272.左腕は語る
レナードは何の変哲もない、トラジェディア地方の石工の家に生まれた。
石工というのは、まあ早い話が石切り場から石を切り出し、石材として加工する職人のことだ。トラジェディア地方は峻厳な岩山である竜牙山脈の麓に広がる土地だから、昔から採石業が盛んだった。
黄砂の堆積地であるサビア台地では罪人が鞭打たれてこなす仕事を、竜牙山麓では職人として技を磨いた石工たちが担ってきたということだ。
一説によれば竜牙山の山肌を形成する灰色の岩は黄砂岩に比べて非常に硬く、石材として使える状態で切り出すには熟練した技能と知識が必要だからだという。
レナードはそうした石工の家の長男として、家業を継ぐべく職人の技を学んでいたが十八のとき兵役に取られた。配属になったのはトラジェディア地方東部にある第十一郷区の地方軍。トラモント黄皇国における兵役は三年間で、自ら軍に留まることを望まない限り、服務期間が明ければすぐに親もとへ帰ることが許される。
されどレナードは地方軍に入営したのち二度と故郷の土を踏むことはなかった。
何故なら彼は兵役満了を目前に控えた二十一歳の冬、上官である第十一郷区の郷守を殺害し、反逆者として国に追われる身になったためだという。
「そのときオレが郷守を斬った理由がピッコーネ事件だ」
と、出会った頃から変わらない銅鑼声でレナードは言った。
「結論から先に言っちまうとな。ユカル、お前さんの故郷を滅ぼしたのは救世軍じゃない。当時オレが籍を置いてた第十一地方軍だ」
冷たい地面に座り込んだままのユカルから返る言葉はない。いや、彼ばかりか事件の真相を知るために居合わせた全員が息を飲み、愕然と言葉を失っていた。
「ちょ……ちょっと待ってよ。ジャンカルロさんがお金のために村を滅ぼすなんてありえないとは思ってたけど、地方軍? 賊でも外敵でもなく、国の軍隊が民の暮らす村を焼き討ちにしたっていうの? だとしても何のために」
「理由ならお前らもユカルから聞いたんだろ? 金脈だよ。ピッコーネは長年石炭や鉄鉱石を採掘して生計を立ててきた村だったが、ひょんなことから金鉱石の取れる坑が見つかった。だが知ってのとおり、黄皇国では金は国の専売品だ。だから国中のあらゆる金脈は官有のものとして管理されてる。当然鉱山から上がる金鉱石も全部国のモンで、ひと欠片たりとも個人が所有することは許されないってわけだ」
「じ……じゃあまさか、郷守さまはその金脈を狙って……?」
「ええ。ピッコーネ村は第十一郷区に属する集落で、金脈発見の報告は真っ先に当時の郷守のもとへ届けられました。ところが話を聞いた郷守はそれを国に知らせることなく隠蔽し、あろうことか独占しようともくろんだのです。ですがこの極秘計画を成就させるためには、まず金脈の存在を知る者を根絶やしにする必要がありました。すなわち──金脈を掘り当てた当事者である、ピッコーネ村の村人たちを」
真っ青な顔色をしたマリステアの問いに対するトリエステの答えが、ジェロディたちを改めて震撼させた。己の私利私欲のために軍を動かし、自国の民を殲滅する。そんな愚かさの極致のような計画を立案した人間がいたというのか。ましてや夢想するだけでは飽きたらず、本当に実行に移してしまう魔もののごとき人間が。
「……当然ながらオレたちみたいな兵卒は、ピッコーネの鉱道で金が出たなんて話はまだ知らなくてな。代わりにある日、ピッコーネが竜牙山の山賊に占拠されたって知らせが飛び込んできて、オレたちは討伐のために駆り出された。トラジェディア地方は〝北の山賊、南の湖賊〟なんて言われるほど賊が多いことで有名だからな。村ごと賊に盗まれるなんて話もまったくないわけじゃなかったのさ」
「だがいくら嘘の情報に騙されたとは言え、実際に村に乗り込めば相手が山賊なんかじゃないことは一目瞭然だろ。なのにお前らは何の疑いもなく村人を皆殺しにしたっていうのか?」
「気づいたときにはもう遅かったんだよ。オレたちがピッコーネに攻め込んだのは新月の日の真夜中だった。しかも村に乗り込むギリギリまで夜襲を覚られないよう注意を払って一斉に火をつけたんだ。命辛々逃げてきた人間の顔を改める頃には、もう何十人と焼け死んでた。村人は全員賊に殺されたと聞いてたから……火の海から子供を抱いた母親が飛び出してきたときには、オレたちも背筋が凍ったよ」
「そ……そんな……ひどい……っ」
当時の情景をあまりに鮮明に思い浮かべてしまったのか、あるいは自分の故郷が滅ぼされたときの記憶と重なったのか。気づけばマリステアは身を竦めながら涙を流していて、それ以上言葉にならないといった様子だった。一方真実の語り手であるレナードは先程から、天幕の隅に置かれた椅子に腰かけ上体を屈めている。
彼の体格に比するとずいぶん小さく見える床几の上で地面に目を落としたレナードは深々と、質量を帯びていそうなほど重いため息をついた。
「やがて村人が次々と焼け出されてくると、オレたちもさすがに相手は賊なんかじゃないってことに気がついた。最初のうちは村を乗っ取った賊どもが自分の女や子供を連れ込んでいたんだろうと無理矢理納得しようとしたが、自力で歩けもしない婆さんが息子に背負われて逃げてくるのを見たときに、もう誤魔化しがきかなくなった。当然オレたちは上官に抗議したさ。だがな……」
「……欲に目が晦んだ郷守には聞き入れられなかった?」
「ああ。上の方の将校連中はみんな郷守とグルだったのさ。やつらは助けを求めて逃げてくる村人をひとり残らず殺せと叫んだ。〝お前たちが罪なき村に火を放ち、無辜の民を虐殺した事実を世間に知られたくなければ大人しく命令に従え〟とな」
「何よそれ……そんなの完全に開き直りじゃない! 兵を騙してけしかけたのは他でもない将校連中のくせに……!」
「ですがどのような命令であれ、作戦行動中の命令違反は軍では死罪に値します。ゆえに第十一郷区の兵士たちは言われるがまま村人を手にかけるしかなかった……そうですね、レナード?」
「ああ……ある程度村に火が回ると、オレたちは村人の生き残りを探して掃討しろと命じられて……できない、やりたくないと上に逆らった連中はみんなその場で殺された。武器を捨てて逃げ出そうとしたオレの同期もさ。ピッコーネの村人だけじゃない。今日まで国に尽くしてきた兵士でさえ逆らえばゴミのように殺されると知ったオレたちは、命令どおり村の生き残りを狩るしかなかった……監視の将校の視線を背中に感じながら、オレは、オレたちは、泣いて命乞いをする村人を──」
「だけど、あんたは僕たちを助けてくれた」
刹那、床几の上で額を覆い、魘されるように言葉を継いだレナードに声をかけたのは、彼が目の前に現れて以来ひと言も口を開かなかったユカルだった。
そんなユカルの発言に驚いた一行は改めてレナードへ視線を送る。しかし彼が答えないと知るやユカルはさらに語調を強めて、震える拳を握りながら、告げた。
「あの日のことは忘れもしない……僕は姉さんとふたりで燃える家から逃げ出して、離れの納屋に身を隠した。先に行けと言って僕らを逃がしてくれた父さんと母さんが、まだ家の中にいると分かってたから……僕らはどうすることもできなくて、唯一火が回ってなかった納屋の中で両親を待つことにしたんだ。だけどそこに武器を持った血まみれの男が踏み込んできて……」
「ああ……そうだったな。そいつがオレだった。誰も隠れていてくれるなと祈りながら扉を開けた納屋の中に、煤まみれのチビどもがふたり、泣きながら身を寄せ合って……オレァあのとき、この世に神サマなんてモンはいないんだと悟ったね。だから今でも無神論者さ」
「だけどレナードはユカルたちを殺さなかった。君だって自分の命が懸かってたはずなのに、どうして……?」
「さあ……どうしてだろうな。納屋でコイツらと鉢合わせるまで、散々村人を殺して回ってたにもかかわらず……震えながら殺人鬼の前に立ちはだかって〝弟は殺さないで!〟と泣き叫ぶガキを目の前にしたら、急に怖くてたまらなくなった。自分が死ぬことがじゃない──ちっぽけな保身のために村人を殺しまくった自分自身が、怖くて怖くてたまらなくなったんだ」
それは燃えるような良心の呵責だったとレナードは言った。我に返った途端津波のように押し寄せた罪の意識に精神が耐えかね、叫び出してしまいそうだったと。
ゆえに彼は彼の魂に残された一縷の善性に従ってふたりの幼い姉弟を逃がした。
誰の目にも留まらぬよう懸命にふたりを抱えて走り、村のはずれでなけなしの金と携行食を握らせた。
逃げろ。そして二度とここへは戻るな。何度もそう言い聞かせて。
「で、では、レナードさんが郷守さまを斬ったというのは……」
「ああ、ガキどもふたりを逃がしたあとのことさ。というよりオレがコイツらを逃がすところを、郷守とその取り巻きにバッチリ目撃されてたみたいでな。だったらもう遠慮はいるまいと、オレは将校どもを無我夢中で返り討ちにして……最後は郷守も八つ裂きにした。文字どおりにな。死ぬ間際、野郎は地に這いつくばって、泣きながら命乞いをしてたよ」
以降レナードは郷守殺しの下手人として国に追われることとなり、そして今に至ると言った。ピッコーネの事件は結局、生き残った将校たちの手で〝山賊による村人の虐殺事件〟として偽装され、真実が明るみに出ることはなかったそうだ。
唯一の救いは現場で郷守が命を落としたがゆえに、将校たちもことの経緯を国に報告しないわけにはいかなくなったことだろうか。
おかげで事件の原因となった金脈の存在はすぐに国の知るところとなり、鉱山はほどなく官有地として接収、管理されることになったという。
「以上の事件のあらましを以前、私はジョルジョさんから伺ったことがありまして……ですのでカミラたちからピッコーネの名を聞かされたとき、真っ先にレナードの顔が浮かびました。そこで本人に確認を取り、ユカルが当時レナードに助けられた子供ではないかという推論に行き着いたのです。地方では珍しい有色髪という特徴もレナードの記憶と一致していましたからね」
「……だからそのガキを捕まえることにこだわったのか。だがレナード、お前、過去にそんなことがあったならなんで湖賊なんかに成り下がった? お前らライリー一味は救世軍と同盟を結ぶまで、軍からも民からも手当たり次第に略奪を働いてただろ。今でこそ俺たちの同盟相手としてチヤホヤされてるが、お前らがやってきたことは今の話の郷守と変わりないぞ」
「そうだな。だがオレはライリーの義兄弟になったことを後悔してない。あの男に天下を取らせることが事件に対する償いになると、今でもそう信じてるからだ」
「はあ? 湖賊なんかに肩入れすることが、なんで人殺しの償いになるんだよ」
「そりゃライリーがオレの命の恩人だからさ。お前らは知らないだろうがな、あいつは六年前から左手が使えない。軽いものならまだ持ったり運んだりできるが、薪ひと束となるともう無理だ。手首も絶対に曲がらねえ向きがあって、ありゃ喧嘩師としては致命的さ。今も時々古傷が痛んで眠れねえことがあるみたいだしな」
「え?」
──ライリーが左手を使えない?
予想だにしていなかったレナードの告白にジェロディは面食らった。ライリーとは少なくとも半年以上コルノ島で共同生活を送っているが、彼の左手が不自由だなんて話は聞いたことがないし、そういった素振りも目にした記憶がない。
ただふと思い起こしてみれば、レナードはライリーといるときは決まって彼の左側に立っている……ような気がする。加えて図体に似合わず心配症で、これまでもライリーに何かあると、すぐさま彼を追いかけたり安否を確かめたりしていた。
「い、いや、だけどライリーはそんなことひと言も……普段だって何の変哲もなく生活してるし……」
「そりゃそうだろうよ。あいつは自分の弱みを他人に見せるような男じゃねえ。そもそもあいつの左腕が使いモンにならなくなったのはオレのせいだからな……痛えだの動かねえだの騒ごうモンなら、オレが気に病むと思って口には出さねえのさ」
「ら、ライリーの左腕が不自由なのがレナードのせいって……?」
踏み込んで訊いてもよいものなのか分からないまま、しかしジェロディは好奇心に負けてそう尋ねてみた。
思えばジェロディは同盟相手であるライリーのことをほとんど知らないのだ。
彼が普段の傍若無人な言動に似合わず意外と人をよく見ていたり、誰かを気遣ったりできる人間だということは何となく理解しつつあったけど。
「……オレがライリーと出会ったのはピッコーネ事件から間もなくのことさ。例の郷守殺しのせいでひたすら官兵に追い回されて、命辛々逃げ込んだボルゴ・ディ・バルカの桟橋で、オレはタリア湖から荷揚げされたばかりの荷物の陰に隠れてた。町に逃げ込む直前、追っ手と戦り合ったときに脇腹を斬られて、遠くには逃げられそうもなかったんだ。だが桟橋にはオレが流した血の痕が点々と残ってて、連中に見つかるのは時間の問題だった」
それは冬の長いトラジェディア地方にようやく春神の先触れが届き始めた頃のこと。北方で最も大きな港町であるボルゴ・ディ・バルカで人波にまぎれようと画策していたレナードはしかし、町に入る直前で追っ手に見つかり、負傷の末身動きが取れなくなってしまったという。
だが己の命もここまでかと諦めかけたそのとき、レナードが身を潜めていた荷物の山を改めに来た男がいた。他でもないライリー・マードックだった。
彼は当時ボルゴ・ディ・バルカで商いをしていて、レナードが隠れ場所に選んだ桟橋は彼の持ち船の係留所だったのだ。
そこに積まれていた荷物も当然ながらライリーのもので、仕入れたばかりの商品を検分しようとやってきたライリーとレナードは橋の上でばったり出会った。
瞬間、レナードはもう助からないと思ったようだ。
明らかに浮浪者のような身なりをして、しかも血まみれでうずくまっている大男の存在を、善良な市民が郷庁に通報しないわけがないと思った。
しかし幸か不幸か、ライリーは当時から善良な市民とはほど遠い人物だったのである。彼はレナードが駄目もとで助けを乞うと「追われてるのか」とだけ尋ねた。
レナードがそれに頷き、自分を捕らえんとする官兵が間近に迫っている事実を告げると、ライリーはただ「そうか」と頷いて──直後、すぐ傍に積まれていた木箱の角に思いきり自身の左腕を叩きつけたのだという。
「オレァあの瞬間、真に呆気に取られたよ。何やってんだコイツ、ってな。だが木箱の角が突き刺さって、ライリーの左腕からだらだらと血が流れ出したのを見たときにようやく悟った。ライリーは桟橋に残ったオレの血痕を誤魔化すために自分の腕を傷つけたんだってな」
「で、でも、そんなので上手く誤魔化せたの?」
「ああ、誤魔化せちまったんだよ。あとになって知ったことだが、ライリーは当時からボルゴ・ディ・バルカじゃ名の知れた札つきで、リトル・イレヴン──つまり街の無法地帯にも顔の利く男だった。だから街の軍人どもは、ライリーがいくら怪しくても容易に手出しできなかったのさ。ライリーと敵対するってことは、ボルゴ・ディ・バルカに屯ろするならず者連中を敵に回すことと同義だったからな」
「い、いや、だけどライリーはその頃街で商いをしてたんだよね? なのに街の暗部に出入りしてたっていうのかい? 信用が命の商人としては致命的だと思うんだけど……あ、あるいはジュリアーノさんみたいなモグリの商人だったとか?」
「いいや、当時のライリーはまっとうな商人だったさ。家業を継ぐ前はリトル・イレヴンでも名うての博徒として鳴らしてたらしいが、オレと出会ったのは本人曰く〝心を入れ替えて品行方正に生きようとしてた時期〟だったらしいからな」
「ひ……品行方正って言葉ほどあいつに似合わない言葉はないと思うんだけど……だいたい本当にまっとうな商人だったなら、軍が追ってる罪人をわざわざ匿ったりしないでしょ? 事情を全部聞いたあとならまだしも、詳しいことは何も訊かなかったみたいだし……」
「それはライリーが街の役人どもとモメてたせいだな。あいつは前任の郷守を殺して逃げたマウロの兄弟分だったから、そんな野郎に商売はさせられねえと役人どもがあの手この手で業務を妨害してたんだよ。だからライリーは連中に一矢報いるためにオレを助けた。ただそのとき拵えた傷の手当てをあと回しにしたのがまずかったんだ。ライリーはオレを馴染みの闇医者に預けると、自分は商談があるからとろくな治療も受けずに出ていっちまって……結果傷が筋に障って、腕が使いものにならなくなっちまった。あいつの利き腕は右だし、一生商人として食ってくなら多少左が不自由でも問題なかっただろうが、結局数ヶ月後に船を役人に燃やされて、商いができなくなっちまったからな……」
……ライリーが役人と結託した商工組合に邪魔されて商売を諦めたという話はジェロディも知っていたけれど。まさか彼が湖賊になった経緯の裏にそんな事情があったなんて思いもしなかった。もとを正せば郷守殺しの犯人とつるんだりしていたライリーにも問題はあったのだろうが、無法地帯から足を洗い、これからは真面目に生きようと努力していた彼にとって、船商人の命とも言える船を故意に焼かれたのはあまりに許し難い所業だったのだろう──ましてや焼失した船は、レナードの話によればライリーの両親の形見でもあったそうだし。
結果としてライリーは船に火をつけた役人を調べ上げて嬲り殺しにしたのち、マウロとふたりで黄皇国打倒に動き始めた。
腐敗した国家を叩き潰し、世直しを果たすというマウロの理想にライリーが賛同したのは、自分も国に夢を潰されるという体験をしたためだったのだろう。
そしてレナードも国に第二のピッコーネ事件を起こさせないために──またライリーから受けた恩を返すために彼の一味に加わった。トラモント黄皇国をひっくり返すため、どうしても悪事に手を染める必要があるというのなら、既にピッコーネの民の血を浴びた自分にはお似合いの仕事だろうとそう言って。
「まあ、そういういきさつがあってオレァあの男に自分の全部を懸けてるってわけさ。ジョルジョのヤツにしてもそうだ。あいつはごくごく平凡な農家の息子だったが、重い病気にかかった母親の薬を買うためにたったひとりでボルゴ・ディ・バルカへ出稼ぎにきて、あくどい連中に目をつけられた。連中は大金を稼がせてやると言ってジョルジョを騙し、奴隷同然に使ってたんだ。ところがある日、あいつが街に出てきたいきさつやパシリにされてる理由を知ったライリーがブチギレて、連中を半殺しにしたあと〝俺の用心棒になれば金をやる〟とジョルジョに声をかけた。結局ジョルジョのお袋さんはその後間もなく亡くなっちまったが、ライリーは最後の最後まで、まるで自分の母親に接するように面倒を見てたよ。だからジョルジョは金を稼ぐ必要がなくなった今もライリーの傍にいる。喧嘩や戦なんて本当はまっぴらだと思ってるくせに、それでもライリーを守りたいってな」
いかにも剛毛そうな虎髭を掻きながらレナードがそう言ったとき、ジェロディの脳裏にはいつもつぶらな瞳でにこにこしているジョルジョの姿が浮かんで消えた。
コルノ島で初めて出会った当初から、どうしてあんな無害そうな青年が湖賊などに身を窶しているのだろうと不思議で仕方なかったけれど。今のレナードの話が事実なら、彼もまたライリーに救われた恩を返すためにあそこにいるのだ。
そしてコルノ島という場所は、恐らくそんな彼らに残された最後の楽園だった。
そこへずかずかと土足で乗り込んでいって、まるでまったく正しいことをしているみたいに振る舞っていた過去の自分を思い返すと顔から火が出そうになる。
自分はライリー・マードックという人間を完全に誤解していた。
いや、そもそもそういう誤解が生まれるように仕組んだのもまたライリー本人であるのだが、今ならマウロが彼を義弟に迎えた理由が分かる。そしてジョルジョやレナード──あの島で暮らす湖賊たちが、心からライリーを慕っている理由も。
「あー、とにかくそういうわけでな……すっかり話が逸れちまったが、要するにオレはいま救世軍と同盟してるライリー一味ってとこにいて、頭の補佐をしてるってことだ。なあ、ユカル。何をどう謝られたって、お前はオレを許せやしないだろうが……ただ、ここにいるコイツらにはまったく何も関係のない話だってことだけは分かってやってくれ。むしろコイツらはわざわざこんなバカげた作戦を立ててまで、軍に利用されてるお前を救おうとしたんだ。だから……と恩着せがましく言うつもりはねえが、少しだけコイツらの話を聞いてやっちゃくれんかね」
「……」
「オレのことは煮るなり焼くなり、あとでいくらでも好きにするといい。お前にはそうする権利があるし、オレもピッコーネの生き残りであるお前になら何をされても文句は言わん。だが代わりに今回だけは救世軍に力を貸してやってほしいんだ。今日までお前を騙して扱き使ってたジャレッド・ドノヴァンを──いや、オレが殺した郷守の愚弟を討つためにな」
「……え?」
刹那、レナードの口から信じられない言葉が出たような気がして、ジェロディは耳を疑った。ユカルもまた両目を見開き、どういうことかと言いたげにレナードを凝視している。しかし彼の疑問に答えたのは、依然足もとを見つめて暗い瞳をしているレナードではなく、傍らに佇んだトリエステだった。
「私も裏づけ調査を行いましたので間違いありません。六年前、第十一郷区の郷守を務めていた男の名はウンベルト・ドノヴァン──ソルン城の現城主である、ジャレッド・ドノヴァンの実の兄です」
「……う、そだ」
「残念ながら事実です、としか申し上げられません。ジャレッドはもともと晶爵家の人間でしたが、兄の死後間もなく翼爵位に格上げとなり、のちにソルン城の城主に推挙されました。何故なら第十一郷区の郷守であった兄が、賊との戦闘で名誉の戦死を遂げたからです。そうした兄の忠勤と、死んだ兄に代わって凶悪な賊徒を討ち滅した功績、そしてウンベルト亡きあとの混乱を最小限に留め、郷区の統治を迅速に引き継いだことなどを評価され、彼は現在の地位を手に入れました。……この事実が何を意味するかは、みなまで言わずともお分かりですね」
「つ……つまりジャレッドは、ユカルの故郷を滅ぼした地方軍の作戦に従軍していた……? そこで郷守がレナードに討たれたのをいいことに、実の兄の死と自分たちが滅ぼしたピッコーネの悲劇を利用して昇格したってことかい? しかもそのピッコーネの生き残りであるユカルを騙して、隷属させて──」
「……自分がしでかしたことの尻拭いを、ジャンと救世軍にさせてたってわけか」
愕然としたジェロディの言葉の最後を引き取ったのは、天幕の柱に背を預けて佇んだイークだった。先程までの激情を収め、じっと腕を組んで動かない彼の眼光にはしかし、明確な怒りと殺意が宿っている。
一方、自分がこれまで故郷の仇に利用されていた事実を突きつけられたユカルは、座り込んだまま放心している様子だった。だがジェロディの思考がようやく事態を呑み込み、ドノヴァン兄弟のあまりの所業に絶句して振り向いたとき、うなだれたユカルの唇から不意に「ふ……」と呼気が漏れる。
「ふふ……そうか……なら、僕と姉さんの二年間は……今日までの苦しみも、絶望も、全部……全部、全部、何もかもあいつの掌の上だったってことか……ふふふふ……ははっ……ははははははははははははは!」
やがて天を仰ぐように背を反らしたユカルは、狂気すら感じさせる声音で笑い続けた。まるで何かの糸が切れてしまったかのような、あるいは壊れてしまったかのような彼を前にして、ジェロディたちは何も言えない。
今日までユカルが耐え続けてきた悲しみ、苦痛、屈辱──その絶望の深さを思えば、安い気休めの言葉さえも口にすることは憚られた。
されどそうしてひとしきり絶笑したのち、ようやくふっと笑いを収めたユカルの蟀谷で、髪に隠れた大嵐刻が瞬いている。
「ころしてやる」
次いでユカルの白い喉が紡いだのは、およそ十四、五歳の少年の声色とは思えぬほど低く憎悪にまみれた言葉だった。
「……いいよ。あんたらの話は分かった。今まであんな畜生以下のクソ野郎に踊らされて、あんたらを目の敵にしてたことも謝るよ。で、お詫びと言っちゃなんだけど、あんたらも僕を好きなように使うといい。何の罪もない商人の四肢を神術で気まぐれに切断させたり、憂さ晴らしに牢につないでひと晩中鞭で打ったり、死兵としてひとりで敵に特攻させたりね」
「ユカル、僕たちは」
「ただし代わりにこれだけは約束してもらう。ジャレッド・ドノヴァンを殺すのは僕だ。あいつの首だけは誰にもやらない。僕がこの手で八つ裂きにしてやる。ずっと疎ましかった天授刻もきっと、そのために神が授けて下さったんだ……なら僕は、喜んで天命に従うよ」
そう言って大嵐刻を押さえたユカルの口角には、ひどく歪んだ笑みが刻まれていた。天授刻が彼の感情に呼応しているのか、天幕の中には寒気がするほど不穏な神気が渦巻いている。──復讐に取り憑かれては駄目だ。ジェロディはユカルをそう諭したかったが、今の彼にはいかなる言葉も届かないような気がした。
かつて故郷と共に両親を殺されたコラードがそうだったように、ユカルもまた憎悪という名の魔ものに耳を塞がれてしまっているに違いない。
だとしたら、ジェロディたちにできることはひとつだけだ。
「……分かった。僕も君の復讐に手を貸すよ、ユカル」
そう告げて立ち上がり、ジェロディはユカルをまっすぐ見下ろして手を差し出した。途端に左右で色の違う瞳が訝しげに見上げてきたものの、対するジェロディは怯まず微笑みかける。
「だけど代わりに君も誓ってほしい。ジャレッドの首を狙うのは一向に構わないけれど、やつに固執するあまり自分の命を投げ出すようなことはしないこと。独断で僕らの傍を離れて危険に飛び込むような真似もしないこと。そうしないとレナードが苦しい想いを押し殺してまで真実を打ち明けてくれた意味がなくなる。僕たちは君を救いたいんだ、ユカル。信じてほしいとは言わない。でも、どうかそのことだけは覚えておいて」
瞬間、ジェロディを映したユカルの菫色の瞳が戸惑いに揺れる──ことはなかった。代わりに彼の双眸は胸に生まれた猜疑心を物語るように細められ、次いでふいと逸らされる。たったそれだけの仕草の中に、ジェロディは彼がこの六年間目にしてきた地獄を垣間見たような気がした。幼くして故郷を焼け出され、誰の助けも借りられず、あげくの果てにはすべての元凶となった男に利用され続けた日々。
未来も希望もとうの昔に息絶えた。悟りきったようなユカルの横顔ははっきりとそう言っていた。けれどジェロディは構わず手を差し伸べ続ける。何度だって。
彼がもう一度、世界を信じられるまで。
「……とんだお人好しだな、あんたら」
「ああ、よく言われるよ」
「ただ、残念だな。僕はジャレッドみたいな正真正銘のクズよりも、どちらかというとあんたらみたいな偽善者の方がずっと嫌いなんだ」
「そうだろうね」
「だから悪いけど、あんたらに協力はしても心まで許すつもりはない。僕があんたらの命令に従うのは、ジャレッドの息の根を止めるまでだ。それでもいいなら条件を飲まないこともない」
「ああ、構わないよ。僕たちも必ず君の前にジャレッドを引き出すと約束する。交渉は成立だ」
ジェロディがなおも笑みを湛えたままそう言えば、ユカルが横目でちらりと様子を窺ってきた。そこにまだジェロディの右手が差し出されているのを認めて呆れたのだろう、彼は聞こえよがしのため息をつく。
けれどジェロディに手を引くつもりがないと悟るや彼は諦めた様子で自身も右手を持ち上げた。ジェロディはすかさずその手を掴み、力強くユカルを引き上げる。
そうしながらひそかに誓った。
この手を決して放さない、と。




