259.心臓は燃えているか
(……どうしよ)
と、明かりひとつない暗闇の中を冷たい壁伝いに歩きながら、カイルは自問を繰り返した。
(いや、マジでどうしよ)
じゃぶじゃぶと足もとで鳴る水音が余計に思考を掻き乱していく。
ただでさえ焦りと動揺でろくに頭が回らないというのに、目隠しされるのに似たこの真っ暗闇は卑怯だ。
『いいか、カイル。無事に生きて帰りたきゃ、今から俺の言うとおりにしろ』
あの男の有無を言わせぬ低い声が頭の中に響いたのは、今から四半刻(十五分)ほど前のこと。
『俺はお前を見てるぞ、カイル。──あとは分かるよな?』
まだ歩き始めてほとんど時間が経っていないはずなのに、早くも息が上がっていた。膝下まで水に浸かっていて、一歩踏み出すのにも必要以上の労力を必要とするせいだろうか。おまけにさっきから体の震えが止まらない。
(寒い、のか? まあ、そりゃもうすぐ冬だしな……寒いと言えば寒い、けど)
でも今は胸の内側で暴れる心音がうるさくて、暑いとか寒いとか感じている余裕がなかった。ただ奥歯が小刻みに、微かな音を立てるのを聞きながらカイルは出口を求めてさまよう。──あった。光。ほんの小さな光だが、行く手の水面に反射している。カイルはそこまで駆けていき、頭上を見上げた。円筒状に伸びた空間の先に蓋をされた出口が見える。光はあれの隙間から漏れているのだ。
バンボラ村の井戸の中だった。どうしてカイルがそんなところにいるのかというと、宿を営む寡黙な老婆からここへ入るよう促されたからだ。
いや、順を追って整理しよう。まず今から四半刻ほど前、カイルは待機していた宿の部屋でジョン・ドゥから指示を受けた。曰く、宿は既に救世軍の手勢に囲まれているから、井戸へ続く隠し通路から外に出ろ、と。
なんでこんな辺鄙な村の古ぼけた宿に隠し通路なんかあるんだよ、とカイルは心底問い詰めたかったが、とりあえず今はいい。問題はジョン・ドゥが宿の周囲で張り込みしているジェロディたちの存在に気がついてしまったことだ。彼らが物陰に身を潜めながらぐるりと宿を囲んでいる理由を問い質されたカイルはとっさに、
「つ……尾けられた……んだと思う、たぶん」
と答えた。自分が既に救世軍側についていることを隠し、未だ彼らと敵対しているよう見せかけるために。
その答えをジョン・ドゥがどう受け取ったのかは分からない。
彼は納得したようにも、疑っているようにも聞こえる声色で『ふーん』と相槌を打つと『ならまずは宿から脱出しろ』と命じてきた。救世軍が待ち伏せている以上自分は直接助けに行けないから、まずは監視を振り切れと。
それは言外に〝ひとりきりで俺に会いに来い〟と言われているように感じた。
しかしカイルには逡巡する暇も与えられず、男からの通信が一方的に途切れた途端、まるで見計らったようなタイミングで老婆が部屋を訪ねてきた。そして、
「お食事のご用意ができました」
と、老婆は静寂を湛えた瞳でカイルを見据え、そう告げたのだ。
時刻はちょうど昼飯時に差し掛かろうとしていたから、彼女が食事の時間を知らせに現れたことは何ら不自然ではなかったが、カイルは決して自分から目を逸らさない老婆の眼差しに何かあると感じた。で、ついていったら食堂ではなく厨房に通され、隅の戸棚の裏に隠された小さな扉をくぐれと言われたわけだ。
そうしてカイルはここにいる。ジョン・ドゥと彼の関係者と思しい老婆の言いなりになって、井戸の内側に設けられた凹凸型の梯子を登っている。
でも果たしてこれでいいのか。まるで自分の一挙手一投足を見張っているかのような老婆のせいで、カイルは部屋に書き置きひとつ残してこれなかった。
というか、何かあった際には外にいるジェロディたちにも見えるよう、窓から所定の合図を送るという取り決めになっていたのに、それすらも果たせなかった。
おかげで自分が今ここにいることをジェロディたちに知らせる術がない。一応一刻(一時間)に一度、異常がないことを教えるために窓の前に立ったり顔を見せたりする約束になっているけれど、次の安否確認はまだ半刻(三十分)も先だ。
食事のために席をはずしたり、睡眠を取ったりする際には窓辺に赤い布をかける決まりになっているから、何の合図もないまま長時間カイルが顔を覗かせなければジェロディも異変に気づいてくれるだろうけど。
彼らがおかしいと気づく頃には、自分はもうこの世にいないかもしれない……。
(いやいやいや……どう考えてもまずいだろ、これは)
無理矢理持ち上げた口の端を引き攣らせながら、ひとまず梯子を上り切ったカイルは井戸に乗せられた木の蓋を下から持ち上げた。
周囲に人の気配がないことを確認し、這うようにして外へ出る。
ようやく陽の光が届く場所に戻ってこられて、カイルはへたり込んだまま大息をついた。そんなに長い距離ではなかったとは言え、水の中を歩いてきたせいで脚衣は腿のあたりまでビショビショだ。それを両手で絞りながら、今の自分の状況をどうにかジェロディたちに知らせる手段はないかと思案した。
ジョン・ドゥは〝お前を見てるぞ〟とか何とか言ってたものの、やはり周囲に人影はないし、ここで一発神術でも撃っておけば──
『──よう。無事に出てこれたみたいだな』
刹那、カイルの脳内にまたあの男の声が響き渡った。
『何を驚いてる。言ったろ、俺はお前を見てるぞって』
鈍器か何かで心臓をドッと殴られたようだった。ヒュッと掠れた音を最後に息が詰まるのを自覚しながら、カイルはとっさに周囲へ視線を走らせる。
しかし視界に入るのは、黄砂岩を使った塗り壁に藁葺きの屋根を乗せた民家が点々とする鄙びた閑村の景色だけ。遠くで放牧されている牛の鐘が鳴る音はするものの、他には物音も人影もない、不気味なほどのどかな村だ。
「お……オッサン、近くにいるの? どこ? いい加減出てきてよ」
『まだだ。まだほとんど宿を離れてない。そこにいたんじゃすぐにやつらに見つかるだろう』
「じ、じゃあ、どうすれば……」
『道に出ろ。石垣に沿って進むと、村の奥へ進む道と森へ入る道に分かれる。そしたら迷わず森に入れ。しばらく林道を進んだ先に目印を出しておく』
「目印?」
『お前の愛しいアーニャからの手紙だよ。獣道の入り口にぶら下げておくから、取ったらその道を進んでこい。モタモタしてると通りかかった村人に恋文を読まれちまうぞ』
「ちょ……ちょっと待ってよ。オレ、宿に馬を預けっぱなしで──」
『馬は諦めろ。目立ちすぎるし、蹄の跡で追跡される。あるいは何か宿に戻りたい理由でもあるのか?』
「そ……そんなのは別にない、けど」
『じゃあ黙って言われたとおりにしろ。生きてまたアーニャに会いたけりゃな』
「……」
『しかしお前と会うのもかれこれ半年ぶりだなあ、カイル。久しぶりに直で話せるのを楽しみにしてるぜ』
若干の嘲りを感じないでもない口調でそう言って、男はまたも一方的に通信を切った。下手に喋ればボロが出そうだから、カイルとしても会話が長引かずに済むのは有り難いのだが、この状況はやっぱりまずい。
(……あのオッサン、今もどこからかオレを見てるってことだよな。だとしたらジェロたちのところに戻るどころか、じっくり考えてる暇も……)
座り込んだままいつまでもぼんやりしていれば確実に怪しまれる。ただでさえ男がカイルの言い分を信じているのか疑っているのか判然としないのに、ここで不審がられるのは悪手だ。カイルはおもむろに腰を上げながら、結局男の言いなりになるしかない自分に切歯した。けれどもくろみがバレれば男の身柄を押さえるどころか、アーニャやカイラを守り抜くことさえ困難になってしまう……。
「くそっ……」
カイルは念のためにと部屋から羽織ってきた外套のフードを被り、舌打ちと共に立ち上がった。正直何もかも忘れて逃げ出してしまいたいと願う程度には足が震えている。頭の中が真っ白で、考えても考えてもどうすればいいのか分からない。
でも、
『カイル。僕たちは君やアーニャのような人を救うためにここにいる。君がどんなやつだろうと、黄皇国の暴虐に苦しむ民である限り、何度だって手を差し伸べる。それが僕の信じる救世軍だ』
極限の緊張の中、からっぽの頭に響いたのは名無しの男の声ではなくジェロディの声だった。おかげでほんの少しだけ口角が持ち上がる。カイルはフードを目深に被り、腰にはしっかりと剣が括りつけられているのを確かめてから走り出した。
井戸のある小さな広場を抜けて、畑に挟まれた道を馳せる。カイルの腰高ほどもない石積みの向こうには、刈り入れの終わった麦畑が広がっていた。
そんな村の景色を後目に、やがて見えた分かれ道を右へ折れる。左は村の奥へ進む道。そして右はほとんど葉が落ちようとしている、秋の森へと続く道だ。
「チャリン」
ところが道を折れてほどなく、カイルの足もとで何か小さな音がした。
もちろんカイルにも聞こえていたが、知らんぷりをして森へと駆ける。
土を叩いた微かな金属音は、カイルの右の耳飾りが落下した音だった。
アーニャと別れる当日に彼女に贈った結婚石。
その片割れを道の真ん中に残したまま、カイルはいよいよ森へ分け入っていく。
(信じてるからな、ジェロ)
未だ足は震えているけれど、構わずまっすぐ伸びた林道を進んだ。
バンボラ村は農業よりも林業が盛んな村だとかで、森で切り集めた材木を運ぶ道がそこそこ整備されている。落ち葉を被った林道の上には輓馬が橇を引いて通ったと思しい轍が残り、わずかに雨水が溜まっていた。
けれど今は樵の斧音も聞こえず、森はシンと静まり返っている。
「……あった」
そんな森の中をしばらく進んだ頃、不意に自然物ではない白色が目に留まった。走り寄って手を伸ばせば、それは枯れ木の梢にぶら下げられた一通の封筒だった。
封筒には垂直に交差させるように紐が巻かれていて、その紐の端部を枝の先に引っかけてあるようだ。が、手を伸ばしただけでは届きそうで届かない、何とも絶妙な高さに吊り下げられていたせいで捕まえるのに難儀した。
こういうささやかな嫌がらせをしてくるあたりがいかにもあの男らしい。
(アーニャ・ランベルティ)
とは言えやっとの思いで手にした封筒には、愛しいひとの筆跡で愛しい名前が綴られている。カイルはそこにある差出人の名を静かに指で撫でたあと、封筒に軽く口づけてから懐にしまった。
(この手紙を読みたけりゃ生きて戻れよ、カイル)
そう自分に言い聞かせ、道を逸れる。手紙の傍には獣道があると男は言っていたけれど、そこにあったのは道とも呼べぬ細い細い木立の隙間だ。
ただでさえ足もとがぬかるんでいるというのに、ここを歩くのかよとげんなりしながら、カイルは無遠慮に生い茂る枝葉をどうにか掻い潜った。
見るからに邪魔な枝は剣で切り落とし、足を滑らせないよう慎重に進む。
しかし果たしてこんなところを鹿や猪が通るのか──と思いながらしばらく藪漕ぎを続けていると、不意にパッと視界が開けた。本当に唐突だったので驚き、思わず「あれ……?」と呟いて足を止めれば、次の瞬間、死角から声がする。
「よお、カイル。久しぶりだな」
またも豪快に心臓を殴られた。何かを思考するよりも早く本能だけで振り向いた先には、大きな切り株に腰を下ろした中年の男がいる──間違いない。
ジョン・ドゥ。トリエステが便宜上そう名づけたカイルの雇い主だった。
こうして面と向かって話すのは黄都で一別して以来だ。半年前にピヌイスで再会したときには、男はリチャードの傍らで地方軍兵のふりをしていて、自分はウォルドに怪しまれぬうちにとそれを追い払っただけだったから。
「……オッサン。ほんとに来てくれたんだ」
「ああ。何だよ、疑ってたのか? 傷つくなあ」
と、高そうな葉巻を吹かしながら男は心にもないことを言う。
今日の男は男物の外套のフードで顔を隠していることを除けば、バンボラ村のしがない樵と紹介されたところで誰もが納得するような身なりをしていた。
が、得物には斧ではなく剣を持ち、闇にまぎれやすそうな色のケープの下に、にぶく明滅する青い石の首飾りを下げている。
「首尾よく行ったんだろうな」
「見てたんじゃないの?」
「野郎をつけ回す趣味はねえよ。俺が見てたのはお前が森に入るとこまでだ」
「……じゃ、なんでオレより先にここにいるわけ?」
「細けえことは気にすんな。しかしお前、マジでしくじりやがったな。連中に正体を見抜かれたあげく、逃亡先までご丁寧に教えちまうとは」
と、まだ充分吸えるだろう葉巻を惜しげもなく足もとへ放り、革靴の底で念入りに踏みつけながら男は言った。いきなり話の核心を衝かれてギクリとしつつも、カイルは被ったフードの先を引っ張り、顔色を隠しながら横を向く。
「……ごめん。でも、もう正直限界だったんだよ。こうなる前から、トリエさんにはずっと目をつけられてたみたいだし……」
「ふーん。で、お前はどうやって『深謀』のお嬢さんを出し抜いたんだ?」
「出し抜いた、って?」
「脱獄してきたんだろ、お前。世が世なら間違いなくオーロリー家の当主になってたであろう才女トリエステ・オーロリーに捕まっておきながら、あのお嬢さんの百術千慮の裏を掻き、見事城を抜け出してきた。しかも剣から念受石まで、所持品もバッチリ取り返して、だ」
と、男は顎髭の生えた口もとを意味深にニヤッとさせながら、カイルの腰の剣を指差した。男がいつでも掴み取れる位置に置いているのと同じ、普通の長剣よりもやや刃渡りの短い剣だ。ただ鞣し革の鞘にくるまれた男の得物とは違い、カイルの剣は全体的に質素なつくりの数打ちの剣。思えば「宿屋の息子がお遊びでぶら下げるならこれくらいのがちょうどいいだろ」とカイルの得物を選んだのも、その宿屋の息子に剣術の基礎を叩き込んだのも、全部全部この男だった。
「……脱出の経緯なら最初に説明したろ。手を貸してくれた女の子がいたんだよ。オレがスパイ容疑をかけられてるって知って、助けに来てくれた女の子が……でも結局はアレもトリエさんの策略だったのかも。そうやって敢えてオレを逃がすことで飼い主のところまで案内させようとしたんじゃない? ちょうどこんな風にさ」
「なるほどね。ま、ありえない話でもねえな。そもそもお前にゃ、尋問されたところで困るような情報は何も与えてなかった。そいつを早々に見抜いた『深謀』殿がお前を餌として撒いたんだとしても、何ら不思議ではねえけどな」
そう言いながら男はついに剣を掴み、ゆっくりと立ち上がった。
並んでみるとそれほど高身長というわけでもないのに、すらりと長い脚や歳のわりに引き締まった体は男の背丈を実際よりも高く見せる。
いや、そもそもカイルは目の前の男の正確な年齢を知らない。
パッと見た印象から勝手に四十絡みだろうと思っていたが、ときと場合によってもっと若く見えたり老けて見えたりすることがある。つまり年齢不詳なのだ。
現に今も切り株から腰を上げただけなのに、男は大儀そうに息をついて赤銅色の髭を扱いていた。そういう仕草がいちいち年寄り臭く見える一方で、いざ剣を合わせれば体捌きは驚くほど若々しく、並の兵士では恐らくまったく相手にならない。
(……マジで何者だよ、この人)
と、今日まで考えることを避けてきた問題と直面しながらカイルは内心身構えた。男が左手に握るあの剣を抜き放ち、今にも斬りかかってくるのではないかと警戒しつつ懸命に平静を装う。こうして直接会って話してみても、男が腹の底で何を考えているのかまったく読めない。疑われているのか、信用されているのか。
しかしどちらにせよ、今の自分にできるのは時間を稼ぐことだけだ。
「……で、さ。先に確認しておきたいんだけど、オレってこれからどうなるわけ? 任務はもう続けられないけど、あんたらの要求には可能な限り応えてきた。なら最初の契約は有効だよな? アーニャたちの将来は保証してくれるんだよな」
「あー、まあ、そうだな。その辺も含めて、お前には色々と伝えておかにゃならんことがある。いい加減お前も俺らの正体を知りたい頃だろ」
「えっ……そ、そりゃ、教えてもらえるなら知りたいけど──って、」
ところがカイルが男との会話に気を取られた一瞬の隙に、事態は動いた。手にしていた剣を腰帯に差した男がポキリと首を鳴らしたのを合図に、森へ向かって歩き出したのだ。正直カイルは戸惑った。特に促されたわけでもないが、あれは恐らく〝ついてこい〟という意思表示のはずだ。しかし今この場を離れるのはまずい。
もう少し、あと少しでいいから時間を稼げれば……。
「ちょ……ど、どこ行くの?」
「どこって逃げるに決まってんだろ。いくら一時的に追跡を振り切ったとは言え、ここはまだやつらの勢力圏内だ。詳しい話はもっと安全な場所に着いたらしてやるよ。馬も別に用意してあるしな」
──ダメだ。
とっさに喉から出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
でも、ダメだ。生かされるにしろ殺されるにしろ、男についていったらジェロディたちとは二度と合流できなくなる。
それどころか宿にいたはずのカイルがいきなり行方を晦ましたとなれば、ジェロディたちはどう思うだろうか。初めは心配されるかもしれないが、やっぱりあいつは裏切り者で、自分たちを信用させてから逃げ出したと思われるのでは?
(……そんなの、嫌だ)
こちらを振り向きもせず、森の奥へ向かって歩いてゆく男の背を見据えながら、カイルは吐息を震わせる。
(やっと仲間になれたんだ。信じてもらえたんだ。なのに──)
なのにまた救世軍の信頼を裏切るなんて。
そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。
ならば自分に残された選択肢はひとつだけ。
「……っ!」
覚悟を、決めた。
額から流れた汗が顎先から滴り落ちるのを待って、震える指で腰の剣を掴む。
次の瞬間、カイルは鋭く地面を蹴った。
息を詰め、一瞬で肉薄し、無防備な男の背中に剣を、抜き放ち振りかぶる──
「カイル」
男の声がカイルを呼んだ。刹那、甲高い鉄の音と共にとんでもない衝撃が来る。
剣の柄を力いっぱい握った両手が痺れるほどの斬撃だった。
それを刃で受け止めたカイルはしかし吹き飛ばされ、たたらを踏んで踏み留まったところへ追撃の剣が来る。カイルの腹部へ捩じ込むように繰り出された鋭い刺突を、すんでのところで回避した。だが瞬間、カイルは嫌でも理解する。
──失敗した。最初で最後のチャンスだったのに。
「あーあ。大方そんなこったろうとは思ってたけどよ。悲しいなあ、カイル。俺たち、今日まで持ちつ持たれつでお互い上手くやれてたじゃねえか。なのに最後の最後で裏切るなんてあんまりだぜ。結局俺よりも連中を取るんだな」
望みが絶たれた絶望で息が上がる。されど目の前で肩を竦めている男に向かって、カイルはなおも剣を構えた。こんなときまで剽軽に戯けてみせる男の余裕が忌々しい。やはり自分の裏切りは初めから想定されていたということか。
──まあ、無理もないよな。途中からあれだけカミラに入れ込んでれば。
自分でもそう自嘲したくなる程度には、分かりやすかったのだと思う。
けれどここまで来たからには、カイルだって腹を括るしかない。
「あのさ、気持ち悪いから男に浮気された女の子みたいなこと言うのやめてくれる? だいたい何が持ちつ持たれつだよ、あんたらがほとんど一方的にオレを利用してただけだろ! おまけに最後は人を捨て駒扱いして……!」
「はあ? 何だよ、捨て駒って?」
「とぼけんな! あんたら、オレ以外にも救世軍に間者を潜り込ませてるだろ? なのにそのことをオレに隠して囮にしてさ! トリエさんが言ってたよ、あんたらは救世軍の疑いの目をオレに向けさせることで、本命の間者の存在を上手く隠してたんだろうって。そう考えれば素人を間諜として送り込むなんて無茶な策にも納得できるってな!」
「……」
「だから悪いけど、あんたらのことはもう信用できない。オレは今日から救世軍につく。けど、あんたにも一応感謝してるよ。いざというとき自分の身を守れるようにって、あんたが最初につけてくれた稽古のおかげで今は救世軍の兵士として戦えてる。でもってこれからも救世軍のために戦える……!」
「なるほどね。じゃ、アーニャとカイラのことはもうどうでもいいってことか」
「どうでもいいわけないだろ。ふたりのことはオレが自分で何とかする。ジェロたちと一緒に黄皇国をぶっ倒して、アーニャをあのクソみたいな家の呪縛から解放する……! 思えば最初からあんたらみたいな怪しい連中を頼ったのが間違いだったんだ、本当にアーニャたちのことを想うならな!」
いや、アーニャやカイラのことだけじゃない。自分の馬鹿げた決断のせいで母親であるアンドリアまで危険に巻き込んでしまったし、今日まで自分を庇ってくれたカミラにもずいぶん迷惑をかけた。果てはターシャの秘密まで暴き、彼女が神子であることを白日の下に晒してしまった。ああ、本当にとんだ大馬鹿者だ。
でも、だからこそ、自分はまだこんなところでは死ねない。
アーニャやカイラを遺して先に逝くなんてまっぴらごめんだし、アンドリアのことだって心配だし、何より今までの自分の行いを何ひとつ償えてない。
すべては最愛のひとを守るためだったと言えば聞こえはいいが、自分がカミラたちを欺き続けてきた事実に変わりはないのだ。だから償いたい。そして今度こそ彼女たちの本当の仲間になりたい。もう誰にも嘘はつきたくなかった。
そのせいで真実の神子に見放されたりしたら、わりと普通にショックだし。
「へえ、そうかい。そこまで大見得切るってことは、ちゃんと覚悟はできてんだろうな。救世軍のために死ぬ覚悟がよ」
「……!」
「こういうのは柄じゃねえんだが、しょうがねえ。そういうことならいっちょお前の本気を試してやる。かかってこい。本当に黄皇国を打倒する気があるなら、俺を殺す気でな!」
ニヤリと口角を上げた男の気魄に、カイルは一瞬圧倒されかけた。
されどすぐに気を持ち直し、剣を握り込み、己の全身全霊を乗せて斬りかかる。
ふたつの剣が曇天の下でぶつかり、火花を散らした。
カイルの左胸に刻まれた雷刻が、鼓動と共に燃えている。




