263.私の帰る場所
もともと黄皇国軍の医務室として使われていたのだろう、白い衝立と寝台と薬品棚が並ぶ部屋で、診察席に着くなりラファレイは言った。
「脱げ」
てっきりまず真っ先に、先のポンテ・ピアット城攻略戦で無茶な神力の使い方をしたことを叱られるのだろうと思っていたカミラが、そのひと言に受けた衝撃は筆舌に尽くし難い。
「……え? なんて?」
「貴様はひと月会わないうちに突発性難聴でも発症したのか? 今すぐここで服を脱げ。他の患者はみな眠っているから気にするな」
「いやいやいやいや気にしますけど? え? 何? 突然何を血迷ってくれちゃってるの? それとも私たちの知らないとこで、実はラフィにもそういうことさせてたりするの? だとしたら武力に訴えるわよ?」
「貴様は本当に開頭手術をお望みのようだな。いいだろう、ならば特別に無償で前頭葉白質切断術を受けさせてやる。世界最先端の医学を治めるエレツエル神領国でも俺と数人の医師にしか認められていない高難易度の手術だ、有り難く思え」
「よく分かんないけどとりあえず危険なにおいしかしないから遠慮しとくわ」
「安心しろ、ただ被術者の人格を変えるために頭を開いて脳の一部を切除するだけの外科手術だ。過去の被検体の中には施術ののち、非常に粗悪だった素行が劇的に改善した例がある。まだ臨床試験中の治療法だが、うまくすれば貴様のその腐り切った思考回路も矯正することができるだろう」
「やめてください死んでしまいます」
「俺はまだ一度もこの手術で死者を出したことはないから心配しなくていい。だがどうしても頭蓋を抉じ開けられるのが嫌だと言うのなら、今すぐ、ここで、着衣の下の状態を見せろ。重ね着ごときで俺の目を誤魔化せると思ったら大間違いだぞ」
正直カミラは愕然とした。だってまさか、自分から症状を告白する前に見抜かれてしまうなんて夢にも思っていなかったからだ。
おかげでまだ全然心の準備ができていないのに。カミラは半強制的に座らされた椅子の上で膝に置いた両手をじっと見つめたあと、やがて降参のため息をついた。
「……分かったわよ。脱げばいいんでしょ、脱げば」
と半ばヤケクソになって言い、まず首に巻いていた臙脂色の襟巻きをはずす。
次いで全身をすっぽりと覆っていた外套を脱ぎ捨て、ケープをはずし、革の手套も取り払った。数瞬ためらい、されどがばりと下から捲り上げるように脱いだ腿丈のチュニックの下には、さらに数枚重ね着した肌着がある。
どこまで脱げばいいの、と念のために尋ねたら、当然のように「全部に決まっているだろう」と返された。この陰険眼鏡男にはデリカシーとか乙女に対する配慮とかそういうものはないのかと打ち震えつつ、仕方なしに残りの肌着も脱ぎ捨てる。
「……やはりな」
ほどなく胸と下半身を覆う白い下着だけになったカミラを見て、机に頬杖をついたラファレイはすうっと榛色の瞳を細めた。カミラは申し訳程度に腕を組んで己の裸体を隠しながら、あからさまにそっぽを向いてひと言も答えない。
それはもちろん、医者とは言え若い男の前で素肌を晒さなければならないことへの激しい羞恥のためでもあるし──同時に自分の肌のあちこちに浮かんだ醜い湿疹や、胸部にうっすら浮き上がった肋骨を正視したくないためでもあった。
ひと月前とは変わり果てたカミラの体を見て、傍らに佇むラフィが息を飲んだのが分かる。彼女とはコルノ城で何度か入浴を共にしているから、余計に変化が顕著に見えるはずだ。されどラファレイの方は短いため息をついただけで顔色を変えず、首にかけた奇妙な形の管──あれは彼が〝聴診器〟とか呼んでいる器具だ──のふた又に分かれた方を耳に当て、もう一方の先端をカミラへと伸ばしてきた。
「……幸い誤嚥性肺炎などは引き起こしていないようだが。明らかな羸痩状態だな。体中に出ている湿疹も低栄養によるものだろう。さては最近まともに食事を取っていないな?」
「……なんでそんなことまで分かるわけ?」
「医者の目を欺こうとしても無駄だ。人間の肉体というものは貴様らが思うよりずっと正直にできているからな。ラフィ、栄養注射の用意を。フィッシュハーブの膏薬も出せるだけ出しておけ。内用薬の処方はあとだ。まずは栄養不良を何とかしないことには、あっという間に重症化しかねん」
カミラの胸や背にひとしきり聴診器をあてがったあと、両耳に差し込んだ管をはずしながらラファレイがあれこれと指示を出した。呼ばれたラフィは真剣な表情でこくんと頷くや身を翻し、早速与えられた作業をこなしている。
他方、ラファレイは白い上着を脱いで一旦カミラに羽織らせるや、傍らの机に広げられた書類らしきものに無言で何か書きつけ始めた。
確かあの一連の書類は〝診療簿〟……とか呼ばれていたような気がする。何でも特定の患者の病歴やどのような処置を施したかを記録するためのものだそうで、以前ラフィにこっそり見せてもらったカミラの診療簿には初めて星刻の力を使った日からの記録がこと細かに書き留められていた。特にカミラがオヴェスト城で時戻しの力を使い、ひと月ほど寝込んだときの診療簿は十数枚にも渡っていて、時間ごとの経過や様々な治療の記録がびっしり書き込まれていたのを覚えている。
要するに認めるのは甚だ癪なものの、目の前にいる男はそれだけ研究熱心で優秀な医者だということだった。現に今もカミラをひと目見ただけであっさり変調を見抜き、適切な治療を施そうとしているのだから。
これでもう少し物腰がやわらかく、態度も謙虚だったならまさしく理想の医者なのに。〝天は二物を与えず〟とはこういうことを言うのだなと改めて噛み締めながら、しかしカミラはようやく無理に平静を装う必要がなくなって、浅い息をつきながらぎゅうっと椅子の上で体を縮めた。
「……ねえ。このこと、みんなには秘密にしておいてくれる?」
「それは貴様の心がけ次第だな。今の状態を誰にも話されたくないのなら、挙げられるだけの自覚症状を包み隠さず全部吐け」
「……正直、自分でも挙げきれないんだけど……偵察任務で城を離れた頃から、まず体が食べものを受けつけなくなって……イークたちにバレないように、毎食ちゃんと食べてはいたんだけど、結局全部戻しちゃうの。あとはだんだん眠りも浅くなって……ここ数日はほとんど寝てない」
「心因性の摂食障害と不眠症か。そんな状態でよく馬になど乗れたものだな。食べたものを何度も吐き戻しているということは、胃や食道もかなり荒れていると見ていいだろう。吐血症状は?」
「……ちょっとだけ、吐いたものに血が混じってたことなら」
「頭痛や眩暈、耳鳴りや発熱は?」
「全部ある……かも」
「なるほど、分かった。今の貴様の状態を端的に表すとすれば〝寝台に縛りつけてでも安静にさせる必要のある重篤患者〟だ。言うまでもなく部隊の指揮などできる状態ではないし、激しい戦闘に耐え得る体力が残っているとも考え難い。分かったら今すぐ治療を受けて静養しろ。さもないと遠からず死ぬぞ」
なおも診療簿に羽根ペンを走らせながら、一切口ごもる素振りもなしにラファレイは宣告した。彼の唇が紡いだ〝死〟という言葉に、薬品を抱えたラフィがびくりと肩を震わせたのが分かる。
けれどカミラは──覚悟していたとは言え医者の口からはっきりと〝戦えない〟と告げられたカミラは、椅子の上で身を縮めたままきつく己の腕を抱いた。
そう言われるのが怖かったから、誰にも打ち明けられなかったのだ。
今の自分に残されたのは、救世軍のために剣を振るい続けることだけなのに。
なのにそれすらも奪われたら、カミラは正気を保っていられる気がしなかった。
もちろん体は苦しいし、もう限界まできていると自分でも感じていたけれど。
でも今は拒食や不眠の症状よりも逃げ先を失って、考えたくもないことを延々と考え続けなければならない時間を過ごす方がずっとずっと恐ろしかった。
だからできれば隊の指揮に戻りたい。病室でたったひとり、皆の無事を祈りながらじっと休んでいるだけなんてとてもじゃないが耐えられない。
しかし同時に分かっている。今の自分が隊に戻ったところでかえって部下たちを危険に晒すだけだ。カミラ自身は死のうが負傷しようが一向に構わないが、だからと言って部下たちまで隊長の無謀に付き合わせるわけにはいかない。ラファレイの言うとおり、カミラは現在の自分が正常な判断力を失っていることを自覚しているし、剣を握ったところでろくに振るえやしないことも本当は分かっているから。
「……私、どうすればいいの。仮に安静にするとして、どれくらい休めば戦線に復帰できる?」
「経過を見てみないことには何とも言えん。対症療法で個々の症状を緩和させることはできても、根本の原因を取り除かない限りは同じことの繰り返しだからな」
「それができるなら最初からやってるわ。でもできないから困ってるの」
「方法ならいくらでもあるだろう。たとえば救世軍を離脱して郷里へ帰るとか、あるいは原因となっている男のもとへ身を寄せるとか──」
「今更救世軍を抜けるくらいなら死んだ方がマシ」
「……そう言うだろうと思っていた。やはりヴィルヘルムの懸念は正しかったというわけだ」
と、なおも診療簿を綴る手を止めずにラファレイは言った。
刹那、呆れのため息と共に紡がれた人物の名にカミラはぴくりと反応する。
ヴィルヘルム。エリクが黄都守護隊にいることを知りながら、今の今まで黙秘を貫いてきた男。彼は確かカミラたちが偵察任務に出発したのと同じ頃に、野暮用があるとか何とか言って救世軍を一時離脱していたはずだ。
しかしもう戻ってきているのか。カミラが目だけでそう問うと、ようやく羽根ペンを置いたラファレイは、細長いタイの結び目を軽くくつろげながら答えた。
「ヴィルヘルムなら二日前に帰還済みだ。どこへ行っていたのかは頑なに明かそうとしないが、軍師殿の許しを得て既に隊務に復帰している。貴様が任務から戻り次第、体調を診てやってくれと言ってきたのもあいつでな。誰がなんと言おうと貴様は絶対に救世軍を離れんだろうから、可能な限り本人の希望に添うよう便宜を図ってやってほしいと頼まれた」
「ヴィルが……?」
「貴様の性格上、身内を敵に回して平静でなどいられないことも、その上で自身の不調を隠し通そうとすることもすべてお見通しだったということだろう。俺は自分で自分を痛めつけるような被虐趣味の人間に貴重な薬剤を使うくらいなら、生きる意思のある患者を救う方を優先すると言ったのだが、やつがどうしてもと言うのでな。よって仕方なくやつの血液採取と引き換えにこうして貴様を診てやっているというわけだ。有り難く思え」
「ヴィ、ヴィルの血液と引き換えにって……そんなもの採取して何するつもり?」
「無論研究に使うに決まっているだろう。ヴィルヘルムはこれまでの医学史に一切の記録がない、人間と魔物の融合体だからな。医学史上初の症例というだけで研究価値は計り知れないし、未だ謎の多い魔物の生物的構造を解き明かす鍵にも成り得る。神術や聖術以外にも魔物をたやすく屠ったり遠ざけたりできる技術が見つかれば、人類はいずれ魔界の勢力に怯えることなく暮らせるかもしれんだろう? だからこそやつが完全に魔物化してしまう前にひとつでも多くの研究成果を残す必要がある。その重要性を理解しながら、本人がまったく非協力的なのが遺憾だがな」
──完全に魔物化してしまう前に。
ラファレイが至って淡々と告げたひと言が、不意にカミラの胸を衝いた。
同時に脳裏に甦ったのは、春、リチャードの屋敷で目の当たりにした彼の眼帯の下の真実。あれ以来カミラは一度もヴィルヘルムの素顔を見ていないが、こうしている間にも彼の魔物化は進行しているのだろうか。
エリクのことにしても、自身のことにしても。ヴィルヘルムはいつも必要最低限のことしか話さない。秘密主義で、寡黙で、救世軍の中では最も共に過ごした時間が長いであろうカミラでさえ、彼が何を考えているのか未だに分からなかった。でもラファレイの話が事実なら、彼は別れてからもカミラの身を案じ、気を回してくれていたということだろうか。だったら最初から何もかも打ち明けてくれていれば、カミラだってこんなことにはならずに済んだかもしれないのに。
「……ねえ。あんたってヴィルとは腐れ縁なのよね」
と、ほどなくラフィが注射器を運んできて、受け取ったラファレイが腕を出せと言ってくる。カミラは大人しく従いながら、膝の上に視線を落として尋ねた。
「まあ、そうだな。かれこれ十年以上はさっさと俺の献体になれと言い続けているからな。どんなに催促しても一向に死ぬ気配がないのが腹立たしいが」
「でも、少なくとも私たちよりはヴィルのことよく知ってるでしょ。あの人……どうして何も言ってくれないの。私のことにしたって、裏であんたにこっそり頼むんじゃなくて、直接私にそう言ってくれればいいじゃない。なのに、どうして……」
「さあな。魔物と融合した男の考えることなど人間の俺には分からん。だが今までのやつの言動を見る限り、少なくとも他人に好かれようという気が一切ないことは確かだ。むしろどんな人間も平等に遠ざける。その理由を直接本人に尋ねるなどという野暮な真似をした試しはないが……恐らくはそれがやつなりの誠意ということなんだろう」
「……人を遠ざけるのが誠意?」
ラファレイの言葉の意味を図りかね、カミラはほんの少しだけ視線を上げた。
すると不意にラフィが横から手を出してきて、濡れたガーゼで湿疹だらけのカミラの腕を軽く拭う。ただの水とは違う、すーっと鼻を抜けるような匂いの液体が皮膚に触れるのが分かった。かと思えばそうして拭われた肘の関節付近に、ラファレイの手にした注射器の針が音もなく差し込まれていく。
「簡単な話だ。たとえばもしも貴様がヴィルヘルムと同じ魔物憑きで、自分の意識も肉体もいずれ魔物に乗っ取られると分かっていたらどう生きる? ある日突然人間としての自分が死を迎え、周りにいる者たちを次々と手にかけるかもしれないと分かっていたら?」
「それは──」
「俺はあの男が魔物になったら、その暴走を止められる者などそうそういないと踏んでいる。ただでさえ化け物じみて高い戦闘能力に、魔物の凶悪性と破壊衝動が備わるのだからな。ならば想定し得る中で最悪の事態が起きたとき、犠牲を最小限に留めるためにはどうすればいい? 魔物と化した元人間の息の根を、一瞬でも早く止めるためには?」
「……まさか、」
「俺も一応神術使いだからな。いつか来たるべきときが来たらためらうなと、やつには念を押されている」
言いながら、ラファレイは真鍮製の筒の押子をゆっくりと押しやって、触れたら折れそうなくらい細い針からカミラの体内へ薬剤を流し込んだ。
けれどもうすっかり慣れてしまったはずのその過程が痛い。とても痛い。
ラファレイの手の中で、笑えるくらい痩せ衰えたカミラの右腕が震えている。
「まあ、今回の件に限って言えばそれだけが理由ではないのだろうが、やつにもやつなりの事情と思惑があるということだろう。そこに理解を示すか気に食わないと突っ撥ねるかは個々人の自由であって、俺から言えることは何もない。ただひとつだけ、やつの代わりに教えておくべきことがあるとすれば──どうもあの男、依頼人との契約を満了してきたようだぞ」
「……え?」
「貴様の護衛がどうとかいう契約だ。ヴィルヘルムが今まで貴様らに加勢していたのは、その契約とやらを遵守するためだったのだろう?」
「そ、そう聞いてるけど……でも、契約を満了してきたってことはつまり、」
「ああ。やつはもう契約に縛られる必要がなくなった。ゆえに黄皇国を離れても何ら問題はないはずだが──ヴィルヘルムは今後もこの地に留まり、救世軍のために剣を振るうと軍師殿にそう話したそうだ。救世軍と新たな契約を結び直すでもなく、ただ己の意思でそうしたいとな」
やがてカミラの腕から針が抜かれ、皮膚に小さく開いた穴の上に、ラフィがすかさず手を翳した。ずっと剣ばかり握ってきたカミラのものとは比べものにならないほど白く綺麗な手が、ほのかに青い光に包まれる。するとたちまち穴は塞がり、わずかな出血の痕もラフィが丁寧に拭ってくれた。かと思えば彼女はじっとこちらを見つめ、安心させようとしているのか、目が合うなりにこっと微笑みかけてくる。
途端にカミラの涙腺が緩んだ。こんな小さな子に気を遣われるなんて情けないと思いながら、しかし視界がみるみる滲んでいくのを止められない。
おかげでカミラは顔を上げられなくなった。ラファレイはそれに気づいているのかいないのか、役目を終えた注射器を淡々と消毒盤へ戻しながら言う。
「やつの決断をどう受け取るかは貴様次第だ。だが俺の知る限りヴィルヘルムが誰との契約にも基づかず、自らの意思で剣を振るった例はこれまで一例しかない」
「……一例だけ?」
「ああ。あの男は世界的にもたった数名しかいない第一級傭兵だからな。他人に雇われない限り、自己防衛以外の目的で剣を振るうことをしない。しかし唯一、マナと旅をしているときだけは違った。マナとは何の契約関係も結んでいなかったにもかかわらず、やつの望みを叶えるためならヴィルヘルムは躊躇なく剣を抜いた。そしてヴィルヘルムが今、再び傭兵の本分を擲とうとしているということは、つまりそういうことだろう。……分かったら今は大人しく休め。貴様のためではなく、貴様が〝仲間〟と呼ぶ連中のためにな。──ラフィ」
やがてラファレイに名前を呼ばれると、ラフィは再びこくっと頷いた。
彼女はカミラの手を引いて立ち上がるよう促すや、空いている寝台のところまで連れていき、身振り手振りで〝横になれ〟と伝えてくる。
カミラが大人しく従えば、ラフィは事前に用意していたらしい蓋つきの陶器を取り出して、中にたっぷりと入れられた膏薬を指先で掬った。まだ日も高いというのに傍らに置かれた燭台は、恐らく膏薬を温めて溶かすためのものだろう。
ラフィはそうして掬い取った薬をせっせとカミラの肌に塗り込んだ。
湿疹の症状が顕著なところを重点的に、そっと撫で摩るような優しさで薬を塗布しては患部に布を貼っていく。不思議なことにそうやって誰かに触れられていると、あんなにこわばっていたはずの心が次第にほぐれていくようだった。
ラフィの手つきの優しさと温もりが、だんだん眠気を連れてくる。
「……ラフィ」
「?」
「ごめんね。──ありがとう」
うつ伏せに寝転んだまま、まどろみの中でカミラがそう言えば、ラフィは目を丸くした。大きくてまんまるな瞳を瞬かせ、しばしきょとんとしたかと思えば、もう一度ローズブロンドの髪を揺らしてにこっと笑いかけてくれる。
ほどなくカミラは眠りに落ちた。ここ数日、どれだけ眠ろうと試みてもまったく眠れなかったのが嘘みたいに深い眠りだった。
意識の帳が降りきる間際、やっぱり逃げ出さなくてよかったと、改めて思う。
「ラファレイ先生!!」
ところがどれほど眠った頃だろうか。カミラは遮断されていた意識が跳ね起きるほどの絶叫で目を覚まし、はっと瞼を開いた。
何事かと慌てて起き上がれば、肩までかけられていた毛布がずり落ちる。寒い。
とっさに見下ろした上半身は肌着を一枚まとっているだけで、露出したままの腕や脚は膏薬と一緒に貼られた布片まみれだ。
幸い寝台と寝台を区切る衝立のおかげであられもない姿を見られることはなかったが、反面、何が起きているのかすぐには分からなかった。四方を囲む黄砂岩の壁が燃えるような茜色に染まっているところを見ると夕刻だろうか。診察席からラファレイが立ち上がる気配があって、騒然とする室内に彼の鋭い声が飛ぶ。
「何事だ、騒々しいぞ」
「も、申し訳ありません! ですが、ロクサーナが……! 彼女が急に苦しみ出して倒れてしまったんです! お願いします、彼女を助けて下さい……!」
衝立の向こうから聞こえたのはトビアスの声だった。
他にも何人か押しかけてきている気配はあるが、それよりも今はロクサーナが倒れたという彼の言葉に耳を疑う。神子であるはずの彼女が倒れるなんて只事ではないと思い立ち、カミラは脇棚に置かれた衣服に手を伸ばした。
ラフィが取り替えておいてくれたのだろう、診察前に着ていたのとは違うものだったが構わず、丁寧にたたまれた衣服を開いて袖を通す。
久しぶりにぐっすり眠れたおかげか、起き抜けだというのに頭は冴えていた。
刹那、そんなカミラの意識にすっと切り込んできた声がある。
「おい、てめえだろ、吟遊詩人。ロクサーナに何をした? あいつが苦しみ出したのは明らかにてめえが接触してきた直後だったよな?」
「私は、何も……ただ主に再会のお喜びを申し上げただけ──」
「わけの分からねえことを抜かすな! てめえ、さてはあいつの《光神刻》を狙って……!」
医務室に響き渡った怒号は知らない男の声だった。だがその声に答えた、やたらとぼんやりしていて中性的な声にははっきりと聞き覚えがある。
腿丈のチュニックを頭から被ったカミラは、急いで衝立の陰から飛び出した。
そしてほとんど同時に叫ぶ。
「シル……!?」
そこで見覚えのない髭面の男に胸ぐらを捕まれ、ぼうっと立ち尽くしているのは他でもない、カミラたちがリーノから連れてきた謎多き吟遊詩人だった。




