274.星に棲む魔もの
ソルン城はその昔、吸血鬼の住まう城だった、という説がある。
真偽のほどは定かならぬものの、古代、かの城には魔界に魂を売った魔人が住み着き、邪悪な力でもって麓の森の植物を毒の茨に変えてしまったのだという。
つまるところソルンの森の毒茨が持つ毒は、魔界の瘴気が変じたもので、ゆえに切ろうが焼こうが簡単には滅せないんだとか。
そして実際、それは単なる子供騙しのお伽噺ではないのかもしれないとカミラは思った。何故なら初めて目の前にしたソルンの森の禍々しさと、そこにのたうつ茨のあまりの大きさに薄気味の悪さを感じたからだ。
エクリティコ平野での戦いから四日目の朝。ジャレッド率いるソルン城常駐部隊の奇襲を去なし、ユカルを始めとする数十人の捕虜を味方につけた救世軍は、いよいよソルン城攻略に乗り出すべく茨の森の入り口に集結していた。
平野での戦いに敗れたジャレッドは這々の体でかの城へと逃げ帰り、以後出撃してくる気配はない。もとより籠城路線を取っていたマティルダの庇護の下、『イバラ城』にて救世軍を迎え討つ方針に切り替えたようだ。
まあ、あれだけの大敗を喫したあとなのだから無理もない。
ユカルの証言によれば、先日のソルン城出撃は手柄を立てたいジャレッドが鼻息荒く進言し、半ば強引にマティルダの許可を得て決行したものだったらしいから、そんな大口を叩いておきながら部隊を壊滅させて逃げ戻ったジャレッドに二度目の出撃を許すほどマティルダも寛容ではないということだろう。
何よりポンテ・ピアット城を出撃した救世軍の目標が実はトラクア城ではなく、初めからこのソルン城だったことはマティルダも既に理解しているはずだ。
何故ならカミラたちは現在、茨の森に広がる天然の迷路の出入り口をすべて塞ぐ形で陣を置き、ネズミ一匹逃さじの構えを見せている。
要するにソルン城に籠もったジャレッドら常駐部隊の生き残りと、マティルダ率いる六千の第六軍本隊は完全に退路を断たれ、救世軍に包囲されている格好だ。
トリエステの予測が正しければ、現在ソルン城の守りを固める敵兵力は多くても七千弱。対する救世軍は五千程度の兵力しかなく、本来三倍の兵力が必要とされる攻城戦の定石には届きそうにないが、代わりにこちらには空飛ぶ『誇り高き鈴の騎士団』がいる。猫人のアーサー率いる二百の騎士たちは翼獣を駆って空から城を攻めることができるから、彼らの力を借りれば決して勝てない戦ではないと、トリエステはそう断言してみせた。
「我々の到着前に森から遊撃隊を出されていれば厄介でしたが、今のところ敵方にそういった動きは見られません。恐らく極秘裏に遊撃隊を出して潜ませたところで、空からの索敵が可能な我が軍が相手では無意味だと考えたのでしょう。ただ南のトラクア城からの援軍が駆けつけてくる可能性は大いにありますので、ソルン城の攻略にあまり時間はかけられません。可及的速やかに城を落とし、第六軍の長たるマティルダ将軍を降伏させるか捕らえることができれば戦果としては上々です」
「……〝降伏させるか捕らえるか〟って、つまり生かして勝つこと前提なの? 将軍に降伏の意思がないなら、別に首を取ったって構わないはずだよね」
「将軍が強硬に抵抗するようならやむを得ませんが、そちらは最終手段です。我々としてはパウラ地方もまた、最終的にはオディオ地方と同様に救世軍の版図として領有したいと考えていますから、可能であれば将軍のお力をお借りしたいのですよ。長年パウラ地方の主として君臨してきたマティルダ将軍を味方に引き込み、戦いが終わったあとも引き続き当地を治めていただければ、それが最も効率的で損失も少ないことは言うまでもありません。その土地のことを誰よりもよく知り、治め方まで心得ているのは、各地方の領主を置いて他にいませんからね」
「そういうことだ、ガキ。分かったらひとりで勝手に突っ走って、マティルダの首まで刎ねるんじゃないぞ。お前が軍を恨む気持ちは分からないでもないが、少なくともマティルダは無能な部下をどうにか処分できないか裏で手を尽くしてたって話だしな。不本意とは言え、野郎の悪事の片棒を担いでたお前まで処分の対象として数えられてなかったことをむしろ感謝しとけよ」
「ふん、言われなくても分かってるよ。僕はジャレッドさえこの手で殺せればあとのことはどうでもいい。戦の勝ち負けも、第六軍の進退も、あんたらの思惑もね」
と馬上でかわいげもなく吐き捨てたのは、捕虜兼森の案内役として同行してきた官軍の少年将校ユカルだった。先の戦闘でカミラたちに捕縛されたのち、ピッコーネ事件の真実を聞かされ首謀者への復讐を誓ったユカルは、今のところ従順──と形容するにはいささかトゲがあるものの──に救世軍と行動を共にしている。
現在ソルンの森の東側に陣取っているカミラたちは、これからユカルの案内に従って森の真ん中に聳え立つソルン城を目指す手筈になっていた。他に三ヶ所あるという森の出口にも、目下味方の軍勢が分かれて向かっている。それぞれの道からそれぞれの隊がソルン城へ向けて進軍し、四方から城を攻め立てるためだ。
全隊が定位置につき、進軍を開始する予定時刻まであとわずか。
ジェロディやトリエステのいる本隊の先鋒として、間もなくイークと共に森へ踏み込むことになっているカミラは、こんな調子で本当に大丈夫かしらと若干の不安を覚えつつ、依然仲違いしたままのイークとユカルの様子を窺った。
というのも今回、カミラとイークがユカルの傍につくことになったのは、万一彼が裏切ったとき、ユカルの持つ大嵐刻の力に対抗できるのがふたりの合体神術以外にないとトリエステが結論づけたからだ。『嵐の申し子』という異名が物語るとおり、ユカルの放つ神術の威力はすさまじい。彼がもし再び官軍の側につき、マティルダと共にソルン城を防衛しようものなら、アーサーら『誇り高き鈴の騎士団』による上空からの進攻はまず間違いなく阻止されると考えていいだろう。
無論、ユカルがジャレッドに抱いている恨みの深さを思えば、彼が土壇場で官軍に寝返るなどという展開はありえないように思う。されどトリエステにはひとつ、彼の経歴に気にかかる点があるというのだ。それはいかに騙されていたとは言え、どうしてユカルは今の今までジャレッドに恭順していたのかという疑問。
聞けばユカルは、単にジャレッドの残虐な命令に従わされていただけでなく、ソルン城ではほとんど奴隷に近い扱いを受けていたらしかった。
より具体的に言えば、ジャレッドの嗜虐心を満たすための道具として利用され、日常的な罵詈雑言や暴力の嵐に見舞われていたという。
だというのに彼は何故、ジャレッドの下を離れず服従し続けたのか。
官兵として軍に属し、いつか故郷を滅ぼした救世軍に報復するため……という目的があったにしても、彼のジャレッドに対する忠誠心は少々異様だった。
何しろあの男の命令であればどんな卑劣な悪事にも手を染め、罪のない民をただの肉塊へ変えることも厭わなかったのだ。
天授児であることを思えば彼の能力を欲する者はいくらでもいたはずで、他部隊への転属だって思いのままだっただろうに。
「その理由が明確にならない限り、ユカルが我々を裏切る可能性がまったくないとは言い切れません。本人は〝ジャレッドの名を使って民から金銭を奪い取り、姉に仕送りすることが目的だった〟と証言していましたが、私の調べによれば、彼の傍にはジャレッドが常に監視の兵をつけている様子でした。とすると彼の目を盗んで姉に仕送りを続けるというのは、現実的に不可能ではないかと思われます」
「だからトリエはユカルが嘘をついていると?」
「はい。ジェロディ殿が姉の身柄の保護を提案し、居場所を尋ねたときも彼は返答を濁していました。故郷を滅ぼした男に今日まで騙されていたことを思えば、我々のことも信用できないのは当然でしょうが、それを差し引いても彼の言動には不審な点が見受けられます。ですので正確な裏づけが取れるまでは、こちらも完全に心を許してしまうべきではないかと」
「だが裏づけを取るったってどうやって? 俺たちはこのあとすぐにソルン城を攻めるんだろ? なら悠長にあのガキの身辺調査をしてる時間なんてないはずだ」
「そちらについてはご心配なく。こんなこともあろうかと、ソルン城には既に数名手の者を潜り込ませてあります。彼らにはユカルの素性をより詳しく調べ上げるよう通達してありますので、開戦までに何らかの報告が届くことを期待しましょう」
とトリエステが話してくれたのは、レナードの口からピッコーネ事件の真相が語られた翌日のこと。彼女のあまりの周到さを目の当たりにしたイークなどは「つくづくあんたが味方でよかったよ」と口もとを引き攣らせていたが、問題はそのあとだった。何故ならば、
「──ソルン城に潜入してた味方からの連絡が途絶えた?」
と昨晩、カミラたちは目を丸くして聞き返す羽目になったからだ。
頷いたトリエステの傍らで深刻な表情をしていたのは、倭王国からの客人だという黒いキモノをまとった少女。名をシズネというらしい彼女は、ジュリアーノの仲介でトリエステが雇った〝シノビ〟なる集団の一員で、ある時期からトリエステの手足として諜報や工作といった裏方の仕事に従事してくれていたのだという。
「我々キリサト一門のシノビは、忍術によって生み出す〝式神〟を操り、離れたトコロにいる仲間との連絡を取り合いマス。式神というのは、妖力を込めた符をイキモノのカタチに似せたモノで、ソルン城にいる仲間からも、ズット同じ方法で報告を受けてイマシタ。デスが二日ほど前から、城で待機しているハズの誰とも連絡が取れなくなり……」
「つまり潜入してたのが敵にバレて、始末された可能性が高いってこと?」
「……ハイ。ソルン城へ向かわせた仲間は皆、一門の中でも特に優れた術師ばかりデシタから、そうカンタンに潜入が暴かれるとは考えにくいのデスが……現状、忍務に就いていた味方は全滅したと思った方がよさそうデス」
と告げたシズネのハノーク語はたどたどしくも冷静さを保っていたが、彼女の黒く細い眉の間には微かな不安の翳りがあった。何せトリエステとの契約に基づき、共に海を渡ってきたわずかな仲間が敵の城で全滅したかもしれないというのだから、一門の長の孫だという彼女が惑い、心を痛めるのは無理からぬことだろう。
しかしそういう経緯があって、結局カミラたちはユカルを真に信用するための材料をまだ手にできていない。ゆえに唯一彼に対抗できるカミラとイークが監視を続け、いざとなったらすぐに処断するよう言いつけられているというわけだ。
(……いやだな、こういうの)
何だかジェロディたちが初めて救世軍本部に来たときの再現みたいで、カミラはあまり気が進まなかったが仲間の身を守るためには仕方のないことだった。
最も手っ取り早い方法として星刻の力を使い、ユカルがジャレッドに仕え続けた理由を探るという手も考えたものの、先日ちょっと時戻しの力を使っただけで倒れかけたことを思えばやめておいた方が身のためだろうと思う。
(ラファレイも今頃は後方に合流してるだろうけど、こないだのアレだってバレたら殺されるだろうし)
何よりカミラ自身、ここ一番の勝負の前に倒れて戦線離脱なんて絶対にごめんだった。そんなのは耐えられない、と思ったからこそ万全ではない体を押して、自分は今、仲間と共に最前線に立っているのだから。
「ジェロディどの! 合図の狼煙が上がりましたぞ!」
刹那、カミラの思考を引き裂いて上空から声がした。見れば数人の騎士を従えて頭上を旋回していたアーサーが、愛騎の背で声を張り上げている。
──いよいよ開戦だ。北のふたつと南のひとつ。そこにあるという森の出口を塞ぎに行った仲間から準備完了を告げる狼煙が上がった。
ゆえに本隊もすぐさま〝了解〟の狼煙を上げて、全軍に戦闘開始を告げる。
「では行きましょう。カミラ隊、イーク隊は先発し、ユカルの案内に従ってソルン城を目指して下さい。事前の軍議で通達したとおり、兵や馬が毒茨の棘に触れぬよう進軍には細心の注意を。アーサー殿は鈴の騎士を率いてカミラ隊、イーク隊を追跡し、全隊が問題なくソルン城に接近したのを確認後、敵軍に対し上空からの攻撃を開始して下さい」
「心得た!」
アーサーの勇ましい返事を皮切りに、いよいよカミラたちも進軍を開始した。
両脇を毒茨に挟まれた細い道へ馬を乗り入れ、先導役のユカルに続く形で進んでいく。それにしたところで本当に不気味な森だ。曇天だということを差し引いても森の中は薄暗く、頭上を覆い尽くさんばかりに枝を伸ばした木々の葉は何だか黒々として見える。そしてなんと言っても、極めつけはやはり件の毒茨だ。
侵入者を拒むかのごとく広がった茨はカミラの腕よりも太く、まるで絡み合う巨大な魔物の触手のようだった。当然ながら棘の大きさも異様なほどで、パッと見た印象は植物というよりもはや凶器に近い。あんなものがうっかり胸などに刺さろうものなら、毒に冒されて苦しむ間もなく即死だろう。
いくら速さが売りの騎馬隊とは言え、そんな森の中を疾駆するのはさすがに自殺行為と言わざるを得ない。ゆえにカミラ、イークの両隊は二列縦隊を組んで慎重に歩を進め、進軍速度よりも仲間の安全を最優先にソルン城を目指した。
しかしただでさえどこに伏兵が潜んでいるとも知れない状況なのに、茨の毒やユカルの動向にまで気を配らねばならないとなると緊張で神経が擦り切れそうだ。
カミラは暑くもないのに滴る汗を拭いながら、注意深く周囲を観察し──そして神妙な面持ちでユカルの背中をじっと見つめる、とある男の眼差しに気がついた。
「……レナード。結局私たちと一緒に来ることになっちゃったわけだけど、本当によかったの? お願いした仕事はこなしてもらったから、先にコルノ島に戻っても構わないってトリエステさんも言ってたのに」
と、イークのやや後ろを騎行するその男、レナードに向かってカミラは問うた。
生粋の倭王国人であるシズネたちの衣装とはまた趣の違ったキモノの上に胸当てをつけ、相変わらずよく目立つ真っ赤な鶏冠状の被りものをしたレナードは、すぐに気づいてこちらへ一瞥を投げかけてくる。が、カミラとほんの一瞬目が合うと、彼はまたユカルの背中に視線を注いで、ふーっと深く息をついた。
「そりゃ、オレも戻れるもんならさっさと島に戻りてえけどな。ここまで来たら最後まで付き合うのがスジってもんだろ? 第一、自分のケジメも自分で取らずにのこのこ帰ろうもんなら、間違いなくウチの大将にぶっ飛ばされるからな。オレァ本気でキレたあの人に殴られンのだけはごめんだ」
「でもレナードの専門は水戦でしょ? いくら例の事件のことで責任を感じてるからって、あんまり無茶しないでよね。でないと代わりに私たちがライリーに怒鳴られる羽目になるんだから」
「ガハハ、なんだ、病み上がりの嬢ちゃんに心配されてんのか、オレは。気持ちは有り難いが、知ってのとおりオレも兵役経験者だ。陸の戦の心得もまったくないってわけじゃねえ。少なくともお前らの足を引っ張る気はねえから安心しな」
「だ、だったらいいんだけど……」
「ハイハイハイハイハイ! じゃあオレもカミラに心配されたいなー! なんたって副隊長になってから初の戦だし!? 城攻めだし!? いつもの調練とは全然勝手が違うわけだからさ!? こういうときこそ隊長からの愛の籠もった激励の言葉が欲しいなーなーんて──」
「お前の副隊長としての初陣はこないだ終わったろ。分かったら黙って進軍しろ」
「ちッがーう!? オレが欲しいのは余所の隊長の冷たいツッコミじゃなくて!? ウチの隊長からの熱い抱擁と口づけと愛の言葉なんですけど!?」
「おいカミラ、お前なんでこんなのを副隊長にしたんだ。明らかな人選ミスだぞ」
「じゃあアルドをウチに譲ってよ。歳が近くてなおかつ気を遣わなくていい相手って、探すの結構大変なんだから」
「えっ!? お、お、お、おれは、か、カミラさんがいいならいつでも肩代わりしますけど……」
「いやいやいや! 違うよね!? カミラ隊の副隊長って言ったらさ!? やっぱ将来隊長と結ばれる人がなるべきで!? そしたらもうオレ以外にいないよねっていう!? だってこの中で正式にカミラにプロポーズしたの、オレだけだしね……!?」
「確かにプロポーズまがいの何かは毎日のように受けてるけど、承諾した覚えは一度もないわよ。そもそも私と本気で付き合いたかったら、まずイークとサシで勝負して勝たなきゃダメって話じゃなかった?」
「ええっ!? そ、それはおれも初耳ですけど……!?」
「なんでそこでお前が驚くんだよ?」
「……あのさ。わざわざ忠告してやる義理はないんだけど、あんたら、もう少し危機感とか緊張感とかいうものを持った方がいいんじゃないの?」
と、さすがに聞くに堪えなくなったのか、森に入って半刻ほどが経とうかというところで、ついに先頭を行くユカルが呆れと蔑みの眼差しを投げかけてきた。
三つも年下の少年にあんな目で見られると、カミラも「うっ……」と言葉に詰まらざるを得なかったが、もとはと言えば悪いのはカイルだ。
自分はただ純粋に、思い詰めている様子のレナードを心配しただけなのに──
「──あ」
ところが刹那、カミラの視界で光が弾けた。見覚えがある。神気の光。
ユカルのではない。イークのでもない。カイルのでもない。
自分の──星刻の光だ。それが一瞬、視界を覆って砕けた直後。
弓弦の音。右方向から。茨の向こう。ずらりと並んで弓を構えた敵兵の姿が見える。伏兵。やはりいた。茨と木立の間を縫って矢の雨が降り注ぐ。獰猛な風のうなりをまとった鏃が数本、ユカルの薄い胸に吸い込まれるように、
「危ない!」
瞬間、カミラは愛馬の腹を鋭く蹴った。見るからに「え」という顔をしているユカルの横を通り抜けざま押し倒し、落馬しながら彼をかばうように覆い被さる。
「お、おいカミラ、何やって──」
「──伏兵! 愛神の刻(六時)方向! 術壁展開!」
面食らっている様子のイークの声を遮って、カミラは腹の底から叫んだ。たったいま星刻が見せたのは、ほんの数瞬後の未来だと本能で予感している。
そしてその予感は的中した。弓弦の音。鏃の雨。降ってくる。曇天からわずか注ぐ木漏れ日をにぶく照り返し、飢えた獣の牙を思わせる無数の矢が。
《 唱えよ 》
頭の中で声がした。
いつか聞いた、寄せては返す細波のような声ではなかった。
「時裂の盾……!」
けれども迷っている暇はなく、カミラは脳裏に浮かんだままの言葉を叫ぶ。
思い出した。そうだ。星刻にはときの流れを歪ませて亀裂を作り、あらゆる事象の時間を呑み込ませる力がある。
時空の裂け目に触れたものは時を奪われ、静止し、やがてあらゆる力を失う。
現に今、カミラが生み出した青黒い亀裂に触れた無数の矢がそうだった。
時裂の盾に時を吸われた矢はカミラたちに牙を剥いたまま動きを止めて、数拍ののち力尽きたように地へ落ちてゆく。
「な……なんだ、今の、神術──」
と、腕の下でユカルがうめくのが聞こえた。
そこではたと我に返り、カミラもまた目を瞬かせる。……何だろう?
自分でもよく分からないけれど、今、思考がすうっと透明になって、ほんの束の間、意識がずっと遠いところにあったような……。
(この感覚……同じだ)
数日前、高熱を出したユカルに時戻しの術をかけたあのときと。
「敵襲だ、応戦するぞ!」
直後、イークの烈声が耳朶を打ち、カミラは改めて我に返った。
はっとして見やった後方では、水術兵や風術兵による術壁の展開がギリギリ間に合ったらしく、さしたる被害も出さずに味方の応戦が始まっている。
と言っても敵勢が身を隠しているのは毒茨の向こう側だ。
応戦するにはこちらも矢で射ち返すしかないが、生憎騎兵が主体のカミラ隊、イーク隊には弓矢の装備がほとんどない。かと言って神術でやり返せば、毒茨が燃えたり傷ついたりして大惨事になることは目に見えている。
とすれば身を守る方法はひとつ。カミラたちもあちら側へ回り込むしかない。
「ユカル、あそこに伏兵がいるってことは、茨の向こう側に行く道があるってことでしょ!? 案内して!」
「あ、ああ……」
と、ユカルは未だカミラの下で仰向けに倒れたまま、何だか上の空な答えを返してきた。カミラの言に頷いたわりには起き上がろうともせず、左右で色の違う瞳を見開き、何故だかこちらを凝視している。
(……こいつ、なんで、天授児に近い神気をまとってるのに)
そのときユカルが胸裏で吐き出した疑問など、当然カミラは知る由もなかった。
(なのに──どうしてこんなに、精霊に憎まれてるんだ……?)
蟀谷の天授刻と神経がつながったユカルの右眼には、見える。
今、カミラの左手から腕を絡め取るように生まれ出でた神気はあまりに禍々しく、異様で、敵意に満ち溢れている。
まるで彼女の肉体を蝕み、乗っ取ってやろうと蠢いているかのような。今日という今日まで封じ込められていた魔物が、満を持して目を覚ましたかのような……。
(これじゃ、まるで)
刹那、ユカルの背筋をぞっと撫でたのは、目に見えぬ何かへの畏怖だった。
(まるで、神に呪われてるみたいだ)
いつもご愛読大変ありがとうございます。
年始に活動報告の方で予告させていただいておりましたとおり、今回の更新を持ちまして本作の連載を一時休止させていただきます。
理由は色々あるのですが、作者多忙につき定期更新のためのストックが確保できなくなってしまったことが一番の原因です。更新を楽しみにお待ち下さっている皆さまにはご迷惑をおかけする形となってしまい、誠に申し訳ありません……。
再開は連載4周年となる8月13日(木)0時を予定しております。
なお連載再開時期は諸般の事情により前後する可能性がありますので、その際は活動報告と、こちらのあとがきに追記する形でお知らせさせていただきます。
予定どおりに再開できても4ヶ月半と少々長いお休みを頂戴しますが、休載中にまた1話でも多く書き溜められるよう頑張りますので、ぜひ続きを楽しみにお待ちいただけましたら幸いです。




