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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
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265.望むとも望まざるとも ☆


      挿絵(By みてみん)




 困ったことになった。

 救世軍がポンテ・ピアット城を制圧してから、今日で丸ひと月になる。

 神術砲(ヴェルスト)の砲撃によって破壊された城内施設の修復もだいぶ軌道に乗ってきた。

 現在城には黄都守護隊(こうとしゅごたい)との激戦を生き残った救世軍二千とコルノ島から駆けつけた五百の援軍、そしてアーサーが連れてきてくれた五千のアビエス連合国軍を合わせた八千弱の兵力が結集している。ポンテ・ピアット城の陥落を知ったマティルダ率いる第六軍が、獣人居住区へ向けて再び進軍を開始する気配もない。

 戦況は小康(しょうこう)し、秋晴れの空の下は今日も至って穏やかだ──だから、困る。


「……やはり第六軍は動きませんか」


 ポンテ・ピアット城本棟の最上階に設けられた救世軍作戦本部。そこでジェロディはトリエステと額を突き合わせ、机上に広げられた地図を見ていた。

 大人数が集まって軍議を開くのとはまた別の、広くも狭くもない部屋だ。

 中央には軍算用の大きな地図を広げてもまだゆとりのある机が鎮座し、室内に集った面々が四方から図面を覗き込める(しつら)えになっていた。

 と言っても現在居合わせているのは救世軍の首脳であるジェロディとトリエステ、そして連合国軍の責任者であるアーサーとデュランの四人だけだ。


 かつて獣人居住区を守るため共に戦った猫人(ケットシー)のアーサーは今回、アビエス連合国の元首レガトゥスから直々の任命を受けた特務大使──すなわち救世軍と連合国の橋渡し役として戻ってきてくれた。彼が率いてきた二百の翼獣(ラプン)乗りは、カリタス騎士王国が連合国軍に派遣している『誇り高き鈴の騎士団』の騎士たちで、黄皇国(おうこうこく)では類を見ない空の戦力ということになる。

 一方、狼人(ロボ)犬人(ポチ)の血を引く半狼(ハウンド)のデュランは地上軍に属する将校だと聞いた。

 彼は今回の黄皇国派遣軍の総司令官であり、国外任務の全指揮権を委任されている。見た目は狼人そっくりで正直結構怖いのだが、口を開けば軍人らしく実直な人柄が(うかが)えて、いかなるときも大きな体でどっしりと構えているのが頼もしかった。


「まあ、致し方ありますまいな。小官が敵の立場でもここは籠城(ろうじょう)を選びます。何の備えもなく未知の戦力(連合国軍)とぶつかるくらいならば、まずは時間稼ぎを兼ねた様子見で相手の出方を(うかが)うでしょう。くだんのソルン城とやらが守りに優れた城だというならなおのこと。もともと敵軍の目的は、救世軍の体力を消耗させることにあるようですしな」

「私もデュランどのと同意見です、ジェロディどの。偵察にやった騎士たちの話によれば、ソルン城の敵軍はあらゆる門を固く閉ざし、飛空船(ひくうせん)の襲来に備えて投石器や弩砲(どほう)の準備を進めていたと言います。さらには南のトラクア城からも、次々と籠城のための物資が運び込まれていたという話ですし……」

「……弱ったな。できることなら冬に入る前に決着をつけたかったのに、このまま時間を稼がれたら結局敵の思う壺だ。やっぱり状況を打開するためには、こっちから攻めるしかないのかな」

「連合国から届いた支援物資のおかげで、当初の見込みよりも長期の滞陣が可能となりましたが……目下最大の問題は輜重(しちょう)の消耗よりも、態勢を立て直した黄都守護隊が再び南下してくることです。さすれば我々は城の東西からの挟撃を受けることになる。マティルダ将軍の狙いも恐らくはそれでしょう。中央が先の黄都守護隊の独断を(とが)め、足止めを図ってくれればよいのですが……」


 細い指を形のいい顎にあてがいながら、地図に目を落としたトリエステは難しい顔でそう言った。彼女の視線の先には北のスッドスクード城に置かれた赤い軍隊符号があり、その矛先はぴたりと南を向いている。

 パウラ地方へ偵察に向かったカミラたちの帰還から五日。

 ジェロディとトリエステは彼らから得た情報をもとに、今後の救世軍の方針を決めるべく慎重な議論を重ねていた。ジェロディたちの当初の目的は第六軍の脅威から獣人居住区を守ることにあったものの、ポンテ・ピアット城の奪取とアビエス連合国との同盟が成った今、事態は大きく変わり始めている。


 というのも救世軍がこのポンテ・ピアット城を奪ったことにより、獣人居住区への進軍の横腹を衝かれる形となった第六軍は、すぐさま転進してリーノの南にある支城のひとつ、ソルン城へと駆け込んだ。

 ここまでは救世軍のもくろみどおりだったわけだが、第六軍の統帥(とうすい)であるマティルダはそこから予想外の行動を取り始めたのだ。すなわち──籠城。

 彼女は獣人区攻略のために率いていた第六軍本隊ごとソルン城に()()もり、一歩も出てこなくなった。本来ならすぐにもポンテ・ピアット城の奪還にかかるべきなのに、奪われた城を捨てて専守防衛の態勢に入り、着々と防備を固めている。


 軽騎隊の機動性を活かした攻めの戦に定評のあるマティルダからはあまり考えられない戦略だが、彼女がそうすることを選んだ理由は明白だった。

 アビエス連合国軍。トラモント黄皇国(おうこうこく)とはほとんど国交のない、未知の大陸から忽然(こつぜん)と現れた彼らをマティルダは警戒しているのだ。何しろ連合国軍は飛空船や神術砲──彼らの国では〝希術砲(カノン)〟と呼ばれるらしい──といった見たこともない兵器の数々を携え、圧倒的な力でもってポンテ・ピアット城の制圧に貢献した。


 だからマティルダは未知なる敵との積極的な交戦を控えて守りの態勢に入ったわけだ。もっともこの情報は偵察隊として派遣されたカミラたちではなく、彼女らの任務失敗を補う形で空偵に向かった鈴の騎士(リッタリー)がもたらしてくれたものだが、しかしカミラたちもまた、敵地に入ってからの数日間をまったくの無為に過ごしてきたわけではなかった。彼女らが持ち帰った情報で最も重要だったもの──それは東の大国、エレツエル神領国(しんりょうこく)の影だ。トリエステが言うには、アビエス連合国の介入をかの国が看過するわけがなく、場合によっては黄皇国と神領国が手を結んでこちらに対抗してくる可能性があるという。


「黄皇国と神領国は建国以来、互いに憎み合ってきた関係ではありますが、アビエス連合国の干渉を排除したいという点においては利害が一致します。神の国である神領国は、神術ではなく希術(きじゅつ)によって繁栄してきた連合国を不倶戴天(ふぐたいてん)の敵と認識していますから……そして黄皇国も我々救世軍が一国家の後ろ盾を得たと知れば当然これを看過できず、神領国との同盟も視野に入れて動き始めることでしょう」

「共通の敵を前にしての一時休戦……ってことだね。だけど神領国と同盟なんてしようものなら、それを口実に後々あの国が黄皇国を乗っ取ろうとするのは目に見えてるじゃないか。もともと神領国は黄祖(こうそ)フラヴィオに奪われたこの土地を奪還したがってる。だからずっと今回の内乱に干渉する機会を窺っていたわけだし……」

「そうであるとしても、今の黄皇国首脳陣に神領国の甘い誘惑を()ねつける気骨があるかどうかが問題です。連合国軍の脅威を目の当たりにすれば、彼らは保身のために一も二もなく神領国の庇護を乞うでしょう。そうなった場合、黄皇国を戦場にした神領国と連合国の全面戦争に発展しかねない……とすればやはりデュラン殿のおっしゃるとおり、飛空船だけでも早々に国外へ退去させるべきかと存じます」


 地図を睨んでいた視線を上げてトリエステがそう提言すれば、デュランもうむ、と頷いた。今回ジェロディが彼とアーサーをここに呼んだのもそのためで、毛むくじゃらの腕を組んだデュランは、(かじ)られたように半分千切れた右耳をピクピクさせながら言う。


「先日トリエステ殿からお話のあったシルという男……いや、男と呼んでいいのかどうかも定かなりませぬが、とにかくあやつが神領国の人間であるという可能性は否めませぬ。非常に優秀な諜報機関を(よう)する神領国が、あのように露骨に怪しい者を送り込んでくるであろうかという疑問は残るものの、彼奴(きゃつ)らの影がチラつきつつあることは事実でござろう。であるならば神領国にとって最も大きな介入の口実となる大型希術兵器は、早急に手放すべきかと存じまする。あれらの威力を目の当たりにすれば、救世軍に協力的なトラモント人ですらも連合国人(われわれ)に恐れをなして翻身するやもしれませぬしな」

「ええ。実際二十年前に我が国が介入したルエダ・デラ・ラソ列侯国(れっこうこく)の内戦では、かの国の為政者たちが見たこともない希術兵器の数々に肝を潰し、大急ぎで反乱軍と講和を結んだと言います。彼らは連合国軍が反乱軍の支援を口実に、その圧倒的な軍事力で自国を征服するつもりなのではないかと恐れたのです。ゆえに停戦を申し入れ、反乱軍に有利な条件で講和を飲む代わりに連合国との同盟を破棄するよう命じた……しかしそれも連合国軍を遠ざけるための方便に過ぎず、大国の脅威が去るや否や、彼らは約束を反故(ほご)にして反乱軍の指導者を処刑したと聞いています」

「そうした過去の失敗を踏まえて、異国の民を過剰に怯えさせる希術兵器は原則使用することなかれと宗主殿より事前に仰せつかっておりまする。特に飛空船は輸送以外の目的で飛ばすことを禁じられ、役目を終え次第帰投させるよう厳命を受けております。あれらの兵器を本国へ帰すだけでも、トラモント人が連合国(われわれ)に抱く危機感は格段に中和されるでしょう。さすれば国の権力者たちも理性を取り戻し、神領国の甘言にたやすく惑わされるおそれもなくなるかと」


 デュランとアーサーからこもごもにそう(さと)されて、ジェロディは考え込んだ。

 確かに連合国軍が強力な希術兵器の大半を放棄し、純粋な兵力だけで救世軍を支援するならば、黄皇国も神領国に庇護を求める必要がなくなる。

 連合国が一気に五万や十万の兵力を送り込んできたならともかく、今回援軍としてやってきたのはたったの五千だ。

 常時二十万もの正規軍を擁する黄皇国にしてみれば決して脅威ではない数字。

 ならば国も神領国との同盟は一旦保留し、様子を見る可能性が高いだろう。


 神術砲と同等の威力を持つ兵器の数々を手放すのは惜しいものの、黄皇国を大国間の戦場にしないためにはそれが最も賢明な判断だ。

 仮に兵器の力を借りて戦に勝利したとしても、連合国に恐れを為した人々の心が救世軍から離れてしまっては何の意味もない。

 そもそもアーサーたちは神領国の脅威から黄皇国を守るために遥々やってきたというのに、彼らの存在が神領国の介入の口実になってしまったのでは本末転倒だ。

 そうでなくともアビエス連合国は希術を魔術と誤解した他国の人々から恐れられ〝魔女の住まう国〟と偏見を持たれているのだから。


(神の力に頼らないというだけで、希術は決して魔界と通じる力なんかじゃないのに……もとを辿(たど)ればその誤解を世界中に流布したのも神領国だ。やつらだってハノーク大帝国の遺跡から掘り出した希術兵器を軍事利用してるくせに、本当にいいご身分だな)


 神領国は表向き、古代遺跡から獲得した兵器を〝神術兵器〟と呼称しているが、あれらが希術を用いた発明品であることはジェロディも既に知っていた。

 同じく太古の遺物である順風船(ヴァイル)に乗るカルロッタの話では、古代人たちは希術によって神刻(エンブレム)を無機物に定着させる技術を得、それによって神術砲や神術銃(シグリアス)といった兵器の開発に成功したのだという。ということはエレツエル神領国が侵略戦争に投入している兵器の数々もまた、神刻を力の源にしているというだけで、本質は飛空船や希術砲と同じ希術兵器だ。が、医学ひとつを取っても他国の追随を許さないほど進んでいる神領国が、その事実に未だ気がついていないわけがない。

 とすれば彼らがあれを〝神術兵器〟と呼んで(はばか)らないのは、神の名の下に世界統一を掲げる自分たちを守るための詭弁(きべん)に他ならないのだろう。


(聖主エシュアは目的のためなら手段は選ばない……とラファレイ先生も言っていた。やつの目的は秩序の神(トーラ)の名の下、エマニュエルに不変にして絶対の秩序を築くこと……すなわち《新世界(エデン)》の構築だと──)


 セピア色の地図上に並べられた軍隊符号に目を落としながら、ジェロディは数日前に聞いたラファレイの言葉を思い出す。

 彼はカミラたちがリーノから連れてきたシルという名の吟遊詩人が、神領国によって送り込まれた人間である可能性を示唆(しさ)した上で、


「エシュア・ヒドゥリーフだけは絶対に敵に回すな」


 とそう忠告していった。あの男に人間としての良心を期待するのは笑い話以外の何ものでもなく、敵に回したが最後、待っているのは滅亡だけだと。

 かく言うラファレイも本国からの帰還命令を散々無視している身だが、それはエシュアの名で届く命令ではないからだと彼は言う。

 仮に神領国が本格的に救世軍討伐に乗り出し、聖主の名の下に帰還せよとの命令が届いたら、さしものラファレイも逆らえないと言っていた。従わなければ彼の命だけでなく、助手のラフィや聖都エルヘンにある屋敷の使用人たちまでもが危険に晒されるからだ。神領国の貴族として──神領国に滅ぼされた亡国の民としてエシュアのやり方を見続けてきたラファレイには、そうなる確信があるようだった。


 もっともシルの正体については、どうやら神領国の手先ではないらしいということが既に判明している。ジェロディも直接本人と会って話したが、彼はエレツエル人でもなければ狂人でもない──もっと驚くべき人物であることが分かった。

 何故ならシルとの面会の席には真実の神子たるターシャも同席していたからだ。

 彼女の力を借りてシルの正体を確かめようと試みたジェロディは、やってきた彼を見るなりターシャが(つむ)いだ第一声に度肝を抜かれた。


「……その人は〈シル〉。それ以上でもそれ以下でもない」


 〝シル〟。


 光の神であり音楽の神でもあるオールの眷族(けんぞく)にして、歌を司る神の名前。

 かの神はエマニュエルに初めて音楽をもたらしたとされるオールの歌声から生まれ、大いなる二十二の神々に仕える五十六小神のひと柱として天界に名を連ねた。

 ターシャはやってきた吟遊詩人を見てかの神の名を口にしたのだ。

 ジェロディはそれが彼の詩人としての通名ではないとすぐに気づいた。

 何故ならこの世の何も映していないかのように澄み切ったシルの瞳と目が合ったとき、右手の《命神刻(ハイム・エンブレム)》が脈動し、得も言われぬ歓びとなつかしさのようなものが体中を駆け巡ったから。


(あれは明らかに僕の記憶から生まれた感情じゃなかった)


 と、人知れず右手を握り込みながらジェロディは思う。


(彼は〈シル〉。オールに仕えた五十六小神のひとり──歌神(かしん)の神子)


 あの日、ターシャから聞いた話を要約するならばそういうことになる。

 シルと名乗る吟遊詩人は、歌神シルの御霊(みたま)である歌神刻(シル・エンブレム)を刻んだ神子で、もうほとんど神と同化している存在だとターシャは言った。神語を母国語のように解したり、自己と神の意識の境界が曖昧になったりするのは《神蝕(しんしょく)》の末期症状で、シルはあと一歩で神々の世界(あちら側)に行ってしまうところにいる人間だと。

 彼がもともとどこの出身で、なんという名前だったのかは今となっては分からない。ターシャが言うには《神蝕》の進行によって人として生きていた頃の記憶を失くすというのは時々起こることらしく、おかげでシルは自分が何者であるのかも分からなくなっていた。にわかには信じ難い話だが、もとの性別が男であったのか女であったのか、それさえ覚えていないというのだ。ターシャ(いわ)く、神子は神との同化が進むにつれて性別を失くし、()()()()()()()()()()になるそうだから。


 実際ジェロディが手ずからシルの身体を改めてみると、彼の首筋──ちょうど長い襟足に隠れるあたりに、歌神(シル)神璽(みしるし)である《光降らす歌声ラーナン・エル・オール》の神刻が刻まれていることが知れた。五十六小神の魂が宿った小神刻(スピリア・エンブレム)大神刻(グランド・エンブレム)ほど強大な力こそ持たないものの、やはりエマニュエルに五十六のみ存在し、刻んだ者は小神の神子として不老の力を得るという。

 もっとも大神の神子のような完全なる不老ではなく、竜族のようにゆるやかに歳を取る肉体になるそうで、不死性もほとんどないと聞いた。天界の加護によって多少()()()()()()()()らしいが、大神の神子のような驚異的な再生力は持たないし、体内を流れる血も《神蝕》の進行に伴ってゆっくりと碧化(へきか)するのだそうだ。


「ロクサーナが一時的におかしくなったのは、オールとその眷族であるシルのつながりが他の神子(わたしたち)より強かったせい。ロクサーナは歴代の王たちが《光神刻(オール・エンブレム)》にかけた()()のおかげで《神蝕》の影響をほとんど受けずにいられた。だけど眷族であるシルと出逢ったことで呪いが解けて、ついに《光神刻》が目覚めた……要するにこれでまた、エマニュエルは《新世界》に一歩近づいたってわけ」


 達観したような口振りでそう告げたターシャは、自分が誰かも分からなくなった神子を見つめて佇んでいた。

 あのとき彼女の横顔にあった透明な感情は諦めだったのか、歓びだったのか、あるいはもっと他の何かだったのか、ジェロディには分からない。

 ひとまずシルが小神の神子であるという事実は、話せば全軍に混乱が広まるという理由で公表が留保されることになった。

 知っているのは尋問の席に居合わせたジェロディとターシャとトリエステ、そして同じ神子仲間のロクサーナと彼女の血飲(ちの)()であるトビアスだけだ。


「……なるほどの。つまりわーもいずれは()()()()ということけ」


 と、真実を告げに行った日、ロクサーナが窓の外を眺めながら零した言葉が今も耳を離れなかった。


「ゆえに隠すのじゃな。皆の衆が、神子の末期(まつご)を知って苦しまぬように」


 そう呟いたロクサーナの傍らで、握られたトビアスの手が音もなく震えていたのを覚えている。


「英断でおじゃる、ジェロディ。……苦労をかけるの」


 そう言ってようやく振り向いたロクサーナが、あんなに弱々しく微笑(わら)うところをジェロディは初めて見た。


(ロクサーナだけじゃない。いずれは僕もターシャもああなるのか。自分が何者であったのかも、ここにいるみんなのことも……父さんや、母さんや……マリーのことも、全部、忘れて──)


 ──嫌だ。


 そんな未来は望んでいない。そもそも自分は望んで神子になったわけじゃない。

 利用されただけだ。あのジェイクと名乗った男の()()()とやらに。

 そしてこの地に神の世を築くことを目的とした天界の神々に……。

 なのにいずれ愛するひとのことさえ分からなくなってしまうだなんて。

 自分が〝消える〟ということが、彼女を忘れ、大切な思い出もすべて失って、ゆるやかに狂っていくことだなんてジェロディは知らなかった。

 けれど本当に望む未来を──共に戦う仲間を守り、トラモント黄皇国に自由と平和を取り戻すためにはどうしても神の力が必要だ。

 ジェロディはその目的を達するために、自分も神を利用してやろうと決めた。

 だというのに神の力を借りるたび、自己という存在の一部を手放さなければならないというのなら……自分はどうすればいい? それでも構わないと迷いを捨てて、神の世のために我が身のすべてを捧げるのが真の神子というものなのだろう。


 だけど、そうだと分かっていても、僕は──


「──……ディ殿……ジェロディ殿?」


 視界も思考も真っ暗になる。

 もう何も見たくない。聞きたくない。考えたくない。そう願ってすべてを投げ出しそうになった刹那、トリエステの呼び声ではっと我に返った。

 慌てて顔を上げれば文字どおり三者三様の視線がジェロディに注がれている。


「どうなされましたか、ジェロディどの。お顔が真っ青ではありませんか。も、もしやどこかお具合でも悪いのでは……!?」

「あ……い、いや、ごめん、大丈夫だよ、心配ない。それで、えっと……何の話をしてたんだっけ?」

「希術兵器を本国(くに)へ返還した上で、いかにしてソルン城を攻略するかという話でござる。トリエステ殿のお話によれば、ソルン城とは〝イバラ城〟の異名のとおり、城の周囲を毒茨(どくいばら)の森に囲まれた厄介な城だとか。飛空船が使用可能ならば空から森を越えて直接城に降下すればよろしいが、その作戦が取れないとなると少々難儀な戦になりましょうな」

「ええ……ソルン城を囲む毒茨は棘に毒を持つ植物で、あれが皮膚を傷つけると傷口から全身に激しい痛みが広がり、さらに一刻(一時間)と経たないうちに嘔吐や呼吸困難といった重篤な症状を引き起こすと言われています。おまけにソルンの森はこの毒茨があちこちに密生して道を塞ぎ、天然の迷路を形成していることで有名です。ソルン城を守る第六軍の将士ならば森の地形をある程度把握しているでしょうが、反対にまったく地の利のない我が軍が無策で飛び込んだ場合、多大な危険を伴うであろうことは言うまでもないでしょう」

「……確かに森の中で迷っているうちに茨の毒に冒されたり、第六軍の伏兵に襲われたりする可能性を考えるとかなり危険な戦になるね。でも、だったらわざわざ森の迷路を攻略しようとせずに、神術で茨を切り払ったり焼き払ったりして進めばいいんじゃ?」

「そうできればよいのですが、ソルンの森の毒茨は切りつけると断面から毒素が噴き出し、吸い込んだ者の肺を冒します。焼却しても同じで、炎が生み出す熱風に乗って毒素が周辺地域に拡散し、大惨事になった例が過去にあるそうです」

「ということはやはり愚直に迷路を攻略する以外に道はないということか。上空から森の中の地形がある程度見通せるならば、我々鈴の騎士(リッタリー)が道案内をしてもよいのだが……」

「ソルンの森には問題の毒茨以外にも常緑樹が群生していますから、すべての道を上空から確認することは難しいでしょうね。『誇り高き鈴の騎士団』を空から直接ソルン城へ差し向け、敵がそちらの対応に追われている隙に地上軍が森を突破するという方法も考えましたが、マティルダ将軍が投石器や弩砲のような対空兵器を集めているとなると……」

「二百の兵力しか持たぬ『誇り高き鈴の騎士団』だけでは、いささか厳しい作戦になるでしょうな。地上軍が迅速に迷路を突破できるよう、道案内をしてくれる者でもいれば話は別でござろうが……」


 ううむ、と低い声でうなりながら(あご)の毛を(しご)き、デュランがまたもピクピクと耳を動かした。どうやらピンと立てた耳を忙しなく動かすのが、考えごとをしているときの彼の癖らしい。

 ところがジェロディがそんな愚にもつかないことをぼんやり考察していると、ときにトリエステがはっとした様子でデュランを見つめた。かと思えば彼女は再び机上の地図へ目を落とし〝ソルンの森〟と記された紙面を(てのひら)でサッと撫でる。


「道案内……なるほど。その手がありましたか……」

「ほう、何か名案が?」

「ええ、今のデュラン殿のお言葉で閃きました。この森の地理を知り尽くしていて、なおかつ我々に協力してくれそうな人物に心当たりがあります。彼を救世軍に引き入れることさえできれば……」


 トリエステはじっと地図を見据えたまま独白のようにそう言うや、やがて真剣な面持ちで顔を上げた。刹那、フィロメーナと同じ青灰色の瞳がまっすぐにこちらを向き、茫洋としたまま突っ立っているジェロディの姿を映す。


「ジェロディ殿、一日だけ時間をいただけますか。その間にもう一度考えをまとめて、たったいま申し上げた作戦が実行可能かどうか検証します。結果勝算があると見込まれた場合、ただちに軍議を召集致しますので」

「ああ……分かった、任せるよ、トリエ。他に僕にできることがあれば、遠慮なく言ってほしい」

「ありがとうございます。どうしてもジェロディ殿のご協力が必要になった場合はお声がけさせていただきますが、今はひとまずお休み下さい。アーサー殿のおっしゃるとおり、お顔の色が優れないご様子ですので……」

「ふむ、やはりトリエステどのもそう思われますか。いかな神々の加護厚き神子とは言えど、ご無理は禁物ですぞ、ジェロディどの。お疲れならばまずはごゆるりとお休みになるべきです。戦の前には作戦も体調も万全を期すのが軍主たる者の務めですからな」


 そう言って手先だけ白い両手を腰に当て、机の上でえへんと胸を張ってみせるアーサーに、ジェロディは苦笑して「そうだね、そうするよ」と同意を返した。

 確かに今の自分では味方の陣頭指揮など()れそうにない。

 思考があちらこちらをさまよって、ひとつところに定まらないのだ。

 こんなことではいけない。頭ではそう分かっているのに、いっかな心がついてこない現状にジェロディは力なく首を振った。今はトリエステたちの言うとおり、一旦体を休めながら今後の身の振り方を考えるべきなのだろう。


(……父さん、僕はどうすればいい?)


 やがてトリエステの手で地図が丸められていくのを見るともなしに眺めながら、ここにはいない父に尋ねてみる。父だったらこういうとき、どうするだろうか。なんと言って自分を導いてくれるだろうか。


 そう思いを()せてみようとしたのに、脳裏には何も浮かばなかった。


 どうしてだろう。


 あんなに大切だったはずの父との思い出が、今は遠い。


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