253.それぞれのナイフ
大人四人が詰めかけるには手狭な部屋に、マリステアの小さな悲鳴が響いた。
ジェロディに付き従って現れた彼女は拘束されたカイルの姿を見るなり、慌てた様子で駆け寄っていく。そんな彼女の反応が、トリエステは少し意外だった。
てっきりマリステアは軽薄で節操のない振る舞いをしてきたカイルのことを嫌っていると思っていたからだ。されどマリステアは衰弱しきったカイルの様子を見ると傍らに跪き「カイルさん……!?」と蒼白な顔で呼びかけた。
一方のカイルは空腹と疲労で意識が朦朧としているのか反応がにぶい。マリステアの呼びかけに対して何か答えたようだが、声は掠れて聞き取れないほどだ。
「トリエ、説明してほしい。これは一体どういうことなんだ?」
ところがトリエステがふたりの様子に気を取られていると、ジェロディが改めてさっきと同じ質問を投げかけてきた。
状況からカイルがこの部屋に監禁され、尋問を受けていたことをひと目で察したのだろう。彼の語調と表情には怒気がありありと表れている。
「……もう結構です。下がりなさい」
仕方なく、トリエステはジェロディの背後で困惑している監視役の兵士にそう命じた。兵士はジェロディを止められなかったことを恥じている様子だったが、こうなったのは彼の責任ではない。そういう意図を込めてトリエステが視線を送れば彼は赧然と黙礼し、取調室をあとにした。部屋に残ったのはジェロディとマリステアとトリエステ、そしてカイルの四人だけだ。
「ジェロディ殿。よくここがお分かりになりましたね」
「当たり前だろ、朝から君たちを探して城中調べ回ってたんだから。おかしいと思ったんだよ。君が昨日カイルを呼び出してから、ふたり揃ってぱったり姿が見えなくなって、カイルに至ってはまったく隊に戻ってこないとアルドが言ってた。それで嫌な予感がしたんだ。これは絶対何かあるって」
「そうでしたか。ご心配をおかけして申し訳ありません。ですがご覧のとおり私と彼は今、少々取り込み中でして」
「取り込み中? 確かにカイルはちゃらんぽらんなやつだけど、こんなところに閉じ込めて封刻環で拘束しなきゃならないほどのことをしたって言うのかい? そうじゃないなら、今すぐ彼の拘束を解いて──」
「ジェロディ殿。残念ですが、彼はそれほどの罪を犯したからこそここにいるのですよ。よってカイルの拘束を解くことはできません」
「罪? カイルが一体何をしたって言うんだ」
「彼は我々救世軍の情報を外部に流していた間諜です。そうとは覚られないよう振る舞っていましたが、彼の言動を細かく精査していくと、いくつかの不審点が浮上したのです。ゆえに我々も彼を警戒し、今日まで厳重に監視を続けてきたのですが……今回彼の密告によって我が軍が甚大な損害を被るに至り、ついに看過できなくなったという次第です」
「は……?」
まるでトリエステが唐突に異国語でも話し出したように聞こえたのだろうか。ジェロディは直前までの鬼気迫る表情を一変させ、束の間ぽかんと立ち尽くした。
ひょっとしたら彼はトリエステが単なる好悪の情でカイルを監禁し、折檻しているとでも思ったのかもしれない。だとしたら心外だが、今日までの自分の振る舞いを顧みるとそう誤解されても仕方ないのかもしれなかった。
「カイルが……僕たちの情報を外部に流してた? そんなことあるわけ──」
「これまでその事実を秘匿していたことはお詫び致します。ですが彼が何らかの方法でコルノ島の外部と連絡を取り合い、救世軍の内部情報を漏洩させていたことは調査の結果間違いありません。ですので我々は彼の軍議への出席を禁じ、カミラ隊からの除隊も繰り返し勧告してきました。決定的な証拠が掴めず、今日まで強行策に出られなかったことが悔やまれますがね」
「わ、〝我々〟って……じゃあまさか、ウォルドやヴィルヘルムさんがやたらとカイルに厳しかったのも」
「ええ。最初にカイルの不審な言動に気がついたのはウォルドです。私は彼から報告を受け、ヴィルヘルム殿にも相談し、三人で対策を練ってきました。救世軍の機密を盗まれぬよう細心の注意を払いつつ、何とか彼の背後にいる勢力と目的を暴けないかと」
「そ、そんな……う、嘘ですよね、カイルさん? カイルさんがずっとわたしたちを裏切っていたなんて……何かの間違いですよね?」
「……」
愕然とした様子のマリステアが唇を震わせつつ尋ねても、カイルは何も答えなかった。トリエステと向かい合っていたときのままじっと足もとに視線を落とし、頑なに口を噤んでいる。
そうして訪れた沈黙を肯定と受け取ったのだろう、途端にマリステアは怯えた顔をしてカイルの肩から手を離した。他方、ジェロディも予想だにしていなかった告発によほどの衝撃を受けたのか、カイルを見つめたまま絶句している。
「状況から考えて、恐らく彼は初めから密偵のためにカミラに近づき、救世軍への潜入を試みたのでしょう。黄都で憲兵隊に追われていたジェロディ殿を助けたのも自らを信用させるため……そう考えれば、彼が皇族と一部の重臣しか知らないはずの地下通路の存在を知っていたことにも合点がいきます。あれはどう考えても一般市民が知り得るはずのない情報ですし、仮に何らかの偶然が重なって存在を嗅ぎつけることができたのだとしても、皇家によって厳重に管理されているであろう入り口の鍵を手に入れることなど不可能です。しかし彼は何の変哲もない宿屋の息子でありながら、その双方を何故か都合よく所持していた。つまり──」
「カイルの背後にいるのは……トラモント皇家か皇家と密接な関係にある勢力、ってこと?」
「ええ。ご覧のとおり本人が黙秘を続けていますので未だ推測の域は出ませんが、可能性は高いと踏んでいます」
ジェロディの震えた吐息が床に落ち、一度は去ったはずの冷たい静寂が戻ってきた。いつの間にかカイルの傍を離れ、部屋の隅に身を寄せたマリステアも言葉を失くし、瞳に涙を浮かべている。
……だからカイルの件は、ジェロディたちに知られることなく処理したかった。
国家と戦うというのはそういうことなのだ。正義や理想論では割り切れない現実がそこにはあって、まだ若く純真な少年たちにも容赦なく牙を剥く。
その冷たく残酷な氷の牙から、ジェロディを守りたかった。たとえ自らの手を汚すことになろうとも──何万もの兵士の命を奪っただけでは飽き足らず、家族を裏切り、見殺しにした自分にはお誂え向きの役目だと思ったから。
「……このこと、アンドリアさんは知ってるの?」
「いいえ。私が調べた限りでは、どうやらアンドリア殿はカイルの目的も行動もまるでご存知ないご様子でした。彼女が島に現れたときから何となくそうではないかと思っていましたので、何も知らない母親が島で共に暮らすようになれば、彼も考えを改めてくれるのではないかと期待したのですがね」
「だけど……だけど、じゃあ今回の件も本当にカイルが……? だから黄都守護隊が僕らの上陸を察知して駆けつけたって言うのかい?」
「まずはそれを確かめるためにこうして彼を尋問していました。カイルには常時監視役をつけていたのですが、出陣前の軍議に参加していなかった彼がどこで作戦の内容を知ったのか、また知り得た情報をいつどうやって外部に届けたのか、全容が見えません」
トリエステがまず引っかかっているのはそこだった。カイルを軍議の場から締め出したのはもう数ヶ月も前のことになるが中でも今回は特に情報の漏洩を警戒し、入念な箝口令を敷いたはずだ。作戦の内容を知る幹部一同には一切の口外を禁じ、とりわけカイルには絶対に情報が渡らぬよう監視の手も増やしていた。おかげでカイルが本当の作戦を知った様子はなく、出陣前に確認されたひとりごとの内容も、救世軍はこれから獣人居住区に上陸し第六軍を迎え撃つ、というものだったのだ。
ところがいざポンテ・ピアット城を攻めてみればこちらの作戦は筒抜けで、彗星のごとく現れた黄都守護隊の攻撃により救世軍は壊滅的な被害を受けた。
ということはつまり、カイルも自分が監視されていることを承知でトリエステたちを欺き、どこからか情報を仕入れていたことになる。
しかし彼がどうやって救世軍の機密を暴き、国へ伝えたのかが分からない。
少なくともカイルに心許している様子のカミラやジェロディが口を滑らせた形跡はないし、軍議から出陣までの数日間、カイルの行動に不審な点は見受けられなかった。ならば他にどんな方法で──とトリエステが考え込んだのとは裏腹に。
刹那、ジェロディがはっとした様子で青い瞳を見開いた。
かと思えば彼は改めてカイルを凝視し、一縷の可能性に縋るように話し出す。
「そうだ……そうだよ。カイルは今回のポンテ・ピアット城急襲作戦のことは知らなかったはずだ。本人もそう言ってたし、そもそも知る術がない。だって作戦内容を知ってたメンバーの中に箝口令を破るような人は誰もいないじゃないか。そうなるとあとはもう、軍議を盗み聞きするくらいしか作戦を知る方法は……」
「たとえば単独犯と見せかけて他に協力者がいるとか、軍議に出席していた誰かの弱みを握って聞き出したとか、作戦を知る方法がまったくないとは言い切れません。そもそも作戦内容を知らなかったという発言も、周囲の目を欺くための演技だった可能性があります。我々が彼を警戒し、監視の目を光らせていたことはカイルも承知の上だったようですから」
「でも仮に君の言うような方法で今回の作戦を知ったんだとしたら、理由はどうあれカイルに協力した人がいるってことになるじゃないか。僕と君を除けばケリー、オーウェン、カミラ、イーク、ウォルド、ヴィルヘルムさんにリチャードさん、ライリー、カルロッタ、ギディオン殿、コラード、そしてクワン殿にウー殿にパオロ……君はあの中の誰がカイルに情報を渡したって言うんだい? カミラ? それともライリー? カルロッタ?」
「私が申し上げたのはあくまで可能性の話で、協力者の存在については今のところ何とも言えません。ですから彼の口から直接聞き出すしか──」
「なら僕が訊く。なあ、カイル。君は今回の作戦を知ってたのか? 知ってて騙されたふりをしてた? 本当は何も知らなかったんじゃないのか? やっぱりこんなのは何かの間違いで……」
「……」
「いや、仮にトリエの言うことが全部本当だとしても、何か事情があったんだろ? 確かに君はうるさくて鬱陶しくてはた迷惑なやつだけど、何の理由もなく仲間の情報を売るようなやつじゃない。ましてやカミラを危険に晒すような真似なんか、するはずがないんだ」
「……」
「だってそうだろ? 君が何者だったとしても、カミラに対する気持ちは本物だって僕は知ってる。最初は救世軍に取り入るために近づいただけかもしれないけど、今はもう違う。そうじゃなきゃカミラのために命懸けで大監獄の罠に飛び込んだり、ボロボロになるまで特訓したり、そんなことできるわけがないからだ。僕にはカミラを想う君の気持ちまで偽物だったとは思えない」
正方形の小さな机に手をつき、身を乗り出して、ジェロディは迷いや疑念を微塵も感じさせない口調で決然と断言した。その真剣な眼差しが雄弁に語っている。
残酷な現実を突きつけられてなお、彼はカイルを信じようとしていると。
うなだれたままのカイルは答えない。
されどジェロディは一歩も退かず、なおもカイルの良心に訴えかける。
「だから答えてくれ、カイル。全部正直に話してくれたら、今度は僕たちが君の力になる。たとえ立場がどうあれ、君は今日まで僕たちと一緒に戦ってくれた。だったら、僕は──」
「……お前ってほんと呆れたお人好しだな、ジェロ」
「え?」
「カミラでさえちょっとは気づいてる感じだったのに……お前、マジでオレのこと仲間だと思ってたの?」
「カイル、」
ようやく口を開いたかと思えば、カイルの唇から紡がれたのはジェロディの信頼をすげなく一蹴する嘲笑だった。そうして顔を上げた彼は嗤っている。すぐそこにいるジェロディを見据え、いびつに口角を歪めて、隈の浮いた両目を細めながら。
「悪いけど、トリエさんが言ったことは全部ほんとだよ。オレは最初から救世軍に取り入るつもりでカミラを利用した。もともとの任務はジェロ、黄都を出たお前の動向を見張ることだったんだけど、お前が黄帝暗殺の濡れ衣を着せられたその日に救世軍が現れて計画が狂ったんだ。本当はあの日絶体絶命のお前を助け出すのはオレだったはずなのに、カミラとウォルドが賄賂であっさり城門を抜けちゃって……正直あれは焦ったね」
「そ……んな……じゃあ君は、本当に……」
「そうだよ。黄都で初めてお前らと会った日からずっと、オレは救世軍の情報を余所に売ってた。早々にウォルドにバレかけたときは肝が冷えたけどさあ、ピヌイス騒動のごたごたでうやむやになったっぽかったし、本格的に疑われ始める頃にはカミラがかばってくれたしで、結構上手くいってると思ってたんだけどな。やっぱ世の中そう甘くないや」
「か、カイルさん……」
「あはは、ごめんねー、マリーさん。マリーさんみたいなカワイイ子を悲しませたくはなかったんだけどさ、オレも上の命令には逆らえなくて。あ、ちなみに母ちゃんがなんも知らないってのは本当。知られたら拈り殺されるに決まってるから、おっかなくて言えなかった。女手ひとつで育ててきた息子がこんな仕事に手を染めてるなんて知ったら、母ちゃん、今度こそショックで首吊りかねないしなあ……」
どういう心境の変化だろうか。
昨日からあれほど頑なに沈黙を守っていたはずのカイルは唐突に饒舌になり、トリエステがいくら詰問しても答えなかった事実を次々と吐露し始めた。
が、これは好機だ。今度こそ明確に裏切られ、立ち竦んでいるジェロディやマリステアには申し訳ないものの、今のカイルならばこちらの質問にも口を割るかもしれない。ゆえにトリエステは意を決し、貫くような眼差しでカイルを捉える。
「カイル。それではあなたは、今日まで我々を欺いて密偵行為を働いていたことを認めるのですね」
「認めるも何もトリエさんは全部お見通しでしょ? わざわざオレの口から聞くまでもなく調査も推理も完璧。さすがは〝オーロリー家のご深謀〟だねー」
「今の話を聞く限り、あなたの目的は救世軍の機密の入手というよりもジェロディ殿の動向を監視することにあったようですが。一体誰の命令で、何のためにジェロディ殿のご意向を探っていたのです?」
「さあ。残念だけどオレもそこまでは知らないんだ。だから今まで答えなかったし、答えられない」
「答えられない?」
「そうだよ。オレにジェロの監視を命令してきたのは名前も素性も知らないオッサン。オレはその人に取引を持ちかけられてジェロの監視を引き受けた。でも何のためにそんなことをしなくちゃいけないのかも、名前も所属も全然教えてくんなくてさー。まあ、オレも黄皇国の関係者なのかなとは思ってたけど、詳しいことは何も知らない。余計な探りを入れると消されそうだったしね」
「……じゃあ君は、まったく知らない赤の他人の命令に従って動いてたっていうのか? アンドリアさんにも相談しないで、何のために」
「人には人の事情ってもんがあるんだよ、ジェロ。認めるのは癪だけどさ。世の中の人がみんなお前みたいに恵まれてるわけじゃないし、生まれた瞬間から神様に見放された人間だっている。同じ世界に生まれてもそっち側とこっち側とじゃ隔てる壁が高すぎて絶対に越えられない。だから──お前には、分かんないよ」
カイルがジェロディの問いかけに返したのは、短くも揺るがし難い拒絶の言葉。
彼の吐き捨てたひと言は、ジェロディの心の内に残された最後の希望を粉々に打ち砕いたように見えた。それがまたトリエステのうなじをぞわりと騒がせた。
──ダメだ。これ以上ジェロディとカイルを同じ空間に置いていてはいけない。
問い質したいことはまだまだあるが、今のカイルが紡ぐ言葉はジェロディにとって刃物に等しい。彼がカイルとの間に通っていると信じていた絆も友情も、話せば話すほどズタズタに切り裂かれていく。
ならば自分は、ジェロディを守らなくてはならない。
「ではまずは、今のあなたの自供のどこまでが真実なのかを確かめることにしましょう。そのためには多少質問の仕方を変える必要がありますね」
そう宣告するが早いか、トリエステはいつも首から下げている弟のペンダントはまた別の、革の首紐を服の中から取り出した。白いブラウスの飾り襟の間から引き出された紐の先には小指ほどの大きさの、真鍮製の笛がぶら下がっている。
五ヶ月前、ジュリアーノに無理を言って頼み込み、ようやく手に入れた笛だった。だが先端を口に含み、細く息を吹き入れてもトリエステの耳には何も聞こえない。ただひとり、狭い部屋の中でジェロディだけが驚いたような顔をしてトリエステを顧みた。あの反応は──聞こえたのか。
幼い頃から訓練を積んだ者にしか聞こえないというこの笛の音が。
「お呼びですか、トリエステ様」
直後、取調室の扉が開き、廊下から現れたのはひとりの救世軍兵だった。革の軽鎧に身を包み、同じく革の兜の下から炯々たる眼光を覗かせている。さっきの気弱そうな兵士と同一人物とは思えない、完璧な変装だった。やはり彼らの実力は噂どおりだと内心賛辞を送りながら、トリエステは目だけで奥のカイルを示す。
「彼を地下牢へ移します。手枷は嵌めたまま、一時的に拘束を解いて下さい」
「御意」
指示を受けた兵士は一礼すると、迷いのない足取りで室内へと踏み込んできた。
かと思えばカイルの手枷を椅子に括りつけていた縄を切り、切ると同時に素早くカイルの腕を拈る。関節が外れる寸前まで捩じり上げられているのだろう、椅子から無理矢理立たされたカイルが小さく呻いた。丸一日以上何も食べていない上、夜間も睡眠を妨害され続けたせいだろうか、カイルの足取りはおぼつかない。
しかし兵士は構わずカイルを引きずり、部屋の外へ連れ出そうとする。
トリエステもそれに続いた。瞬間、ジェロディの声が追いかけてくる。
「ま……待ってくれ、トリエ! もう少しだけカイルと話を……!」
これ以上何を話すことがあるというのだろう。理由はどうあれ、この少年はジェロディの信頼を裏切った。いや、今日までずっと裏切り続けていたのだ。
そんな相手をいつまでもジェロディの前に置いてはおけない。
何より彼には白状してもらわなければならないことが山ほどある。たとえどんな手段を用いても、ジェロディを欺き、救世軍に深い傷を負わせた報いは必ず──
「──止まって」
刹那、トリエステの思考は突如巻き起こった突風に遮断された。風。風だ。奥の取調室よりもさらに狭い前室に、淡く翠色に色づいた可視の風が吹き荒れる。
思いも寄らない風圧と暴れ狂う風の咆吼に、トリエステは足を止めざるを得なかった。前を歩いていた兵士とカイルも怯み、旋風に押し戻されるようにあとずさってくる。
「な……何だ……!?」
それは一瞬の出来事だった。石の床に溜まったわずかな砂と埃が巻き上げられ、トリエステたちがとっさに目を閉じた束の間のうちに風は止む。
ほどなく瞼を開いて、目を疑った。何故ならそこには無人だったはずの前室に超然と佇み、鋭くこちらを睨み据えるターシャの姿があったから。
「た、ターシャ……!?」
ジェロディの上げた驚きの声が、キイキイ揺れる角灯の明かりの間に爆ぜた。
同時にすうっと冷たくトリエステの髪を梳いたのは、止んだはずの風の残滓。
その風の主と思しい少女の瞳が、薄闇の中で細められた。
彼女の星色の虹彩に、瞠目したカイルの姿が映り込んでいる。




