268.奴隷の決意
竜守る雄鹿の紋章と、黒い兎を押さえつける獰猛な猟犬の紋章が並んで空に翻っていた。前者は他ならぬ中央第六軍の軍章、後者はドノヴァン家の紋章だ。
二本の旗を両脇に掲げさせながら、ジャレッドは胸を張って行軍の真ん中を行く。自分の進言がマティルダに聞き入れられ、ソルン城を出撃することが決まってからというもの、ジャレッドはいかにも得意満面といった感じだ。
対するユカルは厳重に彼を囲う親衛隊のすぐ後ろを騎行しながら、深々と嘆息したいのを懸命にこらえていた。
今日も今日とてユカルの周囲には部下とは名ばかりの監視の兵がついているから、ジャレッドの背中を睨みながらこれ見よがしのため息をついていた、なんて告げ口されようものならあとでどんな折檻を受けるか分かったものではない。
(……まあ、既に一発もらってるわけだけど)
と冷たい北風にひりつく左頬を摩りつつ、ユカルは思い出したくもない昨夜のジャレッドとのやりとりを回想していた。
今回ユカルらソルン城常駐部隊が出撃することになったのは、ポンテ・ピアット城の偵察に向かわせた斥候から、マティルダ率いる第六軍本隊の籠城に業を煮やした反乱軍がついに動き出したとの報告が入ったためだ。
しかもやつらの狙いはマティルダのいるソルン城ではなく、さらに南のトラクア城。ポンテ・ピアット城を出撃した反乱軍はユカルらの籠もるソルン城には目もくれず、第六軍の本拠地を目指してまっすぐ街道を南下し始めた。
これを知ったジャレッドはこちらもすぐさま打って出て、反乱軍を背後から襲うべきだと献策したのだ。さすればトラクア城内の味方と協力して反乱軍を挟撃し、甚大な戦果を挙げることができるはずだ、と。
幸いなことに反乱軍は、国が最も恐れていたアビエス連合国の空飛ぶ艦隊をどういうわけだか手放している。帆檣の真上に大小の回転翼を持つ奇怪な船の群は、遥かな高みからソルン城を睥睨しつつ悠然と南へ飛び去った。
はじめはその船団の行き先もトラクア城なのではないかと見られていたものの、船はこちらの緊張を余所にかの城の上空を通過。
最終的にはパウラ地方最南端にあるサビア台地のやや西方を素通りし、一度も地上へ降りることなく中央海へ抜けていったという。
「反乱軍がどういった事由で艦隊を手放したのかは定かではありませんが、恐らくはアビエス連合国としても、未だ烏合の衆に過ぎない彼奴らへの支援に対して慎重になっているのでしょう。連中はかのロッソジリオ将軍を降してオディオ地方を手中に収めたとは言え、我ら黄皇国軍の前では今なお木っ端のごとき弱小勢力に過ぎません。その事実を改めて国の内外に示すときです。彼奴らに黄皇国を打倒するほどの力などないと分かれば、連合国も必ずや国を挙げての支援を見直すはず。であるならばやはりここは我らも打って出て、徹底的に賊を叩くべきでしょう」
二日前の軍議で鼻息荒く熱弁を振るったジャレッドの意見はマティルダに容れられ、結果として三千のソルン城常駐部隊が反乱軍を追跡することになった。
マティルダがトラクア城から率いてきた六千の本隊はジャレッドに代わってソルン城に留まり、味方の留守を守るという。本来ソルン城の守将はジャレッドなのだし、敵の狙いは本隊の拠点であるトラクア城なのだから、この場合マティルダが出撃してユカルらがソルン城を守るのが筋なのではないかと疑問を抱かずにはいられないものの、決まってしまったものは仕方なかった。
そもそもの原因はジャレッドだ。彼は軍議の席で「オルキデア将軍が直々に動くまでもありません、反乱軍は自分が蹴散らしてご覧に入れます」と主張して憚らず、どうしてもマティルダの前で手柄を立てたいという気概がひしひしと伝わってきた。野心家のジャレッドは以前から「いずれは私が大将軍に」と嘯いていたから、名を揚げるにはまたとない機会だと大張り切りでいるのだろう。
だがユカルはどうもおかしいと思っている。マティルダがさして熟考する様子もなく、むしろまったく関心がなさそうな態度でジャレッドの出撃を許したこともそうだが、何より妙なのは他ならぬ反乱軍の動きだ。
確かにソルン城は毒茨の森に囲まれた攻めにくい城で、あそこを攻めるくらいなら大将不在のトラクア城を襲う方がマシだという理屈は分かる。けれど同時にソルン城を無視してトラクア城を目指そうものなら、十中八九ユカルらに背後を襲われるであろうことは馬鹿でも予測できるはずだ。ということは今回の敵の動きは、ソルン城から籠城部隊を引きずり出して叩こうという奸計の一端なのでは?
仮にそうだとすれば連中がせっかく手に入れた飛行艦隊をあっさり手放したことにも頷ける。あれは連合国の脅威は去ったとこちらに誤認させ、城から誘い出すための演出だ。だからかの艦隊はユカルらの目に留まるよう、ふたつの城の上空をわざわざ通りすぎていったのだ。そう考えた方が辻褄が合うような気がして、不安に駆られたユカルは逡巡の末ジャレッドに自分の推測を伝えた。別にこれが敵軍の仕掛けた罠で、まんまと術中に嵌まったジャレッドが討たれようが敗れようがユカルには関係ない。むしろさっさと首を刎ねられてくれた方が清々する。
が、今回はそうも言っていられないのが実情だ。
何しろここでのジャレッドの敗北はソルン城の危機に直結する。
もしも敵の真の狙いがトラクア城ではなくソルン城の攻略だった場合、あの城が襲われれば城内にいる姉のナアラまで危険に晒されるのだ。
だからユカルは冷静になって、もう一度出撃の必要性について考え直してくれとジャレッドに直接訴えた。結果は腫れ上がった左頬を見てもらえば一目瞭然だが、それでも一応しつこく食い下がった甲斐はあったらしい。
いつもは従順で大人しいユカルが短鞭できつく打たれてもなお引き下がらないのを見たジャレッドは、出陣の決定こそ取り下げなかったものの「貴様の進言は心に留めておいてやる」と言った。「ただし罠でも何でもなかったときには、私に無駄な時間を取らせたことを覚えておけよ」と余計なひと言を添えながら。
昨晩そんなやりとりがあったおかげで、当初は敵に見つからぬよう間道を使って追跡すると言っていたジャレッドも今は伏兵を警戒する動きを見せている。
パウラ地方南部に広がるエクリティコ平野は緩やかな丘陵が続く地形ゆえ、丘の麓を縫うように走る街道は四方から丸見えだ。だからジャレッドは敵に接近を覚られることを嫌い、森林地帯を通る迂回路を取って反乱軍を追いかける計画でいた。
が、ユカルの予想が正しければ森林地帯なんて敵が最も兵を伏せやすい場所だ。
このあたりは冬の間も葉を落とさない木々が多く、森の中では視界がきかない。
ゆえにジャレッドは間道を使った追跡を断念し、堂々と街道を行く方針に切り替えた。確かにこれではこちらの接近があっという間に知れるだろうが、代わりに敵の接近も即座に察知できる。街道を駆ける部隊の左右には丘の畝を伝って並走する斥候隊がいくつも放たれており、索敵体制は万全だった。
こうなってはたとえ敵が伏兵を仕掛けていたとしても、奇襲が奇襲にならないだろう。ユカルたちは敵影を発見次第丘を駆け上がって高所を陣取り、地の利を活かした迎撃体勢を取ることができる。
戦となると猪突猛進以外芸のないジャレッドにしては上出来だ。自分が一発打たれるだけで姉のいるソルン城が守れるなら安いものだと、ユカルはなおもジンジンと痛む左頬に冷えた手の甲をあてがいながら、ほんの束の間瞑目した。
『お願いだから……どうか無茶はしないで、ユカル。村を滅ぼした人たちのことは私もまだ許せないけど……だけど今は、父さんたちの仇を討つことよりもあなたが大事なの。だから必ず生きて戻って。私の望みはそれだけよ……』
城を出る間際、菫色の瞳を潤ませてそう言っていた姉の温もりをそこに感じようとする。ジャレッドの目を盗み、危険を冒してユカルの見送りに駆けつけてくれたナアラは、まるで今生の別れみたいに震えながらユカルを抱き締めた。
──そんなに心配しなくても大丈夫だよ、姉さん。
そう笑って彼女を安心させてやれたなら、どんなにかよかったに違いない。
けれど今回ばかりはさすがのユカルもいつもの軽口を叩けなかった。
もちろんナアラをひとり遺して、こんなところでむざむざ命を散らすつもりはない。ただ自分には、姉の懇願を振り切ってでも為さねばならないことがある。
(……ジャンカルロ・ヴィルト)
やつに未来を絶たれた両親の──故郷の無念を必ず晴らす。
そうしなければ自分もナアラも前へ進めないのだ。
あの日から姉弟の時間は止まったまま。すべてを失った過去に決着をつけない限り、自分たちは永遠に失意という名の檻の中で凍え続ける。
されど運命の奴隷となり、一生鎖につながれて暮らすなんてまっぴらごめんだ。
自分たちにはまだ現実に抗う力がある。それを今度こそ証明したい。
他の誰でもない、自分自身に。
(反乱軍……次こそは必ずやつらを拈り潰してやる。父さんたちの感じた痛みと苦しみを思い知らせてやる……そしてもしもその願いが叶ったら、僕は──)
「──注進! 理神の刻(八時)方向より所属不明の軍勢が接近中! 反乱軍の伏兵と思われます!」
瞬間、馬蹄の響きと共に空を裂いた斥候の声がユカルの意識を呼び戻した。
はっとしたユカルが顔を上げると同時に、ジャレッドの号令が轟き渡る。
間を置かず鏑矢が放たれた。
甲高い悲鳴のごとく鳴り響く音色は全軍に敵襲を告げる合図だ。曲がりくねった街道の上を、大蛇にも似た縦列を組んで進んでいた部隊が止まった。手綱を捌き、即座に後方へ向き直ったジャレッドの顔面には狂喜の笑みが刻まれている。
「来たか、反乱軍……!」
やはりユカルの読みどおりだった。本当に伏兵がいたのだ。
今までどこに隠れていたのか知らないが、ユカルたちがあと数刻で敵本隊に追いつくというギリギリのタイミングで現れたところを見ると、もしかしたらこちらの進路を見誤り、例の間道に張っていたのかもしれない。だとしたら傑作だ。
途中で予想がはずれたことに気づき、そこから黄皇国内でも図抜けて高い機動力を持つ第六軍の分隊に追いついてきた努力と根性は認めてやらないこともないが。
「全軍、臨戦体勢! 第二大隊は左翼に、第三大隊は右翼に展開せよ! 私が街道上で敵を迎え撃つ。やつらが大将旗に食いついたら、逆落としをかけつつ左右から同時に押し包め!」
ユカルがそんな予測を立てている間に、四角い顔を興奮で上気させたジャレッドが唾と下知とを同時に飛ばした。指示を受けた先鋒の第二大隊と、後詰めについていた第三大隊がそれぞれ左右の丘を目指して馳せてゆく。
かくしてやつらは現れた。既に地の利は官軍の側にある。だというのに一切の迷いを見せず、大将旗を掲げたユカルら第一大隊の正面に躍り出てきた敵の一軍。
数はおよそ六百ほどか。思っていたよりだいぶ少ない。
いくらジャレッドが愚将とは言え、たったあれだけの兵力で時間稼ぎができると考えたのなら官軍も舐められたものだ。しかしあまりにも貧弱な敵の軍容を鼻で笑おうとしたユカルの視線は刹那、敵軍の先頭に佇む一騎の黒馬に吸い寄せられた。
(なんだ、あいつ)
その姿を目にした途端、ユカルの背筋を駆け抜けた感覚を一体なんと形容すべきか。一際逞しく勇み立つ黒馬の背に跨がるは、全身を漆黒に染めた男。
馬だけでなく鎧や外套まで黒一色で、さらには顔の半分も真っ黒な眼帯で覆っている。明らかに異様だ。出で立ちだけの話ではない。男が鎧と共にまとう気配も、すらりと抜かれた長剣の妖しい閃きも、あの禍々しさはまるで──
「『嵐の申し子』とやらはいるか」
直後、男が二十枝(百メートル)ほど先から投げかけてきた言葉にユカルは図らずもぎょっとした。『嵐の申し子』。他でもない自分の渾名だ。
それを敵将と思しき男が何故? リーノで取り逃がしたふたりから聞いたのか?
だとしても、いきなり名指ししてくる理由が分からない。
「ユカル。やつとは知り合いか?」
ところが困惑で凍りついたユカルの心中など露知らず、背後からジャレッドが尋ねてきた。ユカルは彼を囲う親衛隊のすぐ傍にいるというのに、どうしてわざわざそんな大声を出したのか──いきなり名を呼ばれたユカルがびくりと肩を震わせた瞬間、敵軍の旗の下にいる男がニタリと牙を覗かせた、気がする。
《 見 つ け た 》
耳もとで悪魔が囁いた。
たとえ幻聴だったとしても、ユカルにはそうとしか思えなかった。
ズン、と大地が沈み込むような錯覚がする。敵軍が動き出したのだ。
来る。認めたくはなかったが、ユカルは恐怖で身が竦むのを感じた。
男。あの男だ。向かってくる。まっすぐに。どう見ても只者ではない。
しかしどうやらジャレッドはあれの異様さを理解していないようだ。
迎え撃て、と号令がかかった。前列に並んだ味方が鬨の声を上げて突撃する。
ぶつかった。と思ったときには、味方の第一陣は吹き飛んでいた。
「何っ……!?」
安直な比喩なんかじゃない。文字どおり味方が吹き飛んでいた。決して軽くはない鋼の鎧を着込んだ歩兵が何人も、突風に巻き上げられて飛沫みたいに弾け飛ぶ。
信じ難い光景を目の当たりにした第二陣が怯んだ。そこへ敵が突っ込んでくる。
乱戦になるのは時間の問題だった。
ジャレッドの舌打ちが聞こえ、二本目の鏑矢が鳴る。
「怯むな、押し包めぇ!」
青天へ向けて射ち上げられた矢を合図に、左右の丘を陣取っていた官軍の両翼が動き始めた。ずるりと剥けた地面が滑り落ちてくるかのように、騎馬隊が斜面を駆け下る。逆落としの勢いを味方につけた挟撃だった。
第一大隊と交戦中の敵は退がれない。一歩でも退こうものなら即座に追撃を受け、呑み込まれるのが目に見えているからだ。ゆえに敵は退がらなかった。
代わりに六百の歩兵が小さくまとまり、戦いながら方陣を組んで、丘の上の騎馬隊が突っ込む寸前──割れるような銅鑼の音を合図に鯨波を上げる。
「なっ……!」
ユカルは馬上で息を飲んだ。ジャレッドも目を剥いて絶句している。
何故なら敵歩兵部隊が、こちらの騎馬をギリギリまで引きつけるなり一斉に長槍を構えたのだ。槍衾。そこに左右翼の騎馬隊が突っ込んだ。結末は言うまでもない。串刺しだ。自ら穂先に向かって身を投げた馬たちが、次々と首や胴を貫かれて斃れていく。そうして鞍から投げ出された騎手たちにも敵兵は容赦なく襲いかかった。彼らに起き上がる暇を与えず二、三人がかりで確実に殺しにかかっている。
さらに第一大隊に食い込んだ敵の先鋒も大暴れだった。黒ずくめの男が馬に鞭をくれるたび、彼の駆け抜けた先で次々と人間の首が舞う。まるで黒い鎌風だ。
恐れをなした第三陣が、崩れ始めた第二陣の援護もせずに竦み上がっている。
「ええい、何をしている! 敵はたったの数百だぞ! 押せっ、押せっ! 押し包んで皆殺しにしろォ!」
それができたらとっくにやっている、と誰もが思うであろうことをジャレッドはひたすらに怒鳴り続けた。そもそも敵は既に完全包囲されているのが見えていないのだろうか。やつらは蟻の這い出る隙もないほどの官軍の輪の中にすっぽりと嵌まっている。だというのに押し切れない。あの男だ。魔界から現れたかのような不気味な黒馬を駆り、敵の海を縦横無尽に駆け回っている男。
あいつが戦の流れを操っている。ただ強いだけじゃない。
時折男の周囲で吹き荒れている風はもしや神術の類だろうか?
しかし男から感じる気配は神術使いのそれではなかった。天授児のユカルには分かる。男がまとっている風は神術のようでいて、もっと別のおぞましい何かだ。
その証拠に、右の蟀谷に刻まれたユカルの天授刻が騒いでいる。
──逃げろ。あれは災いを呼ぶ者だ。人の姿をした魔物だ。
戦場を逆巻く風がそう叫喚している気がした。
人の姿をした魔物。確かにあいつはそう形容するのが一番しっくりくる。
けれどここで退くわけにはいかない。
気配で圧倒されてはいるが、数の上ではこちらが上だ。
怯まず四方からじっくり攻めれば、絶対に勝てない相手じゃない。
そうだ。全兵一丸となって、ひとりひとり確実に屠っていけばきっと、
「隊長! 後方に──」
刹那、どこからともなく悲鳴に似た叫び声が聞こえたと思ったら、とんでもない衝撃がユカルたちを襲った。大地が激しく振動し、天地が逆しまにひっくり返る。
そう錯覚するほどの衝撃。街道に布陣し、第一大隊に属する全中隊を前方に展開していたジャレッドは背後から来たその衝撃をまともに喰らうことになった。猛々しく吼える猟犬の紋章が揺らぎ、親衛隊も色めき立つ。一体何が起きたのか。
わけも分からず振り向いた直後、ユカルの全身から血の気が引いた。
天を劈く喊声が聞こえる。
真紅の第六軍旗を薙ぎ倒して、すぐそこに反乱軍が迫っていた。




