25.一緒に
金銀財宝、酒池肉林。そんな言葉を体現する光景があるとしたらまさしくこれだな、とカミラは思った。いや、正確には肉とか酒はないのだけれど。でもこれだけの財宝があればきっと食べきれないほどの肉、飲みきれないほどの酒が買える。
なんていうか、まぶしい。地下なのにまぶしい。目が灼けそうだ。たぶんカミラがこの先何年頑張って働こうとも手が届かないであろう財宝が、そこにはある。
「ふむ。正確なところは鑑定に出してみねば分かりませぬが、これだけあれば詩爵家の俸禄一年分には匹敵するでしょう。よくもまあ国の目を盗んでこれだけ貯め込んでおったものです。しかしおかげで当分軍資金に困る心配はなさそうですな」
チッタ・エテルナの地下深くに広がる古代都市。
その中でも救世軍の幹部たちが作戦会議場として利用する槍兵屋敷──と、皆は呼んでいる──のとある倉庫で、そう言ったのは任務帰りのギディオンだった。
今、カミラの目の前にある大量の金貨、銀貨、宝石、装飾品、美術品、金の延べ棒等々は、カミラが救世軍に正式加入してから今日までのおよそ四ヶ月の間に集められたものだ。そこに先程帰還したギディオンの戦利品が加わって、カミラの視界は今や金色の海と化している。たった四ヶ月の間に集められたにしてはあまりにも膨大な量の財宝。これらが詩爵家──四つある爵位の最高位──の俸禄一年分にも匹敵するというのなら、事は大収穫どころか大大大収穫くらいの成果だろう。
「だけど、これをこれからお金に替えるのが大変そうね。金貨や銀貨はそのまま使えるからいいとしても、金は鉄と同じ黄皇国の専売品だから……」
「盗品を扱う新たな闇商人を探さねばなりませんな。鉄取引をしていた商人はしばらく使えますまい」
「ええ、彼も黄皇国に目をつけられている可能性が高いものね……ただ、今は金脈の減少と内乱の影響でトラモント貨幣の価値が下がってきているから、金貨や銀貨もなるべく早く両替してしまいたいわ」
「ふむ。ですがこれだけの量の金貨を一度に、というのはさすがに怪しまれましょう。青銅貨や赤銅貨に替えるのでしたら、価値が下がるのを覚悟で小分けにして少しずつ両替せねば……」
しゃがみ込んで目の前の財宝に見とれているカミラの背後では、フィロメーナとギディオンが何やら難しい話をしている。この四ヶ月でカミラは以前よりずっとトラモント黄皇国の事情に詳しくなったつもりだが、専売がどうとか貨幣の価値がどうとかいう、数字が絡む話にはまだついていけない。
だからそういう難しいことを考えるのは後ろのふたりに任せて、カミラは箱から零れんばかりになっている財宝を物色し始めた。まず手始めに引っ張り出したのは色とりどりの宝石があしらわれた首飾りだ。それをこれまた金細工で縁取りされた鏡の前で首に当て「うーん、ケバすぎ」と箱に戻す。
次いで手に取ったのは金の簪。こちらも小振りだが美しい宝石が品よくあしらわれていて、試しに髪に差してみるといい感じによく映える。
これにはカミラもついうっとりした。こんな髪飾りがあったら欲しいかも、と思いながら名残惜しくも箱に戻す。さらにいくつも並ぶ木箱の中をガチャガチャあさると、中には神刻石もいくつかあった。
この石は稀に地中から発見される神刻の原型で、光に翳すと宝石の中に神刻が見える。人々はこの中から神刻だけを取り出し体に刻むのだ。
神刻石から神刻を抽出したり、人の身に刻んだりするのには神刻師の力を借りねばならないが、彼らは大抵大きな町で神刻屋と呼ばれる店を構えていた。そこへ行って相応の金を払えば、誰でも好きな神刻を好きなところに刻んでもらえるというわけだ。だが神刻師は簡単に見つかっても神刻石自体はとても貴重で、適当に地面を掘り返したからと言って簡単に見つかるものではなかった。だからこれらは高く売れる。特に宝石の中に眠っている神刻が珍しければ珍しいほど。
「んー、でも、ここにあるのは普通の神刻ばっかりみたいね……」
と神刻石を灯明かりで透かして目を眇めながら、カミラはちょっとがっかりした。これだけのお宝があるのだから、中には見たこともないような珍しい神刻が紛れ込んでいるんじゃないか──そしてあわよくばそれをもらったりできるんじゃないか──と思ったのだが、どの石を覗き込んでみても中には火刻とか風刻とか、カミラでも知っているような神刻しかない。
それでも確かトラモント黄皇国では、神刻石がひとつ一銀貨程度で売り買いされていたはずだから高価な品であることには変わりないのだけれど。カミラは内に地刻を宿した神刻石を手に取って眺めながら、はあ、とため息をつく。
「これが大地刻とか大嵐刻だったら刻んでみたいんだけどね──っと」
そんな願望を口にしながら石を木箱に戻したところで、カミラはふと見たこともない色の宝石を見つけた。真夏の晴れ渡る空の色を映したように美しい水色の石。カミラは思わずそれに見とれて、もしかして知らない神刻石?と光に翳してみる。
けれどもその宝石の中には神刻らしき影は見当たらなかった。まるで純度の高い硝子みたいに透き通っているから、目を凝らさなくともすぐに分かる。
──なんだ、ただの宝石か。でも綺麗。なんていう石だろ?
カミラがそんなことを考えながらぼうっと石を眺めていると、
「ほう、それは清湍石ではありませんか?」
といきなり背後から声がした。ギディオンだ。
「セータンセキ?」
「さよう。非常に清らかな流れの川底でしか採れぬと言われている貴重な宝石です。その石には穢れを清め厄を祓う力があると言われておりましてな。確かフィロメーナ様がお持ちのものも……」
「ええ、清湍石よ。そこまで大きくはないけれど……」
言いながらフィロメーナは首に巻かれている白い外套の中に手を入れて、そこから何か引っ張り出した。
しゃらっと儚げな音と共に、彼女の首もとで何かが揺れる。華奢な銀の鎖とその先に下がった雫型の清湍石。カミラは思わず腰を浮かした──ペンダントだ。
「わ、すごい! 綺麗~! フィロ、さすがお嬢様だね!」
「元お嬢様、だけれどね。そもそもこれは私が自分で手に入れたものじゃないの。去年の今頃イークがくれたのよ」
「イークが?」
「ええ。どこでどうやって手に入れたのか、何故か教えてくれないのだけど、気休め程度のお守りにって」
「へー。イークにそんな甲斐性があったなんてちょっと意外。女心とかそういうの、絶対疎いと思ってたのに。あるいは誰かに焚きつけられたのかしら」
「カミラ殿、それはさすがに穿ちすぎでは……」
「だって出処を教えないなんて怪しくない? あ、でも今の発言は内緒ね。じゃないとまたイークにひっぱたかれるから」
カミラがそう言ってにししっと笑えば、ギディオンも孫と戯れるように笑った。
初めて顔を合わせたときには「怖そう」という印象が先行していたギディオンとも、カミラはこの四ヶ月の間にすっかり打ち解けている。話してみると存外物静かで思慮深い老紳士だった。近づき難い印象を与えるのは元軍人らしく引き締まった長身と鋭い眼光のせいで、本人は決して激しい気性の持ち主ではない。
ただ、何故か救世軍の中にはギディオンを恐れている兵が多くいて、彼らは目の前をギディオンが通るだけで怯えの色をあらわにした。曰く、ギディオンはかつて黄皇国軍で『剣鬼』と呼ばれたほどの剣の達人で、ひとたび戦場に出ればその剣は容赦なく敵を斬り裂き、彼の前に立って死を免れた者はいないのだとか。
その圧倒的な強さと戦場での姿があまりに恐ろしいので、若い兵たちは総じて彼を恐れている……らしい。これはアルドの談であって、まだ一度もギディオンと戦いを共にしたことのないカミラには真偽のほどは分からないのだけれど。
「まあ、でもさすがにどこかから盗ってきたってことはないかなぁ。ウォルドなら平然とやりそうだけど、イークはその辺潔癖症だから」
「そうね。彼は誰よりも曲がったことを嫌う人だし……でも私、そんな彼にまで盗賊の真似事をさせてしまったのね」
と、そのとき返ってきたフィロメーナの声が思いのほか暗くて、カミラは内心ぎょっとした。見ればフィロメーナは清湍石のペンダントから宝の山へ目を移し、思い詰めたような表情をしている。
理由はまあ、言うまでもない。このまばゆい財宝の出処だ。
カミラたちはこれらの金銀財宝を名だたる大商人たちから強奪した。
つまり襲って奪ったのだ。その方が地方軍の守る郷区の倉を襲うよりたやすく、なおかつ少人数で経費を抑えて実行することが可能だったから。
「や、まあ、けどさ、盗んだって言っても、相手は役人や軍人とつるんで悪いことしてたやつらばかりでしょ? 人身売買とか麻薬の密売とか、それこそ本物の盗賊とか。だからあいつらをとっちめてくれてありがとうって、感謝してくれた人たちもいたわけだし」
「それは私たちの本当の目的を伏せたからよ。救民救国という大義名分の盾に隠れて、私たちは一般市民の命と財産を奪った。いくら法に触れる行いをしている相手だったとは言え、彼らは本来黄皇国打倒の戦いとは関係ない。今回私たちがしたことは立派な略奪行為だわ」
「で、でもすべては救世軍を守るため、でしょ? 私利私欲のために荒稼ぎしてたあいつらとは違うわ」
「だとしても卑劣な手段で盗みを働いたという事実は変わらない。イークだって副帥という立場上何も言わないけれど、本当は……」
心のどこかで自分のしたことを恥じているのではないか。
悔いているのではないか。
彼の戦士としての誇りに傷をつけたのではないか。
フィロメーナはそう言ってうなだれた。
「私は彼に甘えてばかりよ」
と、彼女はさらに言う。
「彼だけじゃない。結局私の考えた作戦を遂行するのはあなたたち。私はあなたたちに汚れ役を全部押しつけて、安全な場所から指示を出すだけ。せめて剣を振るくらいできればよいのだけど、それすらまともにできない私は、あまりにも……」
まるで痛みをこらえるように、フィロメーナは形のいい眉を寄せた。
そうして悲しみに目を閉ざす。
顔を伏せ、唇を噛んで、自らを罰するように細い腕をきつく握る。
だからカミラは、
「はいそこまでー!」
「ぶっ……!?」
と、突然両手でバシン! とフィロメーナの顔を挟み込んだ。
これにはさすがのフィロメーナも喫驚し、ギディオンも隣で面食らっている。
「か、カミラ殿、フィロメーナ様になんということを」
「今回だけは見逃して、ギディオン。こうでもしなきゃフィロ、話聞いてくんないでしょ」
あ、でもこれもイークには内緒ね、とカミラが言えば、ギディオンは呆れと諦念が混じったため息をついた。どうやら見逃してもらえたようだ。
が、依然カミラに頬を挟まれたままのフィロメーナは目を白黒させている。
かわいい。だけど今だけはそんなフィロメーナのかわいさに惑わされない。
だってカミラには、どうしたって言わなきゃならないことがあるのだ。
「あのね、はっきり言わせてもらうけど、フィロは何でも難しく考えすぎ! 私はちっちゃい頃からイークを見てきたから分かるわ。あいつはね、一度思い込んだらちょっとやそっとじゃ止まんないタイプなの。猪突猛進なの。だからね。イークはフィロのためなら死んだっていいって思ってる。もちろんほんとに死んだらフィロが悲しむから私が蹴っ飛ばしてでも止めてやるけど、そんなやつがこのくらいのことで悩んで立ち止まったりすると思う? 少なくとも、私はしない」
カミラの右手と左手の間でフィロメーナが目を丸くしている。何か答えたいけど答えられない、といった様子で、そのうろたえた表情がまたかわいかった。
おかげでカミラもついに我慢できなくなって笑ってしまう。
けれどまだ両手はフィロメーナを解放しない。
「だいたいねー、なんていうかアレでしょ? うーんと、テキザイテキショ? みたいな。こないだフィロが教えてくれたじゃない、ふさわしい場所にふさわしい能力を持った人材を配置するのが戦いの基本だって。私はフィロみたいに難しいことは考えられないけど、代わりに剣は振るえる。神術も使える。だからそっちを担当してるだけで〝やらされてる〟なんて思ってないわ。むしろやりたくてやってるっていうか。だってそうしなきゃフィロに何もかも背負わせることになるじゃない? それじゃ何のための仲間なの、って話だし」
「カミラ……」
「なーんて新入りが偉そうに言ってますけど、たぶんイークもそう思ってると思う。そもそもここにあるお金は悪徳商人どもが人の命を売り買いして儲けたもんでしょ。だったら役人どもへの賄賂なんかに回されるより、腐った国を正すために使ってもらった方が被害に遭った人たちも浮かばれるってもんよ。違う?」
言って、カミラはちょっと首を傾げながらフィロメーナの瞳を覗き込んだ。
相手が相手ならガキが生意気言うなと叱られるところだがカミラは遠慮しない。
というか彼女がそんなことを言う相手でないことは、たった四ヶ月の付き合いでも狂おしいほど理解している。カミラが初めてこの町に来た夜、フィロメーナに告げた言葉。あれはびっくりするくらい本当だった。
〝たぶん、これからもっともっと好きになる〟。我ながらすごい予言だと思う。
この四ヶ月、総帥であるフィロメーナにくっついて救世軍のことを学ぶうち、カミラは彼女のことが好きになった。
仲間のことをいつも第一に考え、またどうすれば黄皇国打倒に一歩でも近づけるか、常にその心を燃やしているフィロメーナが好きになった。
さらにそのフィロメーナの人柄やトラモント黄皇国という国のこと、その歴史と仕組み、彼女が修めた軍学、才能、生い立ち、それらを知れば知るほどカミラはもっともっとフィロメーナが好きになった。憧れた。尊敬した。
まだまだ知りたい、と思った。この人についていきたい、とも。
イークが救世軍に入った理由もフィロメーナに惚れ込んだ理由も今なら分かる。
そりゃあ惚れるよね、うん、しょうがないよねとしか言いようがない。
むしろ彼がフィロメーナの傍にいてくれてよかった。そうでなければカミラがこうして彼女と対等に言葉を交わす機会など永遠に訪れなかっただろうし、何よりこの優しすぎるリーダーは、ひとりですべて背負い込もうとしただろうから。
──だから、ね?
そう言ってカミラが笑うと、フィロメーナも笑ってくれた。何だか泣き出しそうな笑顔だったけど、笑ってくれたからよしとした。両手も離した。
「ありがとう、カミラ……そうね。確かにあなたの言うとおりかもしれない。どのみち私には、国を救うことでしか償いを果たせないんだもの……」
「そーそー。そして私たちもそれを手伝うからさ。そんな風に全部ひとりで抱え込まないで一緒に頑張ろうよ」
「ええ。だけどちょっと情けないわ。これじゃどちらがリーダーなのだか……」
「もー、またそういうこと言う。フィロはね、謙虚すぎるのよ。だいたい私なんかにリーダーが務まるわけないでしょ。私はフィロみたいに頭よくないし、そもそも人がついてこないって」
「あら、それはどうかしら。兵たちの中には太陽の村の出身者であるあなたに敬意を払っている者も少なくないし、人柄に惹かれている者もいる。それに剣や神術の腕も確かだから、実はもう少し作戦をこなしたら、あなたを隊長に……」
「──フィロ!」
そのときだった。俄然フィロメーナの言葉を遮る声がして、カミラたちは何事かと目を見開いた。見れば倉庫の入り口に、いつの間にかイークの姿がある。
確か彼はギディオンと入れ違いに地上の見回りへ出ていたはずだが戻っていたらしい。同行したはずのアルドの姿が見えないのが気になるけれど。
「どうしたの、イーク。地上で何かあった?」
「ああ、町で怪しい男を見つけた。ラ・パウザ通りでお前の居場所を嗅ぎ回ってたんで、とっ捕まえて事情を訊いてみたんだがな。何でもお前に直接会って話がしたいとかで……」
「私に話?」
「ああ。俺たちが取り次いでやるから用件を話せと言ったんだが、フィロメーナ様本人にしか話せない、それが親分との約束だ、の一点張りで話にならない。試しに軍人のふりをして近づいたら一目散に逃げ出したから、何かわけありなのは間違いないと思うが……」
カミラたちは顔を見合わせた。イークの話によればその男の名はパオロといい、フィロメーナに会うため遥々北の竜牙山から旅してきた、と話しているという。
だがそれ以上の事情は一切話そうとしない。たぶんイークたちが最初に軍人を騙って近づいたから警戒しているのだ。軍人を警戒する、ということは札付きであることの左証のようにも思えるが、それだけではちょっと素性がはっきりしない。
確かに怪しい。しかしフィロメーナはしばし黙考すると、
「分かったわ、会ってみましょう。そのパオロさんという人は今どこにいるの?」
と大胆な発言をした。これには一同の間に緊張が走る。
理由は身元不詳の男の前に救世軍の総帥を差し出すから──だけではない。
瞬間、イークがわずかに眉根を寄せたのをカミラもギディオンも見ていたからだ。ああ、これはまた始まるぞ、とふたりはフィロメーナの背後で視線だけを交わらせた。そして案の定、イークの口からは険を孕んだ言葉が吐き出される。
「待て、フィロ。まだそいつが何者かも、本当に信用していいのかどうかも分からないんだ。そんなやつと総帥のお前を簡単に引き合わせるわけにはいかない」
「だけど私にしか事情を話せないと言っているのでしょう? だったら私が出ていかなくちゃ話が進まないわ」
「こっちにそう思わせて、お前を引きずり出すための罠かもしれないだろ。そもそもやつはどうも手癖が悪い。俺たちが接触する前にも他人の懐から財布を掏ってやがった。あの手際のよさから考えて、まず堅気の人間じゃない。そんなやつの前にお前が出ていくのは……」
「イーク。あなたみたいに世の中の人間すべてを疑ってかかっていたら、上手くいくこともいかなくなるわ。相手はあなたが軍人と聞いて逃げ出したのでしょう? だとしたら何かよほどの事情があるのよ」
「だからって信用していい理由にはならないだろ。お前は簡単に人を信じすぎなんだよ。ふたりで旅をしてた頃、そのせいで何度もひどい目に遭ったのをもう忘れたのか?」
「今の私はあの頃とは違うわ。敵か味方かの見極め方くらい心得てる。心配症のあなたのおかげでこれでも用心深くなったんだから」
「どうだかな。本当に用心深かったら、まずウォルドみたいな不審者を懐に招き入れたりはしないと思うが」
「もう、またその話? 今はそんなことを言っている場合じゃないでしょう。とにかくまずはその人のところへ案内して。それともまた私に命令させるの?」
このところ回数を増しているフィロメーナとイークの口論は、今回も前者に軍配が上がった。フィロメーナが語調に叱責を滲ませながら、しかし瞳には愁いの色を浮かべればさすがのイークも反論できない。救世軍も〝軍〟という名を冠する組織であるからには、リーダーであるフィロメーナの命令は絶対だ。
イークももちろんそれを知っている。そしてフィロメーナが、命令という形で仲間を強制的に従わせることを心底嫌っていることも。
「あ、あー、まあ、とりあえずそういうことなら、ここにいるみんなでそのパオロって人に会いに行かない? 相手が敵であれ味方であれ、こっちに人数がいれば向こうも下手な真似はできないでしょ。ね、ギディオン?」
ふたりの間に重く沈んだ沈黙を押し退けるように、ときにカミラが提案した。
次いで助けを求めてギディオンへ目をやれば、彼は「ふむ」と首もとまで垂れる顎髭をひと撫でして言う。
「確かにカミラ殿のおっしゃるとおり。イーク殿、問題の御仁は上の宿にいるのですかな?」
「ああ、そうだ」
「ならば万が一の場合に備えて、儂が宿の周辺を固めておきましょう。さすれば何人も宿の外へ逃れること能わず、また何人も宿へ押し入ること叶わず。相手がパオロという男ひとりだけならばさほどの脅威にはなりますまい」
ギディオンが泰然としたままイークをそう説き伏せるのを聞いて、カミラは内心ほっとした。イークは総帥であるフィロメーナとも対等な立場で物を言うが、このギディオンだけには逆らわない。戦士としての技量も経験もギディオンの方が自分より何倍も上だと認めているのだ。
だから今回も──不承不承といった様子ではあるが──彼はギディオンの言を飲み込んだ。そもそもカミラでもウォルドでもなく、百戦錬磨の彼が宿周辺の守りを固めてくれるというのなら、イークもこれ以上文句のつけようがないのだろう。
「というわけだから私も一緒に行くわよ、フィロ。仮にパオロって人が黄皇国の手先だったとしても大丈夫。フィロのことは何があっても私が守るし、絶対傍を離れないから。ねっ」
そう言ってフィロメーナの顔を覗き込みながら、カミラは敢えてにっと笑った。
少しでも彼女の気を紛らわせることができればと思ったのだが、フィロメーナはそんなカミラを見て目を丸くしたあと、弱々しい笑みを返してくる。
「ええ……ありがとう。頼りにしてるわ、カミラ」
歯切れの悪い反応だった。
いつもならフィロメーナもふっと力が抜けたように笑って頷いてくれるのに。
「……フィロ? どうかした?」
カミラがそう尋ねると、フィロメーナはじっとこちらに視線を注いできた。
その瞳が揺れている。追い詰められて逃げ場を失くした子供みたいに。
けれどフィロメーナはほどなく笑って、何でもないわ、と短く告げた。
「本当に、何でもないの」
まるで自分に言い聞かせるように。