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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
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257.ユカルとナアラ


 割れるように痛む頭を押さえながら、ユカルは(いばら)の森に囲まれたソルン城の城門をくぐった。


 ここ数日ずっとこんな調子だ。リーノの町で出会った反乱軍の幹部どもに渾身(こんしん)の神術を相殺され、神力が底を尽いてからというもの体調がすこぶる悪い。

 あのあとすぐに体を休めることができればいくらかマシだったのだが、逃げ出した罪人どもの捜索と北から戻った第六軍本隊の出迎えに忙しくて満足に休息を取る暇もなかった。そもそもユカルがリーノの町へ派遣されたのは、ポンテ・ピアット城が反乱軍に落とされたと聞いて舞い戻ってきた味方本隊──第六軍統帥(とうすい)マティルダ・オルキデア率いる五千の軍をソルン城へ導くためだ。

 上官の前では生真面目な敏腕将校を演じることに余念がない〝イバラ(じょう)〟の城主ジャレッドは、マティルダが引き返してくると知るやただちに部下であるユカルを派遣し「決して失礼のないよう将軍をエスコートしろ」と命じてきた。


 普段は裏でえげつない所業を重ねているくせに、こういうときばかり紳士面をする翼爵(よくしゃく)様の二枚舌にはいっそ感心するほどだ。表向きには上官であり淑女でもあるマティルダを敬ってはいるが、腹の底では何を思っているのやら。

 だいたいこのマティルダという将軍も将軍だ、とユカルは隣を騎行する女将軍の横顔を盗み見て内心ため息をついた。世間の評は彼女を女だてらに優秀な大将軍であると褒めそやしているが、本当にそうであるならば、ジャレッドのような悪辣(あくらつ)な人間をいつまでも支城(しろ)の守将に据えておくだろうか。

 彼を三年も城主の座に留めているのは、彼女がジャレッドの悪行と本性を見抜けていないことの証左であり、部下の管理もろくにできない将軍が有能だとはユカルには到底思えない。まったくやつの悪事の片棒を担がされる身にもなってほしいよと、本人を前にして悪態をついてやりたい気分だった。


(くそ……それにしても、リーノで逃がした反乱軍の幹部ども……まさかあんな連中に僕の神術が相殺されるなんて……何度思い返しても忌々しい。将軍のお守りさえなければ、追い詰めて八つ裂きにしてやったのに……)


 山道を登ってゆく馬の(ひづめ)の音に合わせ、熱を帯びるように痛む蟀谷(こめかみ)大嵐刻(ストーム・エンブレム)を押さえながらユカルはギリ、と切歯した。

 生まれたときからユカルの体の一部として宿っているこの神刻(エンブレム)(うず)くたび、リーノの町での出来事が脳裏をよぎって思わず舌打ちしたくなる。

 反乱軍のイークとカミラ。リーノで偶然邂逅(かいこう)した彼らはあのあと、ユカルが神力を失って膝をついた隙にシルとかいう気狂(きぐる)いの吟遊詩人を連れて逃げた。

 ポンテ・ピアット城を攻め落としたばかりのやつらが何故リーノにいたのかは知らないが、恐らくはユカルら第六軍の動きを調べるために偵察にでも来ていたのだろう……指名手配されているはずの幹部ふたりが、わざわざ危険を冒して敵地に潜入する必要があったのかどうかは疑問だが。


 しかし幼い頃から文字どおり天授刻(ギフト)を体の一部として使いこなしてきたユカルにとって、自分の神術を他の術者に相殺されるというのは生まれて初めての経験だった。今まで自分以上に優れた術者とは出会ったことがなかったから、他者の術に自分の術が打ち消されるとこんなにも反動が来るものだとは知らなかったのだ。

 おかげで当分神術は使えそうにないし、頭痛、嘔気(おうき)眩暈(めまい)悪寒(おかん)と、気絶した方がマシだと思うほどの体調不良に見舞われる羽目になっている。

 実際、マティルダをソルン城へ案内するという任務がなければ、ユカルは遠慮なく卒倒して数日昏睡していただろう。


(……今回だけは下衆野郎(ジャレッド)に感謝しないとな。あいつが僕を()()()()()()()()()()つけてくれた手練(てだれ)の監視兵のおかげで、反乱軍(やつら)に首を取られずに済んだ……次こそは必ずあの連中を粉微塵にしてやる)


 胸中でそう雪辱(せつじょく)を誓っている間にも陣列は山を登り、行く手にはいよいよ本丸の正門が見え始めていた。ソルン城は小高い岩山の上に建つ石の城で、建物の造り自体は古臭く凡庸(ぼんよう)だが防衛力に優れた二重の(くるわ)()()()を持っている。

 この城は第六軍の本拠地であるトラクア城防衛の(かなめ)であり、攻めることよりも守ることに特化した城だった。だから中世の面影を色濃く残す旧時代の城砦でありながら、今なお黄皇国軍(おうこうこくぐん)の軍事拠点として現役を張っている。とは言え最新鋭の築城技術が活かされたトラクア城の華やかな外観に比べたら、あまりにも武骨で野暮ったい城だ。向こうの城を着飾った貴族令嬢と(たと)えるならば、ユカルの眼前に迫りつつある灰色の城は、(ひな)びた寒村で細々と露命をつなぐ農夫といった風采(ふうさい)だった。


「──これはこれはオルキデア将軍。遠路遥々のご帰還、ご無事で何よりでございます。しかし青天の霹靂(へきれき)でしたな。よもや反乱軍めがポンテ・ピアット城を攻め落とすとは……」


 ほどなく円筒状の側防塔に挟まれた正門をくぐり、本丸へ入るや否やマティルダを出迎えた壮年の男こそソルン城の城主ジャレッド・ドノヴァンだった。

 歳は確か三十七、八だったか。日に焼けた肌とエラが張った顔のせいで実年齢よりやや老けて見えるが、本人もそれを気にしているのか頭髪は左右を潔く刈り上げ、頭頂部に残した黒髪のみを整髪油で捩じりパン(コルネット)みたいにまとめている。

 何でもあれが近頃若い貴族の間で流行っている髪型だとかで、目、口、鼻がやや中心に寄ったいかつい顔を少しでも若く見せようという涙ぐましい努力が垣間見えた。毛髪以外の体毛を神経質なほど剃り落とし、常に青髭(あおひげ)とは無縁の境地を心がけているのもたぶん若づくりの一環なのだろう。


 対するマティルダはジャレッドとはひとつかふたつしか歳が離れていないというのに、彼とは真逆で年齢よりも若く見える。薄い化粧の乗った肌は軍人という(くく)りの中で見るならば色白と形容して差し支えなく、髪と同じ榛色(はしばみいろ)の瞳はひと目で合理的判断を尊ぶ人間だと分かる怜悧(れいり)な光を(たた)えていた。

 だがユカルがこの将軍の容姿について最も評価しているのは、貴族でありながら躊躇(ちゅうちょ)なく髪を切り落とし、女らしさを残しつつも機能性を優先した髪型をしていることだ。トラモント貴族の女たちは何故だかうなじを晒すことを〝はしたないこと〟だと堅く信じていて、ゆえに誰もが自前の髪を長く長く伸ばしている。自ら軍人になることを志願して(はばか)らなかった皇女リリアーナでさえそうなのだ。


 されどマティルダは軍人になることを(こころざ)した当時から一度も髪を伸ばしたことがないと言い、理由を()かれれば決まって「戦場には必要のないものだから」と即答しているという。そんなだから未だに手をつけたがる男がいないのだと一部の貴族には陰口を叩かれているらしいが、当人は世間の風評などどこ吹く風だ。

 ジャレッドの()()()()()()かれこれ二年が経つものの、ユカルは未だにマティルダが笑ったり怒ったりするところを見たことがない。

 よく言えば冷静沈着、悪く言えば無愛想。口数も少なく愛嬌がないところは彼女の師だという近衛軍団長セレスタ・アルトリスタの薫陶(くんとう)の賜物だろうと思われた。


「報告は聞いています。何でもアビエス連合国からやってきた軍勢が反乱軍の後ろ盾についたそうですね」

「はっ。連合国軍は神術砲を大量に積み込んだ空飛ぶ船で攻めてきたとかで、(ちまた)は大騒ぎになっております。彼奴(きゃつ)らの兵器を無効化するべく苦労して集めた魔物どもも、これでは益をなさないかと……」

「いいえ、()()使()()()()()()()()。合流予定だった軍師殿から何か連絡は?」

第一軍付軍師(フィオリーナ嬢)のことでございますか? (おそ)れながらポンテ・ピアット城の陥落で、現在サルモーネ川以東とは通信が断絶している状態です。唯一黄都(こうと)とは(はと)での連絡がつきますが……」

「そうですか。では彼女の処遇について黄都から何の連絡もないということは、現場の判断で動いて構わないということでしょうね」

「つまり此度(こたび)の戦、フィオリーナ嬢のお力を借りずに我々のみで対処すると?」

「そうする他ないでしょう。一刻(一時間)後に部隊長以上を集めた軍議を開きますので至急準備を。本隊の兵は今宵は休ませます。ソルン城周辺の哨戒(しょうかい)貴卿(きけい)に一任しますよ、ドノヴァン卿。我が領内にも既に(ねずみ)が入り込んでいるようですから、索敵(さくてき)は念入りに行うように」

「か、(かしこ)まりました。おいっ、将軍を客室へ案内しろ!」

「はっ!」


 ジャレッドの背後に控えていた将校たちが一斉に敬礼し、ひとりが(うやうや)しくマティルダの先導に立つと、もうひとりが彼女の白馬の(くつわ)を受け取り厩舎(きゅうしゃ)へと()いていった。また残りの将校たちも次々に入城してくる本隊の将兵の誘導に回り、いつもは退屈なほど静まり返っているイバラ城が束の間の喧騒に包まれる。


「おい、ユカル」


 ……やっと城に帰ってこられた。不本意ながらもまずはその事実に胸を撫で下ろしていると、不意にジャレッドの呼び声がした。嫌な予感がする。

 案の定返事をして振り向いた瞬間に、ユカルの頬をジャレッドの短鞭(たんべん)が鋭く打った。黒い革で覆われた鞭の先がユカルの白い頬を引き裂き、血が滲む。

 相変わらず加減というものを知らない馬鹿力に体の不調が相俟(あいま)って、刹那、ユカルの意識は飛びかけた。が、倒れれば次は鳩尾(みぞおち)に蹴りが飛んでくるのを知っているから、よろけながらも辛うじて踏み留まる。

 ただでさえ頭蓋の内側で巨大な鐘でも鳴っているようだった頭痛が激しさを増した。ぐわんぐわんと脳が揺さぶられる感覚に視界が回り吐き気がこみ上げてくる。

 されどそちらもすんでのところで唇を噛み締め、耐えた。ジャレッドの目の前で嘔吐などしようものならただちに牢へつながれ、半殺しにされるに決まっている。


「聞いたぞ、この役立たずが。貴様、リーノの町で反乱軍の幹部と会敵しながら、まんまと連中を取り逃がしたらしいな。まったく我が軍の将にあるまじき失態だ。私の顔に泥を塗りおって」

「……申し訳ありません」

「おまけに例の吟遊詩人すらも連行してこられないとは無能にもほどがある。私が一体何のために貴様らを養ってやっていると思っているのだ? 少しは恩に報いてみろ、天授児(ギフテッド)とは名ばかりの野良犬が」


 ああ──体調は最悪だけど、神力が(カラ)でよかった。


 そのときユカルの頭に浮かんだ思いはそれだけだった。でなければ自分は今日という今日こそ、眼前の糞野郎を粉々の肉片に変えていたかもしれない。


(……何が()()()()()()()()、だ)


 脅して服従させているの間違いだろう、とユカルは内心冷笑した。

 自分たちは一度だってこの男に庇護してほしいと頭を下げた覚えはない。

 ただ無理矢理毒の森の真ん中に佇む城に連れ込まれ、人質という名の首輪をつけて飼い馴らされているだけだ。


(だのによくもまあそんな戯れ言を──)


 と言い返してやりたいのをぐっとこらえ、ユカルは精一杯殊勝な態度を演じ続けた。ジャレッドには口答えをするだけ無駄だ。こちらが何を言ったところで彼には聞く耳がなく、反抗すれば十倍の暴力となってすべてが我が身に返ってくる。

 だから貝のようにじっと口を閉ざし、どんな暴力や暴言にも耐え忍ぶのだ。

 さすれば相手もほどなく飽きて、つまらなそうに鼻を鳴らしながら去っていく。

 今回も例に漏れなかった。ジャレッドはうつむいて弁解ひとつしないユカルを見るや、いたぶり甲斐がないとでも言いたげに舌打ちし、やがて紺地の外套(ペリース)を翻す。


「チッ……まあいい。今回の失態は次の任務で必ずや挽回(ばんかい)しろ。それができなければどうなるか分かっているな?」

「はい……もちろんです、隊長」

「では今すぐ部屋に戻って許しがあるまで外に出るな。ひと晩謹慎して己の非力を恥じることだ。無論、許可あるまで食事も取ってはならん。命令を破ればただちに懲罰房(ちょうばつぼう)へ放り込むからな。次の作戦が決まるまで()()()()()()()()

(……反吐(へど)が出る。死ね)


 と胸裏で短く吐き捨ててからユカルは右手の拳を左手で包み込み、従順な敬礼を返した。……あんな救いようのないクズに、なんで頭なんか下げてんだろ。

 そう思うと自然と口角に自嘲が浮かぶ。

 とは言え今夜はさっさと部屋へ戻れと言われて、ユカルは正直ほっとした。このまま一刻後の軍議にも参席しろなどと言われようものなら今度こそ嘔吐する自信があったし、わざわざ食事を抜かれるまでもなく、今は体が食べ物を受けつけない。

 頬から流れる血を適当に拭ったユカルはその足で自分の馬を厩舎へ預けると、ふらふらになりながら自室へ戻った。おぼつかない足取りで兵舎の階段を上がり、ようよう最上階にある自室の前へと辿(たど)()く。


 そこから先の記憶はなかった。気づけばユカルは木の柱にボロ切れが一枚結わえつけられただけの粗末な吊床(つりどこ)に倒れ込み、死んだように眠っていた。

 目が覚めたのはとっぷりと日が暮れてからだ。それも自然と意識が覚醒したわけではなく、誰かが冷たく濡れた布か何かを額に押し当ててくる感触で目が覚めた。

 相変わらず気分は最悪で、鉛を詰められたような体を起こすこともできない。

 しかし辛うじて(まぶた)()()ければ、そこにはそばかすの散る頬を濡らしながら、懸命にユカルを介抱する愛しいひとの姿があった。


「姉さん……?」


 と掠れた声で呼びかければ、はっとした彼女が布を持つ手を引っ込める。

 ユカルとは似ても似つかない、見るからにやわらかな胡桃色(くるみいろ)の髪。その前髪をユカルと対を為すように──つまり鏡写しに──流して三つ編みにし、さらに肩からふたつのおさげを垂らした姉のナアラが、目を覚ましたユカルを見るなりぽろぽろと涙を零した。彼女は震える声でユカルの名を呼ぶや、割れ物にでも触れるように頬へ手を伸ばしてくる。途端に昼間、鞭で打たれた傷にピリリと痛みが走ったが、冷水に浸されたあとのナアラの指の冷たさは熱い肌に心地よかった。


「ユカル……ユカル、よかった、やっと目を覚ましてくれた……心配したのよ。あなた、またひとりで無茶をして……!」

「はは……ただいま、姉さん……心配かけて、ごめん──」


 と謝罪もし終えぬうちに(たん)が絡み、ユカルは激しく咳き込んだ。熱のせいか気道が狭まっているようで息を吸うたびにヒュウ、ヒュウ、と耳障りな喘鳴(ぜんめい)がする。

 まったく忌々しい体だ。ユカルは幼い頃から気管支が弱い。ゆえにちょっとでも体調を崩すとすぐこれだった。自力で呼吸することもままならず、ひと晩、あるいは何日も息を吸ったり吐いたりするだけで難儀する羽目になる。

 苦しい。せっかく姉が会いに来てくれたのに、すぐにまた気を失いそうだ。


「ユカル! ユカル、大丈夫……!? ごめんなさい……軍医様に診察をお願いしたのだけれど、ジャレッド様の許可がなければ()られないし薬も出せないと言われてしまって……こんなにひどい熱なのに、熱冷ましすら手に入れてあげられなくて……私……私……っ」

「だ……大丈夫、だよ、姉さん……いつもの……軽い、発作だから……ちょっと休めば、すぐに、よくなる……そ……それより……僕がいない間……城の連中に……へ……変なこと、されなかった?」

「もう、私の心配なんていいから! お願いだから、今は自分の心配だけしてちょうだい……! リーノの町でまた神力(ちから)を使ったんでしょう? 体に(さわ)るからどうか無理な神術は使わないでって、あれほど言ってるのに……!」

「はは……ごめん……でも、さ……今回ばかりは、そうも言ってられなくて……」


 泣きながら背中を(さす)ってくれるナアラの優しさに身を委ねながら、ユカルは左右で色の違う瞳を細めた。天授刻の影響で片目が変色してしまった自分とは違い、姉の瞳はどちらも美しい菫色(すみれいろ)で、ユカルはずっとその色を羨ましいと思っている。

 六年前、故郷のピッコーネ村をジャンカルロに滅ぼされてから、ナアラはユカルにとってたったひとりの家族だった。あの襲撃で優しかった両親は命を落とし、彼らが命懸けで逃がしてくれた姉と自分だけが奇跡的に逃げ延びたのだ。

 他の村人は全員死んだ。ユカルたちをいつも孫のようにかわいがってくれたアビー婆ちゃんも、小さい頃から面倒を見てくれたゼタ兄さんも、毎日おいしい野菜を届けてくれたスコットおじさんも、みんなみんな殺された。


 そうして帰る家を亡くし、各地をさまよい歩くしかなかった数年間、幼く体も弱かった自分を守り続けてくれたのが姉のナアラだ。

 ナアラはユカルと四歳しか違わないのに、依る辺を求めて流浪の生活を続ける間朝も夜も働いて生きるためのお金を稼いでくれた。ユカルの看病をしてくれた。服も靴も縫ってくれた。高価な薬を手に入れるために、必死に走り回ってくれた。

 けれど彼女も今はこの汚ならしい城で囚われの身だ。二年前のある日、放棄された山中の樵小屋(きこりごや)でふたりだけの暮らしを営んでいたユカルとナアラは、押しかけてきたジャレッドの部下に天授児であることを(さと)られ拉致された。

 世にも珍しい大嵐刻を持って生まれたユカルは強力な神術兵としてジャレッドの手駒となることを強いられ、何の力も持たないナアラは城の女中──という名の人質──として昼も夜も休みなく働くことを強いられた。


 もちろんふたりで手を取り合ってここから逃げ出そうとしたこともある。

 けれど結局計画は失敗に終わり、ユカルは二度と逃げようなどとは思わぬように()()された。殺してくれと哀願したくなるほどの苦痛を教え込まれ、次は姉が同じ目に遭うぞと耳もとで(ささや)かれたあの日から、ユカルはジャレッドの(いぬ)になった。

 そんな自分の姿を恥じない日はない。けれどこれもすべてはナアラのためだ。

 故郷が滅ぼされてから六年間、足手まといでしかなかった自分を懸命に守ってくれたナアラを、今度は自分が守ってやるのだ。

 絶対に、誰にも指一本触れさせはしない。

 ナアラを守るためならば、自分は鬼にも悪魔にもなってみせる……。


「り……リーノの町で、さ……反乱軍に、会ったんだよ……それも……初代総帥、ジャンカルロ・ヴィルトの時代から……反乱軍にいるやつらとね……」

「……! ユカル、あなたまさか……!」

「うん……と……父さんと母さんの、仇討ち……したかったんだけど、さ……失敗して、逃げられた……やっと、村のみんなの仇を取れると思ったんだけどな……」


 眉尻を下げてそう苦笑してみせれば、たちまちナアラの瞳が輪郭をなくした。

 ただでさえ涙で濡れていた双眸(そうぼう)は洪水を起こし、彼女は(すが)るような力を込めてユカルの手を握ってくる。


「ねえ……姉さん……僕は、絶対に……あいつらを……許さない……村が、あんなことになったのも……僕らが今、こんな目に遭ってるのも……全部……全部全部全部、あいつらのせいだ……」

「ユカル」

「だから……必ず、父さんと母さんの、仇を取ってみせるから……待ってて、姉さん……僕が……きっと、姉さんを……──」


 まだナアラの顔を間近で見ていたいのに、意識の暗幕が下りてくる。

 両の瞼は(あらが)(がた)いほどに重くなり、やがてユカルは眠りに落ちた。

 そうして苦しげな呼吸を繰り返す弟の華奢(きゃしゃ)な指を、ナアラは(あかぎれ)だらけの両手で祈るように握り締める。神様。神様、神様、神様。


(エマニュエルの神々よ……お願いです。たったひとり残った家族(おとうと)まで、どうか私から奪わないで──)


 (すす)にまみれた燭台の明かりがひとつだけ。

 そんな頼りない灯明(ほあ)かりしかない暗闇で、ナアラは泣きながら祈り続けた。

 隙間風に揺れる小さな灯火(ともしび)の明滅が、目の前で苦しむ弟と重なって仕方がない。


 ──私の命と引き替えでもいい。


 ユカルが望まないと知りつつも、ナアラにはそう祈ることしかできなかった。


 ──だから、神様。どうか弟をこの牢獄からお救い下さい……。


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