254.瞼は知っている
「ターシャ……?」
譫言に似たカイルの声が、突如として視界に現れた少女の名を呼ぶのをジェロディは聞いた。無風のはずの室内で、生き物のごとくふわりと舞う貫頭衣。空気に溶けてしまいそうなほど色素の淡い肌と髪。華奢で小柄な体を包む浮き世離れした雰囲気と、星の色を宿した硝子玉のような瞳。トリエステが鳴らした見慣れぬ笛に呼び出され、カイルを連行しようとしていた兵士の前方。そこに立ち塞がっているのはまぎれもなくターシャだった──けれど彼女が何故ここに?
ターシャは当然ながら非戦闘員で、今回のポンテ・ピアット城攻略戦にはまったく関与していない。関与していないどころかたぶん本人は興味すらなく、続々と出陣していく島の同志を後目に平気な顔で書物庫に籠もっていたはずだった。
だのにそのターシャが今、ここにいる。島に置いてきたはずの彼女がどうしてこんなところにいるのかも気になるが、そもそもターシャが島を出るのはペレスエラに連れられてきて以来初めてのことではないか。
ただでさえカイルが黄皇国の間諜だったと聞かされて頭が混乱しているのに、予想外の展開が続きすぎて思考がまったくまとまらない。ジェロディはぐるぐると脳が回転しているかのような頭に手をやって、どうにか理性を取り戻そうとした。
「た……ターシャ、どうして君がここに? 一体どうやって島を──」
「問題なのはそこじゃない。キミはこのまま行かせるつもりなの、ハイムの神子」
「え……?」
「カイル。キミもキミだよ。キミはバカみたいな正直者のくせに、どうして肝心なところで本当のことを言わないの。〝今回の作戦のことは何も知らなかった〟ってたったひと言、そう話すだけでいいのに」
「オレは」
「嘘つき。本当はアンドリアのこともカミラのことも──アーニャのことも心配でたまらないくせに。なのにキミは自分を騙して、これが最良の選択だと思い込もうとしてる。わたしは、嘘つきは嫌いだと言った」
いつものようにまったく抑揚なく、淡々と吐き捨てられたターシャの言葉にカイルが目を見開いた。同時にジェロディも声を失う。もしかしてターシャは、いや、傍目にはとてもそうは見えないけれど、でも──怒っている、のだろうか?
どうして自分がターシャの態度をそんな風に解釈したのかは分からない。
しかしまっすぐにカイルを見据え、褪せた栗色の長髪をわずか風にうねらせている彼女の気色は、いつもと同じ無表情なようでいて何かが違った。
十二ヶ月ものときを共に島で過ごしておきながら、具体的に何がどう違うのかジェロディにははっきりと言葉にすることができない。けれど、そう、たとえばターシャが真白い貫頭衣の左右で結んでいる両手。それが微かな震えを伴うほどに固く握り締められているように見えるのは、ジェロディの気の迷いだろうか。
「待ちなさい、ターシャ。あなたがいま言ったことは事実ですか? カイルは今回の作戦内容を知らなかったと、何故あなたがそう断言できるのです?」
「今の言葉のすべてがまぎれもない真実だから。わたしは嘘はつかないし、つけない。そういう風にできている。だからわたしが断言できるということは、すなわち真実であるということ」
「要領を得ませんね。近頃カイルが妙にあなたを気にして構いに行っていることは知っていましたが……もしやカイルに協力した共犯者はあなたなのですか?」
「──違う! ターシャはそんなんじゃ……!」
「年端もいかない少女である彼女が、まさか黄皇国の密偵に味方しているとは誰も思いませんからね。言われてみれば共犯者候補としてはコルノ島でも一、二を争うほど優良な人材かもしれません」
「だから違うって! オレには共犯者なんていない、全部ひとりでやったんだ! ターシャはこの件には関係な──ッ痛……!?」
「騒ぐな、大人しくしていろ」
刹那、ターシャの潔白を訴えようと食ってかかったカイルに、例の兵士がすかさず足払いをかけた。そうして膝をついたカイルを容赦なく捩じ伏せ押さえつける。
カイルは封刻環で後ろ手に拘束されている上に関節をきめられて、身動きが取れないどころか呼吸さえままならない様子だった。いくら何でもやりすぎだ。
とっさにそう判断したジェロディが止めに入ろうとした、寸前、
「やめてください……っ!」
悲鳴にも似た叫びを上げて、カイルを組み敷いた兵士に掴みかかったのは奥から走り出してきたマリステアだった。朝からずっと一緒にカイルとトリエステを探してくれていた彼女は、助走の勢いを駆使して壮年の兵士を突き飛ばすや、途端に咳き込み始めたカイルを守るように抱き竦める。
「トリエステさま、やっぱりこんなのはあんまりです……! たとえカイルさんが国のスパイで、わたしたちを裏切っていたんだとしても、丸腰で神刻まで封じられた相手に暴力や虐待を加えるなんて救世軍のやることじゃありません!」
「ま……マリーさん、なんで……」
「わ、わたしには難しいことはよく分かりませんが……! カイルさんが何者であれ、こんなことをすればカミラさんが悲しみます! カミラさんはカイルさんのことも大切な仲間だと思っていらっしゃるから……! ただでさえお兄さまを敵に回して、あんなに傷ついておられるカミラさんを、わたしはもうこれ以上傷つけたくありません……!」
常磐色の瞳いっぱいに涙を浮かべて、マリステアはカイルを放さなかった。
それどころかより強く抱き締め、決して渡さないという意思を見せる彼女をトリエステが無表情に見下ろしている。
賢い彼女は愚かだと笑うだろうか。けれどジェロディは全面的にマリステアに賛成だった。カミラがカイルの裏切りに薄々気づいていながら彼を信じ続けたというのならなおさらだ。ジェロディは他でもない、カミラの想いの強さを信じている。
「トリエ、マリーの言うとおりだ。やっぱりこんなのは間違ってる。どうもターシャはカイルの事情を知ってるみたいだし、彼女も交えてもう一度話を」
「ジェロディ殿。たとえ敵対者であろうとも慈悲を垂れるそのお心は賞讃に値しますが、カイルの密偵行為は救世軍の存続に関わる一大事です。ターシャがどういった経緯で、どの程度カイルの事情を把握しているのかは計りかねますが、ふたりが共犯関係でないと立証できない以上は時間の無駄です。彼らが口裏を合わせてこちらを攪乱しようとしている可能性も否めませんし……」
どうやらトリエステはカイルに対する敵愾心を捨てるつもりはないらしかった。彼女は氷刃のごとく冷ややかな眼差しでカイルを見据えると、次いで兵士に目配せを送る。どう見ても〝連れて行け〟の合図だ。しかしジェロディは確信している。
このまま彼女にカイルを連れて行かせたら、きっとよくないことが起きる──
「トリエ……!」
だがジェロディがトリエステの暴挙を止めようと身を乗り出しかけた、瞬間。
不意にターシャが嘆息をつき、そして閃光を巻き起こした。
光源と言えば吊られた角灯ひとつしかなく、薄暗い室内に白光が炸裂する。
皆の口から悲鳴が上がり、ジェロディもとっさに腕を翳した。
なんだ、と思いながら光の中に目を凝らし、直後、絶句する。
「な──」
薄闇の中に皓々と浮かぶ光。その光はターシャの背後から頭上にかけて、宙空という名の画布にひとつの紋章を描き出していた。ジェロディはあの紋章を知っている。先端が渦巻く木の杖に、地平を見据える白き鴉がとまった神璽。
そう、あれは神なるものの紋章──神璽だ。
《白鴉の杖》。またの名を《真実を照らす杖》。真実の神エメットの象徴。
間違いない。ターシャが今、ジェロディたちに見せているのは神子が己の身分を証明するための表璽の術。ジェロディがこれまで幾度となく《星樹》を浮かび上がらせてきたのと同じだ。つまりターシャもまた神子であるということ。
彼女はエメットに選ばれし、真実の神子だ。
「た……ターシャ、それ……」
きらめきの音色さえ聞こえそうなほど神々しい光の中でカイルが茫然とターシャを見つめ、絶句していた。同じくマリステアも息を飲み、ジェロディは言葉を失い、トリエステさえも目を見張って立ち尽くしている。
「……これで分かった? わたしは嘘をつかないし、つけない」
美しき《白鴉の杖》の袂で、ターシャは先程と一言一句違わぬ言葉を紡いだ。
そう言われてみれば彼女は、クアルト遺跡で初めてジェロディたちの前に姿を現したときにも同じことを言っていたような気がする。
あれは言葉どおりの意味だったのだ。彼女は真実の神エメットの神子。エメットはいかなる嘘も見抜き、退け、真実のみを照らす神だ。だから彼女は嘘をつかない。というより嘘をつけない。恐らくはそれがターシャに与えられた恩寵の代償。
ならば彼女の口から紡がれる言葉は、必然的に真実であるということだ。
「もう一度言う。カイルは今回の作戦のことは何も知らなかった。つまり作戦が国に知られたのはカイルのせいじゃない。黄皇国の間者は他にいる」
「ターシャ」
「カイル、キミはわたしに言った。世界が真っ暗闇に見えるのは自分が目を閉ざしているからで、勇気を出して目を開ければそこには必ず光があるって。だったらどうしてキミがその光から目を背けるの。わたしに証明するって言ったくせに。信じろって言ったくせに」
「ターシャ、」
「嘘つき。結局キミもイアソンと同じ──」
何かをそう言いかけたきり、ターシャはうつむいて口を閉ざした。そんな彼女を見やったカイルもまた何か言いかけ、されどためらい、唇を噛んでうなだれる。
今日までふたりの間に一体どんなやりとりがあったのか、ジェロディはまるで知らなかった。だからターシャが何を思い、ここに来たのかは分からない。しかしひとつだけ確かなことがある。それはカイルがジェロディたちの知らないところでほんのわずかに、けれど確かに、ターシャの中の何かを動かしていたということだ。
「カイル。いまターシャが言ったことは本当なんだね。今回僕たちの作戦が国に洩れていたのは、やっぱり君のせいじゃなかった。ならどうしてさっきそう言わなかったんだよ」
「……っ」
「だいたいおかしいと思ってたんだ。黄都守護隊に襲われてピヌイスに逃げ込んだ夜、君はまるで自分を疑ってくれと言わんばかりに姿を消した。戻ってきてからも何も言わなくて、だからトリエは君を前線からはずすべきだと主張したけど、何故かヴィルヘルムさんが唐突に君を連れていくと言い出した。あれは君がヴィルヘルムさんには話したからじゃないのか? 自分は何も知らなかったって」
「違う、オレは……」
「でなきゃヴィルヘルムさんが、カミラを危険に晒す可能性がある君を連れていったりするはずがない。あの人は気づいてたんだよ、君がわざと姿を隠した理由に」
「オレは」
「カイル。君は守りたかったんだろ、カミラを。だけどそれができなかったから自分を責めて──」
「──やめろよ!」
そのとき床に膝をついたままのカイルがマリステアを振り切り、声を荒げた。
彼はライトグリーンの瞳の奥に烈火のごとき激情を燃やして、心の底から忌々しげにジェロディを睨み上げてくる。
「なんでお前はそうなんだよ、ジェロ。確かにオレは今回の件は何も知らなかったけど、今日までお前らを騙して利用してたことは本当なんだ! なのになんでわざわざそんな話するんだよ! お前だってオレのこと本心では嫌ってたはずだろ!」
「ああ、そうだよ。僕は君が嫌いだ、カイル。いつもやかましくて節操なしで、下品で非常識で空気も読めなくて、正直関り合いになりたくない相手だと思ってる。だけど君が僕のことを、好きとか嫌いとかいう個人的な感情で人を差別するやつだと思ってるなら、もっと嫌いだ」
「だったらさっさと追い出せよ、オレを! そうすれば全部丸く収まるんだからさ! オレをこのまま救世軍に置いといたっていいことなんか何にもないだろ! オレはお前らの情報が手に入る限り、オッサンに全部話すぞ!」
「じゃあ君はアンドリアさんがどうなってもいいって言うのか? あの人は君が救世軍で何をしてたか知らないんだろ? なのに何も話さないまま置き去りにして、自分だけ逃げ出そうっていうのか」
「確かに母ちゃんのことは心配だけど、そうするしかないじゃんか! オレが裏切ったと知ればオッサンは母ちゃんのことだってどうするか分からない……! だったらオレがここで死んで、オッサンとの契約を果たせば──」
「その〝契約〟って、さっきターシャが言ってた〝アーニャ〟って子が関係してるのかい?」
「……!」
「そうなんだな。じゃあ君がやつらの言いなりになってるのはアンドリアさんとアーニャを守るためか。ふたりを人質に取られて仕方なくこんなことしてるんだろ? だったら僕らも一緒にふたりを守る。アンドリアさんのことは島に置いておけばひとまず安心だからいいとして、問題はアーニャって子の方だ。彼女は今どこにいる? もし君を利用している連中に連れ去られたりしているなら、僕らの手で助け出して連れてくる。けどそうするためには君の協力が必要だ」
「……嫌だ」
「カイル」
「お前はひとつ勘違いしてるよ、ジェロ。オレがここにいるのは確かにアーニャのためだけど、彼女を人質に取られてるわけじゃない。ただアーニャとカイラの将来のために、あのオッサンたちの力がどうしても必要なんだ……!」
「カイラ?」
「オレとアーニャの子供だよ! より正確にはランベルティ晶爵家の跡取りだけどな!」
瞬間、カイルの口から飛び出した予想外の言葉にマリステアが「えっ……!?」と息を飲んで口もとを押さえた。
ジェロディもこれにはさすがに面食らい、束の間ぽかんとしてしまう。
とっさに話を続けようとしても、驚きのあまり声が引っ込んで出てこない。
「は……こ……子供って……じ、じゃあ君、もしかして結婚してるのか……!?」
「してるわけないだろ、できることならしたかったけど! なんたって相手は由緒正しい晶爵家のお嬢様だし!? アーニャは生まれつき耳が聞こえなくて、そのせいで散々後ろ指さされてきたのに、オレみたいなのと結婚したりしたらそれこそ一生笑われ者だからな! カイラだって絶対幸せになれないに決まってる……!」
「で、で、ですがランベルティ家って確か、何年か前にティノさまに縁談を持ちかけてきたお家じゃありませんか……!? 今まで社交界にも出さないくらい大事にしてきた娘がいるから、ぜひティノさまとお近づきにってしつこく言い寄ってきたお家だったような……」
「ハッ……社交界にも出さないくらい大事にしてきた? 〝恥ずかしくて社交界に出せなかった〟の間違いだろ? 障害持ちの娘なんかものの役にも立たないって、バカにして屋敷に閉じ込めてたくせに……!」
「ですがアーニャ・ランベルティと言えば二年前、あなたが奉公に上がったラニエロ商会の跡取り息子、カガロ・ラニエロの妻ではありませんか? 麻薬の密輸に関わっていた罪で商会は潰れ、カガロは父親共々投獄されたと聞きましたが……」
「ああ……さすがはトリエさん、オレのことそこまで調べてたんだ?」
「当然です。あなたの経歴も交友関係も隅から隅まで完璧に調べ上げましたから。お望みとあらばアンドリア殿のご出産に立ち会った助産師の名前も、あなたが洗礼を受けた教会の住所も、ここ数年の女性遍歴もすべて諳んじてみせますよ」
「い、いや……分かってたけど、トリエさんって敵に回すとマジで怖いな……」
未だ冷然たる態度を崩さず、淡々と恐ろしい台詞を並び立てるトリエステに、カイルは口もとを引き攣らせて呟いた。
彼の意見にはジェロディも全力で同意するが、ときに座り込んだままのマリステアがカイルの傍らであわあわと顔を赤らめながら言う。
「で……ででですがトリエステさま、それではカイルさんは奉公先の奥様と、あの、つまり、そういうご関係になってしまったということになりますが……!?」
「ええ……どうやらそういう認識で間違いなさそうですね。いくら思慮と分別に欠けるとは言え、私もまさか人妻にまで手を出すとは思っていませんでしたので、盲点だったと認めざるを得ませんが──カイル。あなたが既に一児の父であることをアンドリア殿はご存知なのですか?」
「当たり前だろ。そりゃ打ち明けた直後は縊り殺されそうになったけどさ……でもアーニャが親やカガロの野郎からどんな仕打ちを受けてたか、全部話したら最後はオレたちに味方してくれた。カガロが逮捕されたあともアーニャを守るためにずっとウチで匿ってくれたし……アーニャがまたあんなひどい目に遭うくらいなら、貴族だろうが大富豪だろうが迷わず突き殺してやるって薙刀片手に息巻いてた」
「ですが私がお話を伺ったときには、アーニャという娘の話は何も」
「言うはずないじゃん。だってウチの母ちゃん、元山賊だぜ? 身内を守るためならたとえ膾にされようが簀巻きにされてタリア湖に沈められようが仁義を通す。それがヤクザもんの流儀だもん。だから母ちゃんは口が裂けてもアーニャやカイラの話はしない。ふたりを守るためにはそうするのが一番だって分かってるから……」
「けど、君がさっき言ってた〝アーニャとカイラの将来のため〟って? ふたりを人質に脅されてるわけじゃないなら、君は一体何のためにこんなことを」
「……」
ジェロディが再び話の核心に迫ろうとすると、途端にカイルは口を閉ざした。
そうして床を見つめる横顔には微かな逡巡が見て取れるものの、あと一歩のところで口を割らない。アーニャとカイラ。現状名前しか情報のないふたりがカイルにとってどれほど大切な存在なのか、すべてはその沈黙が物語っていた。
ジェロディは今日までカイルのことを、軽薄という言葉が人間の皮を被って歩いているようなやつだと思ってきたがあれは誤解だ。カイルはそうすることで守っていたのだ。自らの命を投げ出すほど真剣に、心の底から愛した女性を。
「分かりました。ある程度の情報は得られましたのでもう結構です。あとのことはこちらで調べ、アーニャ・ランベルティの居場所を割り出しましょう。彼女と娘の身柄さえ確保できれば、カイルの口もより滑らかになるでしょうし」
「……! 待っ……ダメだ、あのふたりだけは……! アーニャも母ちゃんと一緒で何も知らないんだ! なのに彼女まで巻き込むなんて……!」
「ならば質問に答えなさい。あなたはあなたを裏で操る勢力と、一体どのような取引を交わしたのです?」
「……っ!」
「カイル」
惑うカイルに追い討ちをかけるように、トリエステが傲然と名前を呼んだ。
呼ばれたカイルはきつく切歯してうなだれ、苦しげに眉を寄せている。
そんなカイルの様子を、数歩離れた場所からターシャがじっと見つめていた。いつの間にか彼女の背後で輝いていた《白鴉の杖》は姿を消し、取調室にはもとの暗さが戻っている。その薄闇の中でターシャは何かを待ち望んでいるように見えた。
自分が神子であることを明かして以来彼女はひと言も口をきかないものの、ジェロディは何故だかそう思う。
「……アーニャには弟がいたんだ」
そうして取調室に降り積もった長い長い沈黙のあと。
カイルはついに口を開き、絞り出すような声で真実を告げた。
「こいつがまたいけ好かない弟でさ。血を分けた姉弟のくせに、アーニャのことなんかずっといないもののように扱ってて……ランベルティ家の跡目は当然そいつが継ぐはずだった。だけど去年、その弟が病で急逝して……世継ぎに困った晶爵が、ヴィーテの町の修道院に入ったアーニャを連れ戻して婿を取ると言い始めた。今の今まで家の恥だとか何とか言って、アーニャになんか見向きもしなかったくせに、あのクソ親父はまた娘を道具として扱おうとしてやがるんだ。借金で首が回らなくなって、貴族の血をほしがってたラニエロ商会にアーニャを売ったときみたいに」
「そ……そんな、ひどい……!」
「だけど、オレは……オレには金も身分もないから、どうやったってアーニャを守ってやれない。アーニャがまたクソ親父に利用されるのを指を咥えて見てるしかない。だからオッサンとの取引に応じたんだ。オッサンは命令に従えば、アーニャとカイラをオレの代わりに守ってくれるって……」
「君の代わりに守る?」
「ああ……さっきトリエさんが言ったとおり、オッサンはたぶんトラモント皇家の関係者だ。だから貴族にも顔がきくし、婚姻とか養子縁組みとか、他人の家の事情にもある程度口を挟める。オッサンはそういう権力を使ってランベルティ家の家督問題を解決してやるって……アーニャがもう二度と利用されなくて済む状況を作ってやるって、そう約束してくれた」
なおも力なくうなだれたまま、カイルはぎゅっと目を閉じてそう告げた。現実という名の氷海で溺れながら、縋れるものはもうそれしかないとでも言うように。
「だから……だからオレはオッサンとの契約を最後まで守んなきゃダメなんだ。本当はジェロ、お前と救世軍の情報を提供し続けられれば一番なんだけど……だけどこうなった以上オレは任務を続けられない。だったらオレが救世軍に捕まって死んだってことにすれば、オッサンはきっと──」
「カイル。君って肝心なところで馬鹿だな」
「……は?」
「君の事情は分かったよ。だけどだったらなおさら、どうして僕たちと一緒に戦うことを拒むんだ? 救世軍は黄皇国を打倒して、今の体制を打ち壊すために戦ってる。つまり救世軍が勝てば貴族制そのものが滅ぶってことだ。そうなればアーニャが貴族社会の食いものにされる心配はなくなるし、君とアーニャを隔てている壁も消える。ならそんな得体の知れない男に従うより、僕らに協力した方が未来は断然明るいじゃないか。君は今日まで一緒に戦ってきた僕たちよりも、人質を取って誰かを従わせるような連中を信じるっていうのかい?」
ところがここまでの話を聞いたジェロディが素朴な疑問を呈すれば、顔を上げたカイルがぽかんと口を開けた。彼は宝石みたいに澄んだライトグリーンの瞳にジェロディを映したまま、しばし言葉を失っている。が、やがてハッと我に返るや、
「い……いやいやいや、バカはお前だろ!? オレは今の今までお前らを騙して利用してきたんだって、さっきから何回もそう言ってるじゃんか! なのに一緒に戦えって? お前正気で言ってるのかよ? だいたい貴族制をぶち壊すって言ったって所詮は夢物語だろ! お前らが黄皇国に勝てる保証なんて、どこにも──」
「確かに目に見える保証はない。だけど僕たちは必ず勝つ。何度希望を折られようが、痛めつけられようが、諦めなければ未来はある。現に救世軍はこれまでもそうやって強くなってきたんだ。ジャンカルロさんを失っても、フィロメーナさんも失っても、僕らが掲げた理想の灯火は絶対に消えなかった」
ジャンカルロがともし、フィロメーナが守り、そして自分たちが受け継いだ小さな灯火。その火は今赫々たる煌炎となって燃え上がり、ジェロディたちの前途を明るく照らしていた。ジェロディはそこから学んだのだ。
どんなに小さな種火でも消さないことに意味がある。炎の小ささを嘆くのではなく、いつか天をも焦がすほどの炎光を放つと信じて守り抜くこと。
救世軍にはそれができる。たとえばもし自分がこの先志半ばで斃れることがあろうとも、ともした炎は必ず誰かが受け継いでくれる。ここはそう信じられる場所だ。だからジェロディは断言できる。何の衒いも疑いもなく。
「カイル。僕たちは君やアーニャのような人を救うためにここにいる。君がどんなやつだろうと、黄皇国の暴虐に苦しむ民である限り、何度だって手を差し伸べる。それが僕の信じる救世軍だ。──ターシャ」
「……何?」
「真実の神に選ばれた君なら分かるだろ? なら答えてほしい。僕は嘘をついているか?」
風が吹いた。じっと感覚を研ぎ澄ましていなければ感じられないほどの、本当に微細な空気の流動だったが、ジェロディは確かに感じた。
今、ジェロディの肌を撫でるその風は、きっとターシャの想いのすべてだ。
彼女はまっすぐにジェロディを見つめ、佇んだまま、やがて小さく口を開く。
「……ついてない」
皆の視線が彼女を向いた。されどターシャはジェロディから視線をはずさず、今度は全員に聞こえ渡る声量ではっきりと明言する。
「ジェロディは、嘘をついてない」
ターシャが喉を震わせて紡いだ答えに、ジェロディは微笑んだ。
途端にカイルの瞳が滲む。茫然とターシャを見つめたまま、声を失った彼の頬を涙がとめどなく濡らし始める。けれどもカイルは笑った。困ったように眉を寄せながら、無理矢理口角を持ち上げて、泣き笑いのまま言葉をつなぐ。
「はは……っんだよ、それ……じゃあほんとに……今日まで散々悩んできたオレがバカみたいじゃんか」
「ああ。だから言ったろ、君は馬鹿だなって。だけど君も知ってのとおり──救世軍はそういう馬鹿が喜んで集まる場所なんだよ」
ジェロディが笑ってそう答えれば、カイルにつられて泣き出したマリステアがもう一度彼を抱き締めた。あんなことをするとカイルがまた調子に乗りそうだが、まあ今回だけは目を瞑ることにする。次いでジェロディはトリエステへ目をやった。
ここまで言えばさすがに言葉は要らないだろう。ジェロディの視線を受け止めた彼女は小さく息をつくや、傍らで直立したあの兵士を顧みる。
「ソウスケ」
「はっ」
「彼に何か温かい食事と飲み物を。それからしばらく安静に過ごせる部屋を用意しなさい。ラファレイ殿が到着したら、念のため診察をお願いするように」
「畏まりました」
ソウスケ、という名前らしい兵士は表情を変えることなく一礼すると、ほどなく踵を返して立ち去った。何だか変わった響きの名前だな、と思いながらその背を見送ったジェロディは、ときに扉の前に佇むターシャと視線が合う。が、ターシャは無言で目を伏せると、すぐに貫頭衣の裾を翻した。そうしてソウスケを追うように部屋を出ていこうとする彼女を、ジェロディはとっさに呼び止める。
「ターシャ」
「……何?」
「ありがとう」
「……何が?」
「いや、一応言っておきたかっただけさ。ところでせっかく来たんだし、もう少しだけカイルの傍にいてやってくれないかな。僕らは次の戦の支度で忙しくて、なかなか時間が取れないから」
とジェロディが持ちかければ、ターシャはたちまち「は?」と言いたげな顔をした。しかし彼女の剣呑な反応にも動ぜず、ジェロディがにこりと笑って答えを待てば、ターシャはふいと顔を背けて吐き捨てる。
「……わたしに頼むくらいなら、カミラを呼び戻した方がいいんじゃない」
「いや。君がいいよ」
「なんで──」
「君がいいんだ」
みなまで言わせず、ジェロディはなおも微笑んだ。するとターシャは露骨な嫌悪の表情を見せながらも、やがて諦めたように嘆息をつく。
その嘆息こそがターシャの答えだった。彼女はトリエステが懐から封刻環用の白い鍵を取り出したのを認めると、歩み寄りざま「貸して」と手を差し出す。
そうして預かった鍵を手に、座り込んでいるカイルに歩み寄った。
彼がそんなターシャを見上げ、泣き顔のままにへらっと笑ってみせれば、
「……キミってほんと馬鹿」
と悪態が零れる。
けれど静かにしゃがみ込み、拘束を解いてやるターシャの手つきは優しかった。
ジェロディにはそれが少しだけ誇らしい。
だって、自分の信じた救世軍の形がそこにある。




