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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
257/350

255.光なき町で


 初めて訪れるリーノの町は、何だか妙に閑散(かんさん)としていた。

 道の左右に物売りの露店が並ぶ目抜き通りも、街道のど真ん中にある郷庁所在地きょうちょうしょざいちとは思えないほど人がまばらで、まったく活気を感じられない。

 黄砂岩(こうさがん)造りの建物が並ぶ、いかにもトラモント黄皇国(おうこうこく)の田舎町といった風情の町並み。その景観は文句なしに美しいのに、町全体を覆う空気がどよんと沈んで見えるのは、何も頭上に広がる曇天だけが理由ではないだろう。


「……ねえ、ふたりとも。リーノはロカンダほどじゃないけど、それでも旅人の往来が多くて賑やかな町だって言ってなかった?」

「ああ……言ったかもしれねえな」

「だとすると〝賑やか〟というハノーク語の解釈について、私とあんたたちの間には大きな(へだ)たりがある気がするんだけど?」

「いや、おかしいのは俺たちじゃなくて明らかに町の方だろ。一体どうしたっていうんだ……? 少なくとも前に来たときは、こんなに寂れた町じゃなかったぞ」


 と、町の様子をひと目見て困惑をあらわにしたのはイークだった。

 現在町の北にいる中央第六軍の動きを(うかが)うために遥々ポンテ・ピアット城から旅してきたカミラたちは、街道から続く大通りの入り口にいる。

 三人とも顔は外套(がいとう)で隠しつつ、まずは宿泊先を見つけようと話し合っていた矢先のことだった。時刻はちょうど夕食前の、最も商店が賑わう時間帯だというのに、食糧品を陳列している露店にすら客の姿がほとんどない。そんな状況だから店番をしている商人たちも退屈そうに煙管(パイプ)を吹かしていたり、物憂(ものう)い顔でうなだれていたりと明らかに浮かない様子だった。しかし気になるのは、どの店も買い物客が少ないわりに並んでいる商品の種類や量が乏しいという点だ。


「……どう思う?」

「どう思うも何も、あからさまに何かありましたって商人(れんちゅう)の顔に書いてあんだろ。どのみち俺たちも食糧の買い足しが必要だ。お前らふたりは買い物ついでに情報を集めとけ。俺は先に行って今夜泊まれそうな場所を探してくる。この様子だと宿屋が営業してるかどうかも怪しいからな」

「た、確かに……せっかく町に着いたのにまた野宿なんて笑えないわ。ウォルド、死ぬ気で宿を探して来て」

「善処するが期待はすんな。見た感じどこも品薄そうだし、数日野宿が続くことも考えて食糧は多めに買い込んどけよ」

「ええぇぇっ……」


 と、カミラは露骨に不満たらたらな声を上げたが、ウォルドは取り合わずに馬を連れて町へと消えてしまった。せっかく寒くてつらい野宿を終えて、今夜は温かい毛布の下で眠れると思っていたのにあまりにも非情な宣告だ。

 おまけに(うえ)を見上げればあからさまに雨が降り出しそうな天気だし、冷たい秋の雨に打たれながらの野宿なんて絶対嫌だ、とカミラは幸運の神(エシェル)の加護を願った。

 いや、あるいは幼い頃から信仰してきた太陽神(シェメッシュ)が、夕日の沈み切る前に慈悲を垂れてくれてもいい。とにかく()()()調()()秋雨に打たれたりしようものなら、確実に力尽きる自信がカミラにはあった。


「イーク……」

「そんな目で見るな。俺個人の意思でどうこうできる問題じゃないだろ。とにかくあいつの指図に従うのは(しゃく)だが、情報を集めるぞ。ついでに第六軍の動向も掴めるかもしれないしな」


 正直なところ疲れ果てていてまったく気は乗らなかったが、カミラは仕方なくイークと共に露店を回ってみることにした。ウォルドの言っていたとおりどの店も品薄ではあるものの、さすがはパウラ地方を横断する街道上の町と言うべきか、既に加工された保存食の取り扱いが豊富なのは有り難い。

 たとえば塩漬けにされた肉や魚の燻製(くんせい)、酢漬けの野菜に油に浸された豆、焼きしめたパン、乾酪(チーズ)、乾燥させた木の実や果物。いずれも多少値は張るが、町を訪れた旅人を主客に据えた品揃えであることには違いない。カミラたちはその中から手頃な値段で、かつ持ち運びしやすそうなものを選びながら購入した。

 店主たちはようやくやってきた客にほっと安堵の笑みを覗かせたり、ここぞとばかりに売れ残りの商品を勧めてきたり、いかにも面倒そうに応対したりと、店によって反応は様々だ。だがカミラたちが買い物ついでに町の様子について尋ねると、返ってくる答えだけはどこの店も同じだった。


「──魔物が急増?」

「ああ。ここ数年、全国的に魔物が増えてるって話は前々から聞いてたけどね。年が明けて間もなく……そう、ちょうど軍が本格的に反乱軍討伐に乗り出したって噂が流れ出した頃かな。それくらいの時期から爆発的に魔物が増えて、襲われる町や村が続出するわ物流は滞るわでいいことなしさ。この町の住民もご覧のとおり、みんな怯えて外を出歩かなくなっちまったしな」

「でもリーノは郷庁所在地でしょ? 確かに今の地方軍がまともに仕事をするとは思えないけど、さすがに拠点にしてる町が襲われたらあいつらも動いてくれるんじゃないの? でなきゃ郷守(きょうしゅ)の身も危ないし」

「まあ、そうなんだが、わしらが恐れてるのは魔物だけじゃねえってことさ。近頃は特に()()()()()()が猛威を振るっててねえ。いつ何がきっかけで目をつけられるか分からない以上、不要不急の外出は控えた方が賢明ってもんだ」

「嵐の申し子様?」


 と、カミラとイークが顔を見合わせつつ聞き返せば、最初に立ち寄った果物屋の店主は大袈裟に頷いた。寒々しいほど見事に剃毛(ていもう)された頭に、生成(きな)りの(つば)つき(ぼう)を被せた初老の店主は、カミラが注文した品を手際よく紙袋(ふくろ)に詰めながら言う。


「あんたら、見たところウチの国の人じゃあなさそうだが、ここの南にソルン城っていう軍の枝城(えだじろ)があるのを知ってるかい」

「ああ。第六軍の本拠地であるトラクア城とリーノの間にある城のことだろ。別名『イバラ(じょう)』とか呼ばれてる風変わりな城だとか」

「ほう。兄さん、よく知ってるね。じゃあ、あの城の守りを任されてるジャレッド・ドノヴァンって男のことは知ってるかい」

「いや……悪いがそこまでは知らないな。有名な軍人なのか?」

「ククッ……まあ、ある意味ではね。ジャレッドは今から三、四年前、黄都(こうと)から赴任してきた翼爵(よくしゃく)様なんだが、これがまあ苛烈な男でさ。ちょっとでも気に食わない言動をした者や反抗的な態度を取った者を片っ端から捕まえては、デタラメな理由をつけて次々と処刑しちまうんだ。で、ついた渾名(あだな)が『首狩り貴族』よ。最近では何の罪もない商人や豪族にも言いがかりをつけて、一族郎党(いちぞくろうどう)皆殺しにしたあとに、屋敷や財産を没収して私腹を肥やしてるって話まである。おかげで金と力のある商人はみんな余所へ逃げちまって、そいつが物流の停滞に拍車をかけてんのさ」

「……悲しいことに、今の黄皇国じゃさして珍しくも何ともない話ね。だけどさっき言ってた〝嵐の申し子様〟っていうのは?」

「ああ……申し子様はジャレッドの()()()()()さ。まだ若い少年兵なんだがね、何でも天才的な神術の使い手だとかで、軍でもそこそこの地位にいるらしい。彼の前では歴戦の傭兵もまるで無力──どんな戦士が束になってかかっても、あの子が操る神術の前には手も足も出なかったってもっぱらの噂だ。だから誰も逆らえない。ジャレッドにも、申し子様にもね」


 悟りきったような口調で言いながら、店主は商品を詰め終えた袋を無愛想に差し出してきた。そうされてようやく会計がまだだったことを思い出したカミラは慌てて財布を取り出し、数枚の銅貨と引き換えに袋いっぱいの果物を受け取る。


「だけど胸糞の悪い話ね。マティルダ将軍はどうしてそんな腐れ外道に軍の支城を任せたりしてるのかしら」

「さてね。お(かみ)の考えることなんざ、わしら下賤(げせん)(やから)にゃ分かりっこねえさ。生まれながらに富も名誉も授けられた人間と、何も持たずに生まれてきた人間は、同じ言葉を話していてもまったく別の生き物なんだから」

「だが人間は人間だ。たとえ神のごとく振る舞っていたとしても、斬られて流す血は赤い」

「ハハ、分かってねえな、兄さん。この国じゃやつらが〝青〟と言えば赤いものも青なのさ。あんたらも異国の地で犬死にしたくなかったら、お偉方にゃあ逆らわない方が身のためだぜ」


 と乾いた顔で笑いながら、店主は再び(くわ)えたパイプに火を入れた。されど細められた彼の瞳に映り込んでいるのは火皿から立ち上る煙ではなく、透き通るような諦念だ。カミラは彼のその眼差しに胸が軋んだ。所詮は何をしても無駄なのだという無力感と、希望を失った果てにある虚無。それが町の人々を透明に変えている。まるで初めからいないもののように。いてもいなくても変わらない空気のように。


 けれど、カミラは──


「……あのね、おじさん。私たちは」


 と、衝動に任せて口を開きかけたときだった。

 不意にどこからともなく流れてきた旋律が、はっとカミラを思い留まらせる。

 かなり遠く、耳を澄まさなければ聞こえないくらい微かな音色ではあるものの、カミラの耳には確かに届いた。これはカミラたちがよく知る救世軍歌──ひと月前の光歌祭(こうかさい)でも歌われていた『ラ・リベルタ』の旋律だ。


「イーク」


 と思わず小声で呼びかけ、彼がまとう外套の端を掴む。

 が、気づいたイークは振り向くなり怪訝(けげん)そうに眉をひそめた。


「どうした?」

「い、いや、〝どうした?〟じゃなくて……聞こえない?」

「何がだ?」

「たぶん竪琴(たてごと)だと思うんだけど……あと、誰か……歌ってる?」

「ああ、嬢ちゃん、耳がいいね。シルさんの歌が聞こえるのかい」

「〝シルさん〟?」


 またも店主が(つむ)いだ知らない名前に、カミラは小さく首を傾げた。

 そんな名前の人、救世軍にいたかしら? いや、いたとしてもどうしてこんなところに……? と内心困惑していると、なおもパイプを吹かしながら店主が言う。


「シルさんってのは最近ふらりと町に現れた吟遊詩人さ。いつもこの先の聖堂前広場で歌ってるんだがね、ここまであの人の歌が聞こえるのは(まれ)だよ。今日は風も吹いてないしね」

「吟遊詩人……? で、でもその人、今、きゅうせ……は、反乱軍の人たちがよく歌ってる歌を歌ってるような?」

「ああ、またかい……わしらも何度か(いさ)めたんだがね。どうにも変わった人で、自分の歌いたい歌を歌いたいときに、ところ構わず歌うのが信条らしくてさ。時折ああして反乱軍を讃える歌なんかを歌っちまうんだよ。臆面もなく歌の神(シル)の名を語ってるだけはあって、歌声は一級品なんだがね」


 やれやれと言いたげに肩を竦めながら、店主は薄い唇から紫煙を吐いた。

 ところが刹那、失意に慣れきっていたはずの彼の口角がわずか上がったように見えたのはカミラの気のせいだろうか。


「しかし不思議なもんでね。シルさんの歌にゃあ、人の気持ちをなごませる力があるっていうのかな。だからみんな、いつ軍人に目をつけられるかとヒヤヒヤしつつもあの人を追っ払えない。それどころかシルさんの歌が聞こえてくるのを、どっかで心待ちにしていたりする」

「……だとしても、郷庁所在地の真ん中で反乱軍の歌を歌わせるのはまずいんじゃないか?」

「そう思うならあんたらも試しに説得してみるといい。ま、無駄だと思うがね」


 パイプを咥えてそう言ったきり、店主は深く椅子にもたれてあとは多くを語らなかった。カミラにはそんな彼の様子が、彼方で響く歌声をわずかでも聞き取ろうとじっと耳を澄ましているように見える。

 今の店主の言葉が事実なら、きっとシルという人の歌は町民(かれら)の中で干からびた日常を唯一彩る慰めになっているのだろう。カミラは受け取ったばかりの紙袋を(こも)と縄で縛り上げ、馬の背に積みながら歌声のする方を(かえり)みる。


「……どうする? 行ってみる?」

「そうだな……もう少し聞き込みをしてみて、そいつがまだ歌ってるようなら行ってみるか。しかしお前、よく気づいたな。俺には歌なんて全然聞こえないぞ」

「はあ、これだから雷術使いは……きっとこないだの戦闘で耳がどうかしちゃったのね、かわいそうに」

「そう言う火術使い(おまえ)も大概だと思うがな」


 その後もカミラたちはあちこちの露店を回りながら情報収集を続けた。

 しかし最初の店主に話を聞いてから一刻(一時間)近く経過しても、広場から聞こえる歌声は一向に途絶えない。(あお)く澄んだ泉の水が零れ落ちるような竪琴の音色と、聴く者の心を洗う涼やかな歌声。カミラは徐々に広場に近づくにつれ、町の様子よりもそちらの方が気になって仕方なくなってきた。何より大通りに軒を連ねる露店の店主たちも、皆が素知らぬ顔をしながら、されど確かに広場から聞こえる歌声に耳を傾けている。中にはカミラたちが買い物しようと訪ねていくと「邪魔しないでくれ」と言わんばかりに渋い顔をする店主もいるほどだ。

 そこまで来るとさすがのイークも歌の主が気になり出したようで、ちらと広場の方へ視線を投げた。荷物持ちならぬ荷運びを担ってくれている(エカトル)たちも、ピンと立てた耳を広場へ向けて微動だにしないあたり、あの歌声が気になるらしい。


「ねえ、イーク」

「……ああ」


 どのみち宿屋を探しに行ったウォルドとは、大通りの先の広場で合流する手筈(てはず)になっている。カミラたちは予定よりも少しだけ早く買い物を切り上げて、いよいよ広場へ足を向けた。最初に出会った店主は〝聖堂前広場〟と呼んでいたが、なるほど、歌声響く広場の真ん前には小さいながらも立派な聖堂がある。美しい尖塔(スティープル)様式の塔の先端に、黄金の王冠へ脚をかけ、天を仰ぐ《太陽を戴く雄牛(レーム)》の彫像が掲げられているところを見るに東方金神会(とうほうきんしんかい)の聖堂で間違いないようだ。



   〽

   あの星が君に見えるか

   我らが誓った自由の星

   母神(イマ)が遺した道標(みちしるべ)──



 そして広場の真ん中には、聖堂にも見劣りしないほど芸術的な意匠の噴水がある。この町の名前の由来にもなっている亜麻(リーノ)の花を模した柱を中心に据えた、いかにも歴史を感じさせる噴水だ。されど世が世ならパウラ地方でも指折りの観光名所になっていそうな広場の内に人の姿はまったくなかった。唯一カミラの目に留まったのは、真円を描く噴水の縁に腰かけて竪琴を爪弾くひとりの詩人の姿だけ。

 なおもやわらかに、かつ高らかに救世軍歌(ラ・リベルタ)を歌い上げるその人物を最初に見つけたとき、カミラは思わず息を飲んだ。だってただ一心に空を見上げ、真白い喉を晒して歌う横顔は〝彼〟と呼ぶべきか〝彼女〟と呼ぶべきか分からない。

 それくらい美しく中性的で、浮世離れした容姿の人物だった。

 触れたら陽だまりのにおいがしそうな色合いの髪は彼──または彼女──の紡ぐ歌声に似てやわらかく波打っている。肌の色も透き通るように白く、反り返った睫毛(まつげ)やうなじで(くく)られた長い髪はどちらかと言えば女性的だ。


 けれど何の装飾もないチュニックを細い革帯で締め、踝丈(くるぶしたけ)の簡素な脚衣をはいているだけの飾らない姿は女性のものとはほど遠かった。胸もとにじっと目を凝らしてみても膨らみがあるようには見えないし、喉骨もほんのわずかだが隆起しているように見えなくもない。年齢は二十を数えたばかりか。同じ年頃の男に比べればずいぶんと華奢(きゃしゃ)で儚げだが、ああいうのを絶世の美青年と言うのだろうか。

 いや、でも、歌声も容姿と同じくらい中性的で男か女か判然としないし、仮に男だとするならば、竪琴の弦を弾くあの指の細さはいささか病的だ……などと考えれば考えるほど、目の前の人物の性別がカミラには分からなくなった。

 けれど敢えて(たと)えるならば──本当に歌の神(シル)が舞い降りてきたかのような。

 二十二大神のひと柱、光の神であり音楽の神でもあるオールの眷族(けんぞく)

 オールの歌声から生まれ、かの神に(かしず)く五十六小神のひとり。

 天界に属する神や天使という存在はときに男にも女にもなる。つまり特定の性を持たないということだ。吟遊詩人のシル。町の人々からそう呼ばれ、ひそかに慕われる人物は、まさに神か天使かと見まがうほどの容姿と歌声を持っている。



   〽

   神は恐れぬ者に宿る

   解放の日はすぐそこに──



 表向きには聴く者などひとりとしていないその歌を、シルは神秘的な声色で最後まで歌い上げた。かと思えばさらにポロン、ポロン、と竪琴を爪弾き、伴奏をつないで同じ歌を最初から歌い始める。仮に〝彼〟と呼ぶことにするとして、一体どこであの歌を覚えたのだろう。カミラは図らずも彼の歌声に聞き惚れながら、やはり自分の知る人物の中にシルという名の吟遊詩人は存在しないことを再確認した。

 あんな美青年もしくは美女が救世軍にいたとしたら、色好きなことで知られる仲間(トラモント人)たちが騒がないわけがないし、カミラだって一度見たら忘れない。

 何しろ彼の造形の神々しさはフィロメーナにも並ぶかそれ以上だ。中世の羊飼いみたいな服装を見るに、まさか貴族の子弟ということはないだろうが……いや、敢えて質素な身なりをすることで身分を隠している可能性も皆無ではないか。

 カミラはしばし物陰に立ち尽くしてぼうっと彼を眺めたのち、そう言えば隣にはイークもいるのだということを久方ぶりに思い出した。そうして視線を投げかければ、イークもまた噴水の縁に腰かけて歌うシルの姿に釘づけになっている。


「ねえ、イーク」

「……」

「イークったら」

「……あ? あ、ああ、何だ?」

「あの人、知り合い?」

「いや……初めて見る顔だ。少なくとも救世軍の関係者じゃないな」

「やっぱりそうよね。そもそも男? 女? どっち?」

「俺に()くなよ……まあ、あれで男だったら詐欺だと思うけどな」

「えぇっ……!? 何それ、フィロというものがありながら浮気……!?」

「なんでそうなる、思ったことを素直に答えただけだろ!」


 などという不毛なやりとりを交わしている間にもシルの歌は続く。

 カミラたちが大通りで買い物をしている最中には、たまにロクサーナが歌って聴かせてくれる光神歌や、すぐそこに建つ東方金神会の聖歌なども歌っていたのだが、持ち歌が一周回ってふりだしに戻ったようだ。


「だけど、どうする? 試しに声かけてみる? やっぱりあのまま救世軍歌を歌わせておくのはまずいわよね」

「ああ……そうだな。言って聞くような相手じゃないって話だが、救世軍(おれたち)が接触すればあるいは態度を変えるかも──」


 と、イークが言いかけたときだった。突如広場に軽快な拍手が響き渡り、彼の言葉もシルの歌声も遮られる。聞こえた拍手はひとつだけだった。

 されどついさっきまで広場にはシル以外の人影はなかったはずだ。不審に思ったらしいイークが物陰から顔を出し、カミラも彼を真似ようとした。が、次の瞬間とっさに身を引いたイークに押し戻され、いきなり壁に押しつけられる。


「痛っ!? ちょっと、何す──」

「しっ! 声を立てるな、噂をすれば何とやらだ」

「え?」

「どうやら軍人様のお出ましらしい。しかも軍服からして地方軍の兵じゃないぞ。たぶん中央軍だ」

「……!」


 一歩遅かった。カミラはケープのフードを目深に被り直しながら、今度は慎重に建物の陰から顔を出した。そうして視線を走らせた先には確かに数人の人影がある。いずれもアイビーグリーンの軍服に身を包み、腰に剣を()いた軍人だ。

 だがカミラはそいつらの中で──というよりそいつらの先頭に立って、ただひとりシルに拍手を送っている人物を見るなり目を丸くした。


 少年。


 ちょうどジェロディと同じ年頃と思しい少年だ。取り巻きの兵士たちに比べると圧倒的に若く小柄で、カッチリと軍服を着こなしてはいるがとても軍人には見えない。しかし何より目を引くのは、ケリーのものよりもずっと淡い白緑(びゃくろく)の髪──有色髪だ。少年はその髪を前だけ長く伸ばして、顔の右半分を隠すように流している。

 さらに余った左の前髪(かみ)は邪魔になるためか、細身の三つ編みにして(びん)のあたりで留めるというちょっと風変わりな髪型をしていた。


「やあ、素晴らしい歌声だね、お兄さん。いや、もしくはお姉さんかな? どっちでもいいけど、噂に聞いてたとおりの歌唱力だ。流れの吟遊詩人にしておくにはもったいないくらいの逸材だね」


 と、やがて拍手を止めた少年が笑みを含んだ声色で言う。

 演奏の邪魔をされたシルはと言えば腕に竪琴を抱いたまま、されどまったく危機感を感じさせない顔つきで、ぼんやりとそんな少年を見つめていた。


「僕はユカル。黄皇国中央第六軍ソルン城常駐部隊所属の兵長、ユカルだ。あんたの名前は?」

「……シルだ」

「そいつは芸人としての通り名だろ? 本名は? 出身はどこ?」

「さあ……分からない。私はシル……それ以上でもそれ以下でもない。気づいたときにはこの世界にいた。だから出身はどこかと問われれば、神々の大地(エマニュエル)である、と答えるのみだ」

「ああ……なるほど。話が通じる相手じゃなさそうだ」


 ようやく歌うことをやめ、ユカルと名乗った少年の問いに答えたシルの声は、やはり声の高い男のものとも、声の低い女のものとも取れる音色だった。

 しかし話し方はやけにのんびりしていて掴みどころがなく、会話の内容も要領を得ない。もしかして寝ぼけているのだろうかと眉をひそめたくなるような口調と返答。少なくともたったいま自分が置かれている状況を理解してはいなさそうだ。


「まあ、いい。答える気がないなら答えなくていいよ。あんたがどこの誰で、なんて名前だろうと実際は大した問題じゃないから。とりあえず僕らと一緒に来てくれるかな。うちの上官があんたの顔を拝みたがっててね」

「……何故?」

「何故も何もあんただって自覚あるだろ。こんな往来の真ん中で国に仇為す連中を讃える歌なんか歌われちゃ困るんだよ。意図的な擾乱煽動罪じょうらんせんどうざい。ってことで、僕らはあんたを連行しなきゃならない」


 さも面倒そうな手振りをしたユカルの宣告に、カミラは思わず息を飲んだ。

 やはりシルの噂はとっくに軍の耳にも入っていたのだ。

 しかし吟遊詩人が自分の歌いたい歌を歌っていただけで煽動罪とは、相変わらず今の黄皇国軍はどうかしている。カミラはイークと目配せを交わした。何の罪もないシルを大人しく軍に逮捕させるわけにはいかないが今、自分たちが出ていけば間違いなく騒ぎになる。そうなれば偵察任務は失敗だ──どうすればいい?


「……私は別に、誰かを讃える歌など歌っていない。ただ、この町の人々はみな希望を失っている。だから私は希望を歌う。希望なきところに希望を届ける……それこそが詩人の本懐であり、私の使命だから」

「はいはい、そういう御託(ごたく)は牢屋で聞くよ。いいからさっさと立ってくれる? 分かってると思うけど、あんたに拒否権はない。どうしても抵抗するって言うなら馬で引きずっていくことになるけどね」

「君がそうしたいのならそうするといい。けれど少年──君は何故泣いている?」

「は?」

「君の心もこの町と同じだ。希望を失い、嘆きと苦しみの嵐の中で怨嗟(えんさ)慟哭(どうこく)を上げている。君は心で泣いている……私にその涙を拭うことはできるだろうか」


 ところがシルの反応はまったくの予想外だった。彼はやはり顔色ひとつ変えずにそう言うと、ポロロン、と腕の中の竪琴を掻き鳴らす。

 聖女の涙が零れるような美しい音色だった。だがシルが抱える白く優麗な竪琴の弦の震えは、ユカルにとって挑発以外の何ものでもなかったようだ。


「ハハッ……ああ、そう、てっきり罪を逃れるために変人のふりをしてるのかと思ったけど、完全に頭のイッちゃってる人だったか。もしくは最近流行りの麻薬(ヌヴォラ)でもキメてるとか? 何でもいいけど──とりあえず鬱陶しいから、ちょっと黙ってもらおうかな」


 刹那、カミラはぞっと凍りついた。その瞬間まで空気と共に満ち、あたりを漂っていた神気。それが一斉に目を覚まし、凍てつき、引き波のごとくカミラたちを呑み込んだ。かと思えば目には見えないうねりとなった神力が渦を巻き、猛烈な勢いでユカルへと引き寄せられていく。


「おい、やっぱりあいつ……!」


 すぐ傍でイークが何か言いかけた。みなまで聞かずともカミラにも分かった。

 ──〝嵐の申し子〟。

 やつだ。ソルン城を守る愚将ジャレッドの()()()()()。直後、イークの言葉を遮った閃光が、噴き上がる突風となってユカルの髪を巻き上げた。途端にあらわとなった彼の蟀谷(こめかみ)に宿るのは、逆巻く風の姿の神刻(エンブレム)──大嵐刻(ストーム・エンブレム)だ。


「呑み込め……!」


 狂気に彩られた笑みを(たた)えてユカルが吼えた。

 瞬間、彼が生み出した憎悪の嵐がシルへ向かって放たれる。


 吟遊詩人は動かなかった。


 ただ、まるで巣立つ小鳥でも見送るように顎を上げた彼の視線の先で、嵐が咆吼を上げている。



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