267.それでも君が笑うから
瞬間、マリステアは息が整うのも待たず、目の前の扉をぶち開けた。
「ティノさま!」
呼吸を弾ませたまま彼の名を呼び、押し開かれた扉がばーん!と盛大な悲鳴を上げるのも気にせず室内へと踏み込んでいく。
その刹那、突然の騒音に驚いたティノが窓辺でびくりと跳ねるのをマリステアは見た。石の壁を刳り抜いただけの四角い窓に浅く腰かけ、外を眺めていたらしい彼は呆気に取られた様子でこちらを振り向いてくる。
「ま……マリー? どうかしたの──」
と半ば上擦った声でティノが尋ねてくるのを聞きながら、マリステアはつかつかと歩み寄った。目を丸くしたままのティノはまったく展開についていけないといった顔色で、無防備にマリステアを眺めている。
そんな彼の様子がただ、ただ愛しくて──気づけばマリステアは泣きそうになりながら、思いきり彼を抱き寄せていた。腕の中に収まったティノの口から「は、」と呼気のような何かが零れた気がしたが構わず、力の限り抱き締める。
「ちょ……ま、マリー……!? いきなり何を……!」
ぎゅうぎゅうと自らを締めつけるマリステアの腕の中で、ティノはようやく我に返ったのだろう。彼はたちまち全身を硬直させながらも辛うじて身をよじり、マリステアの腕から逃れようとした。だから、
「──お傍におります」
「えっ?」
「マリステアは今までもこれからも、変わらずティノさまのお傍におります。たとえティノさまがどこへ行かれようと、何を目指されようと……マリステアはずっと、ここにおります」
ただそれだけはどうしても伝えておきたくて、声が震えそうになるのを懸命にこらえながらマリステアは告げた。すると取り乱していたティノが急に大人しくなり、ほどなく体から力が抜けていくのが分かる。
──ちゃんと通じたかしら。通じているといい。
マリステアはティノの頭を撫でるように手をやりながら願った。
だって彼はまだこんなにも温かい。人肌の温かさだ。たとえ半分は既に神のものでも、もう半分はちゃんとティノのままでここにある。
──わたしが守らなくちゃ。そう誓ったもの。
十年前、敵に囲まれたヴィンツェンツィオ家の屋敷から逃げ出したとき。
確かに託されたティノの小さな手を引いて──この手を絶対に放さないと。
「……ティノさま。わたしは」
ところが続けてそう言葉を継ごうとした刹那。
マリステアは突然自分を抱き返してくる力を感じて、思わずはっと顔を上げた。
ティノ。気づけば彼もマリステアの背中に手を回し、予想外の力で抱き締めてくる。けれど妙だ。マリステアの知るティノはこれほど逞しかっただろうか?
驚きのあまり、マリステアはとっさにティノから離れようとした。
されど今度はティノの方が力いっぱいマリステアを抱き竦め、放してくれない。
「ティ、ティノさま?」
「……ごめん。でも、もう少しだけ」
マリステアの肩に額をうずめたティノの声は、微かにくぐもって聞こえた。
彼はまるでそこにマリステアがいることを確かめるかのように、縋るような力でメイド服の後ろ裑を掴んでくる。
「ちゃんと覚えておきたいんだ。君の声も、かたちも、ぬくもりも……」
「……はい」
そんな風に言われたら、マリステアも拒むわけにはいかない。むしろ自分もティノの存在をもう一度心に刻みつけたくて、改めてティノを抱き締めた。
先程までティノが佇んでいた窓辺から、見る者の胸を焦がすような茜色が差し込んでいる。マリステアがその美しさに目を奪われた瞬間、不意にティノがふっと小さく肩を揺らした。どうやら彼は笑ったようだ。
「……ダメだな。ちゃんと見送ろうってあれほど言い聞かせたのに、まったく本当に、僕ってやつは……」
「……ティノさま?」
「マリー」
「はい」
相変わらず顔をうずめたままのティノの表情は分からなかったが、彼はマリステアに何か伝えようとしている様子だった。しかしなかなか次に続く言葉はなく、やがて静かに顔を上げると、彼はようやくマリステアから体を離す。
「……ありがとう。おかげで少し落ち着いたよ」
「本当ですか?」
「うん……だけど困ったことになった」
「困ったこと?」
「そう。僕も年が明ければ十六になるし、そろそろ自立しなくちゃと思ってたんだけど……どうやらまだ当分は、君なしじゃ生きていけないみたいだ」
夕日の中で首を傾げ、微苦笑してみせたティノの姿が刹那、マリステアにはひどく輝いて見えた。そんな彼を縁取る光の輪郭が不意に滲むのを自覚しながら、叫ぶようにマリステアは思う。
──わたしもです。わたしもティノさまなしでは生きられません。
だから。だからこそ。
「ティノさま」
「うん?」
「ティノさまが望まれる限り、マリステアはマリステアのままでいます。ですからもし道に迷われたら、いつでも名前を呼んで下さい。ティノさまが今日まで何度もそうして下さったように……今度はわたしがティノさまの手を引いて、陽の下へお連れしますから」
今にも零れそうになる涙を笑顔に変えて、マリステアも微笑んだ。果たして自分は日の当たる場所まで上手にティノを連れ出せるのか、自信はあまりないけれど──十年前の自分にはできたのだから、今の自分にもできないわけがない。
だったら多少へたくそでも不恰好でもいい。大切なのはこの手を決して放さないこと。そう思いながら唯一まだつながったままの右手に目を落としたら、ティノが不意にその手を持ち上げた。そうして彼はキスをする。
水刻が刻まれたマリステアの手の甲に、騎士が誓いを立てるように。
「なら、僕ももう一度誓おう。マリー。傍にいるよ。僕が僕である限り、ずっと君の傍に……」
──ああ。ずっとその言葉が聞きたかった。
いつからか彼が遠くへ行ってしまうように感じて、不安で不安でたまらなかったから。けれどティノは約束してくれた。ならば自分も彼を裏切らない。
必ず見つけ出してみせる。
いつの日か残酷な運命から、ティノを救い出す方法を。
◯ ● ◯
ポンテ・ピアット城の西門から一斉に飛び立っていく飛空船を、カミラたちは城内から見送った。派遣軍として黄皇国に留まる総司令官のデュランと彼の副官テレシアは、救世軍旗はためく城塔の上に立ち、去り行く仲間に敬礼を送っている。
救世軍のポンテ・ピアット城制圧からひと月あまり。黄都守護隊との交戦以来、戦況は長く膠着状態に陥っていたが、いよいよ動き出すときが来た。
てっきり黄皇国軍が攻め寄せてくるのを追い返す戦になると思っていたのに、こちらから攻勢をかけることになるとはいささか意外だったものの、一刻も早く救世軍と獣人居住区の安全を確保できるのなら何でもいい。
カミラとしてもいつ敵が攻めてくるのかとヤキモキしながらただ待つよりは、自分から打って出る方が性に合っているから正直〝助かった〟と思ったくらいだ。
「はあ、ほんとに行っちゃった……せっかく軍の飛空船が駆けつけてくれたのに、結局一隻残らず帰しちゃうなんてねー。もったいないというか何と言うか……」
「仕方ないわよ、エレツエル神領国に余計な横槍を入れられないようにするためだもの。だけどメイベル、本当によかったの? せっかく国もとに帰れるチャンスだったのに」
「確かに一度マドレーン先生のとこに顔出したいなーとは思ってたけど、救世軍がこんな状況なのに、あたしだけのんきに里帰りしてるわけにもいかないでしょ? 別に飛空船に乗らなくたって連合国には帰れるし、先生にも手紙を届けてもらうようにお願いしといたから大丈夫。ていうかカミラは人の心配より自分の心配をしてなさいよね、病み上がりなんだから!」
と薄紫色の眉を吊り上げてぷんすかしているメイベルに、カミラは苦笑しながら「はいはい……」と気のない答えを返した。何を隠そうカミラはつい昨日まで医務室に軟禁されていて、本来ならもうしばらく静養が必要との診断が下されているのだから、メイベルが神経を尖らせるのも無理はない。まあ、とは言え彼女を含めたほとんどの仲間たちが、カミラが昨日まで寝込んでいた理由を風邪と信じ込んでいるのが不幸中の幸いだった。実は不調の原因が心因性の摂食障害と衰弱だなんて知られようものなら、メイベルたちまで倒れる騒ぎになっていたかもしれない。
「いいか、貴様の戦場への出動を許す条件は三つだ。ひとつは俺が処方する薬を毎日朝晩、たとえ死んでも服用すること。もうひとつは行軍中も可能な限り食事と休養を取り、少しでも無理だと感じたなら即座に戦線を離脱すること。そして最後はいかなる戦況に陥ろうとも、決して星刻を使用しないこと。これは今の貴様がその神刻の力を用いれば、どのような反作用が起きるか予測がつかないからだ。この三つの条件を必ず守ると真実の神に誓いを立てた場合のみ出陣を許可してやる。守れないと言うのなら今ここで貴様の静脈に麻酔を打ち込み、五体の自由を奪うのみだ。さあ、どうする?」
カミラがラファレイからそんな脅迫まがいの選択を迫られたのは昨日、軍議で言い渡された決定をイークが伝えに来てくれた直後のこと。
とても医者とは思えぬラファレイの恫喝に恐れおののきながらも、カミラは結局、エメットに誓いを立てて味方の陣列に加わる選択をした。
理由は言わずもがな、医務室に閉じ込められたまま皆の帰りをただ待つなんて自分には無理だと思ったからだ。パウラ地方の偵察から戻った直後はふらふらだった体も、数日間の安静とラファレイの治療で驚くほど回復していたし、これならどうにかなると思えた。万全の状態にはまだほど遠いものの、少なくとも皆の足を引っ張ることはない、と言えるくらいにはマシになったのだ。
それもこれもラファレイの適切な治療とラフィの献身的な看護──そしてカミラが体調を崩したと知るや、代わる代わる見舞いに詰めかけてくれた仲間たちのおかげだった。誰もがみんな城での役割を与えられ、目の回るような忙しさだというのに、彼らはわずかな時間を見つけては医務室に顔を出し、カミラの容態を案じてくれた。傍にいてくれた。笑わせてくれた。
兄を敵に回したと知ったときには、自分はもう二度と笑えないかもしれないと思ったのに。気づけばカミラは、次から次へ顔を見せにやってくる仲間と言葉を交わすうち、笑えるようになっていた。無理に笑おうとしなくとも、ふと我に返るたび、仲間につられて笑っている自分に気がついた。だから。
(だから、なおさら──いつまでも寝込んでなんかいられないわ)
味方の出陣を告げる角笛が鳴っている。合図を聞いた騎馬隊の馬たちが勇み立ち、カミラも嘶く愛馬の首筋に手を当てた。
イークから伝えられた作戦はこうだ。救世軍は毒の森の真ん中に陣取ったマティルダ・オルキデア率いる中央第六軍本隊を無視し、敵本拠地であるトラクア城を強襲する。マティルダがそれを知って森から打って出てくるならばよし。
出てこないのであれば、救世軍はそのままトラクア城へ雪崩れ込む。
というのもトリエステの調べによれば、現在トラクア城を守っているのは五千の守兵のみで、城主のマティルダも不在の今は攻め込むには絶好の機会らしかった。
何しろトラクア城は平時なら一万を超える精鋭が詰めている堅城で、こんな風に守りが手薄なときでなければ攻め入るのは難しい。救世軍も八千ある兵力のうち、三千はポンテ・ピアット城の守りに残していかなければならないが、実働兵力が五千でもやりようによっては充分敵城を落とせるはずだという。
「飛空船を連合国へ帰しても、こっちには手持ちの神術砲と空を飛ぶ猫人の騎士団がある。神術砲の砲撃で城兵を釘づけにしてる間に、猫人たちが城壁を飛び越えて城門を開けちまえばさっさと城を乗っ取れる……ってのがトリエステの目算だそうだ。もちろん敵も俺たちの目的がトラクア城の攻略だと分かれば、ソルン城を出撃して挟撃をかけてくる可能性があるから、それに備えて伏兵も配備しておく。敵の抵抗が想定以上に激しかった場合は苦しい状況になるが、まあ、いざとなったらトリエステが秘策を用意してるらしい……どんな秘策なのかは最後まで明かそうとしなかったがな」
とは昨日のイークの言だ。確かにトリエステの描いた絵図どおりにことが運べば、今回の攻城戦はオヴェスト城の戦いほど厳しいものにはならないはず。
何しろマティルダは連合国の飛空船を警戒するあまり、投石機や弩砲といった対空兵器のほとんどをソルン城に運び込んでしまっている。ということは、トラクア城には空からの敵を防ぐ手立てが残されていないということだった。
枝城の守りを固めすぎて本城の守備が手薄になるとは何ともお間抜けな話だが、マティルダのその失態はすなわち、救世軍がソルン城を無視していきなりトラクア城を攻めるとは想定していないという敵の油断の表れでもある。ソルン城の真横を通過してトラクア城へ直行するということは、イークが言っていたとおり「どうぞ挟撃して下さい」と言っているようなものだから、黄都守護隊に大敗を喫したばかりの救世軍がそんな無謀な賭けに出るとは敵も考えていないのかもしれない。
(〝其の無備を攻め、其の不意に出ず〟……ね)
いつかフィロメーナに習ったエディアエル兵書の一節を胸中で諳じながら、カミラもいよいよエカトルの背に跨がった。先日の戦闘で軍令違反を犯したカミラとイークは罰として当面の間、味方の先鋒を受け持つことになっている。
ゆえにイーク隊が進発したら次はカミラだ。黄都守護隊との戦闘で五十人足らずまで減ってしまったカミラ隊は、コルノ島から駆けつけてくれた味方を取り込んで再編され、百騎の騎馬隊となった。もとはイーク隊となった兵も合わせて五百人の隊士がいたのに、コルノ島を発った直後の軍容と比べるとまったく見る影もない。
それでも、生きてさえいれば立ち上がれる。
何度だって、この救世軍がいる限り。
「ほんとに気をつけてね、カミラ。ラファレイ先生も言ってたけど、絶対無理しちゃダメだよ! オヴェスト城のときの二の舞は本当にごめんだから!」
「分かってるわよ、メイベル。そっちこそ、敵がポンテ・ピアット城に押し寄せてこないとも限らないんだから気をつけて──」
「まーまー、そこはオレに任せちゃってよ、メイベルちゃん。カミラ隊の副隊長として隊長はオレが守り切ってみせるからさ? 我が命に代えても、みたいな?」
ところが見送りにきてくれたメイベルと一別の挨拶を交わそうと思ったら、いきなり邪魔が入ってカミラは眉を寄せた。
半眼になって振り向いた先には馬上で前髪をファサァッとやる仕草をしたカイルがいる。革の額当てをしているせいで、今は前髪が全部上がっているくせに。
「カイル……まあ、確かにあんたのカミラへの執着心は認めるけど……まずは自分の身の安全を第一にね。というかカミラの足を引っ張らないでね?」
「ぐはっ! ひどいな~、メイベルちゃん! オレってそこまで信用ないわけ? やっとトリエさんにも一人前の益荒男と認められて副隊長まで昇進したのに? オレのこのレベルアップした猛々しいオーラが伝わんないかな? 女の子には?」
「少なくともトリエステさんはあまりのしつこさに折れただけだと思うし、益荒男なんてカイルの人生とは対極にある言葉だから気安く口にするのは慎んだ方がいいと思うよ?」
「毒舌ッ! マリーさんだけでなくついにメイベルちゃんまで!? みんなどこでそんな毒舌を学んじゃったの!? なんならオレもカワイイ女の子たちと一緒にワイワイ学びたかったよ!?」
「別に誰かから教わったわけじゃないけど……なんでだろうね、カイルと喋ってると不思議と心の奥底から言うべき言葉が溢れてくるの。もしかしたらこれが神さまの啓示ってやつなのかも。ほら、あたし、天授児だから。あはっ」
「ああっ、その可憐な笑顔の破壊力! 文字どおりオレのハートがブレイク寸前だよ!? 戦の前にオレの身も心も燃え尽きちゃうよ……!?」
と隣でまたも意味不明なことを喚いているカイルに、カミラは嘆息をついて額を押さえた。というのも彼はカミラが偵察任務から戻った直後からこうなのだ。
前にも増してやかましくなったというか、鬱陶しくなったというか……何か吹っ切れたように見える、というか。
カミラが不在の間、城に残っていた彼に何があったのかは分からない。何かあったの、と尋ねても、何にも、と嬉しそうに笑うだけでカイルは何も答えなかった。
答えたくないならカミラも無理に聞き出そうとは思わないが、しかし何のきっかけもなしにあのトリエステがカイルの副隊長任命を認めるとも思えない。実はカミラの隊は長らく副隊長が不在で、騎馬隊を設立したての頃に軍馬の調教役だったカイルを推薦してみたこともあったのだが、トリエステにはにべもなく却下された。
カイルよりも優秀な人材なら掃いて捨てるほどいるのだからそちらから選んではどうかとやんわり勧められ、以来カミラはずっとこの問題を棚上げしてきたのだ。
理由はトリエステの言うとおり、確かにカイルよりも優秀な人材は隊内にたくさんいたけれど、カイル以上に気を遣わなくていい相手は見つからなかったから。
だったら副隊長なんてそもそも置かなければいいと思って、つい先日まで隊務はすべてカミラひとりでこなしていた。
いざというときに腹を割って話せる相手でなければ、どんなに優秀な人材でも結局は上手くいかないような気がして、選ぶのが億劫だった。
でもいざ偵察任務から帰ってきたら突然、カイルを副隊長に据えてもいいとトリエステからお達しがあったのだ。
あんなに頑なにカイルを拒絶していたトリエステが急に心変わりするなんて、そんな天変地異にも匹敵する現象が何の前触れもなく起こり得るはずがないし、だとするとやはりカミラが知らないところで何かしらの事件があったのだろうと思う。
だけどまあ、結果はよい方に転がったようで、カイルがやたらと満たされたように笑うから、じゃあいっか、とカミラも敢えて穿鑿しないことにした。
話を聞こうが聞くまいが、自分とカイルの関係はたぶん今までと変わらない。
だったら聞いても聞かなくてもいい。
そういう風に思える相手だからこそ、カミラはカイルを副官に推した。
変に気を遣う必要もないし遣われることもない彼との絶妙な関係は、きっとこれからカミラを大いに助けてくれるだろう……その前に〝必要最低限のこと以外は喋らない〟というスキルを、文字どおり体に叩き込む必要はありそうだけど。
「……あ」
ところが早速カイルの耳を掴んで黙らせようとした矢先、カミラは視界の端に兵を指揮する黒い人影を見た。見間違えるはずもない。ヴィルヘルムだ。
皆が代わる代わる見舞いに来てくれた数日間、唯一カミラの前に姿を現さなかった男。ひと月ぶりに見るヴィルヘルムは別れる前と何も変わっていなくて、目に見える変化と言えば少し髪が伸びたように思えるくらいだった。
確か彼はトラクア城へ向かう道中で、味方の陣列を離れて兵を埋伏させる役割を与えられていたはずだ。マティルダ・オルキデアが救世軍の背後を狙って出撃してきた際、たった一隊で行く手を阻み、味方のために時間を稼ぐ危険な役目。
もちろんヴィルヘルムならそんな難しい任務も難なくこなしてしまうのだろうけど──刹那、カミラはきゅっと唇を結んで心を決めた。そうして悲鳴を上げているカイルの耳を放し、ただ一騎、戛々とヴィルヘルムへ近づいていく。出陣を間近に控え、隊列を組んで蠢く隊を見守る彼の背に意を決して声をかけた。
「ヴィル」
人馬の立てる足音の狭間に、ほんの微か震えたカミラの呼び声が頼りなく響く。
けれどヴィルヘルムは確かにその声を拾って、馬上からカミラを振り向いた。
「さ……先に行って、待ってるから。気をつけてね」
まあ、第一級傭兵様なら何も心配要らないと思うけど。
内心そう付け足しながら、カミラは目を泳がせた。
他にも言うべきことはたくさんあるはずなのに……今はそれ以上の言葉が出てこない。ばか。分かってるでしょ、カミラ。彼に今、一番に伝えるべきことは。
ありがとう、と、ごめんなさい、を──
「カイル」
瞬間、触れられたら爆発しそうなくらい膨らんだ気まずさを抱えるカミラを飛び越して、ヴィルヘルムの声がカイルを呼んだ。
「ジェロディとトリエステはお前を認めたようだがな。悪いが俺はこれまでどおり容赦しない。カミラに万一のことがあったら、命はないと思え」
「だから言ってるだろ、〝命に代えても〟ってさ」
すぐ後ろで、カイルがちょっと戯けながら肩を竦めた気配があった。
ヴィルヘルムは何も言わない。ただ最後にカイルへ──否、あるいはカミラに一瞥をくれて、ほんのわずかに口の端を持ち上げたようだ。
「……じゃ、私たちもそろそろ行きましょうか」
つられて自分まで口もとがゆるむのを感じながら、カミラも馬首を返した。
百騎の騎馬が整然と背後に続く。
カミラ隊の進発を告げる二度目の角笛が鳴った。
開け放たれた城門を正面に見据えて馬腹を蹴る。
鎖でつながれた跳ね橋を渡り、カミラは原野へ駆け出した。吹き荒ぶ北風は身を切るように冷たいけれど、今ならどこまででも走っていけるような気がする。




