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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
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258.もう一度君に会うために


 ──〝心臓が口から出そう〟って、たぶんこういう心境のことを言うんだな。


 頭の片隅でそんなことを思いながら苦笑して、カイルはふーっと何度目かの深呼吸をした。

 正直昨日から心臓がバクバク言いっぱなしで胸が痛いし、こんなんで大丈夫なのかオレ? と不安は尽きないものの、しかしここまで来たからにはやるしかない。

 ポンテ・ピアット城の東、馬で二日ほどの距離に佇むバンボラ村。

 カイルは現在その村にひとつしかない小さな宿にたったひとりで宿泊していた。

 いや、ひとりで、というのは多少語弊がある。確かに泊まっているのはカイルひとりだが、周辺にはジェロディを始めとする数人の救世軍兵が潜んでいて、昨夜からこの宿屋を厳重に監視している。

 彼らが警戒しているのは黄皇国(おうこうこく)間諜(かんちょう)であることが発覚したカイルの逃亡──ではない。カイルの口封じにやってくるかもしれない()()()の出現だ。


「──では、カイルを裏で操っていた勢力を(あぶ)()す方法として今、最も有効と思われる手段を進言致します」


 とトリエステが事情を知るジェロディとマリステア、そしてターシャを呼び集めてそう宣言したのが三日前のこと。()()()()()()()()()()ようやくスパイとしての重圧から解放されたカイルはしかし、思いもよらない形でこれまでの行いのツケを払わされる羽目になった。それが今回の囮作戦(おとりさくせん)だ。

 トリエステは救世軍に投降したカイルから(しぼ)()れるだけの情報を洗いざらい吐かせると、そこから有用な情報を的確に拾い集め、こんな計画を立案した。

 (いわ)く、カイルが〝オッサン〟と呼んで従っていた男と彼の属する勢力は、トラモント黄皇国の皇家と何らかのつながりを持つ組織である可能性が高い。

 とすれば彼らがカイルを利用して救世軍の内部情報を集めていたのは、当然ながら皇家に反旗を(ひるがえ)す救世軍の存在を危険視し、隙あらば誅滅(ちゅうめつ)しようという意図があるためと考えられる。だが彼らは今回のポンテ・ピアット城攻略戦において、カイルとは別の間者を使って作戦内容を把握し、黄都守護隊(こうとしゅごたい)の介入を促した。

 それは同時にカイルが彼らから()()()と見なされた可能性を(はら)んでいるとトリエステは言う。仮にそうであるならば、わずかながらもあの男たちの情報を握るカイルは口封じのために命を狙われる危険がある、とも。


「であるならば我々はその状況をこちらの優位になるよう利用すればよいのです。カイル、あなたは例の男──仮に〝名無し(ジョン・ドゥ)〟と呼称しますが、彼とはこの魔石を使って連絡を取り合っていたと言いましたね? しかも三日から五日に一度というかなりの頻度で」


 と三日前にトリエステが突きつけてきたのが、現在カイルの首に下がっている深い青色の宝石だ。刃物で分断されたみたいに綺麗な切り口を晒す結晶の中には、まるで石と一緒に切られたかのような半球状の光があり、今も断面の向こうで明滅していた。カイルはそれを趣味で集めた首飾りの中にまぎれ込ませることで常に身につけ、いつでも男と連絡が取り合えるようにしていたのだ。

 ちなみにトリエステが〝ジョン・ドゥ〟と名づけた男はこの石を『念受石(ねんじゅせき)』と呼んでいた。もともとはひとつの石だったものをふたつに分けて、それぞれを所持するふたりの間に念話──互いに遠く離れていても念波による会話を可能とする術──の力を与える貴重な代物だと。


 ついでに言えば念受石とは魔石の一種だとも聞かされていたが、トリエステの調べによれば、実際にはアビエス連合国で生産されている希石(きせき)の一形態だという。

 ちょうど連合国から援軍としてやってきたアーサーたちに聞き込みをしたところ、数ある希石の中でも特に稀少なもので、軍ではよく使われるが一般にはほとんど流通していない、との答えが返ってきたそうだ。

 そんなものを男がどうやって手に入れたのかは(はなは)だ疑問だが、いま考えるべきはそこではない。カイルがジョン・ドゥに最後の連絡を入れたのは八日前──一体何がどうなっているんだと、ピヌイスで問い詰めたときだった。

 カイルは今回の救世軍の作戦がポンテ・ピアット城の急襲だなんて本当に知らなかったのに、何故だか情報が国側に漏洩していて、しかもカミラの兄が黄都守護隊にいたというとんでもない事実の連鎖に思考がついていかなかったのだ。

 だからあの夜、カミラとマリステアが席をはずした隙に隠れてジョン・ドゥへ連絡した。あんたらはカミラの兄さんが黄都守護隊にいることを知ってたのか、と。


『知ってたに決まってんだろ』


 すると見えないどこかで、さも当然のようにジョン・ドゥは(うそぶ)いた。


『だがそれとお前の任務には一切関係がない。だから知らせなかっただけだ。別にお前だって知る必要なんかなかったろ? なあ、カイル』


 と、何もかも見透かした上で嘲笑うように。

 ……正直、あの晩のことは思い返すだけで胸が悪くなる。ジョン・ドゥとの通信が終わったあとも、カイルは膝を抱えたまましばらく動けなかった。

 口ではカミラを守るなんて言いながら結局利用されるだけ利用されて、彼女のために何もしてやれなかった自分があまりにみじめで情けなくて、(いきどお)ろしかった。

 だからきっとヴィルヘルムが迎えに来てくれなかったら、自分はもうカミラに顔向けできなかったと思う。ヴィルヘルムはトリエステやウォルドと情報を共有していたはずなのに、何故だかカイルを信用してくれて、立て、と言った。

 自分を許せないのなら、カミラのために出来得る限りのことをしろ、と。

 思えばあれは、エリクのことを知っていながら何らかの理由で沈黙せざるを得なかったヴィルヘルムが、自分自身に言い聞かせた言葉だったのではないかとカイルは思う。ヴィルヘルムはカミラから恨まれることなんて最初から覚悟の上だった、みたいな顔をしていたけれど、本心ではどう思っていたのだろう。


 だって、本当は誰かに打ち明けたくてたまらないことをずっとひとりで抱え込むというのはこんなにも苦しい。それでもアーニャとカイラのためならと、カイルは永遠に口を(つぐ)む覚悟でいたけれど、結局その覚悟も一年と持たなかった。カミラのことが──救世軍のことが好きになればなるほど胸の中の隠しごとは膨らんで肺を圧迫し、呼吸を(さまた)げ、日ごとカイルを(さいな)んだ。

 ならヴィルヘルムは、一体どんな想いでエリクを探すカミラを見守っていたのだろうと寝台の頭板(あたまいた)(もた)れ、(ひも)の先の念受石を(もてあそ)びながらカイルは思う。

 仮に自分が彼の立場だったなら、あんな風に黙っていられただろうか。

 カミラが自分を信じて笑いかけてくれるたび、罪悪感で胸が軋む音を聞きながら、知らない方が幸せなこともあると……そんな陳腐な言い訳を盾にして、自分の心を守りきることができただろうか?


「ピピピピピ……!」


 ところが刹那、寝台の傍らにある開けっぱなしの窓の向こうから甲高い鳥の鳴き声が聞こえて、カイルはびくりと飛び上がった。

 三日前からずっと緊張状態にある脳が現実逃避を求めたためだろうか、つい物思いに(ふけ)ってしまったが、ぼんやりしている場合じゃない。今の自分はアーニャ、カイラ、アンドリア、そして救世軍の命運を背負ってここにいるのだ。


「──そう、五日です。カイルがジョン・ドゥへの連絡を断ってから今日で五日が経過します。当然ながら先方はカイルと連絡を取ろうと念受石に呼びかけているでしょうが、この石は所有者の肌に触れていないと効力を発揮しないそうですね。ということは私がカイルを尋問にかけ、着衣以外の所持品をすべて没収した時点から、カイルとジョン・ドゥのつながりは完全に断たれている。とすれば先方は今頃、カイルからまったく何の応答も得られないことを不審に思っているはずです」


 と言いながら、念受石が肌にも触れないよう紐の先を持って超然と摘まみ上げていたトリエステの姿を思い返すたび、カイルの口には苦笑いが浮かんだ。

 トリエステはたぶん、カイルが投降の意思を示したあとも完全には心を許しておらず、だから所持品もああしてなかなか返してくれなかったのだろうと思う。

 自分はとにかくアーニャとの内縁の証である羽根の耳飾りだけでも返してくれと懇願したのだけれど、結局見かねたジェロディが説得してくれるまで、トリエステは耳飾りはおろか首飾りの一本も返してはくれなかった。

 あそこまで徹底的に疑われるといっそ清々しいよなと思いながら、カイルは左耳に戻ってきたやわらかな羽根の感触を確かめる。


「そこでカイルにはこれからジョン・ドゥを相手にひと芝居打ってもらいます。つまり自分が黄皇国の間諜であったことが露見し、尋問のために数日囚われていたものの、何とか隙を衝いて脱出を図ったので助けに来てほしい──と救援を求めるのです。カイル、あなたはあなたの生命が危険に晒された場合に限り、彼らの直接的な支援を受けられるという契約をジョン・ドゥと交わしているのでしたね?」

「う、うん……一応、オレ、スパイとは言っても素人だからさ。自分の身を自分で守るのにも限界があるし、だからオッサンたちとそういう契約を取りつけたんだ。実際、フォルテッツァ大監獄ではオッサンたちが駆けつけて助けてくれたし……ただ、もしもトリエさんの言うとおりオレが()()()()()んだとしたら、いくら助けを求めてもオッサンたちは来てくれないかも……」

「いいえ。状況から考えて、恐らく彼らは来るでしょう。あなたを助けるためではなく、()()()()()()()()()()()()()()()ならば」

「ど、どういうことですか……!?」

「仮に彼らが最初からカイルを捨て駒として利用するつもりだったのだとしても、自分たちの存在を知る彼を野放しにしておくとは思えません。ましてや救世軍(われわれ)に正体を暴かれ、尋問にかけられたともなればなおのこと。恐らくジョン・ドゥはカイルがどこまで口を割ったのかを確かめた上で消すために、彼が単身で逃げているという状況を利用するはずです。よってカイルを囮とし、彼の命を狙って現れるであろう襲撃者を捕縛、その者を尋問にかけて今度こそジョン・ドゥの正体を暴く──それが今回私の提案する作戦です」


 というトリエステの立案があって今、カイルはバンボラ村の宿にいる。

 ジョン・ドゥにはポンテ・ピアット城を発つ当日に連絡し、事前にトリエステと打ち合わせたとおりの嘘をついた。

 すると案の定ジョン・ドゥは『分かった』と色よい返事をし、この村の宿に逃げ込むようにと指示してきたのだ。宿代は心配しなくていい、ゼイムス・ルースターの使いだと言えば何も言わずに泊めてもらえる、そこで次の指示を待て、と。


(……で、誰だよ、ゼイムス・ルースターって)


 と内心悪態をつきながら、カイルは頭の後ろに両手をやって、はあ、と深く嘆息した。いざ宿屋でその名前を出してみると本当に無償で泊めてもらえたから驚きだが、今のところ〝次の指示〟とやらは特になく、カイルはいつ現れるとも知れない襲撃者に怯えながらじっと待っているしかない。

 心臓は相変わらず逃げよう、逃げようとうるさく、おかげでどんな些細な物音にも敏感になっている自分がいた。何しろあの男なら音もなく部屋の中に現れて、カイルがちょっと余所見をしているうちに死角から斬りつけてくる──なんてことも不可能じゃない。そんな不気味さが、ジョン・ドゥと名づけられた男にはある。


(……アーニャとカイラは大丈夫、だよな)


 そしてだからこそ、遠い北の地にいるふたりのことが心配でたまらなかった。

 救世軍に正体が露見したことで、命を狙われるのが自分だけなら構わない。

 いや、全然まったく構わなくはないのだが、自分の首ひとつでことが丸く収まるのなら喜んで差し出す用意がカイルにはある。

 だけどもし連中がアーニャたちの存在まで邪魔だ、用済みだと抹殺しにかかったら? 任務をまっとうすればふたりの将来を約束してやるなんて甘い言葉は全部嘘で、彼らには最初からアーニャたちを救う気なんて微塵もなかったとしたら……。


(いや……大丈夫だ。今はジェロたちを信じろ)


 と、鳴り止まない心音の中でカイルはぎゅっと胸を押さえ、自分自身に言い聞かせる。アーニャとカイラがいるヴィーテの町の女子修道院には、カイルが救世軍に投降したその日のうちにトリエステが手の者を送ってくれた。ふたりをこの戦いに巻き込むことはどうしても避けたくて、コルノ島に呼び寄せようというジェロディの提案を受け入れることができなかったから、代わりにアーニャたちを守る護衛の人数をトリエステに都合してもらったのだ。無論彼女たちには何も知らせず、可能な限り陰から守ることに専念させると、トリエステはそう約束してくれた。


(トリエさんにああ言ってもらえると心強いけど……でも敵に回すとマジでおっかなかったなー、あの人……拷問の話だって単なる脅しじゃなくて、本気でやるつもりだったんだろうし)


 と、狭い取調室(とりしらべしつ)封刻環(チャーム)でつながれ、真正面からひたと注がれるトリエステの冷徹な眼差しに耐えた時間を思い返すと、カイルは乾いた笑みが浮かんだ。

 自分には何刻、いや何十刻にも感じられた時間がまさかたったの一日半の出来事だったなんて、未だに信じられそうにない。何しろ尋問中は食事を抜かれ、(かわや)へ行くことも許されず、あげくの果てには無音にして無明の闇にひと晩中閉じ込められるという仕打ちまで受けた。しかも夜中には数刻に一度、顔も分からない誰かが暗闇の向こうからぬっと現れて、カイルが眠らぬよう水を張った(たらい)の中に顔を押しつけていくという極悪サービスまでついていたのだ。あれほどの難詰(なんきつ)を受けて気が狂わなかった自分を、カイルは手放しに褒めてやりたい。


(ジェロのためなら何でもやる人だとは思ってたけど、まさかあそこまでとはなあ……どうすれば人間を生きたまま極限状態まで追い込めるのか、徹底的に知り尽くしてなきゃできないだろあんなの。まあ、妹も弟も死なせて、もうひとりの妹まで裏切った以上、絶対に救世軍を勝たせなきゃ全部無駄になるって自分を追い詰めた結果なんだろうけど……)


 ──妹さんを裏切っちゃったからって、そんな風に自分をいじめなくてもいいのに。あの日取調室でカイルがトリエステに投げかけた言葉は、ささやかな報復であると同時に本心だった。トリエステ・オーロリーという人物は基本的に冷淡で、常に泰然自若と振る舞っているように見えるけれど、彼女にはどこか磨きすぎた刃物のような危うさがある、とカイルは思う。何故なら刃は磨けば磨くほど切れ味を増す一方で、(もろ)く折れやすくなるものだ。それはいかなる難敵も断つ鋭さと引き換えに我が身を削り、薄く薄く痩せ細っていく行為に他ならないのだから。


「あれは償いの星」


 と、そんなトリエステを指してそう言ったのはターシャだった。


「キミも(あがな)いの神シャーレムの神話は知ってるでしょ? 神界戦争で人間の英雄エタリムを死なせてしまった神様の償いの話」

「ああ……弓使い座のもとになった弓術の達人エタリムの神話? 確か神界戦争の真っ最中、魔物の大群に囲まれたシャーレムのためにエタリムがたったひとりで魔物を食い止めて討ち死にしたって話だっけ。シャーレムは自分の身代わりになったエタリムの死に心を痛めて、天界一美しいと言われてた白金(しろがね)の髪をバッサリ切り落としたんだよな。で、その髪を鍛冶の神レトシムに渡してこう言った。〝これを使ってエタリムの魂を慰めるための弓をつくってほしい〟って」

「そう。そうして生まれたのが弓の神シェラハが誕生するきっかけになった神弓コハブヤヴァル。シャーレムは完成したコハブヤヴァルで天に七本の矢を放ち、新たに七つの星を生んだ。キミがさっき言った〝弓使い座〟をね。つまりシャーレムは文字どおり自分の身を切って贖罪(しょくざい)を果たした神様ってわけ」

「……で、その神話とトリエさんの話に何の関係があるの?」

「あの人はそういう星の下に生まれたってこと。神子の周りには自然とそうした人間が集まるようにできている。神子の内にある大いなる神の魂を守るために、小さき神々に選ばれた者たちが運命という名の方舟(はこぶね)に乗ってやってくる。それが時代の分水嶺(ぶんすいれい)──いわゆる《(ジア)》」

「ジア?」

「そう。《世界の深淵(マクヘロト)》の天と地が交わるところ……って言ったところでキミには理解できないだろうし、理解する必要もないと思うけど」

「うん、ごめん。既に全然分かんない。けど、トリエさんが贖いの神(シャーレム)に選ばれた人間だって言うんなら、オレは?」

「は?」

「オレはどんな神様の星の下に生まれたの? できればカッコイイ神様がいいんだけど──そう、たとえば剣の神(ヘレヴ)とか悟りの神(ビーナー)とか!」

「……キミさ。少しは身の程をわきまえたら?」

「えぇっ……!? じゃあオレは神様の申し子じゃないの……!?」

「さあね。自分の好きなように解釈すればいいんじゃない」

「じゃあ好きなように解釈するけど! オレはターシャを守るために救世軍(ここ)に呼び寄せられたんだって! そしたらオレだって何かの神様の申し子のはずだろー!? とするとやっぱ誓いの神(ハスィード)とかかな? いや、あるいは雷の神(ラアム)とか……!?」

「……」

「はっ……! ターシャが否定しないってことは、()()()()()()ってことだよな!? じゃあオレはヘレヴかビーナーかハスィードかラアムの申し子ってことだ!」

「全部はずれてるけど?」

「がーん!」


 なんて話を彼女としたのが、トリエステの尋問を生き延びた翌々日のこと。

 取調室から出た直後はさすがに疲弊しきっていて、カイルは一日ぶりの食事をするなり気を失うように眠ってしまったから、次にターシャの顔を見られたのは翌々日の朝だった。カイルが丸一日泥のように眠り、払暁(ふつぎょう)の薄明かりの中で目を覚ましたとき、ターシャは当たり前のように寝台の傍らにいて、おはよう、と無表情にそう言った。彼女がまさかジェロディと同じ神子だったなんて今でも信じられないけれど、もっと信じられないのがカイルが眠っている間、彼女が片時も傍を離れずにいてくれたという事実だ。


 ターシャはカイルがしきりと絡みに行くようになったあとも相変わらず態度はすげなく、ときには神術を使って追い払われることもあった。だから嫌われてはいないにしてもウザがられてはいるのだろうと思っていたのに、彼女は自分が弱っているとき傍にいてくれたばかりか、生きるか死ぬかの窮地からも救い出してくれた。

 今まで誰にも明かさなかった真実の神(エメット)の神子としての身分を明かしてまで。

 彼女の正体をもっと早くに知っていたなら、コルノ島の人々だって彼女に対する態度を軟化させただろうに。それを分かっていながらターシャが神子であることを黙っていたのには、何かそうしなければならない理由があったはずなのだ。

 なのにターシャは、カイルを弁護するために己の正体を明かしてくれた。

 彼女がどうやってカイルの事情を知り、窮地を知り、果てはアーニャのことまで知っていたのかはまったくの謎に包まれているけれど。


(けど……オレが生きて戻れたら、話せることは全部話すって約束してくれた。ターシャは絶対に嘘をつかない。だから、オレも──)


 ──次に彼女と会うときは、()()()()()()で。


 城を発つとき、彼女の前でそう誓った。

 見送りに来てくれた彼女はそっぽを向いて、好きにすれば、と短く言った。


「わざわざそんなこと誓わなくても、キミはいつだって()()だったと思うけど」

「え? そう?」

「うん。今も昔も正真正銘、本物のバカ」


 別れ際に交わしたターシャとのやりとりを思い出したら、自然と口もとが(ほころ)んだ。こんなときだというのに、やはり神子様のご加護というのは絶大だ。


(……帰んなきゃ、絶対に。母ちゃんのためにも、アーニャのためにも、カイラのためにも、ターシャのためにも──)


 そして、自分を信じてくれたカミラとジェロディのためにも。カイルが(めい)(もく)しながらそう誓い、耳もとで微か鳴る耳飾りの音を聞いたそのときだ。


『──カイル』


 ザザッ、ザッ、という砂を掻くような雑音のあと。カイルの脳裏にいきなり男の声が響いた。瞬間、カイルははっと目を開き、身を起こしざま剣を掴む。


「お……オッサン?」

『ああ。お前、まだ無事か?』

「う、うん、一応……最初にオッサンに言われたとおり、バンボラ村の宿屋に部屋を取って()もってるんだけど」

『そうか。だがなあ、お前──しくじったな』

「え?」


『その宿、救世軍(やつら)に囲まれてるぜ。こいつはどういうことだろうな、カイル?』



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