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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第7章 その苦しみを愛と呼ぼう
252/350

250.君よ、惑うことなかれ


 翌朝跳ね橋を渡り、敵地へ旅立ってゆく三人を、ジェロディは西の城壁から見送った。カミラ、イーク、ウォルドの三人は各々の馬を速足(はやあし)で歩ませながら、三騎並んで街道を行く。

 馬上の人となった彼らは早速旅の行程について話し合っているようだったが、今朝は北からの風が強くて、神の耳をもってしても会話の内容は聞き取れなかった。


「大丈夫かな、カミラたち」


 と、頭の後ろで騒ぐ金細工を軽く押さえながら、()くともなしに隣のトリエステへ尋ねてみる。トリエステもまた徐々に遠ざかってゆく三人の姿を見送りながら、しゃんと背筋を正して答えた。


「大丈夫かどうかは本人たちの問題……としか、私からは申し上げられませんが。しばらく救世軍を離れることで、彼らの気持ちの整理がつけばとは思っています。心に迷いを抱えたままでは、戦場で命を落としかねませんから……今の彼らには腰を据えて考える時間が必要でしょう」


 彼女の答えを聞いたジェロディは、ああ、やっぱりかと得心がいってトリエステの横顔を盗み見た。軍令違反の罪を敵地の偵察任務で(あがな)わせる──なんて、彼女にしてはずいぶん甘い判断だなと、昨日からひそかにそう思っていたのだ。

 しかしそれもカミラとイークを一度救世軍から切り離し、今後の身の振り方について考える時間を与えるためだったのだとすれば合点がいく。

 恐らくトリエステはあのときエリクを追わずにはいられなかったイークの心情を忖度(そんたく)し、酌量(しゃくりょう)すべきだと考えたのだろう。何しろ彼女自身、今回の件では妹を敵に回している。そのことについてトリエステは一切触れようとしないが、フィオリーナのことを何とも思っていない……なんてことは絶対にないはずだ。


『私、絶対に許さないから。家族を見殺しにすることを選んだ父様も、フィロメーナも、姉さんも絶対に許さない──』


 昨日ピヌイスで聞いたフィオリーナの言葉と、突き刺すような憎悪の眼差しが脳裏に(よみがえ)る。ジェロディでさえあれを思い出すたび胸が潰れそうになるというのに、彼女の実姉(あね)であるトリエステの苦悩は如何(いか)ほどだろう。


「ティノ。俺やヴィルヘルムがいない間、トリエステから目を離すな。今のあいつは冷静そうに見えて何をしでかすか分からねえ。また無茶をしようとしやがったらお前が止めてやれ。トリエステもお前の言うことなら大人しく従うだろうしな」


 と、出発間際にそう話していたウォルドの言葉を思い出し、ジェロディは改めて三人の背中へ目をやった。たぶんウォルドも今のトリエステの状態について、ジェロディと同じ危惧を抱いていたのだろう。

 彼は一見ガサツそうに見えて、意外にきめ細やかな心配りができる。

 常に注意深く周囲を観察し、臨機応変に対処する器用さを持っているのだ。

 そんなウォルドがしばらく不在というのはいささか心細いが、だからこそ安心して今のカミラやイークを預けられるとも言えた。トリエステもそう判断したからこそ、今回の任務の監視役にウォルドを抜擢したのだろう。


「……そう言えば、トリエ。結局ヴィルヘルムさんの件はどうしたの?」

「ああ……ヴィルヘルム殿でしたら詳細な条件つきで一時離脱の許可を出しました。正直、今の状況でヴィルヘルム殿にまで城を離れられては困るのですが〝許可が出ないなら無許可で出ていくまでだ〟と押し切られましたので」

「ヴィ、ヴィルヘルムさんがそこまで言うなんて珍しいね。でもあの人に実力行使されたら誰にも止められないからしょうがない、か……だけどそうまでして済ませなきゃいけない用事って何なんだろう」

「私も詳しくは聞き出せませんでしたが、ご本人は〝依頼人に会ってくる〟とおっしゃっていましたよ」

「依頼人?」

「ええ。何でも〝自分にカミラの護衛を依頼した人物と話をつけてくる〟と」


 ──ヴィルヘルムにカミラの護衛を依頼した人物?


 トリエステの言葉をそう反復した刹那、ジェロディはすっと背筋が寒くなるのを感じた。そう言えばヴィルヘルムは自らの意思で救世軍に加わったわけではなく、傭兵として受けた()()()()()()()()()()()をこなすためにここにいたのだということを、今頃になって思い出す。だがその依頼人とは一体誰だ? ヴィルヘルムは傭兵にも守秘義務がある、ゆえに依頼人の名前や身分は明かせないと言っていた。

 しかし彼がジェロディたちの前に現れたときの状況から考えて、依頼人は救世軍の機密をよく知る人物か軍の人間でしかありえない。

 何しろ護衛対象であるカミラがロカンダに潜伏していることを依頼人は知っていて、ヴィルヘルムにもあの町へ行くよう指示したというのだから。


 けれど今回、ヴィルヘルムは珍しく無理を言ってまで城を離れようとしている。

 ということは少なくとも依頼人は外部の人間であるということだ。

 ならば救世軍の外にいながら旧救世軍のアジトの情報を掴めるほどの人物とは何者だ? もしもそれが軍の人間だとしたら?

 ヴィルヘルムはエリクが黄皇国軍(おうこうこくぐん)にいることを知っていて、なおかつエリクもカミラが救世軍に身を置いていることを知っていた。ということは、実はヴィルヘルムの雇い主はエリクという可能性もありえるのではないか?

 当初ヴィルヘルムは護衛の依頼人について、カミラやエリクの父の旧友だというようなことを言っていた。

 が、彼の言葉のどこまでが真実なのか、ジェロディたちには確かめる術がない。

 昨日だってエリクに会いに行くのかというカミラの問いに彼は「違う」と答えていたけれど、そもそもあの返答もどこまでが本当だったのか……。


(……ダメだ。考えれば考えるほどヴィルヘルムさんを信用できなくなっていく)


 ジェロディは前髪を掻き上げて、冷静になれ、と自分に言い聞かせた。

 依頼人が誰であれヴィルヘルムが今日までカミラを完璧に守り通してくれたことは事実だし、彼が裏切りや策謀に走るような人物でないことは充分理解している。

 ならば何故知っていることを打ち明けてくれないのかという疑問は残るものの、ヴィルヘルムにもヴィルヘルムの事情があるのだ。

 《命神刻(ハイム・エンブレム)》が見せる死の影の存在を自分も最近まで皆に黙っていたように、ヴィルヘルムにもきっと真実を口にできない理由があったに違いない。

 今は無理にでもそう思わないと正直不安でたまらなかった。これまで手の中にあるのが当たり前と思っていたものが、指の間から音もなく零れ落ちていくようで。


「ところで、ジェロディ殿」


 が、そこで不意に名前を呼ばれ、ジェロディははっと我に返った。

 物思いに(ふけ)るあまり、自分はどれほどのあいだ黙り込んでいたのか、カミラたちの姿はとうに見えなくなっている。


「あ……な、何だい、トリエ?」

「実は折り入ってジェロディ殿にお願いしたいことがあるのですが」

「僕に……お願いしたいこと?」

「ええ。カミラが城を離れている間に、どうしても処理しておきたい問題があるのです」


 ……トリエステが自分に〝お願い〟だなんて珍しい。ジェロディはまったく予想していなかった彼女の言葉に面食らい、思わず目を見張ってしまった。

 けれどこちらを見つめるトリエステの眼差しは真剣で、重大な頼みごとなのだろうと読み取れる。()()()()()()()()()()()()()という前置きは気になるものの、トリエステが改まって切り出すほどのことならばジェロディに断る理由はない。


「いいよ。僕にできることなら何でも言って」

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて申し上げますが」


 そう告げた刹那、トリエステの瞳が異様な鋭さを帯びるのをジェロディは見た。

 されどその眼光を研ぎ澄ましたものの正体が明確な()()であることをジェロディが知るのは、もう少し先の話だ。


「ジェロディ殿。今すぐカイルを探し出し、彼を作戦本部へ連れてきて下さい。それが私の指示であることを、くれぐれも(さと)られないように」



              ◯   ●   ◯



 黄金色(おうごんしょく)に彩られた廊下に戛々(かつかつ)と足音が響いていた。

 細いヒールの先端が磨き上げられた金縞石(きんこうせき)の床を叩くたび、空気の温度が一段下がる。そんな錯覚すら覚えるほどの苛立ちを感じさせる音色。

 人の鼓動より幾分か速いリズムで刻まれるその音色の主は、無人の廊下でギリリと親指の爪を噛み、憎しみに顔を歪めていた。

 あちらでもこちらでも己の輝きを誇るように(つや)めく黄金の装飾が今はひどく目障りで、ひとつ残らず叩き壊してやりたくなる。


「ずいぶん苛立っているようだな、ルシーン」


 ところが皇居の廊下を中ほどまで渡ったところで足音の主──ルシーンは己の名を呼ぶ不気味な掠れ声を聞いた。

 それに気づいてふと足を止めれば、窓と窓とを隔てる柱の陰に黒ずくめの男が佇んでいる。男、と断言できるのはルシーンが彼をよく知っているからで、そうでなければ一見して男だとは判別できなかったかもしれない。何しろ男は頭の天辺から足の爪先まで、全身を一分の隙もなく深黒の鎧で覆っているから。


「……ハクリルート。あなたが皇居(ここ)に姿を見せるなんて珍しいわね」

()()()()が興味深い情報を運んできたのでな。今さっきまで国の高官どもの相手をしていたのだろう?」

「ああ……吸血鬼(アンギル)ね。あの男、ひょっとして私の行動まで蝙蝠(つかいま)に監視させているのかしら? だとしたら自分の立場というものをもう一度分からせてやらないといけないわね」

「アレの行動にいちいち目くじらを立てるだけ無駄だ。俺たちに害はないのだから好きにさせておけばいい。まともに相手をしたところで得るものなど何もないぞ」

「分かっているわ。だけど今は誰でもいいからズタズタにしてやりたい気分なのよ。あなたも話を聞いたのなら分かるでしょう?」

「エレツエル神領国(しんりょうこく)か」


 呆れとも諦念とも嘲笑とも取れる口調でそう言って、ハクリルートはほんの微かに肩を揺らした。彼の表情は角つきの兜に隠れてまったく見えないが、数百年もつるんでいれば今のは笑ったのだろうと推測できる。

 ──エレツエル神領国。ハクリルートが口にしたかの国の名前を耳にしたら、ルシーンは改めて腹が立ってきた。この国の東の海を越えた先にある大国。口に出すのも(いと)わしい狂乱者どもの国。ここトラモント黄皇国とエレツエル神領国は、黄皇国が独立を勝ち取った三百三十五年前から長い敵対関係にある。

 ところがその関係性が覆りかねない事態が、刻一刻と迫り始めていた。


「まったく予想できなかったわけではないが……よもやアビエス連合国が反乱軍の後ろ盾につくとはな。黄皇国の高官どもはさぞや泡を食ったことだろう。何しろ神領国にも並ぶ世界第二位の大国が、突如自分たちの喉もとに矛を突きつけてきたのだから」

「ええ。おかげでどいつもこいつも怖気(おじけ)づいて話にならないわ。つい昨日まで〝黄皇国の総力を結集すればあんな烏合(うごう)(しゅう)は片手で(ひね)(つぶ)せる〟と豪語していた連中が、揃いも揃って〝我が国存続の危機だ〟と抜かすのよ。あげくの果てには神領国と和議を結んで、あの国の支援を(たの)もうだなんて言い出す始末……まったく滑稽すぎて反吐(へど)が出るわね」

「登場人物がここまで無能揃いだと喜劇(わらいばなし)にもならないな。かと言って上層部が有能の士ばかりでは俺たちの付け入る隙がない……さすが神々(テヒナ)が手がけただけはある、よくできた脚本だ」

「ハクリルート。私はいま機嫌が悪いと言ったはずよ」

「知っている。あとで好きなだけアンギルに当たるといい」


 板金が()()う音を立てながら、ハクリルートはこともなげに腕を組んだ。

 ルシーンは時折、世界で唯一自分と対等なこの男のこういう態度が鼻につく。

 けれどここで彼に当たり散らしたところで(せん)がない。

 それは壁に向かって怒鳴るのと同じ行為だと、何百年も前に理解しているから。


「で、どうする?」

「どうするもこうするもないでしょう。ここで神領国の介入なんて受けようものなら私たちの計画はおしまいよ。やっと舞台が整いつつあるというのに、邪魔をされてたまるものですか。場合によっては今いる高官どもの首をすべて()()えてでも阻止してやるわ」

「ならば俺の出番というわけだな。必要になったらいつでも呼べ。臆病者どもの目の前で十人ばかりの首を同時に()ねれば、連中も奮い立つだろう」

「ええ、そうね。けれど今はもっと別の問題もある……」


 ──ああ、まったく忌々しい。


 考えれば考えるほど苛立ちが募るのを感じながら、ルシーンは再び親指の爪を噛んだ。高官たちと面会する前に塗った紫の爪紅(つまべに)は既にズタズタだが、そんなものなど目に入らないほど魂が怒りに染まっている。

 ジェロディ・ヴィンツェンツィオ。たった十五歳の駆け出し神子が、まさかここまで自分たちに(あらが)ってみせるとは思わなかった。いや、あるいはこれもまたハクリルートが言うところの〝神々の脚本〟というやつなのだろうか。あの少年が大人しく首と《命神刻》を差し出していればこんな苦労を強いられることもなかった。

 ならばと代わりに欲した角人(ケレン)族の技術も結局手に入らずじまいで、ルシーンの計画は(ことごと)()()()に阻害されようとしている。


 ──忌々しい。忌々しい。忌々しい。


 四百年以上かけて戦っても、結局()()()には敵わないのか。

 摂理(せつり)という名の大槌(おおつち)に打ち砕かれ、膝を屈するしかないというのか。

 まったく冗談ではない。だから危険を承知で目的を同じくする魔族どもと手を組んだというのに、やつらもてんで役に立たない。

 何しろジャヴォールは見習い退魔師ごときに呆気なく討たれ、他の将軍たちのもとへ飛んだ魔族も彼らの掌握に手間取っていた。

魔王の忠僕(ギニラルイ)』ともあろう者どもが、揃いも揃って一体何をやっているのか。


 やはり信頼できるのは己と目の前にいるこの男だけだ。ルシーンは肺が空になるほどのため息と共にそう思った。ハクリルート。四百年前からたったひとつの約束で結ばれ、世界でただひとり自分を裏切らなかった男。

 できれば彼を傍から離したくはなかった。自分がこんな異国の魔窟(まくつ)で大手を振っていられるのはハクリルートが常に影に潜み、ルシーンを守っているからだ。

 実際これまでもルシーンを狙った刺客の襲撃は何度もあったが、いずれもハクリルートが闇より現れ、連中にひと太刀も振らせることなく葬ってくれた。

 ルシーンの身の安全と計画遂行のためにはどうしても彼の力が必要だ。けれど。


「ハクリルート」

「なんだ?」

「魔族どもはもうあてにできない。行ってくれるわね」


 紫幻石(しげんせき)()()んだような瞳に怒りと憎悪を揺らめかせながらルシーンは言った。ハクリルートも瞬時にその言葉の意味を悟ったのだろう、ほんの束の間黙り込むと、縦穴が彫り込まれた眉庇(バイザー)から窓の外へ視線を送る。


「……()()()()に俺の代役が務まるか?」

「務めさせるわ。適度に餌をチラつかせれば、アレも使えないわけではないし」

「あまり信用しすぎるな。所詮は魔人だ」

「信用なんて(はな)からしていないわよ。あなたと私以外、この世の誰も」

「それが、お前が四百年かけて出した答えか」

「ええ。結局は人間も魔族も神も同じ──信じる価値のあるものなんて、世界(ここ)には何ひとつ存在しないわ」


 そう言って(わら)ったルシーンを、眉庇の向こうから緋色の瞳が見つめてくるのが分かった。しかしハクリルートは何も言わない。

 彼はただ(あわ)れむだけ。ルシーンを救いも突き落としもしない。ルシーンはそんな彼の傍観を有り難いと感じているし、同時に(うと)ましいとも思っている。


「……分かった。ではお前の望むとおりにしよう」

「あなたまでしくじらないでちょうだいね。私、これ以上がっかりさせられるのはごめんよ?」

「善処する。だがお前も油断はするな。怒りに囚われるとすぐに周りが見えなくなるのは、お前の悪い癖だ」

「あら、さすが神子様は格が違うわね。あなたも()()()のように私に説教するつもり?」

「俺は契約に従っているだけだ。……まだ気づかないのか?」

「何の話?」

「先程から俺たちの話を立ち聞きしている者がいる。どうやらお前に用があるようだがな」


 いつもと変わらぬ語調で告げられた言葉に、ルシーンは目を見開いた。

 次いでバッと振り向けば、視線の先でびくりと跳ねた人影がある。「あ……」と小さく声を漏らし、蒼白な顔で震えているのは侍女のお仕着せを着た娘だった。皇居(ここ)へは奉公に上がってきたばかりなのだろう、成人して間もないように見える。


「あ……あの……ルシーン様、申し訳ございません……! お、お話を立ち聞きするつもりは……わ、わたくしはただ、陛下の(めい)で……!」

「……何の用かしら?」


 刹那、尋ねた声は自分でも驚くほど人の体温を帯びていなかった。

 それを聞いた娘はまたも肩を震わせると、さらに血の気の引いた顔で唇をわななかせ、懸命に言葉をつなぐ。


「そ、その、陛下がルシーン様を庭園へお呼びするようにと……ほ、本日はご夕餐(ゆうさん)をあちらでお取りになるらしく、ルシーン様もぜひご一緒にとのお誘いで……!」

「そう。わざわざ伝言ご苦労様。あなた、名前は?」

「えっ……?」

「名乗りなさいと言っているのよ」

「は……はいっ、申し訳ございません……! わ、わたくしはタチアナ……マクシミル晶爵(しょうしゃく)が娘、タチアナ・マクシミルと申します……!」

「そう……タチアナというのね。覚えておくわ。ところであなた、せっかくだからひとつ頼まれてくれる?」

「は……はい?」

「どうやら私は陛下のところへ(うかが)わなければならないようだから、代わりにアンギル将軍を探して伝えてほしいの。〝届けものをするからどうぞ遠慮なくお食べなさい〟とね」

「あ、アンギル将軍……ですか? か、(かしこ)まりました……!」


 まだ城に上がってきたばかりで、アンギルとは面識がないのかもしれない。

 タチアナと名乗った娘は不思議そうに首を傾げながらも了承し、律儀に臣下の礼を取るや足早に立ち去っていった。そんな彼女の後ろ姿を見送りながら、ルシーンは微かに口角を持ち上げる。タチアナは若く、顔立ちも悪くはなかったから、きっとアンギルも喜ぶだろう。()()()()()()()()()()()()、と。


「……相変わらず意地の悪い女だな、お前は」

「あら、〝魔女〟に向かって何を今更。とにかくあとのことは頼んだわよ、ハクリルート。あなたの不在については私と憑魔(オルランド)で上手く辻褄(つじつま)を合わせておくわ」

「ああ。冬までには戻る」

「そうしてちょうだい。武運を祈っているわ」

「祈る神も持たぬくせに、か」


 最後の最後に皮肉めいた台詞を残して、ハクリルートは窓から注ぐ残光に掻き消えた。見れば外ではいつの間にか日が暮れ始めていて、黄皇国の民が最も愛する時間が赤く空を覆っている。人類の血の色だ。ほどなくルシーンは(きびす)を返し、オルランドが待っているという庭園へ足を向けた。皇居で〝庭園〟と言えば思い浮かぶ場所はひとつしかない。城館の屋上に設けられた空中庭園だ。

 かつてオルランドの妻が愛し、自ら手を入れたという天空の楽園。

 ルシーンは広大なソルレカランテ城において、この場所が一番嫌いだった。


「おお、来たか、ルシーン」


 舌打ちしたくなるほど長い階段を上り、その先にある扉を開けば、茜色(あかねいろ)に燃え上がった庭園が視界に飛び込んでくる。秋も暮れかけ、野では草木が寂しくなる頃だというのに、吹きつける風が運んでくるのは瑞々(みずみず)しい花の香り。

 四季に応じて季節の花が咲くよう設計された皇族専用の箱庭では、今日も今日とて色とりどりの花が咲き乱れていた。まるで世はまだ春である──と言わんばかりの百花繚乱(ひゃっかりょうらん)ぶりだが、やはり風は冷たく、ルシーンは一瞬の強風に飛ばされかけた毛皮つきのショールをさりげなく掻き合わせる。


「わざわざこんなところに呼びつけて何の用、憑魔(コクアヴォート)?」


 黄昏時の真ん中で、夕日に背を向け自らを迎えた下級魔族に、ルシーンは愛想のかけらもない言葉を投げた。憑魔がオルランドの肉体(からだ)の乗っ取りに成功してからというもの、こうしてふたりきりで過ごす間は人払いをするのが通例となっている。

 おかげでルシーンが到着するまでオルランドに(はべ)っていた者たちは、誰に命じられるでもなく静々と庭園から姿を消した。ほとんどオルランドの傍を離れず、常時身辺を守っている老齢の近衛軍団長もこのときばかりは席を外す。

 名は確かセレスタとかいったか。

 口数が少なすぎて何を考えているのかさっぱり分からない女だが、今日も今日とて彼女はルシーンに目礼すると、無言のまま目の前を通りすぎていった。


「用向きなら既に伝えたろう。今日はあまりに夕景が見事ゆえ、ここで食事でもと思ってな」

「……悪いけれど、今はおまえの悪ふざけに付き合ってやれる気分じゃないの。用がないのなら私は部屋へ戻らせてもらうわよ」

「どうした、ずいぶん機嫌が悪いな。また()()()()()()の者たちにでもいじめられたか?」

「憑魔」

「そう怖い顔をするな。分かっている。神領国の件だろう」


 睨み殺さんばかりの眼差しを笑って受け流し、オルランドはさりげなくルシーンの手を取った。枯れ木と見まがうほど老いた手で、割れものでも持つようにそっとルシーンの肌に触れ、庭園の真ん中にある亭舎(あずまや)へと導いていく。

 尖塔(スティープル)様式の城館の屋上(うえ)にありながら、そこだけ異国の景色を貼りつけたように佇む瓦屋根の亭舎には既に何品かの料理が並べられていた。皿や器が並べられた小卓の下には熾火(おきび)を入れた火鉢が置かれていて、思いのほか暖かい。

 しかしオルランドはルシーンを席へ着かせると、自らが羽織っていた天鵞絨 (ビロード)外套(がいとう)を脱いですかさずルシーンの肩へかけた。

 見ている者が誰もいない以上、わざわざそんな真似ごとをする必要などないというのに、憑魔は若い寵姫に(おぼ)れる老帝を演じるのが(たの)しくて仕方ないようだ。


「ここへ来る前ハクリルートとも話をしたけれど、まったくとんだ誤算だわ。まさか連合国が他国の内乱に(くちばし)を入れてくるなんて……カエサルの時代に(なら)って大人しく鎖国を続けていればよかったものを」

「仕方あるまい。連合国も連合国で、神領国が先手を打って我が国の内乱に干渉してくることを恐れたのだ。北西大陸の南部まで神領国に支配されれば、連合国(かれら)はいよいよ聖主(エシュア)とことを構えざるを得なくなる。そうなればエマニュエルは世界を二分する大戦の時代に突入するだろう。博愛の神(エハヴ)の神子によって築かれたあの国の者たちがそのような未来を()とするとも思えぬ。実際今から二十年ほど前にも、彼らは同じ理由で西のルエダ・デラ・ラソ列侯国(れっこうこく)の内乱に加勢しているしな」

「そんな御託(ごたく)はどうでもいいのよ。私が心配しているのは大国の介入で弱腰になったこの国の蛆虫(うじむし)どもが、私たちに隠れて神領国と内通し始めるのではないかということ。連中は自分の地位と権力を守るためなら、まず間違いなく私とエシュアを(はかり)にかけるでしょう。そうなればやつらはきっと私の存在を無視し始める。今まで散々私に媚びを売っておきながら、今度は()()()()にいいように操られて──」

「ルシーン」


 ギリ、と再び親指を口へやり、きつく爪を噛み締めた刹那。斜向(はすむか)いに腰かけたオルランドがいきなり腕を伸ばしてきて、苛立つルシーンの手首を掴んだ。

 そうして老いた指からは想像もつかないような力で、ボロボロの爪をルシーンの口もとから引き離す。意表を()かれて目をやれば、覗き込むようにこちらを見つめる彼の瞳と眼差しが重なった。


「案ずるな。我が名に懸けて、この地をエレツエル人に明け渡すような愚は冒さぬ。そなたを守るためならば神子であろうが神であろうが、喜んでその胸に剣を突き立てよう──ゆえに、何も恐れることはない」 


 ……またくだらない()(ごと)を。そう吐き捨ててやりたかったのに、ルシーンはオルランドの視線に思考を縫い留められて唇を開くことすらできなかった。そうして紫黒色(しこくいろ)の中にルシーンを捕らえたまま、オルランドが不意に()を細める。

 秋の風に吹かれ、楽しげに踊る草花と共にオルランドの口髭(くちひげ)がそよいだ。それがルシーンには彼が微笑んだように見えて、瞬間、胸が奇妙な異音(おと)を立てる。


「……ねえ。おまえ、憑魔よね?」


 我ながら馬鹿げた質問だとは思ったが、気づけばルシーンはそう尋ねていた。

 返ってくる答えはない。ふたりきりの楽園で踊る花々が笑う、笑う。

 耳を塞ぎたくなるほどのさざめきだった。まるで世界が王と寵姫の真似ごとに(ふけ)る自分たちを嘲笑っているようだ、とルシーンは思った。


 ()ちた英雄の双眸(ひとみ)の中で、落日の赤が燃えている。






(第7章・完)



 第7章、お読みいただき大変ありがとうございました。6章のあとがきで書かせていただいたとおり、いよいよ物語もここから折り返しとなります。


 今章でついに登場したカミラの兄のエリクですが、現在、彼の視点からここまでの軌跡を描く『エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―【side:B】』も同時連載中です。こちらを読まれなくても引き続きカミラ・ジェロディサイドのお話は問題なくお楽しみいただけますが、エリクが何故黄皇国軍に入ったのか、ルミジャフタを出たあとどんな遍歴を辿ったのか等々、彼側の事情が気になるという方はぜひご笑覧いただけましたら嬉しいです。


エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―【side:B】

https://ncode.syosetu.com/n6144fr/


 今後もエマニュエル・サーガをどうぞよろしくお願いします。



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