256.嵐の申し子
「……そうか。これが君を苛む嵐か」
──とか言ってる場合じゃないでしょ、とカミラは全身全霊で叫んだのち、シルと名乗る吟遊詩人の頭をひっぱたいてやりたい衝動に駆られた。が、牙を剥く嵐をものともせずにぼんやりしているお馬鹿さんを説教している暇はない。ユカルという名らしい少年の生み出した神術は、今にも彼を丸呑みにしようとしている。
「イーク!」
こうなったらもう迷ってなんていられなかった。神術の標的にされた当人が今もゆったりと噴水に腰かけたまま、逃げる素振りすら見せないのだから仕方がない。
舌打ちと共にイークが物陰から飛び出し、ひと筋の雷撃を放った。
雷刻が生み出す神術の飛翔速度は数ある神刻の中でも最速だ。おかげでギリギリ間に合った。にわかに轟き渡った雷鳴に反応したユカルがすんでのところで身を躱す。そうして彼が己の神術から気を逸らした刹那、嵐はたちどころに消えてしまった。術者が自分の身を守ることに専念したせいで神術が途切れたのだ。
「はああっ!」
突然の闖入者に彼らが面食らっている一瞬の隙。その隙に一気に距離を詰め、剣を抜き、カミラは最も手前にいた敵兵に斬りかかった。
不意を衝かれた敵兵は剣を抜く間もなく首筋を裂かれ、血を噴いて頽れていく。
次。カミラは返す刃でさらに隣にいた敵兵も斬り伏せようとした。
相手がのろまだらけの地方軍兵なら、あるいは上手くいったかもしれない。
だが曲がりなりにも彼らは中央軍の兵士だった。ソルン城を守るジャレッド・ドノヴァンという男は、素行は悪いが怠慢ではないらしい。現に彼の部下は厳しい訓練を潜り抜けた者のみに与えられる反射神経でもってカミラの剣を防ぎ、辛うじて一命を取り止めた。防がれた、と分かったときには背後に回り込んだもうひとりの敵が剣を抜き、振り上げた白刃を斬り下ろそうとしている。
「くっ……!」
獰猛な剣光が迫り、背中を切り裂かれるかに見えた刹那、カミラはとっさに石畳を転がって相手の斬撃を躱した。
ところがすぐさま立ち上がり、体勢を整えようとしたところで不意にぐらりと意識が揺れる。足がもつれた。まずい、と思ったときには眼前に敵が迫っている。
(神術を──)
と霞む意識を掻き集めて念じたが、直前で応戦は不要だと理解した。
何故ならカミラに狙いを定めた敵兵の横合いから、それこそ稲妻のような速度でイークが斬りかかったからだ。これには敵も反応しきれなかった。
とっさに身をよじるも肩を切り裂かれ「ぐぅっ」と呻きながら引き下がる。
でもそんなに深い傷じゃない。怯んだだけだ。あいつら、たぶん相当に強い。
「おい、何やってる! 無事か!?」
「う、うん、ごめん……」
とイークの背にかばわれながら謝罪して、カミラはどうにか立ち上がった。二枝(十メートル)くらいの距離を全力疾走しただけなのに、もう息が上がっている。
──ダメだ。しっかりしなきゃ。
カミラは脂汗を拭おうと無意識に額へ手をやった。が、そこでようやくはたと気づく。フードがない。地面を転がった拍子にはずれたのだ。
「お前……その赤い髪──」
と四、五人の兵士に守られたユカルが、カミラの素顔を見るなり驚愕に目を見開いた。恐らくすぐに手配書の人相書きが浮かんだのだろう。こうなったら顔を隠すだけ無駄だと思ったのか、ほどなくイークも鬱陶しげにフードをはずした。そうして抜かりなく剣を構えながら、同じく臨戦態勢に入った官兵たちを睨み据える。
「俺たちは救世軍だ。道端で歌ってるだけの人間を捕まえてしょっぴこうなんて相変わらずアコギな商売をしてるらしいな。そこにいるのが噂の〝申し子様〟か?」
と挑発混じりにイークが問えば、官兵たちが顔を見合わせてどよめいた。まさか白昼堂々、反乱軍が敵地のど真ん中に姿を現すとは夢にも思っていなかったのか動揺を隠し切れずにいる。されど彼らの中でただひとり、ユカルだけは違った。
彼は初めこそカミラたちの乱入に驚いていたものの、こちらの正体が反乱軍の幹部と分かるやおもむろに額を押さえ、にたり、と口角を吊り上げる。
「ククク……ハハッ……アハハハハハハッ! ああ、待ってたよ、反乱軍! お前らがポンテ・ピアット城まで攻めてきてるのは知ってたけど、まさかこんなに早くご対面できるとはね! いかにも僕が『嵐の申し子』さ。そっちは赤いのが〝カミラ〟で青いのが〝イーク〟だろ? フフフ……感動的だな。よりにもよって旧救世軍の死に損ないが、ふたり揃って会いに来てくれるとはね……!」
「……何だって?」
にわかに態度が豹変したユカルを見据えながら、イークが露骨に眉をひそめた。
彼の物言いはまるで救世軍に会えるのをずっと心待ちにしていたみたいだ。
けれどあの様子から察するに、少なくとも前向きな理由で会いたがっていたわけではあるまい。カミラはまだいくばくかの幼さを残す顔立ちを狂喜に歪めた少年の姿にすっと背筋が冷えるのを感じた。ジェロディやカイルやマシューとさして歳も変わらない少年があんな顔で嗤うのかと、得体の知れない不気味さに鳥肌が立つ。
「フフッ……だけど驚いたな。お前らが僕らに向かってアコギな商売をしてるな、だって? まったく、よくも平気な顔でそんな台詞が吐けるもんだよ。僕としてはその言葉、そっくりそのままお前らに返してやりたいけどね」
「どういう意味だ?」
「しらばっくれるなよ。トラジェディア地方の東端にあった村──〝ピッコーネ〟を覚えてるだろ? 六年前、お前らが金欲しさに襲って地図から消した小さな村だ。忘れたとは言わせないぞ……!」
「えっ……む、村を襲ったって、どういうこと、イーク?」
六年前と言えばカミラはまだ郷にいて、救世軍の存在すら知らずにいた時期だ。
ゆえに思わずイークに尋ねてしまったが、よくよく考えてみればイークだって、六年前にはまだ郷を旅立ってすらいなかった。
そもそも救世軍が正式に発足したのは黄暦三三二年、つまり今から四年前のはずだ。なのにそれより前に村をひとつ滅ぼした? しかも金銭を奪う目的で?
仮に当時救世軍の前身となる何らかの組織が存在したのだとしても、果たしてそんな盗賊まがいの所業を働くだろうか。
苦境に立たされた民を救うために立ち上がった革命軍が? ──ありえない。
「……おい。お前、何か勘違いしてるんじゃないか? 救世軍が発足したのは四年前だ。六年前にはまだ組織の体をなしてもいなかった。なのにどうやって村ひとつ地図から消すって言うんだ? 山賊か何かの間違いだろ」
「まあ、大方そう言って誤魔化すんだろうと思ってたけどね。残念ながらネタは上がってるんだよ。お前らが以前身を置いていた旧救世軍──その創立者であるジャンカルロ・ヴィルトは、前々から温めていた反乱計画を実行に移すためにまとまった軍資金を必要としていた。で、目をつけたのがピッコーネだ。あそこは大昔の坑道から残り滓みたいな石炭や鉄鉱石を採掘して何とか食いつないでた村だったけど、六年前のある日、涸れたと思われていた金鉱脈が偶然見つかって活気づいた。ジャンカルロはそこに飛びついたんだ」
「まさか」
「ああ、そうだよ。ジャンカルロはピッコーネで見つかった金鉱脈の情報が真っ先に自分の耳に届いたのをいいことに、山賊の仕業に見せかけて村を襲った。そして村人を皆殺しにして金鉱石を根こそぎ奪っていったのさ。何しろ新しい金脈が見つかったなんて話が黄帝に知れたら、すぐに官有財産にされて手も足も出せなくなるからね。そうやって稼いだ金で着々と私腹を肥やして四年前、ついに反乱軍の創立に漕ぎ着けたってわけさ。まったくとんだお笑い草だよ。御為顔で救民救国を謳う連中が、民を殺して奪った金で正義を語ってるんだからね!」
──嘘だ。
思わずそう口にしそうになって、しかしカミラは言葉を発せなかった。
ジャンカルロが救世軍の創立資金のために村を?
信じたくなんてないが、六年も前のこととなると否定する材料がない。
確かにジャンカルロはかつてトラモント三大貴族に数えられたほどの名家の出身だが、だからと言って無尽蔵に湧いてくる金を持っていたわけではなかった。
いくら貴族として裕福な暮らしを送っていたとは言え、国と事を構えるなんて大事業は手持ちの資産だけでは到底賄えなかっただろうし、実際カミラたちも新生救世軍を立ち上げるに当たってまず真っ先に解決しなければならなかったのが金の問題だったのだ。先立つものがなければ兵を養うことさえできない。コルノ島でたった八人からなる新救世軍が発足した頃、トリエステはそう言って軍資金の確保を提案した。カミラたちはそれを大富豪だったリチャードに頼ることで解決したわけだが、果たしてジャンカルロには他に頼れるあてなどあっただろうか。
誰が味方で誰が裏切り者かも分からない闇鍋のような貴族社会で、安全かつ確実に大金を手にするためには──
「ありえない」
息を詰めたカミラの脳裏を、最悪の想像が駆け巡った刹那。
その幻影を引き裂くような鋭い声が響き、カミラははっと我に返った。
そうして目を向けた先には依然ユカルを睨み据えたまま、羽根飾りがざわつくほどに殺気立ったイークがいる。風もないのに青い羽根が揺れているのは、イークを取り巻く神気が怒りを孕んで蠢いているからだ。
「あのジャンが金のために村を襲った? あいつに限ってそんなことは絶対にありえない。いくら救世軍を立ち上げるためだったとしても、弱者を犠牲にするくらいなら自分の手足を切り落として売り払う──ジャンカルロ・ヴィルトってのはそういう男だ。あいつのことを何も知らないガキが、適当なことを抜かすな」
「ハッ、適当言ってるのはそっちだろ? さっきの反応を見た限り、お前らはピッコーネのことを何も知らなかったみたいじゃないか。なのにどうしてあれがジャンカルロの仕業じゃないと断言できる? 証拠は? こっちは軍の情報網を使って、とっくの昔に真相を調べ上げてるんだよ!」
「ならそっちもジャンがピッコーネを襲ったという証拠を見せろ。官軍は救世軍の足を引っ張るためなら好き放題偽報をバラ撒くだろ。実際、俺もカミラもロカンダが襲われたときに死んだってことにされてたが、こうして生きてる。軍の言うことがいかにあてにならないかって証拠なら、それだけで充分だ」
イークが語気を荒げて叩きつけた答えに、カミラは目を開かされた。
そうだ。自分はジャンカルロを直接知らないせいで疑ってしまったが、イークは彼と知己だった。昔からなかなか他人に心を開こうとしないイークが、珍しく愛称で呼ぶほど信頼を託し合った戦友だったのだ。
そもそも彼はあのフィロメーナがすべてを擲ってまで愛した婚約者。ならばそのジャンカルロが救うべき民を足蹴にして金を稼ぐなんて真似をするはずがない。
仮に彼がそんな人間であったなら、フィロメーナが官軍に囚われたときだって決してひとりで助けに行ったりはしなかったはずだ。自分の命を投げ出してでも誰かを救いたいと願う──初代総帥がそういう人物だったからこそ今の救世軍がある。
そう思えば、カミラもイークの言葉が正しいと手放しに信じられる。
「ハハッ……なるほどね。そうやって都合の悪い真実からは目を背けようってわけか。実に麗しい友情だ、笑わせるよ! だけど僕は忘れない。六年前、僕たちからすべてを奪った連中は絶対に山賊なんかじゃなかった。〝閣下〟と呼ばれていた男は間違いなくジャンカルロだった! お前らがそれを認めようが認めまいが関係ない。だけどお前らのお友達が残したツケは、今ここで払ってもらうからな!」
ところがイークの言葉はユカルに届かなかった。
彼もまた怒りと憎しみをまとった神気の渦によって白緑の髪を逆立たせ、前髪で隠されていた大嵐刻をあらわにする。
神刻を蟀谷に刻んでいる人間なんて珍しいが、もっと珍しいのがあの神刻だ。
風の神ネーツの力を受けた風刻の上位刻。熟練の神刻師ですら滅多にお目にかかれないという、稀少にして絶大な力を宿した神刻。
あれを十代半ばにして使いこなす彼の才能は驚嘆に値するが、しかしカミラは同時に気づいた。神刻と同じく前髪に隠れていて分からなかったが──ユカルの瞳。
憎悪を込めてこちらを睨むユカルの双眸は、これまた珍しいことに左右でそれぞれ色が違った。左目は淡い菫色をしているのに、右目はほとんど金色だ。オッドアイ、というのだろうか。話には聞いたことがあったものの、本物は初めて見た。
しかし彼の稀有な能力や外見に惑わされている場合ではない。ユカルの額で大嵐刻が瞬くと、リーノの町の広場にはまたも可視の風が吹き荒れた。
美しく澄んだ彼の髪色とは裏腹の、ひどく濁った緑の風だ。
それを見た護衛の兵士たちが互いに顔を見合わせるや一斉に下がった。
味方が巻き込まれることを恐れるほどの神術使いというわけか。カミラは耳もとで逆巻く神気のうなりに肌が粟立つのを感じながら、とっさに噴水を振り返る。
「ねえ、そこの人! シルっていうんでしょ!? あなたは今のうちに逃げて!」
「……何故?」
「何故ってこの状況、見て分からないの!? あいつらはあなたを捕まえるために現れたのよ! これ以上ここにいたら何の罪もないのに連れていかれちゃうわ!」
「いや……大丈夫。何故なら私は君たちを待っていたのだから」
「は……!?」
カミラたちが現れてからもまったく微動だにせず、未だ噴水を腰かけ代わりにしたシルという名の吟遊詩人は、相変わらずとぼけた顔でとぼけた台詞を並べた。
しかし自分たちを待っていたとはどういうことかとカミラが困惑しているうちに、すさまじい暴風の吼え声がする。
ぞっとして振り向けば、すぐ目の前に見上げるほど巨大な竜巻が迫っていた。
さっきユカルがシルを呑み込むために放ったものよりも数倍大きい。
あんなものに巻き込まれたら、カミラたちはおろかリーノの町もひとたまりもないはずだ。現に迫る竜巻の足もとでは風圧に引き剥がされた石畳が次々と巻き上げられ、暴風の一部となってカミラたちに襲いかかろうとしている。
「くそっ……! おいカミラ、お前はあのシルとかいう変人を連れて逃げろ! ここは俺が何とかする!」
「ば、バカ、そんなの無茶に決まってるでしょ!? いくらイークの神術でも大嵐刻に対抗するなんて……!」
「ごちゃごちゃ言ってる暇はない、行け! 呑み込まれるぞ!」
険しい剣幕で怒鳴りつけるや、イークはカミラを突き飛ばすようにシルの方へと押しやった。かと思えば自身は素早く祈唱を唱え、雷刻の神力を一気に解き放つ。
閃光と轟音。まるで世界が真っ二つに割れるかのような音を立て、イークが生み出した最大出力の雷がユカルの神術とぶつかった。咆吼を上げた稲妻の竜は正面から竜巻へ食らいつき、ふたつの神術が互いに互いを押し潰そうと鬩ぎ合う。
しかしイークがいくら優れた神術使いとは言え、やはり下位刻と上位刻とでは前者の方が分が悪かった。町を灼くような光量を発しながら竜巻に注がれる雷撃がじりじりと押され始める。イークも懸命に神術を支えているものの、あれではそう長くは持たない。数拍後には押し負けて、町ごと吹き飛ばされてしまう──
「イーク……!!」
「──合体神術」
刹那、悲鳴を上げたカミラの耳に、凪に落ちる水滴のような声が届いた。
目を見張り、振り返る。そこでは眼前の光景などまるで見えていないかのような顔色をした吟遊詩人が、場違いなほど穏やかに竪琴を爪弾いている。
「君と彼とは運命共同体。前世から約束されし魂の絆。神の結んだその力は、ゆえにこそ真価を発揮する。すべてはこの時代、このときのために……」
竪琴の音に乗せられた彼の言葉は、歌、なのだろうか。
独特の節回しや抑揚こそないものの、カミラにはそう聞こえる。
けれどおかげで覚悟が決まった。キッと眦を決してイークの隣へ進み出る。
気づいたイークが何か言っている気がした。風の音が激しすぎて聞こえない。
変だな。さっきのシルの声は、あんなにはっきり聞こえたのに。
「神々よ、我らの祈り聞き届けたまえ──火焔嵐!」
カミラの右手から生まれた炎が、イークの雷撃と並んで竜巻にぶつかった。
瞬間、ふたつの神術は絡み合い、混じり合い、やがてひとつの巨大な力となる。
雷火旋。
火刻と雷刻の共鳴が雷をまとう炎の旋風を生んだ。
途端にカミラの魂の底から力が沸き上がり、神術が炸裂する。
「なっ……!?」
ユカルの端正な顔が驚愕で歪んだ。
次の瞬間、炎と雷をまといし双頭の竜が、嵐を食い破った。




