271.真実の届けびと
「だから反乱軍の情けは受けないって言ってるだろ! いいからさっさと出てけよ! お前らなんかの世話になるくらいなら、とっとと死んだ方がマシだ……!」
と、ジェロディたちが問題の天幕へ近づくなり、とんでもない怒号があたりに轟き渡った。かと思えば出入り口に垂れた風除けを突き破り、中から銅製の水差しがすっ飛んでくる。それは晩秋の乾いた地面に叩きつけられるや、ジェロディたちの眼前で盛大に水をぶちまけた。その光景を目の当たりにして「うわあ……」と立ち止まったのも束の間、今度は怒号に代わって激しく咳き込む声が響いてくる。
ソルン城常駐部隊との戦闘で捕らえた少年将校──『嵐の申し子』ことユカルが軟禁されている天幕前。彼との面会にやってきたジェロディら救世軍の面々は、いかにも不穏な空気漂う内部の様子を察して思わず顔を見合わせた。どうやら昏睡から目覚めたユカルは、ここが敵陣の真っ只中だと知って怒り狂っているらしい。中からは彼の傍につけていた看護人が必死に宥める声も聞こえるものの、ユカルは手負った獣のごとく怒鳴り散らし、すさまじい拒絶反応を示しているようだった。
「ど、どうしましょう……想像以上に大変なことになっているみたいですが……」
「うん……事前に封刻環をつけておいて正解だったけど、これじゃまともな話し合いなんてできそうもないな……」
隣で怯えるマリステアにそう返しながら、さてどうしたものかとジェロディは自身の頭を撫で下ろす。まったく敵意のない看護人を前にしてあのありさまなのだから、救世軍幹部であるジェロディたちが雁首を並べて出ていこうものなら、ユカルの怒りが爆発するであろうことは火を見るよりも明らかだった。
とするとこちらも出方を考えなければならない。
まずはユカルを落ち着かせ、互いに冷静な話し合いができる状態を作り出さなければ協力を取りつけるなんて夢のまた夢だ。そもそもあたりに響くひどい咳を聞く限り、ユカルの体調はまだ恢復していないと思しい。だというのに彼は怒りで我を忘れているのだ。放っておけば病状が急激に悪化する可能性だって──
「あっ、ちょっ、イーク……!?」
ところがジェロディが方策を練っている間に事態は動いた。
突然背後から慌てたカミラの声が聞こえたと思ったら、イークがものも言わずジェロディの真横を通りすぎていく。気づいたジェロディが呼び止める暇もなく、彼はそのまま怒号轟くユカルの天幕へ押し入った。直後、中で机か何かがひっくり返るような壮絶な音がして、マリステアの肩がびくりと跳ねる。
「ああああ、もう! これだから郷の問題児は……!」
他方、カミラは怯えるよりも困り果てた様子ですぐさまイークのあとを追いかけた。つられるようにジェロディたちも天幕の入り口をくぐると、中では看護人の兵士をかばう位置に立ったイークがユカルの胸ぐらを掴んで円卓に押し倒している。
上に乗っていたと思われる盥や杯が地面に散らばっているところを見る限り、かなりの衝撃でもってユカルを叩きつけたようだ。
そうして彼を見下ろすイークの眼光はフィロメーナの訃報を知ったときよりも遥かに鋭くて、ジェロディは背筋が寒くなった。
「よう、捕虜の分際でずいぶんと威勢がいいな、ガキ。さすがは出来の悪い猟犬の子飼いなだけはある。ひ弱なくせに吠え方だけは一人前だな」
「……ッ! お前……ッ!」
「そんなに死にたいなら今ここで息の根を止めてやってもいいんだぞ。だが魔界に堕ちる前に、神力を使い果たしてぶっ倒れた敵兵を甲斐甲斐しく介抱してたそこのお人好しにひと言詫びろ。それができたら楽に殺してやる」
「ちょ、ちょっとちょっとイーク、ストップ! イークが言うとマジで洒落になんないから! 私たちがここに来たのはこの子と話をするためでしょ!? 怒るのは分かるけどこれじゃ話が進まないから!」
見るからに殺気立っているイークを恐れもせず、ときにそう言って飛び込んだカミラはイークとユカルを力づくで引き離した。
さすがは幼馴染みと言うべきか、イークがこうなったときの対処法は知り尽くしているようで、依然ユカルを睨み下ろす彼をぐいぐいと後ろへ押しやっていく。
対するユカルはよほどの力で卓に押し倒されたのか、起き上がることもできない様子で軽く嘔吐いた。どうやら一切の手加減なく気道を締め上げられたようで、再び苦しげに咳き込んでいる。
ひゅう、ひゅうと細い呼吸音は彼の気管支がまだ異常を訴えている証拠だ。
それを見たジェロディは看護の兵に「下がっていい」と告げたあと、ひとまずユカルを助け起こそうとした。が、伸ばした手はユカルを拘束する白い手枷に払い除けられ、乳銀が掠めた指先にビリッと痺れるような痛みが走る。
「ユカル──」
「触るな、賊が。あと、気安く名前を呼ぶのもやめろ……お前ら、最初から僕を狙って戦を吹っかけてきやがったな。一体何のつもりだ……」
なおもぜえぜえと咳き込みながら、ユカルは辛うじて円卓の上に身をもたげた。
が、一本しか脚のない卓は途端に均衡を失い、ユカルごとぐらりと傾いで倒れる。再び天幕内に騒音が鳴り響き、しかしジェロディはすんでのところでユカルの体を抱き留めることに成功した。
熱い。ボロボロになった軍服越しにも分かるほどの高熱を発している。そして腕の中でぐったりとした彼は、今度はもうジェロディを払い除けようとはしなかった。意識も半分朦朧としていて、もはや抵抗する力さえ残されていないようだ。
「トリエ、駄目だ。思ったより彼の容態が悪い。目が覚めたってことは多少は恢復したのかもしれないけど、大暴れしたせいで──」
「──巻き戻れ」
ところが次の瞬間、耳慣れない言語が響いたと思ったら、突如ジェロディの足もとに円陣が広がった。青白い光をまとい、五芒星を中心にいくつもの古代文字と幾何学模様が描き込まれた希法陣だ。驚愕したジェロディが息を飲んだ刹那、ユカルの真下に展開した希法陣は、くるりと反時計回りに回転した。
まったく同じ現象をジェロディは過去にも見たことがある。
熾烈を極めたオヴェスト城の戦いでカミラがメイベルやカイル、ギディオンを死の淵から呼び戻した力だった。すると希法陣の上に膝をついたユカルの咳がぴたりと止まり、喘鳴も次第に治まっていく。
「カミラさん……!」
そんな彼の様子に気を取られていたジェロディは、マリステアの悲鳴で我に返った。はっと顔を上げて見やった先で星刻の力を使ったカミラがくらりと眩暈を起こし、背中から倒れ込もうとしている。ジェロディは慌てて彼女の手を掴み、引き戻すと同時に《命神刻》から神力を送り込んだ。おかげでカミラはどうにか持ち直し、自力で両足を踏ん張るや「う……」と小さく呻いて頭を振っている。
「カミラ、何やってるんだ! 君だって病み上がりなのに……!」
「ご、ごめん……でもこうでもしないと話が進まないと思って。何となく、今ならうまくできそうな気がしたんだけど……やっぱりまだ本調子じゃないみたい」
カミラはそう言って苦笑したのち、「あ、このことはラファレイには言わないでね、殺されるから……!」と慌てた様子で付け足した。
その様子を見る限り、今回は昏倒するほどの神力は使わなかったようだが──ジェロディは何故だかカミラの手を放せない。
(……でも、ユカルの容態は明らかに寛解してる)
彼女はまだ〝本調子でない〟と言うけれど。
今のはまぎれもない時戻しの術だ。ラファレイやヴィルヘルムが未来視と同等に使いこなすのは難しいと評していた星刻の力。
それを極小の範囲でのこととは言えカミラは使いこなしてみせた。
全快とは言わないまでも、ユカルの病状がだいぶ落ち着いた様子なのを見る限り、半分くらいは時間を戻せたということだ。
──一体いつから?
カミラはいつからこれほどまでに星刻を使いこなせるようになったのだろう。
ふた月前にピヌイスで未来視を頼んだときには、できるかどうか分からないと不安を覗かせていたのに。いや、あるいはあのとき未来を覗いたことで《命神刻》のように星刻との同化が進んで……?
「え、えっと……ティノくん? 私ならもう大丈夫だから……」
「……うん?」
「い、いや、だから……手、を、放していただけると嬉しいかなと……」
しかしジェロディが得体の知れない困惑──いや、あるいは予感めいたもの──に囚われていると、不意に上擦ったカミラの声がした。……手? と思いながらふと目をやれば、ジェロディの右手は依然カミラの左手を握ったままだ。
果たしてそのせいなのかどうか、カミラは目を泳がせながらぷるぷると震えている。心なしか顔も赤い。そこでようやく自分がまったくの無遠慮に異性の手を掴んでしまった事実に思い至ったジェロディは、慌ててカミラの左手を放した。
何故だろう。
彼女に触れるのは初めてのことではないし、むしろ今まで何度も手を握ってきたはずなのに、そういう反応をされてしまうとジェロディまで無性に気恥ずかしい。
「あ、ぼ、僕の方こそごめん。君がまた倒れるかもしれないと思ったらつい……」
「い、いや、別にティノくんが謝ることは……というかむしろ私が謝らないと……ま、またティノくんに《命神刻》の力を使わせちゃって……」
「あ、ああ、この程度ならどうってことないから気にしなくていいよ。まずは君が無事で何より……」
「う、うん、ありがとう……って、ハッ……! ち、違うんですよ、マリーさん!? い、今のやりとりに深い意味はありませんからね!? ティノくんはあくまで私を助けようとしてくれただけですからね!?」
「えっ!? な、何故わたしに話を振られるのですか……!?」
「だっ、だって変な誤解があったらいけないし、せっかく最近ティノくんとマリーさんがまたいい感じになってきたのに──」
とカミラが何やら気になることを言いかけた刹那、天幕の入り口付近からわざとらしいくらい盛大な咳払いが聞こえた。皆がそちらを振り向けば、何とも形容し難い表情で口もとを隠したトリエステがいて、場が静まるなりおもむろに口を開く。
「……皆さん、お取り込み中のところ申し訳ありませんが、そろそろ本題に入ってもよろしいですか?」
「えっ! あ、ああ、それはもちろん……! ていうか私たち、そもそもそのためにここに来たわけですし!? イークのせいでなんか話がこじれましたけど、始めちゃって下さい!」
「こじれさせたのはお前だろ」
「責任の所在についてはのちほど議論するとして……ユカル。聞こえていますね」
「……」
「私は救世軍の軍師でトリエステと申します。そして今、あなたの傍らにいらっしゃるのが我々の軍主たるジェロディ・ヴィンツェンツィオ殿です。既にお察しのことと思いますが、先刻あなたがおっしゃったとおり、我々は今回、あなたの身柄を拘束するために陽動を仕掛けました。この意味が分かりますか?」
「……お前らはクソ野郎を守る天授児が邪魔だったんだろ。だからやつから引き離して、あわよくば自軍の戦力に取り込もうとした。けどな、僕はお前らの狗になるくらいなら──」
「確かにあなたを我が軍の戦力として欲したことは否定しません。ですがそちらはあくまでも副次的な理由です。我々の真の目的は、ユカル。あなたをジャレッド・ドノヴァンの支配から解放することにありました」
「は……?」
「六年前、ピッコーネ村を襲った悲劇の真相を知りたくはありませんか?」
トリエステがすっかりいつもの調子に戻ってそう尋ねた途端、ユカルの顔色が一変した。彼女の口から紡がれた故郷の名に瞳を見開き、されど彼はすぐにまた剥き出しの憎悪を口の端に乗せる。
「ハッ……そうやってデタラメを吹き込んで、まんまと懐柔してやろうって魂胆か。だけどお生憎さま。僕はそこまで単純じゃないし、お前らの話をまともに聞いてやるつもりなんかさらさらない。分かったらさっさと殺せ! お前らと同じ空気を吸ってるだけで反吐が出る……!」
「そうですか。どうしてもとおっしゃるのでしたら、我々としてもご希望に添う用意がありますが──しかしこの方の顔を見てもまったく同じことが言えますか?」
瞬間、トリエステがそう言って視線を向けた先で、にわかに入り口の垂れ布がぬっと上がった。かと思えば天幕の向こうから、ずんぐりと大きな人影が身を屈めて入ってくる。ジェロディは驚いた。何故ならトリエステが招き入れたのが、まったく予想外の人物であったためだ。
「れ、レナード……!?」
──そう、他でもないライリー一味の一翼を担う巨漢。
わざわざ倭王国から仕入れたというキモノと赤い鶏冠状の被りものが一際目を引く、湖賊のレナードがそこにいた。
彼が今回の戦に従軍していたと知らなかったジェロディたちは揃って目を白黒させる。確かにレナードは救世軍がレーガム地方に上陸する際、渡し役となってくれたライリー一味の指揮を任されていたが、まさか陸の上まで一緒に来ていたなんてジェロディでさえ聞かされていなかったのだ。
「レナード!? あ、あなた確か、コルノ島にいるライリーとの連絡役としてポンテ・ピアット城に残ったんじゃ……!?」
「ああ、オレもそうするつもりだったんだがな。出撃前に急遽軍師殿からお呼びがかかって、お前らに付き合わされる羽目になったんだよ。ったく、島に戻ってからライリーになんて説明すりゃいいんだか……」
「ライリー殿には事後承諾をいただけるよう、城を出る前に手配は済ませましたのでご安心を。我々の説明だけではご納得いただけないようでしたら、ジュリアーノさんに説得を手伝っていただくという手もありますし」
「あのな。あんた、そのうちマジでライリーに殺されるぞ……まあ今回は事情が事情だからオレも大人しく従うことにしたわけだが──ずいぶんデカくなったな、ボウズ。姉ちゃんは元気にしてるか?」
直後、急に神妙な顔をしたレナードが声をかけた相手を、ジェロディたちは呆気に取られながら顧みた。そこでは地面に腰をついたままのユカルが菫色の左目を見開いて絶句している。白緑の前髪に隠れて見えないが、恐らくはもう片方の黄金色の右目も同じくらい大きく見開かれているはずだ。
「なん……で……」
やがて彼の唇から零れたのは、眼前で世界をひっくり返されたかのようなひどく震えた問いかけだった。
瞬間、レナードの瞳をよぎった深く暗い幽愁を、ジェロディは見逃さない。




