24.怪しい男
「ペレスエラさま」
「何です、ターシャ」
「運命が巻き戻ろうとしています」
「……」
「多少陣容は変わりましたが、この盤面はつまりそういうことですよね?」
「……」
「星刻は封印されたのにどうしてでしょう。このままではすべてが無駄になります。あの父親の死も、今は亡き皇子が守ったものも」
「……」
「また介入しますか?」
「いいえ。今はまだ」
「ですがマナ・ピリニヒとの約束はどうするんです?」
「ターシャ」
「はい」
「私は人の可能性を信じます」
「……。ペレスエラさま」
「何です?」
「わたしは人間が嫌いです」
「ええ、知っています」
「可能性なんて信じる価値もないほど穢らわしい」
「そうですね」
「それでも、ですか?」
「ええ。それでもです」
ターシャは毒づいた。
わたし、この人、ほんと嫌い。
◯ ● ◯
ロカンダの町中を貫くラ・パウザ通りは、今日も大勢の人で賑わっていた。
商人、傭兵、冒険者から獣人まで。あらゆる人種がよりどりみどり。
当然ながらその中には色んな顔貌の人間がいる。
見るからにいかつくて近づき難い大男とか、だらんとした垂れ目で眠そうに歩いている青年とか、思わず「うひょっ」と声が出てしまうような美人とか。
そんないくつもの顔が通り過ぎるラ・パウザ通りにあって、その男は特別醜かった。若干腰の曲がった矮躯は立っているだけでどこかみすぼらしく、見る者に良い印象を与えない。顔は何だか潰れたようにぐしゃっとしていて、特に鼻の形がひどい。胡座鼻というのだろうか、平たくて横に広がっている。
三白眼気味の目の上には野暮ったい瞼が垂れており、男はその下からぎょろぎょろと通りを窺っていた。そうして比較的声をかけやすそうな相手を見つけると、薄い唇の裏に隠れた乱杭歯をあらわにしてこう尋ねる。
「あの、すいやせん。この町に来りゃ救世軍のフィロメーナさまにお会いできると聞いて来たんですが、どなたかご存知ありやせんかね?」
極めつけはその声だ。歳は三十かそこらと見えるのに妙に高く、それでいてざらざらしている。まるで顔だけでなく喉まで潰れているかのようだ。
おまけに衣服はぼろぼろ、顔も垢だらけ。多くの人が行き交うラ・パウザ通りには様々な匂いが混じっているが、その中にあっても男の放つ体臭は際立っていた。
たぶん、少なく見積もってもひと月は体を洗っていないのだろう。
そんな見るからに不潔で醜悪な男に声をかけられて、まともに応対しようという者がいるはずもなかった。男に呼び止められた通行人は曖昧な返事をして逃げ去るか最初から無視をする。それでも男は挫けない。
「すいやせん。どなたかフィロメーナ・オーロリーさまの居場所をご存知の方はいやせんかね?」
「おい、カボチャ野郎。お恵みが欲しいなら教会に行きな。もっともお前みたいな醜男じゃ、神サマも門前払いだろうけどな」
ギャハハと汚い哄笑が上がって、男は見るからに柄の悪そうな連中が目の前を通り過ぎていくのを見た。あれは傭兵だろうか、腰に剣を帯びているからきっとそんなところだろうが、それにしてはあまりに品がない。
男は自分の見目を棚に上げて、彼らの去った方角にペッと唾を吐き捨てた。
「フン。お前らみたいなチンピラに何が分かるかよ。あっしは重大な使命を帯びてここにいるんだい」
──とは言うものの。
こうして通りの隅を陣取って早半日。これと言ってめぼしい情報は手に入らず、助けを求めても返ってくるのは蔑みの眼差しと嘲笑だけ、これでは埒が明かなかった。男には時間がないのだ。ついでに言えば金もない。身分もない。食糧もない。
そんなことを考えていたらぐぎゅるうるるる……とこれまたみっともない音で腹が鳴き、男は呻いてうなだれた。そう言えばここ数日、この町に辿り着くのに必死でまともに飯を食っていない。空腹に耐えかねて川に飛び込み、水をガブ飲みしたのが最後だ。思い出したら胃がよじれてきた。
ぐぬぬ、何のこれしき、と思ったが、ちょっとこれは耐え難い。
耐え難いというか抗えない。まるで洪水のような飢餓感が男の理性を押し流す。
──親びんには止められてるが……。
そう思い、顔を上げたときには男の目は据わっていた。
いけない。このままでは空腹のあまり倒れてしまう。一度倒れたらたぶん起き上がれない。少なくとも数日は目が覚めない。それくらいヘトヘトでボロボロだ。
でも今の自分には寝ている時間なんてない。ことは一刻を争うのだ。
だからこれは仕方ない。背に腹は代えられない。必要悪だ。そう、必要悪。
いい響きだ。うっとりしてきた。とにかくこれは親びんを助けるため、だったらきっとあの人も許してくれる、そうに違いない、ねえそうでしょ親びん、親びんなら分かって下さいやすよね、許して下さいやすよねそうですよね。
怒濤のような言い訳を胸の中で繰り返し、男はついに目の前の人波へ乗り出した。最初こそ男が踏み出すと傍にいた通行人がサアッと遠のいたが、歩き出してしまえばどうということはない、男も往来をゆく人の河の一部となって空気のように溶け込んでいく。ただし男はその流れの中にあっても休むことなく目玉をぎょろぎょろと動かした。そうして目をつけた人物にさりげなく近づいてはまた離れる。さらに別の人物に近づいては離れる。近づく。離れる。すれ違う。
たまにちょっとぶつかる。やはは、ああ、すいやせん、余所見をしてやして、以後気をつけやす、なんて愛想よく謝っておいてまた離れる。収穫は上々だった。
やがて男がラ・パウザ通りを離れ、横道に入って懐を開いたとき、そこには大小様々色とりどりの財布が詰まっていた。
男は嬉しくて跳び上がりたくなる。なんだ、すげえや、足を洗ってしばらく経つのにこの収穫たあ、あっしもなかなかやるじゃねえか。捨てたもんじゃねえ。
何ならこのままこそ泥稼業に戻ろうか、いや戻らねえけどなアッハハハなんて胸中でウハウハしながら、財布の中身を抜き出しては腰の麻袋へ詰めていく。
さて、これで支度金は集まった。まずはどこかで飯を食おうか。
それからまた救世軍の情報を集めて……いやいや、ちょっと待て。
どうせなら公衆浴場にも寄っておくか、何せこれからどえらい人に会うのだからな、衣服ももうちょっと整えて、身奇麗にして、ああ、ついでに床屋にも──
「おい、お前。そこで何してる」
と、そのとき突然背後から声が聞こえて、男は別の意味で跳び上がった。いっそびっくりしすぎて叫びたいくらいだったが、叫ばなかった自分を褒めてやりたい。バクバクと暴れる心臓を押さえて振り向くと、そこにはふたり組の若い男がいる。
また傭兵か。男が真っ先に思ったことはそれだった。
何せ男たちは揃って腰に剣を佩いている。歳はどちらも二十がらみか。いや、片方はまだ十代かもしれない。立ち位置的にもうひとりの男の従者にも見える。
そんな従者らしき青年の前に立ってこちらを見据えているのは、やたらツンツンした髪から青い羽根飾りをぶら下げたおめでたい男だった。
なんでえ、また面倒なのに絡まれたな。内心そう悪態をつきながら集めた財布はさりげなく背後に隠す。そうして男は「へ、へ」と、黄ばんだ歯を見せて笑った。
──女にモテそうな面しやがって。気に食わねえ。
「これはこれは。あっしに何かご用ですかい、お兄さん方」
「俺は、そこで何をしてるのかと訊いたんだが」
「何って見てのとおりでござんすよ。ちょいと道に迷っちまいましてね。いやはは、こういう賑やかな町はあっしみたいな田舎モンには広すぎて敵いませんねえ」
「お前、さっき大通りで救世軍のことを尋ね回ってたな。何者だ?」
「ひょっ?」
ええい面倒だ。こんな若造ども、適当にあしらってやれ──そんな風に思っていたところへ意外な問いが来て、思わず変な声が出た。
この男、自分が先程まで大通りにいたことを知っている?
ということは尾けられたのか。なんてことだ。声をかけられるまで気づかなかった。やはり勘がにぶったのか。このパオロ様ともあろう者が。
「な、なぁに、あっしはしがない物乞いでさ。何でも救世軍に入れば貧乏人でも毎日たらふく飯を食えるってんで、あわよくば仲間に入れてもらえやしないかと思いやしてね。とは言ってもあっしは見てのとおり武芸の方はからっきしなんで、お国に逆らおうとか、そんな大それたこたあ考えちゃいないんですがね。ヒ、ヒ」
「ふうん。ならお前は毎日食うのに困らなければそれでいいのか」
「そりゃあもう。あっしはガキの頃から貧乏で、これ以上ひもじい思いをしたくねえもんですから」
「そういうことならいい働き口を紹介してやらないこともない。仕事のわりに給金はいいから、上に気に入られれば金に困ることはないと思うぞ」
「へえ、そいつはぜひ伺いたいもんで」
「そうか。なら俺から上に口をきいてやる。ついてこい」
「ちょ、ちょっとお待ち下せえ。その前に、おっしゃってるのがどんな仕事なのかお聞かせ願えやせんでしょうか?」
「何、怪しい仕事じゃないさ。むしろこれ以上ないくらいまともな仕事だ──何せこの町の郷庁で働けるんだからな。もちろんただの雑用だが、毎日飯が食えりゃ文句はないんだろう?」
瞬間、パオロの全身からどっと汗が噴き出した。
郷庁。この男は今そう言ったのか。ということは、こいつらは軍人?
見誤った。地方軍お仕着せの鎧を着ていないから、てっきり傭兵かと。
いや、あるいは将校か? けれどそうだとしたら胸に輝く勲章があるはず。
見たところそれはない。第一将校にしては若すぎる。ならば非番の兵卒か。たぶんそんなところだろう。緊張で足が震え出した。こいつはまずい。今ここで軍に捕まるわけにはいかない。ましてや郷庁で働くなんてもってのほかだ。
自分には命に代えても果たさなければならない使命があって、地方の腐れ軍人どもに顎で使われてやる義理はない。官兵なんてクソ食らえだ。やつらにへこへこ媚びを売るくらいなら、邪神に魂を売った方がいい。黄皇国なんて滅びちまえ。
少なくともパオロは、そう思っている。
「あ、あ、そいつは驚いた。お兄さん方は軍人さまでいらっしゃいやしたか。これはとんだご無礼を。しかしせっかくお声をかけていただいて何ですが、あっしのような薄汚い物乞いが郷守さまのお膝もとで働くなんていくら何でも畏れ多い……」
「心配するな。ロカンダの郷守様はそんなことをいちいち気にするような方じゃない。むしろ使える人間ならどんなやつだろうと取り立てて下さるお方だ。お前もあの方の目に留まれば、もう物乞いなんてしなくて済むぞ」
「い、いえ、ですが、その、やっぱりあっしの性には合わないと言うか……」
「何だ、さっきと言ってることが違うじゃないか。それとも何か、郷庁では働けない理由でもあるのか?」
「そ、それは……」
いかんいかん、平常心だ。そう思うのに声が震えた。
額からだらだら汗が流れてくる。季節はもう秋だ。晩秋と言っていい。
だから風は冷たくて肌寒いくらいなのだが、それでも汗は溢れてくる。
事態は確実に悪い方へ転がっていた。このままでは本格的にまずい。
何か、そう、何かこれ以上疑われなくていいような、上手い言い訳を──
「おい、アルド。やっぱりこいつ怪しいぞ。お前はひとっ走りして郷守様に知らせてこい。反乱軍の情報を持っていそうな怪しい男を見つけたとな」
「分かりました」
ドッと後ろから心臓を蹴っ飛ばされたような感じがした。それまで羽根男の後ろに控えていた茶髪の青年が、身を翻して駆け去ろうとしている。
まずい。まずいぞ。まずい、まずい、まずい!
パオロの頭は真っ白に塗り潰された。
次の瞬間、自然と右足が一歩下がる。もういい。
こうなったら、破れかぶれだ。
「こっ……これでも喰らえええええっ!」
パオロは勢いをつけて思いきり上体を振り回した。瞬間、後生大事に抱えていた大小様々色とりどりの財布が雨となり、羽根男の頭に降り注ぐ。
「いてっ……! あっ、おい、待ちやがれ!」
羽根男が怯んだ一瞬の隙。その寸刻の間にパオロは身を翻して逃げ出した。すぐに後ろから男の追ってくる気配がするが大丈夫だ。パオロは生まれつき足が速い。特に逃げ足の速さには自信がある──ただし腹が減っていなければの話だけれど。
薄暗く入り組んだ路地を逃げ回る。背後から足音が迫っていた。どんどん近づいてくる。まずい。嫌だ。駄目だ。前へ前へ前へ。そう思うのに空腹と疲労が邪魔をする。足がもつれる。躓きかけて、また逃げる。パオロは叫んだ。
叫びたかったわけじゃなくて、恐怖のあまり叫ばずにはいられなかった。
顔中が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる。捕まりたくない。捕まるわけにはいかない。だって自分は託された。逃げ切って救世軍に助けを求めるのだ。
でないと、でないと親びんが、