260.神は愛なり
カイルが最初に神刻を刻もうと思ったのは、なんかかっこいいからだった。
刻む場所を左胸にしたのも、数ある神刻の中から雷刻を選んだのも、なんかかっこよかったからだ。つまり深い意味はない。
黄都では神術を使える男はそれだけで女の子たちに一目置かれたし、見た目も神術もパッとしない他の神刻に比べて、雷刻はダントツで男心を擽った。火刻とどちらにするか最後まで悩みはしたけれど、当時好きだった子にどちらがいいか尋ねたら、雷刻の方がかっこいいと言うので最終的にそっちを選んだ。
でもそんなふしだらな理由で奇跡を望んだ男にも神様はちゃんと応えてくれる。
神様の愛ってすげえな、とカイルは思った。
だったら今度はオレがその愛に応える番じゃない? とも思う。
だって救世軍には生命の神子がいて光の神子がいて、真実の神子がいる。
一生に一度会えたら幸運と言われている神子が三人も集まるなんて、どう考えても救世軍が神々に愛されていることの証左だ。
だから自分は生きて帰る。生きて帰って、神様に今までの不信心を詫びるのだ。
そして男なら、恥ずかしがらずに堂々と告げるべきだと思う。
神様、オレも愛してる、と。
「雷槍!」
刃と刃が交差し、互いの動きが止まった一瞬の隙。
そこを狙ってすかさず神術を撃ち込んだ。心臓から生まれ、血潮と共に全身を駆け巡った神の力が黄金色の雷撃となって爆ぜる。カイルの剣を瞬時に巻き取り、直後に炸裂した雷撃は至近距離にいる名無しの男を打擲するかに見えた。
が、次の瞬間、男は目にも留まらぬ速さでカイルの剣を弾き、屈む。剣から放たれた雷撃は森を揺るがすほどの轟音を奏でたものの、男の頭上を通過し大地を穿った。途端に落ち葉を被った土が弾け、降り注ぐ土飛沫の中から男が突っ込んでくる。ニヤリと笑った口角が見えた。カイルは大きく振りかぶられた剣の一撃を打ち返し、二撃目もどうにか防いで、三撃目を躱した瞬間に反撃の刺突を繰り出す。
「残念」
刹那、のんきに口笛を吹いて笑った男が、カイルの剣を軽々と躱すや旋風のごとく体を回した。被ったフードのせいで視界が遮られ、一瞬反応が遅れたが、右から鋭い蹴りが飛んでくる。側頭部を正確に狙って放たれた一撃を、カイルはすんでのところでどうにか防いだ。とっさに翳した腕に衝撃が来て吹き飛ばされる。
地面に叩きつけられる寸前、受け身を取ろうとしたものの、蹴りに微妙な拈りが加えられていたせいで叶わなかった。予測不能な慣性に抗えなかったカイルは地面を転がり、全身落ち葉まみれになって小さく呻く。
「ぐっ……」
すぐに起き上がろうとしたものの、目が回って無理だった。
腕で防いだはずなのに男の一撃は確実に脳まで届いている。それだけの威力の蹴りだったということだ。まともに喰らっていたら命はなかったかもしれない。
でも、まだだ。カイルは土を掻くようにして体を起こし、頭を振った。
ぐわんぐわんと視界が揺れている。けれど耳だけは正常だった。風が剣に貫かれる音。左耳が捉えたその音に体が反応し、飛びのく。寸前までカイルの心臓があった場所に男の得物が突き立った。まったく嫌になるほど正確な剣捌きだ。
(くそっ……一体何人殺せばそんな技が身につくんだよ……!)
二重の意味で眩暈を覚えながらカイルはふらふらと立ち上がった。
視界はなおも揺れていて足もとがおぼつかない。たぶん軽い脳震盪だ。
背後の逃げ場を失うと分かっていながら、カイルは一度森の木に背を凭せた。
体中から腐葉土のにおいがする。おまけに次から次へ汗が滴ってきて鬱陶しい。
「へえ……今のを避けるかね。ちょっと見ねえ間に腕を上げたな、お前」
他方、無人の地面から剣を引き抜いた男は依然余裕綽々で、フードの下から覗く笑みを絶やさなかった。何やらこの状況を愉しんでいるようにすら見える態度には腹が立つが、これが今の自分と男の実力の差だ、と同時に思い知らされる。
「いや、山猫の血なのか騎馬民族の血なのか、もともと身のこなしが軽くて見込みのあるやつだとは思ってたがよ。もったいねえよな、こんなところでせっかくの才能をふいにしちまうのは」
「……」
「そう睨むなよ。こう見えて俺はお前を買ってたんだぜ、カイル。お前は磨けばいい戦力になる。やっぱり救世軍なんかに入るのはやめてこっちに来ねえか? もちろんアーニャとカイラの件はちゃんと面倒見てやるからよ」
「オッサン。知ってると思うけどさ……オレ、ふらふらしてるように見えて実は一途なんだよね」
「救世軍に浮気した口でよく言うよ」
「先にオレをフッたのはそっちだ──ろッ……!」
視界の真ん中で二重に見えていた男の像が、ゆっくりとひとつの点を結ぶ。
そうして脳震盪の症状がやわらいだ瞬間、間を置かずカイルは斬り込んだ。
気合と共に振り抜いた剣は易々と防がれる。でも諦めない。食い下がる。
脇を締めて、大振りにならないように、威力よりも手数を優先して技を刻む、刻む、刻む。ときには剣を左右に振って幻惑しながら、無型のように見せながら、されどすべての動きを秩序立てて可能な限り無駄なく。
ライリーから教わったとおりに、カルロッタから教わったとおりに……!
『オラ立て、カイル! てめえの覚悟ってなァそんなもんかよ!』
連日ライリーに殴られて殴られて殴られ倒して、動けなくなるたびに飛んできた怒号が脳裏に甦った。自分に武芸を教えてほしいと〝土下座〟をして頼み込んだとき、ライリーは「俺ァやさしくねえぞ」と言っていたが、あの人は本当にまったくやさしくなかった。容赦というものを知らなかった。でも、それは自分を戦場で生かすための厳しさだと肌で感じた。ライリーの特訓もカルロッタの特訓も確かに易しくはなかったけれど、優しかった。今になってそう思う。
(言わなきゃ、お礼。帰ったら、ちゃんと──)
息が上がるのも構わず、矢継ぎ早に攻撃を放ちながら誓った。
ライリーやカルロッタだけじゃない。彼らとの朝練のたびボロボロになってやってくる自分を呆れつつも手当てしてくれたラファレイにも、自分に合った戦い方や体のつくり方を指南してくれたゲヴラーにも、無茶な訓練で刃毀れした剣を何も聞かずに研いでくれたスミッツにも、敗戦の夜、ピヌイスで自分を立ち上がらせてくれたヴィルヘルムにも礼が言いたかった。
思えば救世軍は、いつもそうして自分に寄り添ってくれていたのに。
こんなことになるまで彼らを選べなかった自分は本当に馬鹿だ。
でも、だからこそ今度は。今度こそは……!
「っらああああッ……!」
いつの間にやら防戦一方になっている男に、上段からの一撃を叩き込んだ。
鉄の噛み合う音に合わせて火花が散り、再び鍔迫り合いに縺れ込む。
だが体格も膂力も劣る自分に力比べは不利だ。
ゆえにもう一度神術で距離を取ろうとして、
「え、」
刹那、カイルの手の中で得物がくるりと回った。カイルが意図して回したわけではない。ジョン・ドゥの剣が生き物のようにやわらかくカイルの剣を巻き取り、回転させ、握りが甘くなったところをすかさず跳ね上げたのだ。
おかげでカイルの剣は軽々と手中から弾け飛んだ。
それは文字どおり弾け飛んだとしか形容のしようがなく、剣は明後日の方向へ飛んでいったかと思えば木の枝に当たって無様に落ちた。
そのあと何が起きたのかは自分でもよく分からない。ただ気づけばカイルは嘔吐きながら地面に倒れ伏していて、起き上がろうにも体に力が入らなかった。
そんなカイルに外套で顔の見えない男が無言のまま歩み寄ってくる。
立ち向かわなければと思うのに、手足は痙攣するばかりで言うことを聞かない。
ああ、そうか。自分はあの男が手にしている剣の柄を鳩尾に叩き込まれたのか。
どうりで呼吸もままならないわけだ。男はついにカイルの眼前に立つや、相変わらず嫌味な顔でニヤッと笑った。そうして剣を振りかぶる、
「見せてもらったぜ、カイル。お前の覚悟ってやつをよ」
ああ、くそ、と、明滅する意識の中で毒づいた。
やっぱりダメだったか。そりゃそうだよな。相手が悪すぎる。
最初から敵いっこなかったんだ。でも、やれるだけのことはやったと思う。
みんながどう思うかは分かんないけど。
だけど、最後は救世軍を裏切らなかった。裏切らずに済んだ。
本当は帰りたかったけどさ。コルノ島に。
そしてひと言でいいから伝えたかった。
(……カミラ、オレは、さ、)
君がそうしてくれたみたいに、
(何、が、あっても、ずっと……ずっと──)
──ずっと、カミラの味方だから。
きっと今、誰よりもつらい想いをしているであろう彼女にそう言ってあげたかった。次に会うときこそは、やっと心からその台詞を言えると思ってたけど。
現実はそう甘くはない。風を切り、男の剣が降ってくる。
ああ、やっぱり自分はこうなる運命だったのか──
「立て、カイル!」
瞬間、カイルの魂が脈動した。
頭上から迫りつつあった白刃が、甲高い金属音と共に食い止められる。
カイルの視界で何かが舞った。
それは自分をかばうように立ち塞がった彼の外套のはためきだった。
次いでチカリと瞬いたのは──朱いバンダナの後ろで揺れた、雫型の金細工。
「剣よ、来たれ!」
かと思えば彼の右手の手套の下で神の魂が瞬いた。《命神刻》から生まれた光は征矢のごとく曇天を裂き、彼方で力尽きていたカイルの剣に入り込む。
直後、身震いした剣は目覚めたように宙に浮かんだ。
かと思えば獣の咆吼に似た音を立て、ジョン・ドゥめがけて一直線に飛来する。
異変に気づいた男はすんでのところで仰け反り、喉を裂こうとした獰猛な剣の怒りを躱した。そこへすかさず彼が攻め込めば、分が悪いと覚ったのか舌打ちと共に剣を弾き、反動を利用して後退する。
「じ……ジェロ──」
ああ、けれどその瞬間、カイルは少し悔しかった。
だってなんかムカつくだろ。自分よりひとつ年下の、出会った頃はどこか頼りなかったはずの同性の背中に、こんなにも心揺さぶられるなんて。
でも、同時に泣くほど嬉しかった。
信じてたんだ。心のどこかで、絶対に来てくれるって。
「カイルさん……!」
ほどなく藪の向こうからマリステアの声が聞こえて、カイルはすぐに助け起こされた。彼女の手を借りて起き上がる頃には鳩尾の痛みもいくらかやわらいでいる。
不思議だ。さっきまでろくに呼吸もできなかったのに。
「カイルさん、お怪我は……!?」
「だ……大丈夫、ありがと、マリーさん……けど、ジェロ、なんでここが……」
「君が残したんだろ、目印。ここまでの藪が剣で切り払われてたし、派手な雷鳴は聞こえるし……何よりこんな大事なもの、目印なんかに使うなよ。村の牧羊犬が咥えて持ってきたときは、ほんとに肝が冷えたんだから」
ジェロディがそう言って投げ渡してきたのは、カイルが森までの道に落としてきたあの羽根の耳飾りだった。万に一でも奇跡が起きて、カイルの不在に気づいた仲間たちが見つけてくれたら──と思いながらあそこに残してきたのだが、まさか牧羊犬に拾われるとは笑える話だ。
だけどやっぱり神様の愛ってすごい。まさか本当にそんな奇跡が起きるだなんて予想だにしていなかった。これほど不信心な自分でも神は救い給うのか。
コルノ島に戻ったら、次からはちゃんと礼拝にも顔を出そう。
そう心に決めながら、マリステアに支えられて立ち上がった。
背後からは続々と救世軍兵が駆けつけてくる気配がある。
「チッ、さすがにお遊びが過ぎたか。しかしまあ、いい仲間を持ったな、カイル」
と、負け惜しみなのか何なのか、男はそう言ってなおもニヤついていた。しかしそうしながらも両足はゆっくりと後退し、隙を見て森へ逃げ込もうとしている。
「さっきも言ったとおり、お前は手放すにゃ惜しい人材だったんだがな。フラれちまったもんはしょうがねえ。昔の男はここらで身を引くとするよ」
「待て。僕たちはあなたに聞きたいことが山ほどある。せっかくここまで来たんだ、もう少しお付き合い願おうか」
「ハハッ……相変わらずだな、お坊ちゃん。だが生憎、待てと言われて待てるほど暇な身分じゃあなくてね。悪いがここはトンズラさせてもらうとするよ」
「逃がすか──」
と、ジェロディたちが一斉に踏み込むのと、男が左手を振りかぶったのがほぼ同時だった。次の瞬間、男が地面に叩きつけた何かが割れて、猛烈な勢いで有色の煙が噴き出してくる──まさか。いや、でも、同じだ。
フォルテッツァ大監獄でカイルたちが見た、あの煙幕と。
「毒煙……っ!? みんな、下がれ!」
いち早くそれに気づいたジェロディが制止の声を上げ、兵士たちも急制動した。
その間にも男が地面に投げつけた球体はシュウシュウと音を立て、異様なにおいのする煙を吐き出している。まるで鶏の卵を大量に茹で上げたときのような……。
(……いや、待てよ?)
確かに今、カイルたちの目の前に立ち込める煙のにおいは強烈だ。
嗅いでいると鼻の奥がツンとして、目まで痛くなってくる。
でも、違う。発生の仕方は同じだが、カイルたちが大監獄で見た毒煙はいかにも毒々しい紫色だった。けれど今、視界を覆う煙幕はどうだ?
──黄色だ。
大量に茹でた卵の黄身を、本当に霧状にして撒き散らしているみたいな。
(もしかして、これなら……)
と、予感めいたものがカイルを急かす。ジェロディたちが左右で退避を始めているのに、両足は地面に張りついたまま動かない。
(……確証はない。でも)
仮に別種の毒煙だったとしても、こちらにはマリステアがいる。
彼女の癒やしの術があれば多少の毒なら解毒できるはずだ。
つまり煙を吸いすぎなければ、あるいは──
「カイル! 何やってるんだ、早く……!」
と、背後でジェロディが呼んでいるのが聞こえた。けれどそんな彼の意思とは反するように、刹那、カイルの視界にすっと現れたものがある。
それは剣だった。生命神に命を吹き込まれ、今なお空中を浮遊しているカイルの剣。そいつがカイルの目の前に現れて静止する。まるで〝掴め〟とでも言うように。だからカイルも無言で応えた。鑢がけされた木肌が巻かれただけの柄を掴む。
正直余裕なんてまったくないのに、ニッと口角が持ち上がった。
分かっている。ここであの男を逃がせば、自分はこの先も見えない敵に怯え続けることになる。だから今日で訣別するのだ。そのためにここへ来た。
「天に坐す我らが神よ」
遠い昔、両親に手を引かれて行った教会で唯一覚えた祈りの言葉を口ずさむ。
「どうか永久に、我らの魂があなた方の傍らに在りますように──栄えあれ」
覚悟は決まった。神々の愛と加護を信じて、一面真っ黄色の煙の中へ飛び込んでいく。息を止め、駆け抜けた。多少煙を吸い込んでしまったような気もするが呼吸はできる。体も動く。少し目に染みたくらいだ。いける。見えた。名無しの背中。
「オッサン!!」
呼び止めると同時に斬りかかった。振り向いた男がとっさに地を蹴り躱そうとする。実際、男はギリギリのところで斬撃を避けた。しかしカイルが下段から踏み込んで放った一撃が男のフードの端に引っかかり、跳ね上げる。
「ハッ……カイル、お前──」
見覚えのある顔がすぐそこで笑っていた。けれどあの余裕はもうなかった。
剣光が閃く。反撃だ。受け止めたが、弾かれる。
体格差と膂力にものを言わせた、文字どおりの力押しだった。おかげでカイルは体勢を崩され背後に向かって倒れ込む。ダメだ。このままじゃ。逃げられる。
いや──逃がしてたまるか。
「雷槍……!」
倒れながら、されど最後の希望を託して叫んだ。
左胸から腕を伝い、ほとばしった雷光が一瞬天に吸い込まれる。
直後、天空から降り注いだ雷の槍が男の眼前に落ちて弾けた。割れるような雷鳴が轟き、大地が揺れる。驚いた。今までの術とは比べものにならない威力だ。
……これが信仰の力ってやつ?
神々の力を甘く見ていた。盛大に吹き飛んだ地面の残骸を頭から浴びて、男が足止めを食っている。けれど同時にカイルも尻餅をついた。立ち上がらないと。
そう思った刹那、
「マリー!」
背後からジェロディの声。即座にマリステアの祈唱がそれに応える。
「氷霜の枷!」
水刻が発する光が木立の間を貫いた。
かと思えばカイルの視線の先で、男の足もとにパッと青白い花が咲く。
否、ただの花ではない。マリステアの神刻が生んだ氷の花だ。そこから立ち上る強烈な冷気が、たちまち男の両足を絡め取った。革靴にも脚衣の裾にもみるみる霜が張って凍りつき〝氷霜の枷〟の名のとおり男を大地に縫い止める。
「おいおい、冗談だろ──」
と苦々しく笑った男がすかさず剣を真下に構えた。神術の源である氷の花を割り砕き、逃れるつもりだ。だが男のもくろみは失敗に終わった。何故なら頭上から突然人影が降ってきて、目にも留まらぬ速さで男の喉もとに刃を突きつけたからだ。
「動くな」
カイルの知らない言語で短くそう言ったのはあの日、ポンテ・ピアット城の取調室でカイルを連行しようとした壮年の兵士だった。しかし一体どこからどうやって降ってきたのか、身のこなしが明らかに只者ではない。おかげでカイルは腰を抜かしたまま呆気に取られ、刃を向けられた男も身を硬くした。が、これはもう勝算がないと観念したのか、男はやがて嘆息するや手にした剣を足もとへと放り出す。
「くそ……シノビがいるなんて聞いてねえぞ。分かった分かった、降参だ。無駄な抵抗はやめるから、さっさと術を解いてくれ。でないと足が霜焼けになっちまう」
男が半ば捨て鉢になってそんなことを喚いている間に、バタバタと複数人の救世軍兵が追いついてきて彼を拘束した。かと思えばカイルもぐいと腕を引かれ、ぎょっとして振り向いた先にジェロディとマリステアの姿がある。
「カイル! 君、毒は? さっき毒煙の真ん中を突っ切っただろ!?」
「へっ……? あ、あー、いや……なんか意外と大丈夫っぽい? というかたぶんあれ、毒じゃなかったんじゃないかな? 大監獄で見たやつと色が違ったし……」
「だからって生身で突っ込むやつがあるか、神子でもないくせに! どこか痛むところは? 本当に何ともないんだな!?」
「お、おう……え、えっと、心配かけてごめんなさい……?」
直前まで気が抜けてぽけ~っとしていたこともあり、カイルは事態についていけないままとりあえず謝罪した。するとジェロディもマリステアも深々とため息をつき、ふたり揃って脱力している。……ほんと仲いいよね、君ら。
「よ、よかった……一時は本当にどうなることかと思いましたよ。大きなお怪我もなくて何よりですが……」
「ああ……心配させた自覚があるならもうあんな馬鹿な真似はやめてくれ。いくら何でも無茶しすぎだよ」
「い、いやあ、ははは……悪い悪い、オレも無我夢中だったからさ。それに今までオレがしてきたことを考えたら……こんくらいやんなきゃ釣り合わないだろ?」
「……へえ、驚いた。君も一応そういうの気にするんだ」
「おい、ジェロ! こういうときは普通優しいねぎらいの言葉をかけるんだぞ、仲間ならな!」
素直すぎるジェロディの反応に思わず憤慨すれば彼は笑って、ちっとも反省してなさそうな顔色で「ごめんごめん」と謝った。隣ではマリステアもつられて笑っている。笑って済ませるなよな、とそんなふたりの反応に口を尖らせつつ、彼らの笑顔を見たら何だか無性にほっとした──だって、生きてる。生きてるんだ、オレ。
そう思ったらまた柄にもなく目頭が熱くなったから、そっぽを向いて誤魔化した。が、ほどなくカイルの眼前に革の手套を嵌めた手が差し出される。
ジェロディ。何も言わずに、まっすぐカイルを見つめていた。
だからカイルもその手を取って立ち上がる。
「それで、問題の〝名無しの男〟だけど……」
と、立ち上がったカイルが本当に無傷なのをざっと確かめたあと、ジェロディは表情を引き締めて拘束された男に向き直った。マリステアがかけた術は既に解けていて、後ろ手に縛り上げられた男はあぐらをかいてうつむいている。
……まさかこの男のこんな姿を見る日が来るなんて思わなかった。
カイルは固唾を飲んでジェロディの後ろに立った。
彼こそが今日まで自分を裏で操っていた男であることはもはや説明するまでもない。ジェロディは男の正面に立ち、赤銅色の髪を見下ろした。
あたりにピリリと緊張が走る。
「はじめまして。あなたがカイルの雇い主ですね」
「……」
「僕はジェロディ・ヴィンツェンツィオ、知ってのとおり救世軍の現総帥です。あなたの名前は?」
「……」
「名乗ってもらわないと、呼び方に困るのですが」
「呼び名なら前に教えたろ。本名を名乗れって話なら、残念ながらとうの昔に捨てちまったんで名乗れない」
「え?」
「久しぶりだな、お坊ちゃん。元気そうで何よりだよ」
そう言って男はついに顔を上げた。やや落ち窪んだ眼窩の奥にある青鈍色の双眸が、怯みもせずにジェロディを見上げる。途端にマリステアが息を飲んだ。
どうしたのかと振り向けば、口もとを覆った彼女の手が驚愕に震えている。同じようにジェロディもまた、信じられないものを見る目つきで男を凝視していた。
そうして譫言のように「嘘だ」と呟き、よろりと一歩あとずさりながらカイルの知らない名前を呼ぶ。
「ジェイク──?」
カイルは耳を疑った。
どうやら今、この瞬間まで名無しであったはずの男は、ジェロディたちの顔見知りであったらしい。




