266.彼のためにできること
東門の方角から時神の刻(十五時)を告げる鉦の音が聞こえ始めた。
黄皇国軍の城だった頃はどうだったのか知らないが、救世軍がポンテ・ピアット城を制圧してから、ここでは一刻(一時間)置きに現在の時刻を知らせる鉦が鳴らされることになっている。本来は有事の際の警鉦として備えつけられたのであろう鉦の音がゆっくりと十五回鳴らされるのを数えながら、マリステアはふと空を見上げた。見惚れるほど見事な羊雲が広がる秋空にはいつの間にか西日が強く射し始め、太陽はもうじき西の城壁の向こうへ隠れようとしている。結局今日も兵士たちの衣類や兵舎のリネン類を洗っている間に一日が終わってしまった。
屋外に設けられた野戦厨房では既に夕食の支度が始められているはずだ。
いま抱えている洗濯物を干し終わったら次はそっちを手伝いに行かなくちゃ……と頭の片隅で考えながら、マリステアは山盛りの洗濯物が入った洗濯桶をもう一度抱え直した。コルノ島からの援軍と一緒に駆けつけてくれた女中たちは、どこもかしこも手が足りなくて大忙しだ。何しろコルノ城よりも少ない人数で八千もの軍隊の身の回りの世話を焼かなければならないのだから、救世軍の炊事洗濯を一手に担うマリステアたちにとっては、戦闘のない平時こそが本当の戦争だった。
(ティノさまはそろそろお戻りになられたかしら?)
と、脳内でこのあとの予定を整理しつつ、マリステアは作戦本部へ行ったはずのティノの現在に思いを馳せる。
彼は昼食のあとすぐにトリエステらと次の作戦を決める話し合いがあると言って、兵舎の最上階に与えられた部屋を慌ただしく出ていった。
とは言えあれからもう四刻(四時間)は経っているし、さすがに話し合いもひと段落している頃だろうと思う。であるならば夕食の配膳を手伝いに行く前に、少し遅めの午後の香茶をティノに届けに行こうとマリステアは考えた。
というのもここ最近、マリステアの目にはティノが憔悴しきっているように見えて仕方がないのだ。皆の前ではいつもどおりに振る舞っているものの、ふっと仲間の輪からはずれると、彼の横顔には決まって暗い影が射した。
理由は言われなくても分かっている。カイルを裏で操っていたジェイクという名の怪しい男。彼とバンボラ村で再会し、クアルト遺跡調査任務の真実を知らされてからというもの、ティノは人知れず悩み苦しんでいる様子だった。
(……無理もないわ。だってティノさまがハイムの神子になられたのも、救世軍の総帥になられたのも、何もかも全部仕組まれていたことだった、なんて……ティノさまは今日まであんなに悩んで、苦しんで、それでもご自分が正しいと信じる道を選ばれてきたのに……)
その正しささえも、初めから彼の目にそう映るよう仕組まれていたなんて。
マリステアは真実を知ったティノの深い絶望を思うと、苦しくて苦しくて胸が詰まりそうだった。結局あのジェイクという男は本当にロクサーナやトビアスの旧知であったことが判明し、彼らの弁護もあって今はこの城に滞在している。
救世軍をあらゆる脅威から守る立場にあるトリエステや、長らく彼に利用されてきたカイルなどは未だに不信感を隠そうとしないものの、ジェイクがバンボラ村で語った話が真実であることは真実の神子が証明してくれた。
何しろ彼女の目には人間のつく嘘がすべて見えるそうだから。
(だけどティノさまも、ターシャさんも……神子さまのお力というのは本当に人智を超えていらっしゃる。あんな力を見せられたら、みんなが神子さまを頼りたくなるのは当然だわ。わたしだって、エマニュエルが一日も早く争いのない世界になってくれたらどんなにいいかと思ってる。《新世界》が実現すればもう誰も戦いで傷ついたり、失ったりせずに済む……でも、そのためにはティノさまが……)
彼やターシャやロクサーナ──正しい人間として神々に選ばれた彼らは人類を《新世界》へ導き、そして最後には恒久の平和を支える人柱として神々に身を捧げなければならない。歓喜と幸福に満ち溢れた世界の実現に誰よりも貢献しながら、彼らがそこに辿り着くことは決してないのだ。だって《新世界》の扉が開かれるとき、彼らは存在を神に譲り、ひっそりと消えてしまうのだから。
けれどティノは……彼は自ら望んで神子になったわけではない。嵌められたのだ。大神刻がルシーンの手に渡ることを好ましく思わなかった者たちに。
もちろんマリステアだって、魔界の手先であるルシーンが大神刻を手にしていたらと思うとぞっとする。
そんなことは絶対にあってはいけないことだと思うし、そのためにはハイムに選ばれたティノの存在がどうしても必要だったのだと理解しているつもりでいた。
でも。
でも、だからと言ってティノが大人しく神子としての運命に従い、世界のために消滅してしまうことも受け入れられるかと言われたら話は別だ。彼自身が望んで選び取ったことならまだしも、他者の思惑に乗せられて神子という大役を押しつけられた彼が、どうしてそこまで己を犠牲にしなければならないのか。
マリステアはそれが納得できない。そうした不条理の中にあってなおティノは神子として……救世軍の総帥としての役割を果たそうと力を尽くしているけれど。
今の彼を見ていると、マリステアは手を引いてここから逃げ出したくなる。もう頑張らなくていいんですよ、神子の使命なんて放り出してしまえばいいんですよと、悪魔のように囁きたくなる。だって彼の苦しむ姿を見ていられないのだ。
そして何よりも、ティノが世界から消えてしまうのを黙って見ているしかない現実を受け入れられそうになかった。
けれど、だからと言って何ができる?
ティノの代わりに神子の役目を引き受けるか?
彼が連れて行かれないよう《新世界》の到来を拒み、神々に刃向かうか?
どれだけ思いを巡らせようと、結局現実の自分は無力だ。
できることなんて何もない。今の自分はあれも嫌だ、これも嫌だと駄々をこねるだけの子供のようで、みじめさのあまり涙が出そうだった。
──ティノさまがあんなにも苦しんでおられるのに。
結局わたしはただそれを見ているだけ。
あの方が神に手を引かれて遠ざかってゆくのを、指を咥えて見送るだけ……。
約束したのに。アンジェさまに……ガルテリオさまにお誓いしたのに。
たとえどんな苦難が待ち受けていようとも、決してティノさまのお傍を離れない。ふたりに代わって彼を守り、絶対に幸せにしてみせる、と──
「うわっ……!?」
「えっ……!?」
ところが刹那、マリステアは己の足もとから聞こえた悲鳴にぎょっとした。溢れそうになる感情をこらえるべく、ぎゅうっと力いっぱい洗濯桶を抱き締めて目を閉じた矢先のことだ。瞬間、マリステアは何かに蹴躓き、あっと思う間もなく体勢を失った。ぐらりと天地が逆しまになり、抱えていた洗濯桶ごと盛大に転倒する。
次に気がついたとき、マリステアは石畳の地面に倒れ伏し、何かを下敷きにしていた。はっとして身を起こせばそこには洗いたてのリネンの山に押し潰され、さながら厄払の日のお化けみたいになっている人物がいる。
両腕を広げて仰向けに倒れ、ぴくりとも動かないその人物は、洗濯物の下から覗くリードグレーの祭服と胸もとに刺繍された白い《六枝の燭台》を見る限り──ロクサーナの付き人をしている光神真教会の特別宣教師トビアスだった。
お化けの正体に気づいたマリステアは「ひぃっ」と戦慄するや否や、慌てて洗濯物の山を掻き分ける。
「とっ、トビアスさま!? だだだだ大丈夫ですか……!?」
悲鳴と共にトビアスを掘り当てたマリステアの傍らでは、サルモーネ川から城内に引かれた水路がさらさらと涼やかな音色を奏でていた。
どうやらマリステアはそこに架かる橋の上で座り込んでいたトビアスに気づかず、うっかり蹴倒したあげく転んで下敷きにしてしまったようだ。
わたしとしたことが神の血を受けた血飲み子さまになんてことを! とマリステアが真っ青な顔で震えていると、ほどなくトビアスがうめきながら身を起こした。
よかった、とりあえず打ちどころが悪くて死……という最悪の事態はどうにか免れたらしい。マリステアが倒れた直後のゴンッという音を回想する限り、かなりしたたかに後頭部を打ちつけた様子ではあるけれども。
「う、うぅ……こ、ここは……私は一体何を……」
「お、お気を確かになさって下さい! ここはポンテ・ピアット城で、あなたは宣教師のトビアスさまですよ……!? す、すみません、わたしがうっかりトビアスさまを下敷きにしてしまったせいで……」
「あ、ああ……何が起きたのかと思えばマリステアさんでしたか。いやぁ、私の方こそぼーっとしていて申し訳ない。ですが誰かの下敷きになるのには慣れていますので、どうぞご心配なく」
「えっ……と、トビアスさまは慣れてしまわれるほど何度も人の下敷きになっておられるのですか……?」
「ええ、昔は人どころか修道院で飼っていた羊にすらよく蹴飛ばされてのしかかられていましたから、あれに比べたら人が転ぶのに巻き込まれるくらいかわいいものですよ、ははははははははは」
「い、いえ、あの……な、何やらおつらい記憶を思い出させてしまって申し訳ありません……! お、お怪我はありませんよね……!?」
トビアスが生気を失った顔色でカタカタと笑い出すのを目撃したマリステアは、とにかく己の非礼を陳謝した。修道院の羊にすら足蹴にされるって何をどうすればそうなるんだろうという疑問は喉まで出かかっているものの、どうもこの話題は彼の心の古傷を抉ってしまう予感しかしないので、永久に封印することにする。
「と、ところでトビアスさまはこちらで何を……? しゃがみ込まれていたところを見ると探しものですか? あっ、もしくはどこかお具合でも悪いとか……!?」
「い、いえいえ、どちらも違いますよ。ただロクサーナに〝しばらくひとりにしてほしい〟と頼まれてしまって、行く宛もなくここで暇を潰していたんです。水の流れる音を聞いているといくらか気がまぎれますから……と、そんなことより私のせいで洗濯物が大変なことになってしまいましたね。これ、たったいま洗ってきたばかりなのではありませんか?」
「え? あ、そ、そう言えば……で、ですが大丈夫です! 幸いここにも水路がありますし、地面に落とした程度なら軽く濯げば……」
「だとしてもこの時期の水は冷たいでしょう。すみません、私も手伝いますので急いで拾い集めましょう」
「い、いえ、本当に大丈夫ですから! 神子さまのお付きの方にそのような雑用をさせるわけには……!」
「ははは、そう言うマリステアさんだって〝神子さまのお付きの方〟じゃありませんか。私もこう見えて修道士時代には掃除洗濯を自前で済ませていたので平気ですよ。院での生活は基本的に自給自足が大前提ですからね」
ゆるやかな弓形を描く橋の上で、祭服と同じ色の平たい祭帽を拾い上げたトビアスは、それを頭に乗せながらにこりと笑った。そこまで言われてはマリステアも断れず、恐縮しきりながらも彼の手を借りて洗濯物を洗い直すことにする。
ひとまず散らばった洗濯物を大急ぎで集めたふたりは橋の袂へ移動し、水路の水で一枚ずつ濯ぎ始めた。
トビアスの言うとおり、川から直接引かれている水は指先がかじかむほど冷たかったけれど、長年メイドをしているとこんなのはもう慣れっこだ。
ヴィンツェンツィオ屋敷にはいつも必要最低限の数のメイドしかいなかったから、使用人の仕事は専任制ではなく持ち回りだった。おかげでマリステアは孤児でありながら生きていくために必要な家事をひととおりこなせるようになったわけで、あの屋敷に住まわせてくれたガルテリオには今もずっと感謝している。
「しかし人生というのはほとほと数奇なものですね。まさか十年前、オヴェスト城で何度も私に紙芝居をせがんできた女の子と肩を並べて洗濯する日が来るとは思いませんでしたよ。まあ、そもそも自分が血飲み子になってこの歳まで世界中を旅するだなんて、院を出たばかりの頃には想像もしていなかったわけですが……」
と並んで洗濯物をゆすぎながら、ときにトビアスが苦笑と共にそう言った。ちょうど濯ぎ終わった誰かの肌着を搾っていたマリステアは、可能な限り水気を切ったそれを広げて洗濯桶に戻しながら、まじまじとトビアスの横顔を眺めてしまう。
「あの……前から気になっていたのですけど、トビアスさまって今、おいくつでいらっしゃるのですか? 正黄戦争の頃からまったくお姿が変わらないので、未だにお歳が分からなくて」
「私でしたら来年で三十七になりますよ。ロクサーナから授血したのが十七のときですから、血飲み子になってちょうど二十年が経ちますね」
「さ……さんじゅうななさい……!?」
「見えませんか?」
「え、ええ、まったく……十七歳でロクサーナさまの血を授けられたということは、トビアスさまのお姿は当時から変わっていないということですよね」
「そういうことになりますね。唯一髪の色と目の色だけは変わりましたが、髪の方はこのとおりもとの色に染めていますし……おかげでジャックに散々苦言を呈されましたよ。〝いい歳したオッサンがいつまでもガキのふりをしやがって〟とか何とか……八年ぶりの再会だというのに、まったくひどい話ですよね」
と言って濯いだばかりの洗濯物を改めながら、トビアスはさらに苦笑を深めた。
が、次の衣類に手を伸ばしかけていたマリステアは、彼の唇から零れた男の名に図らずもぴくりと手を止める。
彼の言う〝ジャック〟とは言わずもがな、元黄臣のジェイクのことだった。
彼はトビアスやロクサーナの前では〝ジャック〟と名乗っていたらしく、ゆえにふたりは今もその名であの男を呼んでいる。対するジェイクもふたりとはよほど親しい付き合いだったのか、神子にもまったく遠慮というものをしないし、トビアスのことは当然のように〝トビー〟と愛称で呼んでいた。
聞けば十七ヶ月前、旧救世軍が起こしたジェッソ騒動を受けて黄都へ向かったロクサーナとトビアスが、黄帝に門前払いされて頼った先が他ならぬジェイクだったのだという。つまり彼らはそれだけ強い信頼関係で結ばれているということだ。
もっともトビアスたちが訪ねる頃には、ジェイクも既に隠遁先を離れて反ルシーン派のために暗躍していたからふたりは彼との再会を果たせず、そうこうしているうちに黄皇国軍に捕まってフォルテッツァ大監獄へ送られてしまったらしいが。
「ですが、正直……マリステアさんたちが彼を連れてきてくれて助かりましたよ。ジャックは皮肉屋で愚痴っぽいところを除けばとても頼りになりますし、何よりロクサーナと私のことを世界で一番理解してくれている人物ですから」
「世界で一番、ですか?」
「ええ。ジャックはロクサーナと私が出逢ったときも、私がロクサーナの血を授かったときも偶然傍に居合わせたんです。ですから……もしかしたら今の彼なら私以上に、ロクサーナのよき理解者になってくれるのではないかと」
「ジェイ……ジャックさんが、血飲み子であるトビアスさまよりも?」
「不思議に聞こえるかもしれませんが、血飲み子は主人である神子と五感や精神を共有しているからこそ、存在が重荷となってしまうことが多々あるのですよ。一応神子が拒めば五感の共有は遮断できますし、互いの〝声〟も聞こえなくなりますが……そうは言っても血を分けた以上、血飲み子とは死ぬまで離れられないわけですから。そうして十年、二十年と連れ添っていると、互いを知りすぎているがゆえに話せないことができてくる。ジャックはロクサーナのそういう部分を、こう、うまく聞き出してくれるんです。不甲斐ない私に代わって……」
言いながらトビアスが水に浸けた洗濯物へ注ぐ眼差しは、すぐ手もとを見ているようでいて、もっと遠いどこかを見つめているような気がした。マリステアはそんなトビアスの横顔に視線と意識を吸い寄せられ、思わず作業の手を止めてしまう。
「トビアスさま……もしかして、ロクサーナさまと何かあったのですか?」
「……いいえ、何も。ただ、数日前にロクサーナの《神蝕》が急に進行して……彼女はどうもそのせいで動揺しているようなんです。無理もありません。今まで六百年もの間、彼女は《神蝕》の症状とはほとんど無縁だったんですから」
「えっ……し、《神蝕》が急に進行したって、どうして……!?」
「理由は……ゆえあって、あまり詳しくはお話しできないのですが。彼女が珍しく〝ひとりにしてほしい〟なんて言い出したのもきっとそれが原因で……私はただ、彼女が望むまま部屋を出てくることしかできませんでした。もっと他にかけるべき言葉や、彼女のためにすべきことがあるはずなのに……恥ずかしながら、何も思いつかなくて」
トビアスを見つめたまま何も言えないでいるマリステアの沈黙を、水路のせせらぎが代わりに埋めてくれる。
けれどそんなものはきっと、トビアスにとっては何の慰めにもならなくて、彼にかけるべき言葉の持ち合わせがないマリステアはただ、ただ、同じだ、と思った。
「ダメですね、私がこんなだからロクサーナが思い悩んでいるというのに……ずっと昔からこうなんです。どんくさくて気が利かなくて、何をやってもうまくいかないおちこぼれ……けれどロクサーナは、そうして路頭に迷っていた私を人生のどん底から救い上げてくれました。出来損ないと笑われるばかりだった私を導き、生きる希望だけでなく神の血まで分け与えて下さった。だというのに、私は彼女に……この二十年、どれほどのものを返せたでしょう」
「……トビアスさま、」
「知ってのとおり、私は天界の神々に仕える神僕です。ですからロクサーナの《神蝕》が進んだことを……主神の再臨と《神々の目覚め》がまた一歩近づいたことを、本来ならば諸手を挙げて喜ばなければなりません。なのに、どうして私は恐れているのでしょう。私が彼女の血飲み子である限り、ロクサーナがロクサーナでなくなっていくさまを傍で見続けなければならない未来が怖い、だなんて」
そう言って、やはりトビアスはじっと水の中の洗濯物に目を落としている。
彼の手によって沈められ、流れに抗うこともできず、ただゆらゆらと凍えるような水の底をたゆたうだけの布切れに。
「……マリステアさんはどう思われますか?」
「え?」
「ジェロディくんがハイム神と同化しつつあることです。私の目には、彼はその運命をほとんど受け入れてしまっているように見えますが……幼い頃から彼のことを見守ってきたマリステアさんの目には、どのように映っているのかと思いまして」
「わ、わたしは……」
「ジェロディくんはまだお若くて、神子になったのもついこの間のことだというのに……恐ろしくはないのでしょうか。自分という存在が少しずつ神に蝕まれ、人ではなくなっていくことが」
「……分かりません。ティノさまもご自分のことはあまりお話して下さいませんので。でも、わたしも……ティノさまがどこかでハイムさまを受け入れる覚悟を決めてしまわれたような気がしていて、ずっとどうすればいいのか分からずにいます。本音を言えば〝行かないで〟と止めたいです。止めたくてたまりません。ですがそれは、あの方に置いていかれるのが耐えられないという単なるわたしのわがままで……そんなもののために世界中の人々が待ち望んでいる《新世界》の到来を拒んでいいのか、神々を否定してもいいのか……分からないんです。何よりわたしが引き止めれば引き止めるほど、ティノさまを苦しめてしまうような気がして……」
──だから、言えない。
〝行かないで〟。
たったひと言。マリステアがティノに本当に伝えたいのはそれだけだった。
けれどマリステアがどんなに引き止めたところでティノの運命は変えられない。
たとえ彼が人として生きることを望んだとしても、彼の右手に《命神刻》がある限り、いずれティノの存在は神に取って替わられてしまう。
かと言って大神刻はマリステアが右手に刻む水刻のようにつけたりはずしたりすることができないし、神の依代としての運命から脱したければ宿主が自らの命を断つ以外に道がないのが現状だ。つまりどう足掻いても逃れられない──そのさだめを呪いのようだと感じてしまうのは、あまりに冒涜が過ぎるだろうか。
「……そうですか。やはりマリステアさんも迷っておられたのですね。無理もありません。この世界の理の前では……我々はあまりに無力で矮小です。ですが私は、マリステアさんが抱えておられるお気持ちは決して非難されるべきものではないと思いますよ」
「そ、そう……でしょうか……」
「そうですとも。だって愛するひとを失いたくないと願うのは、人間ならば当然の感情でしょう? 創世記の記述によれば、我々が他者に抱く〝愛〟という感情は、世に人類が誕生したとき、神々が最初に与え給うたものなのだそうです。であるならばたとえ神であっても、ジェロディくんを想うあなたの心を否定することはできない──なんて、これは私の不信心を誤魔化すために考えた方便なのですがね」
最後にそうオチをつけて苦笑しながら、トビアスはついに溺れる洗濯物を引き上げた。途端に弾けた水音ではっと我に返ったマリステアは、既に世界が夕暮れの中にあることを知る。いつの間に日が暮れ始めたのだろう、頭上の空が透けるような橙色に染まっているのを見上げたマリステアは、トビアスとの間に未だ山のような洗濯物が残っているのを認めて慌てた。そうして急ぎ洗濯を再開しながら、しかしどうしても気になって、隣で同じ作業に勤しむトビアスに尋ねてみる。
「あの……トビアスさま。トビアスさまは、その……ろ、ロクサーナさまの血を授かったことを、後悔されていますか……?」
「後悔、ですか? そうですね……私の場合、自ら望んでロクサーナの血を享けたわけではないので、難しい問題ですが……」
「えっ……そ、そうなのですか? わたしはてっきり、トビアスさまもご自分の意思で血飲み子になられたのだとばかり……」
「はは、そうであればよかったのですが、私がロクサーナの血を授かったのは事故のようなもので……二十年前、西のルエダ・デラ・ラソ列侯国で死にかけた私を救うために彼女は血を分けてくれたのですよ。神子の血はそれを口にした者に一生離れられない呪いをかける代わりに、一度だけ死を遠ざける力を帯びていますから」
死を遠ざける力──というのはマリステアも過去に聞いたことがあった。
なんでも神子の碧血にはいかなる傷も病もたちどころに癒やす力があり、どんな死の淵からも口にした者を救い上げるのだという。
もっとも人智を越えた恩恵がもたらされるのはひとりにつき一度きりで、既に血を授かった者に再度与えても同じ効力は期待できない。
とは言えたったの一度でも人を死から救えるというのはとんでもない力だ。
以降は碧血の恩恵を受けられないとは言うものの、血飲み子になってしまえば神子と同じ不老の力が約束されるし、ある程度死ににくくなるとも聞いている。
神子ほどの不死性はないとは言え、多少の傷ならば常人よりも遥かに早く癒え、自然と病にも罹りにくい体になるという。トビアスはそうした恩恵を偶発的に受け取った、と言った。二十年前に起きた列侯国の内乱で戦闘に巻き込まれ、瀕死の重傷を負ったところをロクサーナの血に救われた、と。恐らく彼女は、目の前でトビアスが死にゆく現実を受け入れられなかったのだろう。だからとっさに血を与えた──その決断はきっと未来の自分を苛むだろうと知りながら。
「ロクサーナは過去にも血飲み子を持っていたのですが、いずれもひどい失い方をして……以来自分の行いを悔いたのか、血飲み子は二度と持たないと公言していました。だというのに彼女は、私みたいなおちこぼれを救うために自分を犠牲にして……そして今また苦しんでいる。自分が死んでいくさまを私に看取らせるのは忍びないとそう言って」
「……」
「確かに私はロクサーナがロクサーナでなくなっていくさまを見届けなければならないことが恐ろしいです。ですが今は、そんな私の弱さのために彼女を惑わせてしまっていることの方が苦しくて……あのときもしも意識があったなら、私はロクサーナの血を授かることを拒んでいたかもしれません。そう考えれば、私は彼女の血飲み子となったことを後悔している……と言えるのかもしれませんね」
「……」
「ですがロクサーナと共に生きた時間は、私にとって何ものにも代え難い宝物であることもまた事実ですから……少なくとも私は、彼女と歩んだ二十年を否定するつもりはありません。彼女を苦しめ続けるのは本意ではありませんが、それでも……出逢わなければよかったとは、思いたくありませんから」
空から降りてきた茜色が、まるで奇跡か何かのようにトビアスを照らしている。
水辺にしゃがみ込んだ彼を縁取る光の糸は、マリステアにはまぶしすぎた。
自分も彼と同じように、いつか胸を張って言えるだろうか。
ティノと出逢えてよかったと──彼を心から愛していると。
だから、
「まあ身も蓋もない言い方をすれば、経緯がどうあれ血飲み子になってしまった時点で、私は一生ロクサーナの傍を離れられない体になってしまったわけで……だったらオールの下僕として──いいえ、彼女の付き人として、ロクサーナがロクサーナでなくなる瞬間まで隣で手を握っていることが、唯一私にできることなのかもしれないと思っています。そうでも思わないとやってられないというか、どうせ逃げられないならそう思い込むしかないというか……」
「……トビアスさまは、お強いのですね」
「いえ、そんなことはありませんよ。ただ起こってしまったことは変えられないから、何とか現実と折り合いをつけようと無様に足掻いているだけです。ほら、こう見えて私もオッサンなので、諦めるのには慣れていますし」
「〝諦める〟……ですか」
「ええ。人間って歳を重ねれば重ねるほど、どんどん諦めることを覚えてしまう生き物だと思うのですよ。経験上そうした方が疲れずに済むから、傷つかずに済むからとね。ですが、マリステアさん──あなたは違います」
「……え?」
「あなたもジェロディくんもまだ若い。考える時間はたっぷりあります。ですからどうか結論を急がないで。あなたが本当に望んでいるものとは何なのか、もう一度じっくり考えてみて下さい」
「……トビアスさま、」
「ただひとつだけ、私から助言できることがあるとすれば……答えが出るまでの間だけでも構いません。どうかあなたは人として神子に寄り添ってあげて下さい。そうすればきっとジェロディくんも自分を見失わずにいられると思うのです。神子である前に、ひとりの人間として」
そう言って微笑んだトビアスを顧みたとき、あ、とマリステアは思い出した。
あれはいつのことだっただろうか。時間はうまく辿れないものの、かつてティノにも似たようなことを言われたのを覚えている。
『だから、マリー。君もどうかそのままでいて。そうしたら僕も僕を見失わずにいられる。そんな気がするんだ──』
──ああ。
瞬間、網膜を灼くほどの夕暮れがじわりと滲むのをマリステアは見た。
そうだ。どうして忘れていたのだろう。
自分にもたったひとつだけ、彼のためにできることがあったのに。
 




