすぐにでも、愛しの弟に会わせてやろう」




