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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第8章 いつか塵となる朝も
253/350

251.誰が為に君は泣く ☆


      挿絵(By みてみん)




 今にも消え入りそうなほど細い月が、辛うじて夜空にかかっていた。

 ポンテ・ピアット城を出て最初の夜。イークたちは現在、城から西へ一四〇(ゲーザ)(七〇キロ)ほど南西へ進んだ森の中にいる。

 世界が秋色に染まった今も枯れることを知らぬ針葉樹の森だった。根もとで燃える焚き火の明かりを受けて、葉を茂らせた木々が黒々とあたりに(そび)()っている。

 イークたちはそんな森の中の、小さな(がけ)()()がってできた(ひさし)の下を今夜の野営地と決めた。見たところ雨が降りそうな天気ではないが、気まぐれな秋の空のことを思えば、少しでも風雨を(しの)げる場所で眠りたいと望むのが旅人の(さが)だ。


「はい、こっちがイークの。イーク、確か生姜茶(ゼンゼロ・ティー)は苦手だったわよね? 一応蜂蜜多めに入れといたけど、足りなかったら自分で足して」

「ああ……悪い」

「ウォルドは蜂蜜いる? あんまり量はないけど一杯分くらいなら残ってるわよ」

「いや。んなことより俺は酒が飲みてえ」

「監視役が何言ってんの。偵察中は飲酒厳禁ってトリエステさんに釘刺されてたでしょ? ちょっとは節制するってことを覚えなさいよね」


 などというカミラの悪態が、人気のない森に響いている。そこはポンテ・ピアット城から伸びる街道を南へ十幹(五キロ)ほど迂回した地点で、イークたちは現在人目を避けながらパウラ地方中部にあるリーノという町を目指していた。

 理由は言わずもがな、イークが犯した軍令違反の処罰として言い渡された敵情視察のためだ。先の戦いで救世軍と同盟関係を結んだ獣人居住区(ビースティア)と、かの地への進攻をもくろむ黄皇国(おうこうこく)中央第六軍。その力関係は、救世軍が敵の無備を()いてポンテ・ピアット城を落とし、さらにアビエス連合国からの援軍を得たことで急変した。


 トリエステの予測が正しければ、敵はこれを受けて獣人区への進軍を取り止め、矛先をポンテ・ピアット城へ転じるか、あるいは一度第六軍の拠点であるトラクア城へ引き返すはずだという。偵察隊として派遣されたイークたちの任務はそうした第六軍の動きを見極めることだ。目下三人が目指しているリーノの町はトラクア城の北、約四〇〇幹(二〇〇キロ)のところにあり、既にパウラ地方北部まで進軍している第六軍が引き返してきた場合、必ず通過するであろう郷庁所在地きょうちょうしょざいちだった。

 そこでイークたちは北から戻ってくる第六軍を待ち伏せし、彼らの動向を探るという寸法だ。ポンテ・ピアット城からリーノまでの距離は街道を迂回しても馬で三日。これが数万の軍勢ともなると街道を使っても十日前後かかる計算になるから、相手の出方が分かり次第馬を飛ばして城へ帰れば、救世軍が準備を整える時間は充分に確保できるはずだった。


「はあ、だけど驚いたわよねー。まさかアビエス連合国から空飛ぶ船が援軍に来てくれるなんて。飛空船(ひくうせん)っていうの? 噂には聞いてたけど、まさかほんとに船が空を飛んでくるとは思わなかったわ」

「あー……そうか、お前らはアレを見るのも初めてか。連合国じゃ二十年以上も前から実用化されてる()りもんだけどな。あのとおり余所の国の空で飛ばすと大騒ぎになるから、滅多なことじゃ国外には出さねえんだとよ。特にエレツエル人なんかにゃ〝魔女の技術だ〟と後ろ指さされてる代物(しろもん)だしな」

「へえ……そんな昔からあんなのが空を飛んでるなんてびっくりね。ひょっとしてウォルドも乗ったことあるの? 前にメイベルから聞いた話じゃ、軍用船の他にも民間人が乗れる客船とか、個人用の小型船もあるって話だったけど」

「ああ、ガキの頃に一回だけな。だが傭兵になってからは一度も乗ってねえ」

「なんで?」

「乗船料がバカ高えからだよ。戦のねえ連合国じゃ傭兵は常に食いっぱぐれだ。こっちの大陸じゃ傭兵が請け負うような魔物退治や護衛の仕事なんかも、連合国では基本的に全部軍が世話しちまう。だから俺らみてえな傭兵は長居できねえのさ。南東大陸への通り道としてさっさと通り過ぎるだけでもカツカツだってのに、運賃が普通の船の倍以上もする飛空船になんざ乗ってられるかって話だ」


 と、カミラが()れた食後の香茶をひと息で(あお)りながら、焚き火の向こうのウォルドがぼやいた。森の枝葉の間から見える月の傾き加減を見るに、時刻はだいたい戒神(かいしん)の刻(二十時)といったところだろうか。

 イークたちは特に何事もなく一日目の行程を終えて、ささやかな夕食も済ませ、誰からともなくそろそろ休むかという空気になっていた。

 イークはついひと月前まで十四ヶ月に渡る放浪生活を送っていたから野営などお手のものだが、カミラなどはきっと久方ぶりの野営だろうから、明日に疲れを残さぬためにも、可能な限り早めの就寝を心がけた方が賢明だろう。


「へえ。アビエス連合国が建国以来まったく戦争してないって話は聞いてたけど、傭兵も必要ないくらい国が平和で豊かなままってすごいわね。少なくとも今の黄皇国からは想像もつかないもの。メイベルはそんな国からよくひとりきりで旅してきたわね……もともと騎士として生まれたアーサーとは違って、国を出るまでは普通の女の子だったのに」

「いや、だがちょっと待て。お前、飛空船に乗ったのは()()()()だと言ったか? お前の出身はルエダ・デラ・ラソ列侯国(れっこうこく)だろ? なのになんで飛空船なんかに」

「前にチラッとだけ話したろ。俺はガキの頃、列侯国でカミラの親父さんが率いてた義勇軍の城にいたんだよ。あんときも連合国は列侯国と義勇軍のいざこざに首を突っ込んできてな。当時義勇軍が拠点にしてたサン・カリニョってところにもしばらく飛空船が停泊してた。で、試しに乗ってみるかって誘われたことがあったんだよ。デュランたちが乗ってきたようなでけえ船じゃなく三、四人乗るのがやっとの小船の試乗だったが、ガキどもはどいつもこいつも大喜びで群がってた──もちろんエリクの野郎もな」


 瞬間、ウォルドが何食わぬ顔で口にした名前が死角から飛来した矢のようにイークの胸を()いた。途端に息が詰まり、とっさにカミラへ視線を送るも彼女はまったくの無反応に香茶を(すす)っている。まるでイークとウォルドの会話など途中から聞こえていないかのようだ。しかしほどなくウォルドの方が大息(たいそく)をつくとおもむろに立ち上がり、使用済みの食器が詰め込まれた寸胴鍋(ずんどうなべ)を手に取った。そこに中身を飲み干した銅のカップを放り込むや、彼はこちらに背を向けて森の方へと歩き出す。


「お……おいウォルド、どこに──」

「水汲みついでに用足してくる。お前らは休みたきゃ先に休んでろ」

「おい、」

「明日も日の出前には発つからな。寝過ごすなよ」


 そう言って振り向きもせず手を振ったかと思えば、その手で岩の上に置いてあった灯入りの角灯を手に取って、ウォルドは木立の奥へと消えていった。彼が歩いていった方角には森の中を流れる小川がある。水を汲みに行く、というからには当然そこへ向かったのだろう。ウォルドが手にした角灯の明かりが闇に埋没し、やがて足音も遠のくと、途端に夜空から静寂が降ってきた。(たきぎ)が燃える音と()ぜる音、そして夜鳥の声以外には何も聞こえない。今夜は風が吹いていないのだ。


「──らしくないわね」


 が、突如として訪れた沈黙を乗り切るべく、イークが気まずさを隠してカップに口をつけたら、いきなりカミラがぼそりと言った。

 おかげでイークはびくりと震え、口に含んだばかりの香茶を噴き出しかける。

 噴き出さなかったけれども。辛うじて。


「あ……あ? らしくないって、何が」

「ウォルドよ。あいつ、普段は食事の後片づけなんて絶対しないくせに、変に気なんか遣っちゃってさ。そんな甲斐性があるなら城で毎晩飲み散らかしてる酒瓶の山も自分で始末しなさいっての。ほっとくと隣の部屋からお酒の臭いがプンプンしてくるから、結局いっつも私が掃除する羽目になるのよね」


 ぶすっとした顔で文句を垂れながら、カミラは未だ湯気の立つカップを両手でくるんで口に運んだ。

 そう言えばコルノ城では、カミラの部屋はウォルドの部屋の隣だったか。

 あの男はチッタ・エテルナの客室を借りていた頃から暇さえあれば部屋を散らかしていたから、コルノ城の個室もきっとひどいありさまになっているのだろう。

 しかし片づけだとか身だしなみだとかいうことに関してまったく無頓着なウォルドが、自ら洗いものをぶら下げて川へ向かったというのは確かに妙だ。

 直前にわざわざエリクの名前を出していったのも、自分がいない間に好きなだけ話し合えという彼なりの配慮としか思えない。

 普段は傍若無人という言葉が筋肉を着て歩いているかのような振る舞いばかりするくせに、たまにそういう器用な一面を覗かせるからあの男はたちが悪いのだった。旧救世軍時代、イークがウォルドを過剰に警戒していたのも、彼が見た目に反して異様にキレる頭脳を持っていることを察していたからだ。

 もっともそれについてはフィロメーナの死を知らされた直後、ウォルドがジェロディと共に宿へ乗り込んできた一件で杞憂(きゆう)だったと理解したが。


「……まあ、あいつもあいつで思うところあるんだろ。エリクとはガキの頃からの知り合いだってんならなおさらだ。エリクの方があいつのことを覚えてるかは知らないけどな」

「へえ、意外。イークがウォルドの肩を持つなんて。フィロが聞いたら泣いて喜んだかもしれないわね」

「お前な……」

「だってそうでしょ? 一年前の今頃はウォルドのこと目の敵にして、散々フィロを困らせてたじゃない。ゲヴラーさんの砦で殴り合いの喧嘩したりしてさー」

「殴り合ってはない。あいつが一方的に俺を殴ってきただけだ」

「ふふ……でもなつかしいわね。あれからもう一年も経つのよ。それにこうして三人で旅してると、ジェッソでイークと再会したときのことを思い出さない? あのときロカンダまで一緒に旅したのもこの面子だったでしょ」

「ああ……そういやあったな、そんなことも」

「ミレナとジーノ、全然会いに行けてないけど元気にしてるかな。私が今も健在なのは手配書で伝わってると思うけど。せっかくオディオ支部が発足したんだし、今回の件が落ち着いたら久しぶりに会いに行きたいわ」

「……カミラ、」

「ふたりがいなかったら私、きっと救世軍に入ってなかったと思うから。イークとも再会しないままひとりでふらふらお兄ちゃんを探して、今頃どこかで野垂れ死んでたかもね。お兄ちゃんが黄皇国軍に入ってるなんて夢にも思わなかったし──」

「カミラ。お前、本当にこのままでいいのか。俺はお前が逃げ出したいって言うなら止めないし、手も貸してやる。俺にできることなら、何でも」


 これ以上エリクの話題を避けて、うやむやにはしておけない。

 そう判断したイークは告げた。昨夜からずっと考え続けていたことを。

 途端にこちらを向いたカミラの表情が歪む。されどカミラはそれを隠すように立てた両膝に顔をうずめ、はあ、とひとつため息をついた。


「……そういうこと言うのやめてよ。イークもらしくない」

「らしいとからしくないとか言ってる場合じゃないだろ。やっとエリクの居場所が分かったんだぞ。なら、お前は……会いに行くべきなんじゃないのか、あいつに。そのためにたったひとりで郷を出てきたんだろ」

「そうだけど、今更どの(つら)下げて会いに行けっていうの? 私はお兄ちゃんを裏切ったのよ? お兄ちゃんが差し伸べてくれた手を(はた)()として、救世軍が生き残るために利用した……なのにやっぱり一緒にいたいなんて虫のいい話がある?」

「だがお前だってエリクと戦いたいわけじゃないだろ。エリクにしたってそうだ。あいつはお前に裏切られたなんて思っちゃいない。お前は救世軍の一員としてやるべきことをやった、それだけだ。そしてエリクもお前が救世軍を裏切れないことを分かってた。何せお前を()()()()()()育てたのはあいつだからな」


 きっぱりとそう言い切ったイークの目の前で、薪が爆ぜた。

 暗闇にぱっと舞い上がった火の粉が、ぎゅう、ときつく自らの腕を握り締めたカミラの、微かな指の震えを照らし出す。


「……お前がヴィルヘルムたちと一緒にポンテ・ピアット城を攻めてる間にな。あいつに言われたよ。お前を頼むと」

「……」

「あの馬鹿、戦場で俺を敵の攻撃からかばいやがってな。あげくの果てには兵の命を粗末にするなとか、偉そうに説教まで垂れてきやがった。だがおかげで確信したよ。あいつはあいつのまま──俺たちの知ってるエリクのまま、四年前から何も変わっちゃいないってな」


 言いながらイークは青い外套(マント)の垂れる背中に手を回し、腰に(くく)りつけていた短剣を鞘ごと外した。そうして手にしたそれはエリクが昨日、戦場でイークの馬に突き立てたものだ。故郷では厄払いのお守りとも言われている大蛟(スー・タンカ)の骨から削り出した白い短剣。柄にはグアテマヤンの森に()斑蛇(サクサ)の皮が巻かれ、眺めているだけでなつかしい故郷のにおいを感じた。


「あいつがどうして黄皇国軍に入ったのかは知らない。だがヴィルヘルムが言ってたことが事実なら、あいつにもあいつなりの理由と事情があるんだろう。少なくともお前や救世軍を憎んでのことじゃない……と思う。はっきりしたことは本人の口から聞かない限り(やぶ)の中だけどな」

「……でも、お兄ちゃんが許してくれたとしてどうするの。お兄ちゃんのところに行くってことは、私が今日までしてきたことを自分で否定するってことよ。この一年ずっと救世軍の理想を信じて戦って、たくさんの人を傷つけたのに──」

「いいんだ。お前が続けてきた戦いも、お前が斬った敵の数も。代わりに全部俺が背負う。お前にそんなものを背負わせちまったのは、他でもない俺だからだ」

「イーク、」

「俺があの日、お前を力づくでも郷に帰していればこんなことにはならなかった。だからこれは、お前を巻き込んじまった俺のケジメでもある」

「でも」

「カミラ。俺は、お前とエリクを戦わせたくない」


 膝を抱えたまま顔を上げたカミラの瞳の中で、赤い炎が不安定に揺らめいた。

 その篝火(かがりび)はたちまち水没し、雫に宿って零れ落ちる──かに見えたものの、カミラはきつく唇を噛み締め、すんでのところで涙腺の決壊を食い止める。


「……私だって……私だってお兄ちゃんと戦いたくなんかないわよ。叶うことなら今すぐ会いに行きたい。会って、この空白の四年間をなかったことにしたい……だけどイークは、もしも私がお兄ちゃんのところへ行くって言っても一緒に来てくれないんでしょ? フィロのために救世軍に残って戦うんでしょ?」

「……ああ」

「だったらどこに行ったって同じじゃない。私だってイークとお兄ちゃんが傷つけ合うところなんか見たくない」

「カミラ」

「それに、みんなと……お兄ちゃんのところに行きたいって思うのと同じくらい、今はティノくんたちと一緒にいたいの。みんなにさよならなんて言いたくない。だって、私、救世軍が大好きだから……」

「お前──」

「だから……私はどこにも行かない。これからもイークやみんなと一緒にいる。そう決めたの。一度決めたら迷わない。そうすれば後悔はいつも最小限で済むって、昔、お兄ちゃんが教えてくれたから」


 ──そしてきっと、お兄ちゃんは今でもそう言うよ。


 炎の揺らめきの中で、カミラは笑ってそう言った。無理に作っているのがひと目で分かるへたくそな笑顔だったが、それでもカミラは笑った。

 次いで彼女はぽつりと言う。ありがとう、と。

 何に対する礼かは言わなかった。言われなくても、イークも分かる。


「でもイークが言ったとおりだったわね。お兄ちゃんは絶対生きてる、私を置いて死ぬようなタマじゃないって前にそう言ってくれたでしょ? 私もずっとそう信じてたけど……ほんとは心のどこかで諦める準備をしてたの。やっぱり私は置いていかれちゃったんだ、かわいそうねカミラって、自分を慰める準備をしてた。だけどお兄ちゃんは生きててくれた。元気そうだったし、黄都守護隊(こうとしゅごたい)の副官なんて官軍の中では大出世よね」

「……ああ、そうだな」

「おまけに四年前よりずっと大人っぽくなってたし、強くなってたし、相変わらずかっこよかったし。なんていうかもう全部に磨きがかかってた。顔も雰囲気もますますお父さんに似てきたっていうか……」

「……」

「話してなかったと思うけど、ロカンダが()ちたあとにね。私たち、トリエステさんに会いに行く途中でスッドスクード城を通ったの。そこでシグムンド将軍とばったり鉢合わせちゃって、私の正体も完全に見抜かれてたと思うんだけど……だけど将軍は気づかないふりをして逃してくれた。救世軍の残党だった私を見逃せば自分の立場が危うくなるのに、お兄さんに心配をかける前に帰りなさい、って」

「そんなことがあったのか?」

「うん。結局私はその好意を無下にしちゃったわけだけど……でもお兄ちゃんがあの人についていこうって思ったなら、理由が分かる気がするの。ティノくんもケリーさんもオーウェンさんも、シグムンド将軍はガルテリオ将軍の副官をしてた頃から立派な人だったって口を揃えて太鼓判を押してたし。だから将軍になら安心してお兄ちゃんを任せられる。同じ隊にセドリックとかいう性悪男がいるのだけが心配だけどね」


 話しているうちにいくらか平静を取り戻したのだろうか。カミラはすっかりいつもの顔色に戻ってそう言いながら、残りの香茶を口に運んだ。

 イークの手の中にあるカップの中身もいつの間にかすっかり冷めて、生姜茶特有のすんとした香りがほとんどしなくなっている。


 ──本当にこれでいいのか。


 そうして静止した小さな水面(みなも)に己の顔を映しながら、イークは自問を繰り返した。救世軍を離れがたいというカミラの気持ちは、分かる。分かるからこそ無理に追い出すこともできない。本人がそう望むなら、望むとおりにさせてやるべきだ。

 そう言って納得しようとする自分と疑問を投げかける自分。ふたつの思考が(せめ)()って、どんなに考えを巡らせても正解を見つけられなかった。

 いや、あるいはこの問題には初めから正解などないのかもしれない。自分たちは運命という名の奔流(ほんりゅう)に流されるがまま、時代をさまようしかないのかもしれない。


 しかしそうして辿(たど)()く先に、カミラとエリクの幸福はあるのか?


 分からない。けれど故郷で共に暮らし、笑い合っていたあの頃にふたりを帰してやれるのなら自分は邪神に魂を売ってもいい。今の自分にできるのは唯一確かなその想いを決して離さず、カミラの傍にいてやることだけだ。


(……そうだよな、エリク?)


 鞘から抜いた蛇骨の短剣が、焚き火の明かりをにぶく照り返していた。

 自分はこの短剣と共に託されたのだと思う。エリクの想いと、妹を。

 ならば親友としてそれに応えないわけにはいかない。

 今は見えない答えも、いずれ必ず見つかると信じてカミラを守る。

 そしていつかかえすのだ。短剣もカミラも、在るべき場所へ。

 手の中にある預かりものにそう誓った。その誓いの証として、次にエリクと(まみ)えるときまで、こいつは肌身離さず持っていようと心に決める。


「……ところでさ。いくら何でも遅くない?」

「何がだ?」

「ウォルドよ、ウォルド。ここから川まで歩いて四半刻(十五分)もかからないはずでしょ? まったくどこで油を売ってるんだか……」


 気を遣われたという負い目があるためだろう。カミラは不機嫌にそう言いながらも立ち上がり、ウォルドを呼び戻してくると言って焚き火を離れた。

 イークも一緒に行くべきかと思案したが、どちらか一方は野営地に残って馬と荷物を見ていなければならない。

 ならば灯具がなくとも神術で(あかり)をともせるカミラの方が適任だろう。

 気をつけろよと声をかければ、うん、と短い答えが返って足音が遠のいていく。

 そうしてカミラもいなくなってしまうと、崖の下には無心で下草を()む馬が三頭とイークがいるだけになった。今夜はほとんど風が吹いていないとは言え、晩秋ともなるとさすがに冷える。ゆえにイークは事前に集めておいた薪を火にくべながらふたりの帰りを待つことにした。当面の目的地であるリーノまではあと二日。

 明日も馬を急がせれば、明後日の日暮れ前には町に入れる。

 しかしあの町を訪ねるのはいつぶりだろうか。実はアルドたちとあてどなく旅していた間も、イークはリーノにだけは寄りつかなかった。

 何故ならあそこは、自分とフィロメーナが初めて出会った町だから。


(四年ぶり……か)


 手の中の枝を小気味よくふたつに折りながら、ぼんやりと流れた月日を数えてみる。きっかけは四年前の夏。とある村を危機から救うために、協力者を求めて足を運んだリーノの街角でイークはフィロメーナと出会った。

 彼女は当時から危なっかしくて、イークが初めて見かけたときも、いかにも怪しげな傭兵に絡まれていて……それを助けた縁で知り合い、気づけばふたりで旅をしていた。彼女の婚約者だったジャンカルロを探すために。

 リーノがその旅の始まりの町であることはカミラにもウォルドにも話していない。もしかしたらフィロメーナが自分の知らないところで打ち明けた可能性もあるが、ここまでの反応を見る限り、恐らくふたりは何も知らないままだろう。


 だからと言って特段自分から話そうとも思わない。

 別に隠したいわけではなく、誰かに()かれでもしない限りは、胸の奥にある箱に入れて大事にしまっておきたいというだけだ。

 あの頃のフィロメーナはジャンカルロに置き去りにされたことで気落ちしていたとは言え、彼を失ったあととは比べものにならないくらいよく喋り、よく笑った。黄都の狭い貴族社会(とりかご)に閉じ込められて育った自分には新鮮なものばかりだと、生まれたての子供みたいに何にでも興味を示し、新たな発見と出会うたびに瞳を輝かせていた。けれど彼女はもういない。リーノの町の名を聞くたび(よみがえ)る記憶に、そう思い知らされる。だから自分はロカンダが陥ちたあともリーノには寄りつかなかったのだ。本当は心のどこかで分かっていたのだ。


 彼女があの花のような笑顔で笑いかけてくれる日は、もう二度と来ないのだと。


(……だが、そう言えばエリクが)


 と、刹那イークの脳裏を掠めたのは戦場でエリクが放っていた言葉。彼は確かに呼んでいた。フィロメーナの名前を、まるで昔からの知己(ちき)のように。あれは結局どういう意味だったのだろう。エリクはイークが思うよりずっと前からフィロメーナを知っていた? だから彼女の妹と行動を共にしているのだろうか?

 だが仮にエリクとフィロメーナが互いに面識を持っていたのだとしたら──フィロメーナはエリクと同じ赤い髪のカミラを見て、何を思ったのだろう?

 少なくとも()()()()()で片づけるほどフィロメーナは愚かな女ではなかったはずだ。エマニュエルに数ある有色髪の中でも赤色の髪が飛び抜けて珍しいものであることは周知の事実。だとしたら、フィロメーナは──


「──よう。戻ったぞ」


 瞬間、葉擦れの音と共に低い男の声が聞こえて、イークははっと我に返った。

 驚きつつ顔を上げれば、いつの間にか目の前には鍋と角灯をまとめて引っ提げたウォルドがいる。剣を抜けばひと振りで届く距離──まで接近されてなお反応を示さなかったイークを不審に思ったのか、こちらを見下ろす表情は怪訝(けげん)そうだ。


「あ……お、おう、遅かったな……ってお前ひとりか? カミラはどうした?」

「カミラ? そういや姿が見えねえな、どこ行った?」

「は? あいつはさっき、お前を探してくるって言って出ていったんだぞ。会わなかったのか?」

「知らねえよ。ま、川沿いに俺がいねえと分かりゃ、そのうち勝手に戻ってくんだろ。んなことより今夜の見張り番はどうする? お前が先に休みてえってんなら、俺が先番でも構わねえが」


 と、持ち帰った鍋を適当な場所に下ろしながらのんきに話すウォルドを無視し、イークはとっさに立ち上がった。彼と合流できなかったということはカミラは今、あの暗い森の中にひとりきりということだ。

 それを放っておけなどとよく言える。確かにカミラは剣もしっかり持っていったし、いざとなれば自分の身は自分で守れるだろうが、万が一のことがないとも言い切れない。エリクに代わってカミラを守ると誓った矢先に何かあっては困るのだ。

 そんな笑い話にもならない事態は御免願おうと、イークは鞘ごと外していた剣を腰に差しながら歩き出した。が、ウォルドが今まさに置いたばかりの角灯へ手を伸ばしたら、すんでのところでひょいと持ち手を奪われる。


「……おい。何の真似だ?」

「そっちこそ。あいつももうガキじゃねえんだ、わざわざ迎えに行かなくたって自分の足で帰ってくんだろ」

「だが万が一ってことがあるだろ。今のあいつは冷静ぶってるが、昨日あんなことがあったばかりだ。ぼーっとしながら歩いてるうちに道に迷った可能性もある」

「さっきのお前みたいにか?」

「ほとほとムカつく野郎だなお前は……いいからさっさと角灯(そいつ)を寄越せ!」

「断ると言ったら?」

「そんなに神術を喰らいたいのか?」

「俺にそういう趣味はねえよ」

「だったら」

「お前も分かんねえ野郎だな。ほっとけって言ってんだよ、いい加減察しろ」

「はあ……!?」

「今のあいつに必要なのは同情でも心配でもねえ、()()()()()()()()()()だ。お前が行ったら意味がねえんだよ。だから、ほっとけ」


 刹那、イークは嫌でも理解した。瞠目(どうもく)して立ち尽くした背中を、悪寒とも予感とも違う何かがぞっと冷たく駆け抜けていく。

 ああ、つまり今、目の前にいるこの男は()()()()のか。暗い森の中、たったひとりで泣きじゃくっているカミラを見つけて、それを放って帰ってきたのか。


 冗談じゃない。


 すべてを悟った直後、イークは迷わず身を(ひるがえ)した。もう明かりなんて必要ない。どんなに闇が深かろうと、絶対にカミラを見つけ出して連れ帰る。

 そう思ったはずなのに、イークの意に反して駆け出そうとした足が止まった。

 というより()()()()()。ウォルド。相変わらず忌々しいまでの馬鹿力だ。イークがどんなに踏ん張っても、彼の丸太のような腕に掴まれた外套はびくともしない。


「──っおいウォルド、いい加減にしろ! お前はどこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだ!?」

「そいつはこっちの台詞だ。お前が馬鹿なのは知ってたが、本当にどうしようもねえ馬鹿だな」

「何だと……!?」

「いいか。お前が今カミラを探しに行ったところで、あいつが抱えてる問題は何ひとつ解決しねえ。むしろ悪化するだけだ。お前だってあの馬鹿がなんでああすることを選んだのか、本当は分かってんだろ」

「俺は」

「本当にカミラのことを想うなら、あいつが目を真っ赤に腫らして帰ってきても知らねえ顔で迎えてやれ。それができねえならカミラを守るなんて気安く抜かすな。あいつが誰のためにひとりで泣いてんのか──そんなことも理解できねえ野郎に、エリクの代わりが務まってたまるかよ」


 吐き捨てると同時に、ウォルドが掴んでいた外套を手放した。

 彼の規格外の握力に握り締められた外套はよれよれになって垂れ落ち、すっかり息も絶え絶えになっている。

 されど引き替えに自由を得たにもかかわらず、イークは一歩も動けなかった。

 ウォルドはもうこちらを見ていない。奪った角灯も岩の上に放置して、もとの場所に──イークに背を向ける位置に──どかっと腰を下ろしている。

 イークは立ち尽くしたままそんなウォルドの背中を眺めた。

 彼が振り向かないのは愛想を尽かしたからではない。

 自分がもうカミラを探しに行ったりしないと分かっているのだと、そう思った。


 それを呆れと取るべきか信頼と取るべきか、イークには分からない。


 けれどひとつだけ確かなことは、まったく彼の言うとおり、自分がどうしようもない愚か者だということだ。



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