252.今日も迷い子ばかり
翌朝目が覚めてみると、森に霧が立っていた。
視界もきかぬほど一面真っ白──というほどではないが、うっすらと景色が霞んでいて肌寒い。焚き火が燃えているおかげで凍えずに済んでいるものの、火がなかったらたぶん今よりずっと早く寒さで目が覚めていたはずだ。
カミラは布一枚敷いただけの地面に横になりながら、しばらくぼうっと焚き火の向こうの森を眺めた。何だかなつかしいな、と思う。
思えばこうして霧を見るのは久しぶりだった。つい数ヶ月前までコルノ島では霧がとても身近な存在だったのに、今はもうほとんど目にする機会がない。もう少し寒くなれば気嵐が立つ、と誰かが言っていたけれど、ライリーたちが人為的に生み出していた霧ほど濃い霧はそうそう見られるものではないだろう。本当に真っ白で、一葉先も見えなくて、されど美しかったあの霧が何故だか今は少し恋しい。
「……おはよ」
「おう。起きたか」
やがてひとしきり感傷に浸ったのち、カミラがのそりと体を起こすと視界の外から声がした。見れば夜のうちにイークと見張りを交代したらしいウォルドがそこにいて、日の出前の薄明かりの中、つないだ馬に轡や鞍をつけている。
「よく眠れたか?」
「……うん。おかげさまで」
「なら今夜の見張りは任せたぞ。さっさと顔洗ってこい。朝飯を食ったら出発だ」
いつもと変わらない素っ気ない調子で、着々と出立の準備を整えながらウォルドが言った。昨夜の見張りはイークとウォルドが交代で務めてくれたから、今夜はカミラが先番か後番、どちらかの見張りを担当する約束だ。
こうやって誰かと手分けしながら見張り役をこなすのも久しぶりだなと思いながら、カミラは寝癖のついた髪を適当に手櫛で梳いて腰を上げた。
七ヶ月前、獣人居住区を旅したときはジェロディがずっと夜間の見張り役を務めてくれていたから、今になってその有り難みが身に染みる。
城に残った皆は今頃どうしているだろう。
寝起きの頭でそんなことを考えながらふらふらと川へ行き、顔を洗った。
指先が痺れるほどの水の冷たさが、ほんの少し腫れぼったい瞼に心地いい。
(……私、今、どんな顔してるんだろ)
そう思って川面を覗き込んでみるも、未明の暗さが手伝って水鏡を確かめることはできなかった。試しに右手に火をともし、改めて確認しても流れが速くてよく見えない。まあ、イークもウォルドも何も言わないから、それほどひどい顔ではないのだろうと思いたいものの。何だか頭はぼーっとするし体は重怠いしで、自分が昨晩どれだけ泣いたのか改めて思い知った。でもめそめそするのはもうやめだ。今は獣人区を狙う第六軍を食い止め、官軍の策を挫くことだけを考える。そう決めた。
でないと自分のために何もかも背負うとまで言ってくれたイークに申し訳が立たない。彼には苦しんでほしくないのだ。イークはカミラを救世軍に招き入れた責任を感じているようだけど、渋る彼に無理を言ってせがみ、兄のいない寂しさをまぎらわせてほしいと願ったのは他でもないカミラなのだから。
ほどなく野営地へ引き返したカミラは、手頃な枝を集めて作った即席の四脚に大麦と調味料と水を入れた鍋を吊って火にかけ、朝食の支度に取りかかった。
これも獣人区を旅していたときはほとんどマリステアに任せていた仕事だが、今はカミラがやるしかない。男ふたりに任せようものならどうせ干し肉を火で炙ったりしただけの、料理とも呼べない何かが出てくるに決まっているからだ。
鍋の中身が煮え始めるとカミラは昨日、薪集めの際に見つけて採取しておいたロトンド茸をみじん切りにして投入し、さらに湯気を吐く鍋の上で干し肉、乾酪を手早く細かく削ぎ落とした。湯の中に落ちた乾酪が溶けて大麦に絡み、黄金色のとろみが出れば干し肉香るトラモント風雑炊の完成だ。
「イーク、起きて。朝ごはんできたわよ」
朝食が完成し、出発の準備も粗方整うと、カミラはこちらに背を向けて寝そべったままのイークの肩を揺すった。昨夜は見張りのために遅くまで起きていたのだろうから安眠を妨げるのは忍びないが、そろそろ出発しないと日が昇ってしまう。
すると薄い毛布の下でイークがわずか蠢き、半分寝返りを打つ要領でこちらを向いた。まだ少し眠たそうな青眼と目が合ったので「おはよ」と笑いかければ、イークはもの言わぬまま起き上がり、気怠げに前髪を掻き上げる。頭痛でもするのだろうか、彼はその姿勢のままうなだれてしばし身動きをしなかった。妙だな、と思ったカミラはそんなイークの横顔を隣から覗き込み、様子を窺ってみる。
「もしもし? 起きてる? 具合悪いの?」
「……いや、そうじゃない」
「じゃあ何、あんまり眠れなかったとか? だったら今夜の見張り番は私とウォルドが交代でするから──」
代わりに今日一日頑張って、と続けようと思ったら俄然、目の前にイークの手が伸びてきた。ぎょっとして怯んだ刹那、彼の手はがしっとカミラの頭を掴み、先程結ったばかりの赤い髪をわしゃわしゃと掻き回される。
あまりにも突然のことだったので、カミラは自分の身に何が起きているのか数瞬理解できなかった。が、しばらく間抜け面を晒したあとにようやく頭を撫でられているのだと気づき、慌ててイークの手から逃れようと身をよじる。
「は……!? ちょ、ちょっと、いきなり何!? 寝ぼけてるの!?」
「……別に。顔洗ってくる」
カミラの激しい動揺を余所にイークは短くそう言うや、ほどなく剣と荷物を担いで川の方へと歩いていった。そんな彼の後ろ姿をぽかんと見送っていたら何だか急にばつが悪くなってきて、カミラはせっせと乱された髪を整えながら悪態をつく。
「……何よ、あれ。変なイーク」
◯ ● ◯
そこはまるで冬の海の底のように静かだった。
崩落した建築物の修復に追われ、外では皆が休む間もなく動き回っているというのに、ここには彼らのかけ声はおろか槌音さえも聞こえてこない。
四方を分厚い石材で囲まれ、壁には明かり取りの窓はもちろんのこと、換気用の穴さえろくに開いていないのだから当然と言えば当然だった。
唯一の光源は天井から吊られた角灯の明かりだけだ。
それさえもふっと息を吹きかけて消してしまえば、地上一階にありながら室内はたちまち漆黒の闇に包まれる。耳を澄ましても何も聞こえず、目を凝らしても何も見えず、時間という概念すらも押し潰されてしまうほどの暗闇に。
されど彼は昨日ひと晩、たったひとりでその闇に耐えてみせた。
カイル。帳面を一冊広げるのが精一杯の、ごく小さな机の向こうにいる彼はかれこれ二刻(二時間)もの間ろくに口をきいていない。
よく言えば饒舌、悪く言えばやかましいことこの上ない彼にしては飛躍的進歩とも言える状況だ。日頃からこれくらい大人しければ、トリエステの中で偽帝フラヴィオに準ずる位置にいる彼の心象も、もう少し改善したかもしれないのに。
「いつまでそうやって沈黙を続けるつもりですか?」
大人ふたりが差し向かって座るのがやっとの広さの石の部屋。表に『取調室』と書かれた板が掲げられたその部屋で、トリエステはほぼ一刻ぶりに口を開いた。
しかしカイルは相変わらずうなだれたまま、まったく口を開こうとしない。
敷物ひとつない粗末な椅子に封刻環で括りつけられているというのに、身じろぎひとつしないとは呆れた我慢強さだ。
されど単純な我慢比べならトリエステも負ける気がしなかった。時間が許すのであれば何刻でも目の前の少年が音を上げるのをこうして待っていられる。
実際トリエステは、昨日も半日近い時間をカイルの尋問に費やした。
皆が軍師であるトリエステに指示を仰ぎに来るため、どうしても席をはずさなければならない場面もあったが基本的にはここにいる。
何しろ自分の他にこの仕事を任せられる人物がいないのだから仕方がない。
仲間の誰にも、カイルを監禁して尋問にかけていることは話していないし。
「カミラが戻るのを待つつもりでいるのなら無駄ですよ。仮にあなたが口を割るよりも早く彼女が帰還したとしても、会わせるつもりはありません。あなたのことは今後〝失踪〟として処理する予定です。あなたを信じて疑わなかった彼女はもとより、何も知らないご様子のアンドリア殿にも申し訳ないとは思っていますがね」
「……」
「ですが私の質問に対する返答如何では、ここを出て彼女たちと再会する道もあります。何をどう答えればいいのかは、あなたが一番よく知っているはずです」
「……」
「先日アンドリア殿が話して下さいましたよ。あなたのお父様はトラモント人ではなく、北東のアレッタ平野で暮らす遊牧騎馬民族の男性だったそうですね。名前は確かソラン殿。しかし今から十年前、彼を亡くした悲しみのあまり食事も喉を通らず、衰弱していくばかりだったアンドリア殿のためにあなたは幼いながらも手を尽くした。このままでは彼女がソラン殿を追いかけ、自ら命を絶ってしまうのではないかと案じて」
「……」
「そうまでして救ったお母様を、たったひとり残していくつもりですか。夫は本当にいい息子を遺してくれたと、涙ながらに語っておられたお母様を?」
「……トリエさんはさ」
暇潰しに持ち込んだポンテ・ピアット城の軍事資料。黒い綴紐で丁寧に綴られたそれを捲ろうとしていた手を止めて、トリエステはおや、と顔を上げた。久方ぶりに聞くカイルの声はひどく掠れていて弱々しい。無理もないだろう。三刻置きに出されるふた口分の飲み水以外、彼は昨日から何も口にしていないのだから。
「トリエさんは……もう何ヶ月も前から、オレが黄皇国のスパイじゃないかって睨んでたわけでしょ? なら、なんでもっと早くにこうしなかったの? 放っておいたら、いつか今回みたいなことが起こるんじゃないかって思わなかった?」
「もちろん警戒していましたよ。ですが証拠が掴めなかった。あなたが我々を脅かす何らかの勢力とつながりを持っているという明確な証拠が。正直申し上げて、あなたの用心深さには少々舌を巻きました。何をするにも一切の痕跡を残さず、わずかでも誰かに覚られる可能性がある場では決して不審な行動を取ろうとしないのですから。まるで足音を立てず闇の中を往く山猫……さすがは山猫一味の元棟梁を親に持つだけはあると感服したものです」
「……」
「ですがあなたが何らかの超常的な手法を使って外部と連絡を取っているらしいことまでは掴んでいました。あなたの監視につけていた手の者が、人目につかない場所や時間を選んでたびたび奇妙なひとりごとを言っていると報告を上げてきていましたから。しかしどれだけひとりごとの内容を浚ってみても、あなたが接触を図っている相手の名前はおろか所属さえも分からない。ですから泳がせていました。あなた方の素性と目的が明らかになるまで」
「へえ……すごいな。一応監視にはかなり気をつけてたんだけど、まさかあのひとりごとを聞いてる相手がいたなんて。トリエさん、いつからそんな優秀な間者を使ってるの?」
「いま質問をしているのは私の方なのですがね」
「そのこと、ジェロは知ってる?」
「ジェロディ殿は関係ありません。これはあの方をお守りするために、私が独断で進めていることです」
「じゃあ知らないんだ。知ったら怒るよ、あいつ。バカみたいに真面目でお人好しなやつだからさ。隠しごとをするのもされるのも好きじゃないんじゃないかな」
「ええ、そうでしょうね。ですから私も、いずれ愛想を尽かされるであろうことは承知の上で行動しています」
母親の名前を出された意趣返しのつもりなのだろう。
相変わらず視線は床に向けたまま、残りわずかな体力をジェロディの話題に費やそうとするカイルをトリエステは軽くあしらった。そうしながら先程手を止めた頁を捲り、ポンテ・ピアット城常駐軍の活動記録に目を通す。
マティルダ・オルキデア率いる中央第六軍を打ち破るため、少しでも有益な情報が得られるならばトリエステはどんなものでも徹底的に調べ上げるつもりだった。
あれだけ苛烈に神術砲を撃ち込んだにもかかわらず、城の資料室が焼け残っていたのは幸いだったなと思う。まさかあの状況から逆転されるとは思っていなかったのか、撤退した部隊も内部資料を焼き払うような計画は立案しなかったようだ。
それは裏を返せば、援軍として現れた黄都守護隊を城兵たちがそこまで信頼し、彼らの助勢あらば城が陥ちることはないと確信していたとも言えるだろう。
「他に何か言いたいことはありますか?」
「……」
「ないようでしたら、私は食事のために一度席をはずそうと思いますが」
「……今、何日の何刻なの?」
「さあ。ここは時間の感覚が狂いますからね。私も外に出て確認してみないと、確かなことは言えません」
「……」
「カイル。私は救世軍の軍師として、あなたが黙秘しようとしている事実をどうあっても暴く必要があります。そして目的のためなら手段は問わないつもりです」
「……つまり?」
「あなたが私の定めた期日までに返答しないようであれば、質問の仕方を変える必要があるということです。幸いここは軍の施設ですので、そのための設備や道具は充実していますし」
「……それってトリエさんが自分でやるつもりなの?」
「ええ、もちろんそうするつもりですが?」
「やめた方がいいと思うなー、オレは。悪いけどオレ、何をどうされたって喋る気ないし。そしたらさ、トリエさんの苦労が全部無駄になっちゃうわけじゃん? わざわざ自分の手を汚す必要なんか、ないよ。トリエさん、ほんとはそういうの向いてないんだし」
「ご心配ありがとうございます。ですがあなたが喋るかどうかは、やってみなければ──」
「妹さんを裏切っちゃったからって、そんな風に自分をいじめなくてもいいのに」
瞬間、トリエステのうなじのあたりをぞっとなぞったこの感覚を、人は〝神経を逆撫でされる〟と形容するのだろう。椅子の背凭れを迂回するように後ろ手に拘束され、もう一日以上もここに閉じ込められているというのに、カイルは弱るどころかより頑なに自供を拒むようになっている。
一体何が彼をそこまで駆り立てるのか。何の変哲もない宿屋の息子が、実は歴代の黄臣も顔負けの忠誠を国に誓っているとでも?
いや、ありえない。少なくともこれまでトリエステが調べ上げたカイルの来歴に、金剛よりも固い愛国心が芽生えるような出来事は見当たらなかった。
ならば考えられる可能性はひとつ。彼は何かを守っているのだ。
それも自分の名誉や命などというちっぽけなものではなく、もっと別の何かを守ろうとしている。真実を話せばそうして背にかばっているものまで暴かれるか、あるいは危険に晒すことになるのをカイルは何よりも恐れている。
とすればトリエステとしてはそんな彼の急所を衝くか奪うかできれば話が早くて助かるのだが、ここまできてもまだカイルの後ろにあるものが見えてこなかった。
最初は母親の命でも握られているのかと思い、その線でも揺さぶりをかけてみたもののどうやらそうではないらしい。だとしたら一体何を?
否、誰をそうまでして守ろうとしている?
あと少しだ。あともう一歩踏み込めれば、カイルの背後にいると思しい勢力の名も、彼らの目的も、それに対抗するための策も見出だせるのに──
「カイル。あなたは」
「──お待ち下さい、ジェロディ様! トリエステ様をお探しなのでしたら我々が見かけ次第、ジェロディ様がお呼びだとお伝えしますので……!」
「いいんだ、調べてないのはもうこの部屋だけだから。ここにもいなければ諦めるよ。施錠されてるみたいだけど、鍵は?」
「い、いえ、生憎存じ上げませんが……」
「なら、いい。──開け」
そのときだった。トリエステが背にした扉の向こうから突然短い神語が聞こえ、ガチャリとひとりでに錠が回る。取調室は通路との間に前室を挟んだ二重扉になっているはずなのに、二枚の扉の鍵が同時に開いた。
ありえない。部屋の鍵はトリエステが確かに所持しているのに。
(これは……)
まぎれもない神の力。命なきものに魂を授け、自らの意のままに操る生命神の力──そう悟った刹那、トリエステは思わず席を立ち振り向いた。
そうして身構えると同時に分厚い鉄の扉が押し開かれ、鮮やかな朱色のバンダナが視界に飛び込んでくる。
「やっと見つけた」
トリエステは内心嘆息した。
決して感情を表には出さなかったが、深い落胆と諦めが胸の内で交錯する。
できれば彼には気づいてほしくなかった。
されどそう思う一方で、こうなるような気もしていた。
ジェロディ。
マリステアと、万が一のときのための監視につけていた兵を引き連れて現れた彼は、室内の状況を見るなり眦を決して口を開く。
「トリエ。これは一体どういうこと?」
まるで敵対者でも見るようなジェロディの眼差しが胸に刺さった。
されどこの現場を押さえられたからにはもう誤魔化しは効かない。
トリエステは束の間瞑目し、覚悟を決めた。
ああ、告げなければ。
きっと彼の心を打ちのめすであろう、残酷な真実を。
 




